紫電改とは毛髪促進薬のことでなく、先の大戦末期に我が国海軍が投入した、最強とされる局地戦闘機の名称です。余りストーリーのことは記憶に残っていませんが、ちばてつや氏のマンガに「紫電改のタカ」というのがあったことを40代以上の方なら記憶しておられるかもしれません。
先に述べた局地戦闘機なる名称ですが、様は大戦末期になり日本本土は繰り返しの米国のB29による絨毯爆撃により、大都市を中心とした諸都市が壊滅させられていったのですが、これを迎え撃つのが主目的となる戦闘機のことです。
先の戦争初陣において、向かうところ敵なしの戦績を誇ったゼロ戦でしたが、戦争という総力戦における技術の進歩は著しく、B29に対してゼロ戦では巡航高度も最大速度も劣っており、B29が遊弋する空域にまで達する(上昇)ことすら不可能だったのです。この一番の理由は、エンジン出力の非力さにあり、これを徹底的な軽量化により、低中速での運動性の良さだとか航続距離の長大さとして活躍したのがゼロ戦の真価だった訳です。
大戦も中期から末期になって来ると、ゼロ戦の1000馬力級の栄(さかえ)エンジンでは、米軍機の2000馬力級の戦闘機には、最高速、急上昇、急降下に追いつけず、B29などの高々度巡航の大型爆撃機には、そこまで上昇しきれないなどの問題が生じてきたのです。その様な理由から、大戦末期になってやっと2000馬力級の誉(ほまれ)エンジンを搭載した、雷電、鍾馗、紫電改などの局地戦闘機が開発されたのでした。
その様な局地戦闘機の中で、紫電改は自動空戦フラップにより重量化した機体でも、抜群の空戦運動性を持ち、20mm機関砲を左右主翼に2門づつ、合計4門を装備するという対攻撃性能を持つことで、最後の最強戦闘機たるスペックを有していたと感じます。
紫電改のエンジン、誉(総排気量約36L)は、最大馬力約2000馬力、二重星形18気筒ですから単シリンダー当たり約2Lとなります。ボアストローク130×150mmですが、ガソリンエンジンでこれだけのボア径ともなると、空冷、しかも加給付加となると、火炎伝播遅延の問題も相当に出て来ますし、付随してノッキング、プレイグニッションなどのデトネーション(異常燃焼)の問題が付きまとっていたと想像されます。しかも、大して高い圧縮比でなかったでしょうが、エンジンが要求するガソリンのオクタン価(メカニカルオクタン価)は非常に高いハイオク(100以上)が要求されたでしょうが、おりからの物資不足の状況にあっては、90程度のレギュラー相当のオクタン価燃料しか使用できなかったと想像されます。結果、イグニッションタイミングは不必要にリタードさせねばならず、仕様どおりの馬力は出せない場合が多かったものと想像されます。
それでも、紫電改は川西航空機(現:新明和工業)で500機程が製作され、最後の本土防空という抵抗を試みたのですが時既に遅しだったということでしょう。
※写真は誉エンジン(陸軍4式戦・疾風のもの/紫電改と同型・河口湖航空博物館にて)
先に述べた局地戦闘機なる名称ですが、様は大戦末期になり日本本土は繰り返しの米国のB29による絨毯爆撃により、大都市を中心とした諸都市が壊滅させられていったのですが、これを迎え撃つのが主目的となる戦闘機のことです。
先の戦争初陣において、向かうところ敵なしの戦績を誇ったゼロ戦でしたが、戦争という総力戦における技術の進歩は著しく、B29に対してゼロ戦では巡航高度も最大速度も劣っており、B29が遊弋する空域にまで達する(上昇)ことすら不可能だったのです。この一番の理由は、エンジン出力の非力さにあり、これを徹底的な軽量化により、低中速での運動性の良さだとか航続距離の長大さとして活躍したのがゼロ戦の真価だった訳です。
大戦も中期から末期になって来ると、ゼロ戦の1000馬力級の栄(さかえ)エンジンでは、米軍機の2000馬力級の戦闘機には、最高速、急上昇、急降下に追いつけず、B29などの高々度巡航の大型爆撃機には、そこまで上昇しきれないなどの問題が生じてきたのです。その様な理由から、大戦末期になってやっと2000馬力級の誉(ほまれ)エンジンを搭載した、雷電、鍾馗、紫電改などの局地戦闘機が開発されたのでした。
その様な局地戦闘機の中で、紫電改は自動空戦フラップにより重量化した機体でも、抜群の空戦運動性を持ち、20mm機関砲を左右主翼に2門づつ、合計4門を装備するという対攻撃性能を持つことで、最後の最強戦闘機たるスペックを有していたと感じます。
紫電改のエンジン、誉(総排気量約36L)は、最大馬力約2000馬力、二重星形18気筒ですから単シリンダー当たり約2Lとなります。ボアストローク130×150mmですが、ガソリンエンジンでこれだけのボア径ともなると、空冷、しかも加給付加となると、火炎伝播遅延の問題も相当に出て来ますし、付随してノッキング、プレイグニッションなどのデトネーション(異常燃焼)の問題が付きまとっていたと想像されます。しかも、大して高い圧縮比でなかったでしょうが、エンジンが要求するガソリンのオクタン価(メカニカルオクタン価)は非常に高いハイオク(100以上)が要求されたでしょうが、おりからの物資不足の状況にあっては、90程度のレギュラー相当のオクタン価燃料しか使用できなかったと想像されます。結果、イグニッションタイミングは不必要にリタードさせねばならず、仕様どおりの馬力は出せない場合が多かったものと想像されます。
それでも、紫電改は川西航空機(現:新明和工業)で500機程が製作され、最後の本土防空という抵抗を試みたのですが時既に遅しだったということでしょう。
※写真は誉エンジン(陸軍4式戦・疾風のもの/紫電改と同型・河口湖航空博物館にて)