今回は、処刑地大戸村に建てられた捨札を、須賀尾村民の
雪渓と号する人物が写しておいもので、この伺書と言う点は、
終りの「…上州大戸御関所近辺におゐて傑可申候成」が
「…傑ニ行ふもの也」となっていて「戌十二月」と追記されている。
とにかく、この決裁伺が、出されて判決は傑と決定した。
処刑捨て札の記載文、この文に続いて同じく「徳川禁令今後褧」に
収録されたものは、なぜ忠治を傑に行うという理由書を判例や
準拠法文に基いて述べたものであり、上州大戸村はじめ、
忠治が悪事を働いた村々へ報せるため彼の罪状と処罰を明記し
科書(とがかき)の捨札(すてふだ)を建てる事の上申書の様である。
御仕置之儀 国定村忠治
忠次郎
右文蔵惧々、伊三郎を及殺害、叉者文蔵召捕相成代砺、同人を
可取戻と取締出役旅宿近辺迄押参り、或は、佐与松より首代と
唱金手為追出、其外博奕等いたし候儀礼有之候得共、浅次郎疑惑を含、
同人心底可見届と、伯父勘肋首級を携参、申被可致抔申罵より、
浅次郎儀終ニ勘肋を及殺害仕儀ニ相候成段ハ、指図および為殺候も
同様之儀ニ御座候間、指図致し人を殺させ候もの下手人之御定江寄、
伯父を為殺候儀ニ付、舅伯父伯母兄姉を殺候もの之本罪に而、
引廻之上獄門程ニも相当り可申、
大戸御関所を除山越いたし候代方重之犯行ニ御座代間、関所難通類、
山越いたし候もの於其所磔と有之御定並天保元午年曾我丹後守
御勘定奉行勤役之節伺之上
御仕置申付候鴛宮村(註、碓氷郡内)無宿彦太郎儀、
上川鷺宮村啓蔵外六人
表人口建寄有之候戸を明開立入、鉄胞脇差衣類其外品々盗取、
殊右鉄砲を持、碓氷御関所を除山越いたし候始末、
重々不屈至極ニ付塩詰之死骸御関所近辺ニおいて磔申付候例も見会、
磔ニ相当。
然処年来長脇差等帯、悪事いたし候ものニ付、文政九戍年の御書付をも
見合、御関所近辺おゐて傑と御仕置附仕、上州大戸村並悪事之村々江
科書捨札為建候ハ当然之取計にハ御座候得共、右躰犯付重畳之もの、
悪事之村々江科書捨札為建候先例ニ御座候間本文之通申上候。
此処で、改めって下線の文面を確認して頂きたい、
従来から関所破りの罪で、処刑された事実は明かですが、
二度の関所破りは、何れも堂々と通り抜けたのではなく
初回は、関所手前から抜け道して山越えした。
二度目は、関所の門を強引に開き鉄胞脇差衣類其外品々を
強奪後、其鉄砲を持って、碓氷御関所をも除山越した事は
明かでこの際も、記載内容から表門から逃げ山越した。
仮に、通り抜けたとすれば、関所を罷通と記載される。
従来の子分を引連れて、槍、鉄胞で武装して関所の役人が、
逃げたなどの事柄は全て作り話であった。
なを、表門から逃げたと、判るのは次の点が根拠で、
表門から強奪後に裏門を強引に開き通ると更に罪は重く為る
また、そうした成らば、判決書及び理由書に明記されるが、
その記載は一切無いであるから断定できる。
科言(罪状書)を高札に書いて公衆に公示しだのが所謂捨札で、
重罪人の処刑には見せしめの為しばしば用いられた。
続く
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