私の思いと技術的覚え書き

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我が国・オートバイ産業勃興期の頃

2016-11-28 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 現在の経済的な成長鈍化がどの程度まで継続するのか知る良しもありませんが、我が国の敗戦直後の悪環境に比べたら、比較になるものでないだろう。そんな中で、我が国は再び立ち上がって来た訳だが、皆が貧しい時代だったからこそ、それを為し得たのかもしれない。現在の様に、ある程度皆が豊か過ぎる生活を享受し過ぎ、一方で過大な長期ローンという負債を背負った現代人が、敗戦時に相当する苦境に陥ったら耐えられるものではなかろうも想像するのだ。

 さて、ちょっと以前「ぼくのキラキラ星」(中沖満:著)という本を読んだのだが、我が国の敗戦後のオートバイの興亡史のことが、ある程度理解できたこともあり、私自身の備忘録として記しておきたい。ところで、この中沖満氏だが、他にも幾つか著作をなされており、そのご出身が東京の「わたびき自動車」という、自動車塗装屋さんで塗装職人として長年活躍して来られた方だ。この「わたびき自動車」だが、現在は戸田市へ移転した様だが、ある時期までロールスロイスだとかフェラーリとか、欧州の名だたる高級車の塗装において、その筋では超有名だった自動車塗装工場だったのだ。

 本題の、戦後の我が国のオートバイ産業の勃興だが、スクーターから始まるのだった。それは、中島飛行機から派生した富士重工の「ラビット」や、三菱重工の「ピジョン」というスクーターの各種達だ。その後、より高性能なオートバイを作るメーカーが多数設立されて行き、最盛期には我が国にで150社位になったと伝えられている。これらメーカーの中には「ヨンダイメーカー」とか「ゴダイメーカー」とか呼ばれる会社があったそうだが、これは現在のホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキを指すのではなく、4台とか5台しか作っていない様な、極めて零細・小規模なメーカーのことなんだそうだ。

 敗戦後、直ぐの二輪車の生産だが、ホンダの場合も無線機用の小型エンジンを自転車に取り付ける、まさに原動機付き自転車の手法で成功した訳だ。富士重工の「ラビット」も当時の写真を見るとやけに小さな車輪が使用されているが、これは航空機(中島だから隼辺りだろうか)の尾輪を流用しているんだそうだ。だから、タイヤにトレッドパターンもないものであった由とのこと。

追記
 写真は三菱自動車の名古屋製作所(岡崎工場)にある資料館で見た「ピジョン」の各車です。


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