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【書評】藤沢武雄の研究

2023-02-28 | 論評、書評、映画評など
【書評】藤沢武雄の研究
 藤沢武雄氏(故人1988年78で死亡)と聞いて、本田の副社長であって、企業の運営から人事管理まで実質の社長の業務を担っていたということを知る方は少ないかも知れない。ただし、誤解してもらいたくないのは、社長としての本田宗一郎氏の人望だとかカリスマをいささかも否定するものではないし、ましてや藤沢氏に何時かは自分が社長にという野望というものがいささかもあった訳ではない。


 その様な観点では、この本田宗一郎氏も欲がないと云うか、すべてを自分が仕切ろうとしなかったと意味で、大物だと思える。日本だけの話しでないだろうが、日本では戦乱が収まった江戸時代以降、側近政治というものが行われていたkとを知る。これは、最上位権力者の側近たる者が実権を握り偏向政治が行われることを云うのだが、いわゆるバカ殿の場合、往々にしてこのスタイルになるのではないだろうか。ところが、本田と藤沢の間には、藤沢自身にその様な邪心はいささかもなく、ただ本田技研という企業の成長を目指すことのみであったし、藤沢自身が側近に依存し操られる様な愚かさはいささかもなかったであろう。

 こういう2人の関係を見ると、現在の内閣官邸における政治が、バカ殿は致し方ないにしても、藤沢の様に愚直に国民のことを憂う側近が1人もいないのではないか、下剋上激しき戦国時代の様に、隙あらば蹴落として乗っ取ることもないが、俗に友達内閣と揶揄されるが如く、概ね一部の側近達のおそらく自らの特権階級たる威信を最優先する思考で、バカ殿を操っているに過ぎないのではないかと見える。

 この2人の出会いと云うのが、戦前戦中に急成長し一大財閥化した中島飛行機にある。そもそも戦後、中島飛行機は米国から解散命令が出され、多くの有能な技術者は自動車メーカーへ移行することになるのだが、本田と藤沢は、ちょっと違い中島飛行機との接点があった。
 本田は、自己経営のピストンリングの製造を行う小規模企業を経営しており、その納入とか打ち合わせのため再三中島飛行機を訪れていた。
 一方、藤沢は旋盤などで使用する切削バイトを商いする商社として中島飛行機と付き合っていた様だ。そこで、おそらく当時の中島飛行機の購買部門にいた竹島弘が居たのだが、この竹島を通して、本田と藤沢は互いに面識はないものの、竹島の話からその存在を知っていた様だ。
 戦後、竹島は通産省に技官として勤めたのだが、本田や藤沢の動向を見守っていた様だ。そんな中、本田は旧軍払い下げの通信機用小型エンジンを自転車に付けて走らせる原動機付き自転車で一定の成功を始めており、その通信機用エンジンの在庫がなくなると、自らA型エンジンと名付けた自製エンジンを搭載した自転車が好調を得ていたが、商売が好調になると共に、未収金の問題とか資金繰りに苦労し始め、そのことで竹島に良い人材はいないかねとの相談があった。竹島は、この話を聞き、即座に藤沢の顔が浮かんだという。それは、藤沢は技術者ではないが、戦後の建築資材不足を予想して、素早く製材業を起業しているなど、その商売人としての器量を見込んでいたのだろう。ということで、この2人は竹島の家で面談することになったのだが、5分も話したところで、両者の思いは一致したという。なお、後年おそらく竹島が通産省を定年退官後だろうと思うが、竹島は本田技研に招かれ常務取締役となっている。

 なお、ついでに本田の気性を知る逸話だが、本田はピストンリングを作る起業をしていたことを記したが、この起業にはトヨタ自動車が40%ほど出資していたという。戦後中島飛行機の仕事がなくなり、当時のトヨタの社長である石田退三が、トヨタの部品を作らんか?と提案した際に、即座に断って、全株をトヨタに買い取ってもらい現金を得たという。つまり、本田は、自らの道は自分で切り開くという思いを知る逸話だ。

 藤沢が加わった後の本田技研は、宗一郎の技術力もあったのだが、全国に販路を築くのに、藤沢の果たした効果は大きい。特に最初、どうして全国に原動機付き自転車を売り込むかという時に、全国数万の自転車屋にダイレクトメールを送付し、販売価と卸し価格を明示して、良ければ指定銀行に振り込んでくれと記して、その銀行(三菱銀)の支店長の本田技研と付き合う当銀行を利用して欲しいとの紹介状を付けさせるべき根回ししたというところが、未だ信用力のない本田技研創業期にあって、どうしたら幾らかでも信用を得られるかという藤沢の機転だろう。

 本田と藤沢の学歴の話しだが、本田は当時の義務教育上限である尋常小学校卒、藤沢は中学校卒であるが、共におよそ富裕な家庭ではなかった様だ、藤沢は大学入学を目指していた様であるが、果たせず就労への道をだどっているが、藤沢という人物は中学時代以降、本田と一緒になっても、終生において読書量は多い人物であった様だ。このことが、決して学歴は高くないが、藤沢の深い思慮とか技術者ではないがゼネラリストたる素養の源泉になっている様に感じる。

 それと、この本田も藤沢も、決して裕福でない幼い日を過ごした中で、世の平等だとか出生とか金による差別する世を嫌う性格が形成されたと見える。ただし、本田の仕事における気の短さは有名だった様で、直ぐ手が出るとか、「お前なんかクビだ!」という現在なら、パワハラまがいの行動は多かった様だ。ただし、本田の場合は、極めてからりとした性格で、その翌日には、昨日の怒りを引きずることもなく、クビだと云われた中村(良夫)があっけに取られたという様な記述が各所に出ている。藤沢の方も、決して部下に甘いタイプではなく、地声も大きく怒鳴る様に怒鳴る姿から、影では当時の映画で有名になった「ゴジラ」と呼ばれることもあったという。

 本田技研の中で、先発のトヨタとか日産より、ましてや日本最古の財閥であり、日本で最初に国産車を作った三菱などと比べ、今の様な大企業になる以前から、積極的な世の先を見た冒険的な先進投資とか、従業員の意気を上げるテーゼの提示ということを繰り返して来たが、この大枠は、ほとんど藤沢が仕組んだものであった様に理解できる。それは、創業4年でテーゼとして宗一郎名で社内外に出した「マン島TTレース出場宣言」とか鈴鹿サーキットの設営(1962年で富士スピードウェイ1963年より先行)、対米工場進出だが、1980年代米国は対日赤字の増大により、現在の米中関係で対中国への強硬姿勢を取っているが、それより酷い対日制裁の気運が生じていた。そういう中で、本田技研は1979年より対米二輪工場を1980年より四輪工場を創業し始めた、トヨタや日産が、対米工場を創業するより10年は先行したが、これも藤沢の先取思考を受け継いだ二代目社長河島の決断からだろう。

 本田宗一郎を語るとき、その引退の地位に拘らない気風という意味で評価がある。この宗一郎の引退は、1973年65才の時だった。しかし、この宗一郎の引退を即座に決めさせたのは、互いに打ち合わせなく過ぎていた、藤沢が62才で引退を決意し、その話しを社内の人づてに聞いた宗一郎が直ちに「俺も辞める」と決断したと云う。この件について、後年藤沢は、何ら宗一郎と相談もなく自分の決断が操った様に取られることを反省しつつ、予め宗一郎と話し合い宗一郎に決断の意思決定という主体的意思としての花を持たせなかったのは、宗一郎に対し申し訳なかったと述べている。


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