アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生き方、其の5

2013年04月25日 | 近世歴史と映画

 

陸軍士官学校に入学

 

福島が入学したときの陸軍士官学院は、将校生徒の養成副使が改正されたばかりであった。

これが明治二十年六月の大改正で、改正の主な点は、それまで士官生徒と呼んでいたのを

士官候補生と改めたこと、幼年生徒を陸軍士官学校から分離し、

独立の陸軍幼年学校を設けたことである。

また、士官生徒制度のおりの修業年限は、歩哨兵科二年(のち三年)、

砲工兵科三年(のち四年、さらに五年)だったが、士官候拙生制度では、

まず各隊に入隊させ、下士官としての体験を勤めさせた。

其上で、入学させ、修業年限は一年八か月と改められた。

 福島はこの改正が行われてすぐ、教導団で士宮沢拙生試験を受験したことになる。

 この士官候福生制度の第一期生は、明治二十一年十一月

(幼年学校出身者は翌年一月)に入学している。福島はこの制度の第二期生で、

明治二十二年十一月(幼年学校出身者は翌二十三年一月)に入学した。

同期生は十一月組一一四名、一月組五一名、計百六十五名であった。

 同期生で、のちの陸軍大将鈴木孝雄は、当時を回顧して次のように語っている。

「自分も、兄の鈴本員太郎も、千葉の関宿の士族であったが、士族であれば誰でも

陸士に入学できたわけではない。自分も、一度は、もっと身体を丈夫にしてから来いと、

いわれて、落とされたものだ。学問のほうでも、なまけ者では、合格できなかった。

 石鳥谷は秀才型の青年だったが、あの細っこい身体で、

よく体格ではねられなかったものだと、不思議に思ったものである。

とにかく負けん気の強い勉強家で、根気の強さでも定評があった。

成績は学科実科とも上位だったから、われわれも一応、福島君を目標にして頑張り合ったものだった」

 陸軍士官学校は東京市ケ谷の高台にあった。もとは尾州藩の屋敷だったところである。

同期生の回顧談でもわかるように、福島は士官候補生時代、

負けず嫌いの頑固者で通っていたようだ。

 負けず嫌い、頑固は福島の生来のもので、反骨精神も人一倍であった。

教導団に入団するため、

故郷をあとにするとき、母から、お前の負けず嫌い、頑囚者は治らないだろうが、

大言だけは吐かないように。全国からよりすぐりの秀才が集まるところだろうから、

なにごともまず実行し、実績をあげることだと、たしなめられた。そのとき福島は、

どのような秀才にも決して負けないと、胸を張って答え、

また大口をたたくと、母から重ねてたしなめられている。

 士官学校では旧士族の名門や名家、華族の子弟が、俊英を競い合っており、

その中で福島は百姓の出で教導団あがりにすぎなかった。入学したとき、

福島は二十四歳。

同級生のなかでも年長者で、学問の方でも、同期生より一歩も二歩も、

先んじていたようだ。彼はどのようなことにも、負けてなるものかと、

人一倍、努力を続けた。支給された生徒手帳に福昌彦象などと自署したも

のもある。

 

福島は陸軍士盲学校在学中の明治二十三年一月、陸軍歩兵一等軍特に進級し、

二十四年七月二十日、同士官学校を卒業した。入学したとき同期生は一六五名だったが、

卒業したときは、一四九名になっていた。 成績は同期生中、学科実科とも上位に

ランクされていたことは、同期生の話で、たしかなようだ。

特に戦術学では独特のひらめきをみせ、教官をしばしば驚かせたという。

しかし卒業式で総代の指名を受けなかったところをみると、

優等生はまだまだ大勢いたことになる。

 

 卒業式は、天皇陛下の臨御のもとに、厳粛に行われた。

 

卒業証書ヲ拝受スルニ今カ今カト待チュ待チタジ。既于ソテ楽隊ハ盛ンニ楽ヲ奏シ」

生徒ハ順序直シク天皇陛下ノ前二鞠躬シ、多年満身ノ苦学勤勉ノ結果トシテ此ノ栄誉

ナル卒業証書ヲ賜ハレジ。人ハ感泣セジ。君恩ノ同大ナルニ感泣セジ。人ハ泣拝合掌

セジ。龍顔閲尺、其ノ恐レ多キニ泣拝合掌セジ。(『小事実録』)

 

時の、正に帝国軍人として羽ばたこうとする者にとっては、

当然の心情だったといっていいだろう。ことに福島は、ひときわの激情家であった。

 この式典に、福島は父泰七と叔父田部井与惣治、そして東京在住の友人を招いた。

父や叔父と対面するのは、教導団に入団のため故郷をあとにして以来だから、

足かけ六年ぶりであった。

 



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