でねこん

前職の業界をこよなく愛する聖者。
あせ・あし・あたま・あいきょう
で営業マンの基本とか。ホンマか!?

ゆっくり休め

2013年08月25日 22時33分24秒 | 諸々

金曜日に届いた訃報。

小樽を出港してから電波が入らず後、2時間ほどで
舞鶴港入港と言う時にスマホの電波が入りだしLINEで
訃報連絡を受け取った。


えっ!?
あいつが。。。
驚きを隠せない。

今年の年賀状にも穂高かどこかに登った写真だった。
フルマラソンにでも出ていた。

ただ社会人になってからほとんど会ってないような気もする。

和歌山の山奥に住まいを構えなかなか会う機会がなかった。


久し振りの再会が棺桶に眠っている顔を拝むことになるとは。。。



リンパの癌だったらしい。
去年から体調がおかしいと言ってらしいがフルマラソンを走るため
その免疫力低下によるものなのか病なのか区別がつかなかったらしい。

今年の2月に不調を大きく言い出し4月に入院。
抗がん剤は全く効き目なくそのまま8/21 23:36 他界
との事だった。


高校の同級生。
大学時代にイトケンから原チャリγを売ってもらい
初めてツーリングに連れて行ってもらったのが彼だった。
十津川に行きその後、BAJA時代には高野山の林道に何度か
一緒に行ったりしていた。

リハビリの理学療法士。

病院勤めで病気に気が付かないとは灯台下暗しか。

近年は、バイクはスクーターくらいでマラソンに打ち込んでいたらしい。
3月にもフルマラソンに出る予定だったとか。

棺桶の中の彼は白装束ではなくジャージに帽子をかぶり今にも
走り出しそうな顔だった。


高校時代に母親を亡くしその後、父親を亡くし苦労人だったと思う。



今まで自分らの世代の親の葬式に出るのが常だったがついに自分の
世代の葬式に出るようになってしまった。


ひとり息子もこの春に高校生になったらしい。

無念だね。
何を思い生涯を閉じたのか。

46年とはあまりにも短すぎる人生。



今のバイク漬けのきっかけは彼から。

闘病生活きつかっただろうし辛かっただろう。

癌と競争しチギレなかったか。
追いつかれちまったかい。

ゆっくり休め。
そして有難う。
ええ人生やったか?



校友会

2013年06月29日 22時39分32秒 | 諸々


金曜日は、大学の校友会支部総会。

盛り上がらんなぁ。
メンツはいつもの設備部のメンツばかり。





みんなおっさんやし、

ジョニーは相変わらず変態やし。





酔ってくると来賓もおるのにいきなり立ち上がり
コマネチ!!

それまではLINEでまりネェに卑猥メールのオンパレード。

あー歳食うって嫌だけどジョニーに久しぶりに笑わして
もろた。

そんな彼も43歳!?



日本人としての志

2013年06月09日 22時11分51秒 | 諸々

日本人は、自分のために出なく他人のために死ねる
人のために自分を犠牲に出来る  そんな民族だと。


橋元氏の慰安婦問題発言に対し日本は韓国と戦争をし
勝利したから女性を抑圧したように刷り込まれているが
実は日本は韓国と戦争したことはないのだ。


今日仕事で客先の講演会での話。


式典で君が代で始まるのには少しドッキリしたが
拉致被害者に対する訴え。

ここに大きくのしかかる憲法改正。


諸外国の悪に対し国家としての悪には抵抗できない日本の憲法。

それを逆手に取り国ぐるみで圧を掛けてくる中国に韓国。
そして拉致は国家で行ったと認める北朝鮮。


別に極端に考えが寄っているわけではないが国を守るのは
国民の義務とは思う。

民主主義とは、民が主であるのだ。


あなた方が三食美味しくいただいている時に拉致被害者の
方々は北朝鮮で独房に入りまともな食事も与えられていないと
言う事実。
時差の無い日本と北朝鮮。
まさしく我々が食事をしている時に向こうでも同じ日本人が
飢餓にさらされている事実。

あなたの親が、子供が、大事な人が拉致されていると解っていて
何も出来ないことがどれほど辛いことか考えてみてください

この一言が心に大きく響いた。

若すぎる

2013年04月17日 23時44分46秒 | 諸々

前職でお世話になった所長の訃報。

2月末までは現場で元気に働いておられたとか。


直接同じ現場で働くことはなかったが広島の工場現場時に
大変にお世話になった。


60歳とはこれまたあまりにも早い死で。


ご冥福をお祈り申し上げます。



もう俺もそんな年齢やね。

感謝感謝

2013年03月03日 08時12分04秒 | 諸々

自分の住むマンション。
今年の9月で住み始めて丸18年。

大規模修繕を一度経たが屋上の防水はまだ漏れが無いので
シルバートップコートで延命した。

しかし、管理会社から防水更新工事の提案があり総会で
決議。
修繕積立金を大きく取り崩す金額。

理事会ではあっけなく決済され管理会社の持ち込業者に
決まった。
ただ値段が自分の納得できるものでなかった。

もちろん見積りには業者の利益と管理会社のマージンが乗っている。
相見積も管理会社の息のかかった業者での談合調整金額だ。

総会で金額は可決されたものの業者と金額については
もう一度検討すべきと次期理事会での取り決めに持って行った。


そこでネットで色々と調べたがどうもどの会社にもこちらが
管理組合と言うことで必要以上の利益をぼられそうだ。


ということで、前職 H工事長に相談した。
そしたら先般、工事長自ら現地にお越し頂き業者と色々と
アドバイスを頂いた。

意味不明な納まりや前回の大規模修繕時の管理会社推薦の
施工会社の不備を色々とご指摘。


仕事の忙しい中、雪降る中、お時間を割いていただきただ感謝感謝。







このマンションに住んで今年の秋で19年目に突入。
未だ借金1000万円以上。
資産価値は下がりながらその速度に追いつかないくらいの
ゆっくりペースでローン返済。

建物の寿命ってどれくらいあるのか??
RC造なら40年くらい??

ローン完済した時が建物寿命??

今年一年を思うと

2012年12月31日 22時42分56秒 | 諸々

この一年はむちゃくちゃ早かった。
去年の10月に異動して走り続けた。

自分から異動を希望し昇格も完全に遅れてやってもた。。。
と辛いときは後悔することもないこともなかった。

しかしこれからの自分の人生には大いにプラスになると
信じ走った。つもり。


最後の最後に客に罵倒され担当を外されたが。
これ程むかついたことはないしまた社内の人間にもムカついて
しゃーない。


けどきっかけは社内にあれど自分の至らぬ点があるから最終的に
客から信頼を得れなかったのかもしれない。



今の部署に何年勤務するかな。

新年に向けてもっと業界の勉強にも励まないと。



そして一番大きかったのはGWの東北ツール。
全く復興には程遠く瓦礫が一部にかためられただけ。
津波がさらった後には何も残らず。

自分は何ができるのかと思い、安藤忠雄氏考案の
ももくり育英会 に毎年入金することにしている。

自分だけがヌクヌクとすごし酒を飲んでこれで良いのかと
思う。



来年は、もう少し業務に忙殺されず効率よく仕事がしたいし
仕事意外にも余裕を持って接するようにしないと情緒不安定で
他人ともめ事を起こすので要注意。



三宅先生

2012年12月03日 00時57分21秒 | 諸々

たかじんのそこまで言って委員会 で三宅先生の追悼特番を
やっていた。


いつも熱い老人やなぁ と思ってみていたが今日の特番を
観ていてなんて心のこもった人なんだろうと思った。


靖国参拝時の花嫁人形の前で涙ながらに語るその姿に過去の
偉人の方々の死があっていまこの豊かな日本があることを
改めて認識しテレビを観ながら泣いてしまった。


また、エンディングをしめた My Way でたかじんの
感極まった姿に再度涙した。


人と人の出会いって素敵だ。

ITに翻弄された今の世の中。
メールみたいな得体のしれないもので会話しその文字の向こうに
勝手に相手を自分の都合よき方向に仕立て上げ実際と違うと
幻滅し非難する。

やはりメールなんかでなく会話せなあかんわ。
人間だもの言葉があるんだし。
言霊にすべの思いを込めて。


ざまあみろ

2012年08月11日 23時51分42秒 | 諸々

日本女子バレー よくやりました。
あの憎き韓国にストレート勝ち。

竹島にズケズケと踏み込むバカ大統領とその民族性は
許せない。


日本人はホンマにあほやな。
どこまであまやかしてるんや。

テレビのニュースでも消費税増税の話どころではないだろ!
日本の領土が侵されているのだ。
もっと報道し国民に訴えるべきだ。

原発も稼働させるのだからこうなれば核兵器を持ち徴兵制を復活させ
武士道を叩き込むべきだ。

このままでは、ロシア、中国、韓国になめられ領土を奪われかねない。


戦争をしろなんて言わないが、武装は沈黙の攻撃なのだ。

いつまでもトンチンカンな法律に縛られることなく憲法改正の下、
徹底して友好的な態度を取らない国には示すべきだ。

サッカーの試合の後にもアホナ韓国民族性を垣間見たという。

民度の低い奴には低い視線で応じるしかないのだ。


18年ぶりに

2012年05月10日 00時04分36秒 | 諸々

GW中に嫁さんからメールが。

今日、三重の○○さんと言う方が家に来たよ。
とな。


この方、18年前に三重県の現場の時の事務員さん。
いやぁ懐かしい。

何とも大阪に来る用事がありワタクシメノ事を思い出して。


歳はおいらの3つ上。

そう当時は、30歳か。
大声で笑い明るく本当に突貫で死にそうな現場のともしびだった。
ややヤンキーっぽいところがまた愛らしく秘かに憧れていたものだ。


まぁ来阪の目的が選挙運動に絡むというもので個人的に何か
感情なんかあるわけでもなく。

けどちょうど北海道を走っている時にこられるなんて。。。


ご自宅に電話しようかと思ったが旦那は確か鳶職人。
怖いので手紙にメルアドを書いて出しておいた。


で、先日、18年ぶりに携帯で話した。
いやぁ懐かしい。
18で長女を生んでおられて次女さんも26歳ですでに孫がいる。
さすがヤンキー。

それでも話のテンポや名古屋弁は懐かしさを助長する。



この現場ほんとにしんどかった。
一カ月の残業時間が200時間を超えた私の中では究極の現場だった。


嫁さんも最初は何かの勧誘かと思ったらしいが俺が昔にした話を
覚えていて玄関先で色々と雑談していたらしい。


アルバムに残る18年前の写真。
この時は、結婚が破談になり式場にキャンセルを入れに行く前だ。

辛くもありその中で楽しいこともあった。おいらを大きく成長させて
くれた時間だった。




震災後の復興

2012年05月06日 08時48分26秒 | 諸々

先般、私のマンションに一枚のビラが投函されていた。

内容は、市内にあるごみ焼却場で被災地の瓦礫を処分することは
放射能をまき散らすことに値する。
子供の為にもこのような行為は受け入れられない。
みんなで反対しようということだった。


そして昨晩、妹夫婦が実家に来ていたので旦那さんと上記の
話をしていたら被災地としては瓦礫処分は、地元の雇用確保のためにも
地元でしたいとの意向があると聞いたことがありますよ。 との事だった。


宮古から釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼と走った。


宮古は漁港が小さいのか被災しているエリアは小さいと思った。
宮古市内に入るとマクドナルドもあるしお店も人も普通に動いている。

実際、宮古に行ってみて正直、思っていたほどひどくないと感じたのが
正直な気持ち。

その後、南下するにつれ絶句する光景が広がる。

大船渡、陸前高田ともに町が消えていた。
何もない。
ただ、コンクリートの建物は残っている。
住宅のコンクリート基礎だけが残っている。
陸前高田の官舎は建物は残っているが4階まで津波が到達したことが
建物から見て取れる。
この建物の人たちはみな避難できたのだろうか。
生きているのだろうか。


瓦礫は片付けられている。
正確には、何もなくなった場所に仮置きされている。
その量はいまだ膨大だ。



気仙沼でちょうどお昼になったことと気仙沼からは内陸部にルートし
北上するためここで初めて市内をゆっくりとみた。

津波がすべてをさらい果てしなくコンクリート基礎のみがのこる
住宅地。
そこに生きるものの気配はない。

海なんかまったく見えない場所に打ち上げられた船。





なんと大きな津波の威力。
その力なんか計り知れない。し、おいらでは知ることもできない。

ただ、船の前には、気仙沼市の立て看板があった。





写真を撮ることに躊躇したがやはり脳裏には焼き付けられないので
記録に残そうとシャッターをきる。


そして船の近くに献花とりん。
線香の横に置かれた黄色のミニカー。
帽子を脱ぎ、りんを小さくならし手を合わせた。
なんか泣いてしまった。





この人たちは何か悪いことをしたのか?
なぜ今も苦しまねばならないのか?
なぜ今後も苦しみを背負い生きていかねばならぬのか?
なぜ俺は同じ国に生まれヌクヌクと生きているのか?
なぜ小さな子供は両親を失いこれから生きていかねばならぬのか?

あまりの多くの悲しみに呆然とするだけ。
なんとおいらは無力なのか。
人間は自然界では無力なのは解るが。


パンの配送に使われている箱が献花台に使われていたが
その中に、雨でも色褪せぬようにビニールに入れられたメッセージカードが
あった。





そこに書かれていたメッセージ。

『ずっと ずっと ずーっと 待ってます』


また涙がこぼれた。
その理由は僕にはわからない。
ただ自然に泣けてきた。









その後、近くのプレハブ建屋で飯を食った。
お土産物屋さんもあったので昆布等バイクに積めるものを
購入した。

レジでお姉さんに、どちらから来られたのですか? と聞かれた。
大阪と答えるとお姉さん嬉しそうに店内の写真を指さし、近畿大学って
ご存知ですか?彼らが去年ボランティアに来てくれてこのGW後半も
来てくれるんです。 と嬉しそうに語ってくれた。

その話を聞いて感じたままの質問をしてみた。と言うか勝手に口から
出ていた。

ボランティア って何をするんですか? と。
GW中は、復興作業も中止なのかトラックも重機も休んでいたし
人一人が家を建てられるわけでもなく自然に口をついた。

お姉さんはより一層優しい顔になって、ボランティアと言っても
瓦礫片付けとかではなくて、この町をいかに再生するかと言う
打合せに来てくれるんです。 と嬉しそうに教えてくれた。

最後にわざわざ買ってくれてありがとう。と言われ。

私は、こんなことしか出来なくてすみません。としか答えられなかった。




時間があれば被災地は見るべきだと個人的には思う。
何ができるかは解らないが、被災地を自分の眼で確かめて苦しみを
小さいながらでも分かち合うことが今、同じ日本人として出来ることなのだと
感じた。


まずは、自分に出来ることから。