辛うじて浦町駅に転り込み、ここから乗車して東北線沼町駅に下車。
八里の道を増沢に向かい進んだが、誰一人語るものはない安否を
気づかい待ちわびている妻子をしのびながら・・・
漸くにてわが家の敷居をまたいだのは27日午前2時頃。
家内に支えられて倒れるように家の中に転り込んだが、
顔面ははれあがり、四肢は凍傷に冒され、股引は脱ぐ事が出来ない。
仕方なく切り開いて脱ぐあり様である。
その上、二目とはみられぬ容貌に家族等皆泣き悲しんだの当然である。
それでも生きて還ったことを家族等はせめてもの事として喜んだ。
その后、病者のように床に臥しなどして数日を経たが凍傷の手当ての
療法も判らぬうち症状が悪化するものが続出した。
中沢由松氏の如きは回復せず、十数年廃人同様に過ごし、
遂に死亡したのは誠に同情に値するものである。
さて省みるに彼等7名の行動は、一命をかけて忠実勇敢にその本文を
尽くしたために五連隊の遭難に引き替え、三十一連隊の雪中行軍隊は
完全に八甲田の猛吹雪に耐え、一人の落伍者も出さずに決行することが出来たのである。
これはまさに此のかくれた犠牲者の行為の賜である。
此の功績は称賛して余りあるものであり見聞そのまま埋れ行くのを愁い、
奇跡的に生還した案内者7名の中、当時の生存者4名の御来席をとくに願い
収録したもので、実録であります。
粗文ではありますがその時にこんな事もあったのかと読者の
御記憶や知識の片隅にとどめおき願えれば幸いでございます。
彼等7名の偉業を称える“東道旌表(せいひょう)碑”と解説文
『東道』とは、道案内の意味で
『旌表』とは、褒め讃えるという意味である
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