Music Mania

No Music No Life

ミュージックコンクレートとプログレ

2014年05月31日 | 音楽
先週、2つの異なる楽曲を巧みにコラージュした作品を紹介した。
僕はこれを現代のミュージックコンクレートだ、と感じたのだが、今日はそのミュージックコンクレートについて書いてみよう。

ウィキペディアにはこう書いてある。

人や動物の声、鉄道や都市などから発せられる騒音、自然界から発せられる音、楽音、電子音、楽曲などを録音、加工し、再構成を経て創作される。

では、最も初期のミュージックコンクレートと言われる、「ひとりの男のための交響曲」(Symphonie pour un homme seul) の一部(と思われる)を聴いていただこう。

Pierre Schaeffer - Symphonie pour un homme seul (Erotica)



いかがだろうか?
僕にはサッパリわからない。
本当はもっともっと長い曲なのだが、全部聴く気力はない。

この世で最も売れたミュージックコンクレートは、ビートルズの「レボリューション9」だろう。
アメリカだけで900万枚売れたといわれる。
ただし、この数値は「レボリューション9」が良かったから売れたのではない。
ビートルズの2枚組アルバム「ザ・ビートルズ」を買えば、もれなく収録されているのだ。
それでも、最も多くの人が聴いたミュージックコンクレートであることに間違いはない。
この曲は、オノ・ヨーコの前衛芸術の影響を受けたジョン・レノンが、スタジオ内にある様々なテープをつぎはぎして作ったと言われる。
テーマは革命で、ジョンいわく「革命の風景を絵にしたもの」らしい。
ビートルズで嫌いな曲は?というアンケートがあれば必ず上位に入る曲だ。

レボリューション9



僕は現代音楽としてのミュージックコンクレートの良さがわからない。
そしてわからないのが普通だと思っている。
既存の音源をつきはぎして一つの音楽を作るのなら、先週紹介したようなコラージュ作品の方が面白いと思うし、騒音や生活音を音楽に利用するのなら、ピンク・フロイドあたりが、上手くやっている。

ジョナサン・ハーヴェイの手による「モルトゥオス・プランゴ、ヴィヴォス・ヴォコ」というミュージックコンクレート作品がある。
1980年発表だ。
ずいぶん聴きやすくなったように思う。
しかし、これを聴くと、ピンク・フロイドやキング・クリムゾンなどのプログレッシブ・ロックの影響を受けているように思えてならない。

モルトゥオス・プランゴ、ヴィヴォス・ヴォコ

現代的ミュージック・コンクレート

2014年05月25日 | 音楽
以前、音楽のコード進行には、3コードブルース進行や、黄金の循環コード、カノン進行など、定番のものがあると書いた。
もし、全く違う曲であっても、コード進行が同じなら、理論上は別々の曲を組み合わせることが出来る。

例えば、ポリスの「見つめていたい」のバッキングに、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」の歌を組み合わせるとこうなる。

Ben E King / The Police ::: Stand By Me


どうだろう。
とくにAメロの部分の違和感の無さは、まるで最初からこういうアレンジだったかのようだ。


こちらはジェイムス・ブラウンの「アイ・フィール・グッド」(一部に「コールド・スウェット」)をバックに、マイケル・ジャクソンの「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」が歌われる。
ダンスポップナンバーが、ファンクに大変身だ。
雰囲気がガラッと変わったが、こちらのアレンジの方が好きだという人がいてもおかしくない。

Michael Jackson vs James Brown



次はワンコードを上手く組み合わせた例。
レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」をバックに、ビートルズの「へルター・スケルター」が歌われる。
これはかなり凝っていて、映像も含めて、ものすごく完成度が高い。
中間部のブレイク部分のアレンジなんて、センスがずば抜けている。

Led Zeppelin vs The Beatles - Whole Lotta Helter Skelter



次に紹介するのは、ア~ハとオジー・オズボーンという、全く接点のなさそうな組み合わせだ。
「テイク・オン・ミー」と「クレイジー・トレイン」はコード進行が違うのに、上手く収まっている。
これは奇跡的といえるコラボだ。

Take Me On The Crazy Train



最後に紹介するのは、2つの曲が複雑に絡み合いながら進行する、高度な組み合わせだ。
レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」とブラック・サバスの「ウォー・ピッグス」が合体して、新しい楽曲が誕生している。
映像の素晴らしさも特筆ものだ。

Whole Lotta Sabbath


今回紹介したような、既存の音像を組み合わせた音楽は、一種のミュージック・コンクレートといえるかもしれない。
ミュージック・コンクレートについては、またの機会で。
コメント (8)

ポール来日公演中止について思うこと

2014年05月24日 | 音楽
ポール・マッカートニーの来日公演が、本人の体調不良のため全公演中止と相成った。
楽しみにしていた人は本当に残念なことだと思うが、こればかりは仕方がないだろう。
30年来のファンである僕の友人も、夫婦で大阪公演に行く予定だったが、とても残念がっていた。

ポールの来日公演が中止になるのは、これが3回目である。
1975年と1980年、来日公演が予定されていたが、薬物関連でキャンセルになっている。
とくに1980年のときは、チケットも発売され、ポールも一旦来日したものの、大麻所持で現行犯逮捕されている。
実にガッカリ率の高い人だ。

そういえば、70年代のブラック・サバス、UFO(マイケル・シェンカー期)、ローリング・ストーンズが来日していないのは、薬物絡みだからだろうか?
そのくせシン・リジィはよく来日出来たものだ。

今回のライブ中止について、最も損をしたのは、オークションでプレミアチケットを買った人だといわれる。
元々ポールのコンサートチケットは高額である。
とくに武道館公演のチケットは、高すぎるといっていい。
正規の値段で、S席80000円、アリーナ100000円。
えっ?
桁を間違ってはいけない。
S席8万円、アリーナ10万円だ。
これがオークションになると、30万とか40万の値がつけられ、それでも何人もの入札があったという。

オークションで高額チケットを落札し今回大損した人について、ツイッターや2ちゃんでは「ざまぁみろ」という声が多い。
そりゃそうだ。
本来抽選にて公平に取り引きされるべきチケットを、金の力で不可能を可能にするなんて、気分のいいものではない。

それに対して、正規でチケットをとり、地方から新幹線やホテルの予約をとって待っていた人は、本当に気の毒だ。
ポールには一日も早く元気になってもらい、早い時期に代替公演をやってもらいたい。


コメント (10)

メキシコの漁師と人生観

2014年05月18日 | 日常
「メキシコの漁師」というコピペがある。
作者は誰かわからないが、かなり前からネット上に存在するようで、2001年にはすでに原型があったようだ。

すでにご存知の方も多いと思うが、それをここに貼り付けてみよう。


メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。

すると漁師は「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。

旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、漁師は
、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。
戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。

「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」

「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」

「それからどうなるの」

「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」

と旅行者はにんまりと笑い、

「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、
日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」



以上が「メキシコの漁師」コピペだ。
僕がこれを知ったのはわりと最近なのだが、この短い文章の中に、人生観、仕事感について考えさせられるものがある。
メキシコの漁師に対しMGAが、もっとビジネスを発展させたほうがいいと提案する、その行く末に待ってる幸せというのは、今現在の漁師の姿だったという、なんとも皮肉で、ユーモアのある内容だと思う。

この漁師の今の長閑な生活は、この先も永遠に続くのだろうか?
いや、ビジネスとして発展させようとしても、必ずしも成功するとは限らない。
仮に成功したとしても、失うものも多いだろう。
その代わり、エキサイティングで面白い人生かもしれない。
いやいや、田舎町で漁師を続けた方が、はるかに人間らしい幸福な人生かもしれない。
しかし、自分がやらなくても、他の誰かが、漁業ビジネスとして勢力を拡大したとき、今までのようにノンビリもしてられないだろう。
その前に、このハーバードのMGAという男は、信用出来るのか?詐欺師ではないのか?

この話題を突き詰めて行くと、産業革命、文明の発展、それらは本当に人間の幸せにつながっているのか?など、哲学的、あるいは宗教的な分野にまで行ってしまう。
実に深いコピペだ。

皆さんはどう思われますか?

コメント (6)

フードポルノと食文化

2014年05月17日 | 食べ物
フードポルノという言葉がある。
美味しそうな料理を紹介するテレビ番組や雑誌だ。
また、レストランの料理の写真を撮って、自らのSNSに投稿する行為を指すこともある。
見る人は、その料理を観賞して楽しんで欲望を満足させる。
しかし自分で料理したり食べるわけではない。
そういう行為をポルノに例えたものだ。

日本では古来、食欲という、人間が自然に持っている欲望は卑しいものだといわれてきた。
“どんな名文家でも食に関する文章は卑しい”、とも言われる。

先日読んだ「あらためて教養とは」にもこのように書いてあった。

食べるものについてとやかく言うのは、嗜みのないこと、慎みのないこと。
おいしいとか、おいしくないと思っても、それを口に出すな。
尋ねられれば、礼儀として「おいしく戴いています」と答えることはあっても、それ以上一切口に出してはいけない。


今、テレビをつけても、雑誌を見ても、インターネットを見ても、フードポルノが溢れている。
ああ、現代人はついにディーセンシー(慎み)を失ってしまったのだろうか?

僕はちょっと違うと思っている。

日本の場合、“食は卑しい”という教養感は武士道の一つで、江戸時代の武士階級の人たちは割と質素な食事をしていたという。
それに対し、庶民はそうではなく、食をかなり楽しんでいた節がみられる。
とくに江戸や大阪など都市部では、現代人が想像する以上に食文化が発展していたようで、「豆腐百珍」というグルメ本が大ベストセラーになったりしている。
(豆腐百珍があまりに売れたため、続編としてコンニャク百珍とか、ダイコン百珍など、“百珍シリーズ”が次々に出版されたという)
(さらに“豆腐百珍”は単なるレシピ本ではなく、読み物としても面白い本だそうで、江戸時代版フードポルノといえる)

昨年、和食がユネスコ無形文化遺産に登録された。
これも古くから、食についてあれこれ語る人がいたからだろう。
もし、食べ物については一切語るな、だったら、今の日本の食文化はもっと貧相になっていたに違いない。
コメント (8)