私の思いと技術的覚え書き

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旧海軍・夜間戦闘機「月光」のこと

2020-06-23 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 先の大東亜戦争で使用された我が国の航空機製造は、現在と大違いでおびただしい種別がある。その中で「月光」と名付けられた夜間戦闘機があるが、ゼロ戦の様に有名でない本機について書き留めてみたい。

 そもそも、この「月光」の開発は海軍の要請に沿って、長距離爆撃機に随伴し、その爆撃機を援護する戦闘機としての要請に沿う形で開発が開始された様だ。そして「月光」の基本スペックとしては、ゼロ戦にも使用された栄21型というエンジンを双発で搭載する3座(後に2座)の乗員の戦闘機だった様だ。しかし、およそ1千~1千2百馬力の栄21方を双発にしたとて、最高速度はゼロ戦より低く、運動性能や空戦性能も想定した程に達成できず、当初は偵察機として運用されていたが、その優速さのなさゆえに、偵察機としても不適で、多数が量産されることなく(およそ480機ほどらしい)推移していた機体の様だ。

 ところで「月光」には、当初から胴体の軸線に沿って上方または下方の前方向け、約30度の角度を付けた斜め機銃が装備されていた。これにより、敵機の斜め後方の下方もしくは上方という敵機の死角となるポジションから攻撃ができるのを特徴としてたという。この斜め機銃による戦果は、B17とかB24辺りまでは、そこそこの戦果を上げていた様だ。

 しかし、工業大国たる米国は、B29を敗戦前年の1944年5月には運用開始し、その恐るべき工業力により4千機弱も短期間に製造し出すのだ。また、それ以前に南方のテニアンとか、硫黄島などを次々陥落させた米国は、B29の300機とかの大編隊を夜間に繰り出し、日本各地の大都市を中心に猛烈な空襲を開始したのだ。その最たるものが、1945年(敗戦の年)3月10日の夜間に行われた東京大空襲だ。この時の空襲の有り様は次の様なものだそうだ。米国は日本の民家が木造で燃えやすいことを承知しており、まず最初の空襲で外縁部を炎の帯と化しその外への避難を不可能とし、間髪を入れず外縁部の内側をくまなく絨毯爆撃を緻密に行ったのだという。つまり、空襲の目的は特別の軍事基地だとか軍需工場でなく、一般大衆が多く住む住宅密集地を殲滅することを狙ったのは間違いない。当夜だけの爆撃の死者10万名、負傷者100万名と伝えられている。

 このB29による東京を始めとした日本各地の人口密集地への爆撃は繰り返されたのだった。しかし、広島と長崎は空襲は行われていない。この理由は、後の原爆投下で、被害状況をつぶさに検証するために配慮されたものだったのだろう。ことほど作用に米国の殺略仕様は念入りで、ヒトラーのアウシュビッツでのユダヤ人虐殺や、中国の法輪功、チベット、ウイグル弾圧と臓器狩りとも比較出来る程の高次の残虐レベルさにはあっぱれ見事という思いしかない。

 と話題が、つい恨みがましい情緒的な話しに偏向したが、B29の迎撃に件の「月光」も飛び立ち、16機程度のB29撃墜を果たした様だが、B29は次から次へと量産補充される訳で、焼け石に水だったろう。本来は、迎撃専用の高馬力で十分な高空性能を持つ雷電、疾風、飛燕、などの高性能機が揃っていれば、それも可能だったろうが、既に敗戦末期には、米国は援護戦闘機としてムスタングP51という2000馬力級で700km/h近い最高速と高々度性能を持つ最新鋭戦闘機まで持っていたのだから、時既に遅しだろう。南方のテニアン辺りが陥落した辺りで謝り降参していればという思いも持つが、もし謝り降参したとして、殺戮を果たすまで米国が認めたかどうか怪しいとも思える。

 そもそも、開戦前からGNPや工業力が10倍を越える国に開戦を自ら挑むこととなってしまったことに大きな問題はあるのだが、6/12に拙人がレポートした「日米開戦の正体(孫崎享)」にその辺りは詳しい。また、従前から何かに付け敬愛する故渡部昇一氏は、日本の敗戦、つまり無謀な開戦に入って行った分水嶺は2・26事件(1936年)だと著作で結論付けているのが記憶に残る。(「この国の義を思う」より)それは、226で下級将校が決起し、日本の重要人物を殺害した。それは、米国の信認が厚かった内大臣の斉藤実であり、日ロ戦争でユダヤ財閥から戦費を調達した大蔵大臣の高橋是清などであったと記している。これらの偉人が健在であれば、日米関係の悪化もなんとかなっただろうし、石油禁輸の問題も道筋が付けられたのではないかと記している。その極めて重要人物を失ったのが2・26事件だったのだろう。




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