アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

再考、八甲田山雪中行軍 3

2013年05月22日 | 近世歴史と映画

 

これは弘前隊を案内した熊ノ沢集落の『七勇士』の一人・沢内吉助氏の口述を文章化したもので、
感嘆符は原文のままである。
尚、原文を若干読み易くする為、
聯隊名以外は算用数字に変換し、改行を施し、句読点を追加してある。

 

蔭の人

 

昭和37年は雪中行軍の60周年に当たり、去る6月9日その記念式典が青森市郊外にある

幸畑陸軍墓地において盛大に挙行された事は周知の通りでございます。
 それは明治35年1月23日早朝青森歩兵第五連隊・山口大隊(山口少佐以下212名)が

青森の原隊を出発して八甲田山中を超えて三本木に出る計画のもと に雪中行軍を

決行し途中馬立場の難所を越え鳴澤付近で猛吹雪に遭い、生存者僅か十数名を

残すだけであとは全員凍死すると云う、当時世界を大いに驚かせた遭 難事件であります。
 この行事を強行した理由は日露の情勢が緊迫し、一反戦争に突入すれば

厳寒の地満州が戦場となると予想され、当然八師団は満州に派遣される。
そのためには日常の耐寒訓練が必要だと云ったためでありました。
 一方、弘前歩兵三十一連隊福島隊は五連隊の逆コースである三本木方面より

八甲田山を超えて青森へ出る計画で、1月23日十和田湖・法量系由熊之沢川をさ か上り、

増沢に至り、地元より七名の案内者を頼み、悪天候と闘い無事に八甲田山超えに成功したのであります。
しかし、この七名の案内者は無事にその大任を果たした蔭の功労者でありますが、

五連隊の遭難者に対する哀悼と共に特に福島隊長より「絶対口外すべからず」の

一言を固く守り他言する者が一名もなかったためこの事実を誰も知る事が出来なかったのであります。

 時代は明治から大正、昭和の御世となり昭和5年1月に案内者の一人・沢内吉助氏が

所用のため七戸町に出張し知人の福田政吉方で雑談を支している中、

たま たま東奥日報紙上に歩兵五連隊雪中行軍遭難記念行事が発表されている事が

話題になり「雪中行軍ならば私も関係がある」と沢内氏が発言し、

以下記載の通り当 時の委細を語ったことによって初めて秘事が世の明かるみに出されました。


 後日その功績が認められ財団法人昭和謝恩会から「蔭れたる七勇士」として顕彰され、

又同地青年団は光華の軍人にも劣らぬ至誠の美徳と功績が陽の目も見ず に

消える事を憂いて奮起し民各位の絶大なる御賛同とご協力に依り、

この美徳を後世に伝えんとして昭和6年9月、熊之沢校(現在柏小・中学校)付近に

小 碑を建立したのでございます。




再考、八甲田山雪中行軍 2

2013年05月22日 | 近世歴史と映画

雪中行軍を陰で支えた方々の本当の姿そして、その後

 

七勇士
弘前隊を案内した三本木の7名


沢内鉄太郎氏、沢内吉助氏、福沢留吉氏、福村勝太郎氏、小原寅助氏、

川村(氏家)宮蔵氏、中沢由松氏。

弘前三十一聯隊雪中行軍隊の最難関・八甲田山系を増沢から大峠まで二日間、

不眠不休で命懸けで案内した。
しかし福島隊長以下弘前隊は、別れ際に誰一人「有難う」「ご苦労さん」という労いの言葉もかけず、

彼らを豪雪の山中に見捨てて行った・・・(沢内鉄太郎氏の孫・鉄男氏:談)

彼等は弘前隊が去った後、自力で大深内村(現:十和田市柏地区)に戻った。
しかし中には凍傷にかかり、廃人同様にして、若くして亡くなった方もいた。
彼等7名は、29年経った昭和5年まで福島大尉の「コノ二日間ノ事ハ絶対口外スベカラズ」

という言いつけを守っていたが、沢内吉助氏がふとした事でこの二日間の事(弘前隊を案内した事、

青森隊の遺体発見の事等)を知人に話した。

翌年の昭和6年、「その律儀な行動は南部人の鑑だ!」という事で、

彼等『七勇士』の偉業を称えた石碑が地元に建てられた。

その石碑は移転を重ね、現在は柏小学校向かいにある。

又、同小学校(残念乍ら平成16年春閉校)では『七勇士』の功績を校舎の廊下に掲げ、

子々孫々に語り継ぐべく、閉校時まで授業に取り入れられていた。
東奥日報の記事を読む

亦、『雪の八甲田で何が起ったのか』を執筆した川口泰英氏は、

柏小学校閉校記念誌の中で
「地元十和田市役所が七勇士の顕彰事業に非常に消極的かつ無関心であるのは残念。

閉校に伴い資料の散逸が心配、敢えてこの点を記す。郷土の先人が示した献身的奉仕が誇りを

持って後世に語り継がれることを切望する。それこそが真の社会教育、

後人としての務めである」と述べている。
強く賛同する!
実際我々(へなちょこ行軍隊)も七勇士の御子孫に取材を敢行すべく、

十和田市教育委員会に問い合せしたところ、奥歯に物を挟んだような言い方だった。

更にその七勇士の御遺族にお逢いしたところ「市の方は一切関与したくないらしい」

との言葉も・・・!(驚愕)

この偉業を後世に伝えていくのは、御子孫をはじめとする関係者と一部の有志だけかもしれない。