アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健が出会った人々 B

2013年05月14日 | 近世歴史と映画

 

『鉄道員』ぽっぽやたち


映画における僕の故郷は、やはり東映の東京撮影所といえる。

『動乱』以来、十八年ぶりにその故郷に戻り『鉄道員』の撮影をした。

この映画の仕掛け人は石川通生プロデューサー。

彼が原作を読み「健さんで、映画化できませんか」と、

坂上順・東映常務に持ちかけたと聞く。最初のうち僕は

あまり乗り気になれなかった。だが、かつて一緒に苦楽を共にした

東映のスタッフたちが定年間近になり最後の記念写真を、    

健さんと一緒に撮りたいと、彼らが言っています」という手紙を、

坂上・東映常務からもらった。記念写真とは、

映画がクランクアップしたとき、

関係者全員が集まって一緒に振る写真のことだ。

この手紙を読んで僕の心は動いた。

この映画の台詞に、(親父の言葉を信じて、鉄道員になった。

エスエルとかシロクニが、戦争に負けた日本を立ち上がらせていく。

だから、自分は機関車乗りになったんだ。後悔はしていないというのがあった。

だが、時代は常に移り変わっていく。それはどうしようもできない。

年齢とともに時代とズレていく哀感。同じような想いは、

僕と一緒に仕事をしてきた、活動屋といわれる

映画人にも多いのではないか。彼らと一緒にまた映画をを振たいと強く思った。

よし、一緒にやろう。これをやらないと、きっと後悔するだろうと。

東映を出てから僕は自分で仕事を決めてきた。

興行的に当たるなら何でもいい、という気持ちはまったくなかった。

監督とかスタッフとか脚本家とか、

何かを人に感じると動くことができた。その結果、

思うような作品ができなかったとしても、自分か選んで決断したのだから、

悔いは残らない。何とか耐えてえていける。

マネージャーをつけず、一人でやってきたのは多分そういうことかな。

 

 『鉄道員』の撮影中、北海道の雪の中でも、東京に

戻ってのロケでも、石川プロデーサュサーはずっと

僕の側にいてくれた。雨の目は黙って僕に傘を差し    

掛けてくれた。ほとんど言葉を発しない人柄なのに、

彼がいてくれるだけでなぜか安心できる。

 生きることは哀しいことだ。そんな切なさを分かった上で、

自分の仕事を黙々とこなす。切ないほど一生懸命に生きている。

そういう活動屋たちが現場にはたくさんいた。

(見についた能の高い低いはしょうがねえ。けれども、

低かろうと高かろうと精いっぱい力いっぱい

ごまかしのない嘘いつわりのない仕事をする。

おらあ、それだけを守り本尊にしてやってきた)

(山本周五郎『かあちゃん』より)


『鉄道員』の完成パーティーイの席で、僕はこの言葉を紹介した。     

だが、大勢の人が集まる席では、口下手で

上がり性になるため、なぜこの言葉を朗読したの

か上手く説明できなかった。あのときの僕の気持

ちは、石川プロデューサーに代表される活動屋と

呼ばれるスタッフに感謝し、この言葉を贈りたかっ

たのだ。この文章を最初に読んだとき、彼ら活動屋

たちの顔が浮かんだ。活動屋たちの誠の気をいただき、

僕は五十年問、走り続けてこられた。

 

               高倉健俳優生活五十年 想SOUより引用