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「先はあまり長くないぞ…」を実感した

2017年10月30日 | Weblog


 10月中頃、わたしが所有する「軽自動車」と「自動二輪」がほぼ同時に不具合に見舞われた。
この出来事を通じて、わたしは「自分の先もあまり長くない」ことをつくづく実感したのである。

 軽自動車を駆ってガソリンスタンドで給油した。
「サービス期間だから」と「軽自動車」のボンネットを開け点検してもらう。「バッテリー検査で『要交換』と出た」。これから寒くなる、バッテリー切れなどでエンコするのも嫌だから交換に同意した。
「バッテリーは強力で、4年間の保証がついている」と従業員は誇らしげに云う。
わたしは「4年間」という言葉にショックを受けた。「車はすでに14万㌔走行している。この先4年持つだろうか…」。
それにもまして4年先にわたしは82才になる。82才まで今の状態を保ち、車を運転できる日常を送っていられるのだろうか……。
突如そんな疑念をもち自分自身を見つめ直す心もちとなったのだ。



 わたしは今まで、年令には無頓着で過ごしてきた。
「届け出書」や「アンケート」などで「年令欄」があるといつも戸惑ってしまう。生年月日は確定しているからスムーズに書けるのだが、年令は毎年一才づつ加算されるので覚えきれないのだ。
「75才は過ぎているけど、76もしかしたら77だったかなぁ」と、指折り数えて辻褄をあわせてきた。
昨年「喜寿」迎えたから今年は78才であるのは確かだ。確かなことであるがわたしは「後期高齢者」であるのを自覚せず、「今日も何事なく過ごし明日もそうだろう。そしてそれはずーっと続いて行くもの」として、その先に立ちはだかる「老い」について、あまり思い至らないで過ごしていたのだ。
高齢者の交通事故が頻発し、社会問題となり「後期高齢者」の「運転免許証」返納が奨励されている。
しかしわたしは今しばらくの間、車の運転が欠かせない。

 5年ほど前から、週に二回、東京にある「ディサービス」事業所に通っている。介護職員として朝8時半から夕5時まで勤務する。
介護職員として利用者さんにいろいろなお世話をするが、主な仕事は利用者さんを車に乗せての送り迎えにある。
少ない年金なので、ここでのバイト代は家計に、そしてなにより扶養家族の家猫2匹、訪問猫4匹の食事代・おやつ代・猫砂・偶に行く病院代などを賄っている大切な収入源なのだ。
免許証の「返納」などできやしない事情がこのようにある。
この年令になっても、人の命を預かる運転をつづけられているのは、わたしは毎日のように車、バイクを乗り回しているにもかかわらず、違反・事故がない「ゴールド免許」であること。
そして「後期高齢者」に義務付けられた3年に一度、免許更新時に行われる「高齢者講習会」でいつもいい成績であることに因るのだ。
今年春の「後期高齢者講習」においては、認知症検査96点、実技検定「問題なし、30代・40代の技能に匹敵」との判定が出た。
しかしいくら運転技能が適正であるにしても、人様を乗せて走るのは80才までだろう…。



 日をおかず自動二輪が不調になった。
この自動二輪は、1993年わたしが54才のときに購入した「ホンダレブル(250cc)」である。
わたしは「普通自動車免許証」を30代に取得していたが、自動二輪に乗りたくて堪らなかった。「外気に触れ疾走したい」との願望は高校生のときからあった。
54才になって「教習料金」を捻出する目途も立ち教習所に通いだした。
実技の初日、指導教官は「あなたは小型免許(125ccまで)にしなさい」と、執拗にすすめる。
わたしは「いや中型免許(400ccまで)を受ける」と、粘り強く断りつづけた。
一緒に教習を受ける面々は、中年のわたしを除いては20代の男女ばかりだから、教官は「年令が高いし、無理のないところで」と、親切心ですすめてくれたのだろう。
わたしが「『中型』で…」と我を張るものだから、最初の課題を与えた。最初の課題は、400ccの自動二輪車を横たえて引き起こす作業である。
若ものたちは難なく引き起こしていく。わたしの番になった。わたしも無理なく引き起こすことに成功した。
教官はここであきらめたのだろう、「小型に」ということは云わなくなった。ただしわたしたちが乗る教習車は、最新の機種からやや古びた機種まであり、教官の指示で生徒は乗る機種を指示されるのだが、わたしは最後まで古びた機種を与えられていたのが悔しい思い出としてある。
検定試験は一発合格であった。
免許取りたての頃には、ツーリングに何回となく参加、遠乗りを楽しんだ。
わたしと後半生ほぼ25年間を共に過ごした「ホンダレブル」とのお別れが近い。
「よいエンジンの車に当たった」とバイク屋に褒められ、バイクの走行寿命をはるかに超す77,000キロになっても、心臓部分のエンジン音は快調に駆動している。
しかし、タンクの油漏れ、排気筒の脱落など近年は疲労が表に出るようになってきていた。前輪タイヤは替えたばかりなのだが、フットブレーキが壊れ「年式が古いので部品が見つからない」と修理屋に宣告された。いよいよ「脚」が弱りきって「手術不能」となったのだ。

 愛車と別れる決心がついた際、代わりになる「原付バイク」を購入することを一時考えた。
しかし、この先4年保証のバッテリーが付いた軽乗用車がある。あまり乗っていない自転車もあるから、バイクは再び持つことはないと判断した。
バイクが撤去されれば、今は駐車場を借りて車を置いているが、家の庭に駐車できる。月々の駐車料が倹約できるのだ。
わたしがバイト出来なくなるのも「先が見えている」のだから、そういうことも見据えて「出を制する」ことになる。
「老い」を見据えて、身のまわりを軽くしていくことをつくづく考えさせられた10月の日々であった。




紅(暮れない)の打ち逃げin名古屋

2017年09月29日 | Weblog


 9月16日(土)、名古屋市「東別院」で開催された「和力」公演に行った。
妻の和枝は「ぜひ行きたい」と前々から楽しみにしていたのだが、わたしの単独行となった。
なぜかというと、「非常に大きく強い台風」が九州地方に甚大な被害を与えており、これが日本列島を縦断するだろう予報が出たのだ。
妻の姉さんが住む熊本県水俣市では、住民全員の避難勧告が出て、妻が姉さんとしきりに電話でやり取りをしていたのが前夜のことである。
「台風が来るとどんな事態がおこるか知れない。迷惑をかけてしまうおそれがあるので、名古屋行きは中止にする」と、妻は決断したのだ。
元気者でならしていた妻は、2年ほど前から「足腰」の不調に見舞われるようになり、鍼灸院や整骨院に通う身となっている。
気力は充実、なにごとにも挑戦する気概は前にもましてあるのだが、足腰の痛みがつらい。
そんな訳で残念ながらわたしの単独行となったのである。
わたしが出かける時は曇り空ではあるが雨・風はなかった。

 新幹線ホームで駅弁を買う。わたしの大好物「品川名物・貝づくし弁当」である。新幹線で出掛ける楽しみの一つはこの「貝づくし弁当」を食べることだ。新幹線が発車、おもむろに包みを解いてまずは帆立の甘辛煮を食する。
新幹線ひかり号が停車した「三島駅」では、まだ雨は降っていなかったが富士駅を通過する頃、車窓に雨粒が当たりだした。
名古屋駅に到着。地下鉄で「東別院駅」をめざす。
「東別院駅」の地上に出ると大粒の雨が傘を叩くが、幸いにも風はない。信号を渡ると、はやそれからが「東別院」参道となる。
参道を5分ほど行くと、「東別院ホール」が右手に現れた。「和力はここでやるのだろう」、記録用にとカメラを構えた。
傘をさす二人連れのご婦人がいて「もしや和力公演にお出でになりますか」と声をかけてくれる。
「そうです」と答えると「和力公演の会場はもう少し先です。ホラ自動車が出てきた所です」と50メートルほど先をさし示す。
そこにも案内の方がいた。雨の降る中ほんとうにありがたいなぁ……と心でつぶやき大きな門をくぐる。



 名古屋市での「暮れの打ち逃げ」和力公演は、14年目を迎えた昨年で一区切りにしたという。
年末は「忘年会」などもありなにかと忙しい。それで「暮れない」=「紅(くれない)の打ち逃げ」公演として9月に、名古屋と飯田市で開催されたのだ。
わたしはわらび座での営業経験から、年末の公演がよくぞ14年間もつづいたものだと今でも驚いている。
わらび座で全国公演を企画していた時分には、「ゴールデンウィーク」・「お盆」・「年末年始」は、集客が困難であるので「興業の鬼門」として公演企画を避けていたものだ。
とくに年末12月は、月の初めから公演の企画はせず、外すのが当たり前だった。
名古屋の「暮れの打ち逃げ」公演の第一回目は、2003年12月28日(日)であったのには仰天した。「御用納め」の日、暮も押し詰まる1年でもっとも慌ただしい時期に、果たして公演は成り立つのだろうか……と危惧しながらわたしと妻は名古屋に向かった。
地下鉄から地上に出ると、木枯らしが吹き荒れて「寒い」と思わず首をすくめたものである。会場の「千種小劇場」には開場を待つ大勢の方が並んでいた。客席はいっぱいになったのだ。
それから14年間、連続して「暮れの打ち逃げ」公演が開催されたのは、実行委員の方々の大きな苦労があってこそだっただろう。



「暮れの打ち逃げ」を引きつぐ「紅(くれない)」公演は、稔りの秋に開催となり、はやりの言葉でいうと「リニューアル」されて再出発、実施会場もホールではなく寺院となった。
広々とした階段をのぼり本殿にはいると、祭壇前は黒い仕切り幕で遮られ、太鼓・マイクが設置されている。
客席前方は座布団が敷き詰められ、後方はパイプ椅子が並べられ、雨降る中ほぼ満席のにぎわいであった。
 第一部の幕開けは、「こまの芸」である。この大道芸でお客さんの緊張を和らげ、以後の演目に集中してもらう、和力おはこの演目なのだ。
道行く人を、独楽の曲芸で引き留め、さらに巧みな話術で「歯磨き粉」を買う気にさせる「こまの芸」は、博多での「大道芸」であると聞いた。
この作品も「リニューアル」された。
宙高くこまは廻りつづけ、無事に演者のてもとに帰還した。お客さんもホッとしたのか大きな拍手を贈る。
演者が突如云いだす。「実はわたしは『宇宙人』なのです」。客席は「今度はなにを云いだすのか」「ええっ」と軽く笑う。
演者は「宇宙人」と「地球人」を使い分けて落語仕立てでストーリーを紡いでいく。
香具師の口上、落語、独楽の曲芸の三者が一体となる作品に転化したのには、今まで「こまの芸」に親しんできたお客さんたちも驚いたことだろう。
 つづいては、津軽じょんから節即興曲である。
こまの芸は「平土間」(客席とおなじ平面)で行われたが、津軽三味線の演奏は、舞台用語でいう「サブ・ロク」の台上で行われた。サブとは横幅が三尺(90cm)・ロクとは縦が六尺(180cm)のことをいう。人の腰ほどの高さで「サブ・ロク」は二面つくられていた。
その台がある時は一面になり、ある時は合わせられて二面が合体し、その台上で演奏・演舞されるのだ。
ホール公演では、舞台が客席より一段高くなった所で演じられる。平土間では客席から演者の足元が見えづらく、上半身しかみえない視角が多くなる。
この工夫も大成功であったように思う。



 合奏曲「忍者」は、サブ・ロクの一面に越郎さん、もう一面に木村さんが座り二面を使っての演奏であった。
 つづく「音舞語り『盆』」も意表を突く展開である。「だんじり囃子」が終わると、ピィポー、ピィポー、救急車両の音色を木村さんが笛で奏でる。越郎さんがハンドルをさばく動作で朗の許へ、聴診器をあてるがチィーンと鐘を叩いて手を合わせ黙とう。
朗演じる亡者が嘆く。「お盆の初日、家内が迎え火を焚き呼んでくれた。しかし盆が終わるのに送り火を焚くのを忘れて、わたしはさまよい歩き成仏できないでいるのだ」。
すると、彼岸の世から「未だお帰りではありませんね。お盆の期限が過ぎれば永遠に成仏できませんよ」との声が掛かる。
「個人情報」を「あなたはすでに亡くなっているので『故人情報』なのですよ」などのやり取りの末、「家内に送り火を焚き忘れている事を知らせるため」、サブ・ロクの一面の台上で深編みがさを被り踊る。でも気がつかない。次には「ぢゃんがら念仏踊り」を台上で舞う。
舞台上での舞も、大きな移動なしにやられているのだが、せまいサブ・ロク台上での舞は優婉にして見応え充分であり、彼岸の世からのナレーションは、滑舌なめらか、聞くに心地良いものであった。

 第二部も「火伏せ舞」(えんぶり・先舞・荒馬踊り・さんさ踊りをモチーフに)があらたな構成として統一され、つづく「音舞語り『案山子』」(宮沢賢治・鹿踊りのはじまりに触発され)が、子鹿とお兄さん鹿の案山子をめぐっての肝試しが楽しく演舞される。
「カンサンクル」(楽打ち・虎舞・番楽をモチーフに)で、舞台は閉められた。
 独立した演目がひとつの総合体として紡がれ、またかっては町の辻や寺社の境内で演じられた芸能を、寺院の畳敷きの場で観られるのも一興あると感じる「紅」公演であった。
 
「見込んでいた座席数では足らず、ご迷惑をおかけしました」と終演のあいさつでお詫びしたが、見回すと開演前より椅子席がかなり追加されていた。

 飯田市でご覧になった今牧正則さんが「いや~昨日の『紅打ち逃げ公演』は凄かった!過去最高の舞台だったんじゃないかな~ 本当に良かった」とFBで舞台写真を掲載し、このようにコメントしてくださっている。和力を支えつづけて下さっている方の至言をありがたく思いながら読んだ。


 

仏心というか……

2017年09月02日 | Weblog


 わが家に子猫二匹を受け入れて4年が過ぎた。
サラとウリを「動物愛護センター」でもらい受けたときは、手のひらに乗る大きさで500gをちょいと超えるほどしかなかった。
モコモコした小さい塊の二匹が追いかけっこをし、つかれると下駄箱の靴の中で寝入る。
わたしはこの子猫を育てる中で、出来なくなったことが一つある。

 家の近くに貸農園があり、わたしは一区画8畳間くらいの地べたを二区画借りていた。
耕すと地面の中から、大きかったり小さかったりする様々な虫を掘り起こす。「根切り虫」など野菜に悪さをする虫らしい。
猫を飼う以前は、「野菜の害敵」とばかり、なんの迷いもなく鍬でつぶし退治していた。
ところがモコモコの子猫と生活するなかで、土中から現れるモコモコした虫を潰せなくなったのだ。
「これも懸命に命をつないでいるのだ」と野菜の害敵だとしても愛おしくなる。だから今では掘り起こしてもそのまま土に潜り込むのを放置して見逃す。
野菜に悪さをするのは確かなことであろうが、畑の収穫物は夫婦ふたりの生活にちょうど間に合う。殺虫剤も農薬もつかわず天然自然に任せて狭い畑を耕している。

 無益な殺生を厭うようになり、さらにその範囲が広がっていく。
わたしは週に2日、東京谷中にある「ディサービス」でバイトをしている。昼休みには近くの公園に行って一息いれる。
その公園に行きはじめた頃、だれかが離したらしい黒の子猫が二匹いた。
公園のベンチで弁当を食べているおじさんの足元で、子猫の一匹がそのおじさんを見あげている。
たぶんおねだりをしているのだろう。そのおじさんは知らん顔で弁当を食い終わり、バナナを剥きはじめた。むいたバナナの一片を「ホラよ」と猫に差し出したが猫は食わない。
わたしはその様子を見ていて猫が不憫になりコンビニへ駆け込んだ。猫の食物を探したがないので、とりあえず猫の食べられるようなものを買い、とってかえして猫にやった。
それ以後、家の猫のカリカリ餌をティシュにつつんで昼休みに猫に与え出した。
この時間、猫缶で子猫たちに餌やりをする、奥さんを車いすに乗せたおじさん夫妻と出会った。
わたしは週に2回しか来ないが、おじさん夫妻は毎日来るようで、猫たちはおじさんの姿をみつけるといそいそと寄って来るのだ。
おじさん夫妻は、猫だけでなくパンくずも持ってきて、鳩やスズメにもあげていた。
その内、子猫たちが見えなくなった。おじさんに聞くと「近くに住む三味線のお師匠さんが猫好きで、家には20匹もいる。公園の子猫のことも心配していて、捕獲器をつかって保護した」……。

 それ以降も、おじさんと車いすの奥さんは鳩とスズメにパンくずをあげていた。
猫が居なくなってからわたしは公園から遠ざかり、久しぶりに公園に行くとこんな掲示板がでかでかと貼ってあった。
「鳩に餌を与えないでください。近隣に迷惑……云々」。
仲睦まじく鳩とスズメと戯れていたおじさん夫妻はどうしたのだろう。

 いまは唄われていないのだろうが、わたしが幼かった頃にはこんな唄があった。
「ポッポッポ、鳩ポッポ、豆が欲しいかソラやるぞ、ポッポポッポと鳴いて遊べ」。
そして上野公園に行くと、交番横の大広場に鳩が群れていて、鳩に与える餌を売るおばさんがいた。
そのおばさんから餌を買ってばら撒くと、羽音を立てて鳩が群がって来る。
孫の磊也が幼い頃、餌を持ったまま鳩にまとわりつかれて泣きだしたのは古く懐かしい思い出である。
確認したわけではないが、多分いまでは鳩の餌売りのおばさんはいないのではないだろうか。
鳥インフルエンザが話題になり始めた頃、わたしの住む地域の集合住宅玄関に巣をかけていたツバメが追い払われた。何回も巣をかけるのだが壊されてしまうのだ。
最近ではヒアリが話題になり、蟻すべてが問題とばかりに、目の敵にする風潮が見受けられる。
以前には身近な動物や鳥とはもっと親しく接していたのではなかろうか。

 寒さが厳しい冬、鳩やスズメが路上でなにか啄みながらあちこち歩き回る。路上に食べられるものがそんなにあろうはずはない。
わたしたちが子どもの頃には、小遣い銭をにぎって「駄菓子屋」や「紙芝居」でせんべいなどを食べながら遊んでいた。ポロポロとこぼれただろうから、小鳥たちも啄む甲斐もあっただろう。
一生懸命に路上を行き来する鳩やスズメをみて、わたしは昼食の残飯を一握りもらって道のあちこちに冬の間、撒いて歩いた。

 少しばかり他の生き物への連帯というか関心が強まったのは、あながちわたしが年老いたせいだけではなく、猫との生活の中でうまれたものなのだ。
ただ、蚊が腕にとまると思いきりピシャンと叩き、蝿を追いまわし、ゴキブリが姿を現すと本能的に新聞紙を丸め、傍に居る猫に「おれが打ち漏らしたら加勢をたのむぞ」と声をかけ、息の根をとめるまで容赦をしないから、殺生を厭う仏心を未だ会得していない未熟者なのかもしれない。




キム・ヨンジャのコンサートに行った

2017年07月28日 | Weblog

「譲り受けたチケットがあるから……」と妻に誘われ、7月9日(日)松戸市民会館へ赴いた。
「キム・ヨンジャ」なる名前はわたしにとって耳慣れず、チラシを見るまでなにをする人だか分らなかった。
チラシで「歌い手」であろうことは憶測できたが、どんな歌を唄うのだろうか。
市民会館に行き着くと、おおぜいの人が開場を待っている。
梅雨の時期だというのに関東地方は空梅雨で、お日さまの照りつけが激しい。開場を待つ列から離れ日陰を探すが、風がそよともないので日陰でも喘ぐような暑さだ。

 ようやく開場。館内は冷房がほどよく利いてホッと一息いれる。
本ベルが鳴りおわると同時に、館内は大音響につつまれ、照明がはげしく点滅しコンサートが始まった。
元気な伸びのある声、わたしの後座席から「よーよー、日本一」とのかけ声があがる。その声は年配のおじさんのようだ。熱烈なファンなのだろう。
わたしの知らない歌が何曲かつづき、美空ひばりの歌を唄いはじめたので、わたしは安堵した。ようやく知っている歌がでた。
わたしは「松戸市演劇鑑賞会」の会員でもあり、また「和力」をはじめ狂言・落語・歌舞伎・オーケストラ演奏などさまざまな舞台に接している。
しかしこのコンサートでびっくりしたのは、音響の大きさと照明の目まぐるしさであった。

 わたしたちが舞台づくりをしていたのはもう数十年前になるから、云うのもはばかれるのだが「照明」の概念が変わらざるをえないのだ。
舞台天井から吊り下げる照明器具は、客席から見えないように「文字幕」によって遮っていた。
「一文字幕」、「二文字幕」と照明器具の配列に沿って黒幕を垂らし客席からの目隠しをした。
ところがこの度のステージでは、一文字幕が取り払われ6基の大きな器具が客席に露出、歌のリズムに合わせ、色彩を変え、点滅し、展開するのだ。
それとともに、舞台中央には二基のロボット様の照明器具があり、これまたはげしく光り回転し客席のわたしたちの目に光を投げこむ。
歌い手の元気よさ、10人ほどの演奏陣が奏でる大きな音、そしてコンピューター制御されているだろう光の乱舞で、聴きいる人たちの気分はいやがうえにも高まるざるを得なくさせるのだろう。

 また、上手袖には大きな筒状の機器が備えられていて、そこから霧状の粒子が放出されている。ドライアイスを大きな扇風機で気化させているのであろうか。
気化された物体が光に照らされ淡くたなびく。
ふるい話になって恐縮だが、わたしは10代後半に東京の新劇団に所属していたことがある。
この劇団の作品で、亡霊が紗幕をとおして恨みつらみを述べる場面があった。その場面を強調するのに「足元からもやもやとした煙をだしたい」との演出の要望により、手空きの数人が演者の足元に屈んで、タバコの煙を吹きかけることにした。これによっておどろおどろした雰囲気を醸しだせると、わたしたちはタバコをふかしその煙を一生懸命に吐き続けた。
この労は報われなかった。
公演後の感想文に「確かに亡霊の足元から煙はたっていた。しかしその合間に点滅していた火種のようなものはなんだったのだろう。タバコとしか思われなかったが……」。
当時はドライアイスも一般的でなかったからこのような悲喜劇もうまれたのだろう。

 そんなことを思い返しながら、歌い手と一体となって目まぐるしく乱舞する機器に目を見張るコンサートではあった。



 

人見勇三さんのコンサート

2017年06月25日 | Weblog



「人見勇三コンサート」へのお誘いがあった。
報せてくれたのは、妻の友人Iさんである。今は東京東久留米市に在住しているが、Iさんはかって秋田に本部がある「わらび座」の経理部に所属していた。
当時妻は営業部、Iさんは経理部で、部署はちがうが親しくなったのには次のような事情による。
当時のわらび座は50人ちかい「営業部員」がおり、わらび座公演を主催する実行委員会を立ちあげる活動を全国で展開していた。
当時は公演収入だけが座を成り立たせる唯一の経済基盤であった。
座の中で抜きんでた人員を擁する「営業部」だったが、営業部員だけでは財政を安定させるのに必要な公演回数を確保することができない。
それで座の各部署から期間を限って「営業部」に出向する制度があり、「経理部」から出向したIさんは、妻の「営業団」に所属し何回か苦労を共にしたのだ。営業はきびしい現場であるから「助け助けられ」、一山、二山、三山と困難をのりこえ、実行委員会を機能させ公演班を迎えるまで気が抜けない。「同じ釜の飯を食う仲間」……それ以上の絆でむすばれるのだ。
わたしたちがわらび座を辞して以降、Iさんと会うことなく年月は過ぎた。

 再会したのは2011年「わらび座OB・OG会 諏訪湖畔の集い」であった。集い終了後、妻とIさんは諏訪湖一周の船に乗り、積もる話を交わし再会を約して別れた。
日をおかず妻にIさんから便りがあった。
「わたしは人見勇三さんの篠笛教室に通っている。人見さんに元わらび座員の集いがあり、そこで和枝さんに会ったと話した。人見さんは『かずえさん、えーとどんな人だったかなぁ』としばらく考えて『あー分かった、あの元気な人』と、思い出して懐かしんでいたよ」。

 人見勇三さんは和楽器奏者として「わらび座合奏団」に所属していた。
わらび座合奏団は、ヴァイオリン・ビオラ・チェロ・コントラバス、ホルン・トランペット・フルート・クラリネット・オーボエ・ファゴット・ピアノなどの陣容で、和楽器奏者として人見さんが尺八、その他に琴、締め太鼓など打楽器奏者が入っていた。
わたしは「合奏団」が結成から数年の研鑽をつんで、「いざ、公演活動にはいる」とき、その営業を担当した。
最初に手がけたのは、長野県の高等学校である。芸術鑑賞事業としてとりあげてもらうよう高校へ足を運んだ。
営業の費用は潤沢でないから、長野県内に点在する座員の実家に泊めてもらい、バスや列車を乗りついで学校に行く。
「今年は演劇鑑賞の年だ」、「すでに実施する団体は決まった」など空振りにおわる所も多かった。
面会した実施担当者が興味をもってくれたら、担当部署で検討、学校行事への日程化などの予定を聞き再度訪問、この段階でも「お宅を含めて数団体を検討したが、お宅は今回見送りになった」など決定までこぎつけるのは大変なことだった。
しかし合奏団の初公演コースは、二週間をこえる日程で組むことができたのは幸いであった。

 巡演に備えて宿泊場を押さえ合奏団員をむかえる。
スケジュールにしたがって、演奏者を演奏会場へ案内し、仕込み・音合わせ・昼食がスムーズにながれ、演奏に集中できるよう気を配る。
洋楽器と和楽器が混成したチームだが圧倒的に和楽器の数は少ない。どのような演目構成だったかは思いだせない。
演奏が終えると学校によっては音楽部員との「交流会」がある。
「人に言うぞう……人見勇三です」と、はにかむ笑顔で高校生に自己紹介をしていた人見勇三さんを思い出す。
長野県の次は静岡県でもコースが組め、音楽門外漢のわたしでも、楽器の名前と音色を知ることができた。
この合奏団の営業を経験しなければヴァイオリンとビオラの区別もつかなかっただろう。

 人見勇三さん(多孔尺八・三味線)と広木房枝さん(27絃筝・17絃)の「邦楽アンサンブル・花しょうぶ」のコンサートをIさんが報せてくれ、6月3日(土)昼の部に妻と一緒に行った。
合奏団員と寝食をともにして巡演をしてはや40年は経つだろう。人見勇三さんの演奏を楽しみに、広い小平霊園を横切って「顧想園」(国登録有形文化財)に向かう。暑い日差しを浴びながら駅から相当な距離を歩き、茅葺き屋根の広大な農家に到着した。雑木林や屋敷林でカンカラカンの日射しが遮られ一息つく。
会場に入ると、大広間に筝が二棹おおきく場所を占め、取り囲むように座布団や椅子が配置されている。
ほどなく演奏時間になり広木房枝さんのご挨拶。「本日の演奏メンバーの人見勇三は体調を崩し入院しています」。
プログラムにあった「春の海」(筝・尺八)、江刺追分(尺八)、「コンドルは飛んでいく」(筝・尺八)などの演目は割愛され、広木房枝さんの演奏をお聞きした。「六段の調べ」、「郡上盆踊り」など魅了する演奏で時間は過ぎていく。

 帰り道ふたたび太陽に焼かれながら小平霊園を横断。
「演奏はじっくり聴けたけど、勇三さんに会えなかったのは残念だったね」。
「体調不良という挨拶だったけど、どんな状態なのかあれだけでは分からないよね」。
わたしたちは、40年ぶりに「会って演奏も聞ける」と思い込んで遠い道のりを行ったものだから、ついつい愚痴っぽくなってしまう。

「遠いところをありがとう。人見さんの入院は心配するほどのことではないらしい」と、後日Iさんから便りがあった。


「ビビ」が昇天した

2017年05月31日 | Weblog
 

 5月5日、朗からLINEが入った。
「ビビのことですが一昨日の晩に、痙攣と嘔吐がつづき、昨日は歩くのも大変になってしまい、昨日のお昼前に静かに息を引き取りました。15才と5ヶ月でした」。
そして「昨年の今頃、元気なビビちゃん」として3枚の写真が添付されていた。

 ビビのことは、磊也から「皮膚がんを患っている」と知らされていたので、いずれ別れのときがくると覚悟をしていたが、この2年間会う機会がなかったのが残念だ。
信州阿智村の朗宅へ行く楽しみのひとつは、ビビに会うことにもあった。
ビビは人の腰ほどの体長があり、スラリとした脚、伸びやかな身体、キリリとしているが優しさがにじみ出す面立ちの貴婦人である。(FBのプロフィールに掲出)
「犬辞典」で調べると、フランスの牧羊犬にいちばん似通っていた。

 思いおこせば、わたしが朗宅で初めて会ったのは、幼い子犬のビビであった。
座ってだきよせるとすっぽりと胡坐のなかにおさまる。
「手足が太いから大きくなるよ」と朗が言う。握ったビビの手はまるまるとしていた。
初めて会うのになんの警戒心もなく、人懐っこい目で見上げてくる。

 わたしは犬がすきで、大きな犬に憧れを持っていた。
幼い頃は戦時下で、育ち盛りのときは食糧難、長屋住まいであったから犬を飼うなんてのは夢のまた夢であった。
わたしが犬と親しく接したのは、秋田のわらび座本部詰めをしていたときである。
わらび座の子どもたちが生活していた一角に、「ドン」と呼ばれるでかい雑種の雄犬がいた。
わらびっ子たちが可愛がって世話をしていたが、昼の時間はみんな学校に行ってしまい、ドンはひとり繋がれて無聊をかこっていたものだ。
わたしは本部勤めになったが、会議やデスクワークに明け暮れ、このままだと身体が訛ってしまうと、昼食前にジョッキングを始めた。
学童寮の脇を通るとドンがいる。どうせ一人で走るのだからドンも連れて行ってやろうと引き綱を腰に巻き付け一緒に走った。
一般道路から玉川にかかるつり橋を渡ると車両の通行はない。そこで綱をほどき10キロほどをひた走る。家屋が見えてくると、田の水を引く用水路に跳び込みドンは水浴びする。再び腰に綱を結びドンの小屋まで帰る。
昼休みにわたしの姿が近づくとドンは「うわぉん、うわぉん」と跳ねまわって喜んだものだ。

 わらび座を辞めて母の元に帰ると、マルチーズを飼っていた。「ばぁちゃんの子守に」といちばん上の妹が母に贈ってくれたものだ。
マルチーズは母にべったりで、たまに路上で会っても母の手元から離れない。
しかし休日にわたしがジョッキングシューズを履くのを見るや、玄関先をクルクル回り「連れて行って」と催促、江戸川土手10キロを懸命に伴走したものだ。

 ビビに会うのは、1年に一回ほどであろうか。
朗宅に行き着く。「ビビ」と呼ぶと下半身がくねるほど尾を大きく振って歓迎してくれる。
朗宅の真下には、野趣あふれる散策路が広がっている。「ビビの水浴び場」と孫たちが呼ぶ大きな池もある。散歩のあとビビはここに跳び込んで水浴びをする。
あるとき、水浴びをするだけの目的なので手綱なしでビビと池に行った。水浴びをしている水面に大粒な雨が注ぎだした。遠くで雷も鳴っている。
信州の天候は急変する。雷はちかづき雨も強くなってくる。家に帰るのは急坂を上がって5分ほどだが土砂降りの雨なので、池のほとりに立つ東屋に避難した。
雷はあたまのてっぺんまで来て唸り吠えまくる。
以前、「雷の音にびっくりした犬が逃げ出し探すのに往生した」と聞いたことがあるので、ビビはどうだろうと心配になる。手綱を付けていないビビを見やる。
ビビは長い手足をのばし、「ズッシン・ゴロゴロ」と腹に響く雷の咆哮に動じず、ときおりわたしの顔を見ては落ちついている。
「この人といっしょだったら大丈夫」と信頼されているようで嬉しくなった。

 また、わたしと妻と雅義(わたしの弟)の3人で、ビビを伴って散歩に出た。一時間余りの行程だから、わたしと弟とビビが先頭になり、妻がやや遅れだした。
すると、ビビは立ち止り後ろをふり返ってしばし待つのだ。それが一回や二回ではなくときたま立ち止まって後ろを気遣う。

 ここ数年、8月になるとわたしと雅義が阿智村で過ごす機会があった。
朗一家が総出で「海水浴」に行くので、その留守番を引き受け4匹の猫とビビの世話をするためである。
到着早々、雅義はビビを連れて散歩に出る。わたしたちが来たと知ったビビは、翌朝4時ごろになると散歩の催促に「クゥイン、クゥイン」と甘えた声で呼びかける。
窓からそっと覗くと、玄関に向かって伏せをして物音をうかがっている。すこしでもこちらで音をたてると、伏せをしたまま尻尾をおおきく揺らす。
雅義が起きだし玄関の戸を開ける。ビビは跳び上がって「早くはやく」と催促し、一時間あまりの散歩に出かけて行く。
朝早くから毎朝ビビの催促の声で目覚める。

 お別れの日が来る。わたしたちが荷物を整理し「ビビまた来るからね」と、挨拶をしてもビビは小屋に入ったまま、こちらをまともに見ようともしない。
「帰ってしまうんだ。チェッ」というような雰囲気を身にまとわせている。

 利口で気だてがよく、伸びやかに肢体が跳ねるビビとの別れは、寂しいかぎりである。

 妻・和枝「ビビちゃんも加藤木家の皆さんにかわいがってもらいいい一生でしたね。寂しいでしょうが思い出して、がんばっていきましょう。ビビちゃん見守ってちょうだいね」。
 弟・雅義「阿智村に行くのは、ビビに会いに行くことが大きかったので、寂しくなりますね」。


 

外猫シンが怪我をした

2017年03月22日 | Weblog
 わが家の飼い猫は女の子二匹である。三年前に「動物愛護センター」で譲り受けた。
来た当時の体重は500gをすこし超え手のひらに載るほどの大きさだった。玄関の靴の中が好きで、夜になるとその中に入り丸くなって寝入っていたものだ。
わが家に出入りしていたネズミは、猫があまりに小さいものだからバカにして、台所のジャガイモをかじったりして悪さのし放題でもあった。
階段を登れなかった子猫は、一ヶ月も経つと家じゅうを縦横無尽に駆け回り、階段もパンパカ登り、追いかけっこに明け暮れるようになったら、ネズミは姿を見せなくなった。

 かわって姿を見せたのがまだ若い雄のトラ猫である。わが家の縁側に座り網戸越しに家の中を覗きこむ。年頃の女の子がいるものだから見惚れてやって来たのだろう。毎日やってくるから、情が移ってついつい食事を供するようになった。
人懐こい猫で「にゃあ」と挨拶をするのだがかすれ声なのだ。それでわたしたちは、かすれ声の歌手の名前を拝借して「進一」=シンと名づけた。
このシンが小さな子猫を連れてくるようになった。まだまだ幼いキジトラであった。
「このうちは大丈夫だよ」と云わんばかりにして、自分は縁側の下で見張り番、この子猫を縁側に上げて食事をさせ、子猫が食べ終わると自分が残りをいただく。
シンは面倒見のよい頼りがいのある太っ腹な男の子なのだ。

 その内、シンが連れてきた子猫は女の子だと分かった。目元がパッチリと美形で、妻は「映画『男はつらいよ』で寅さんの相役、浅丘ルリコさんに似ている。役の名前をもらってリリーにしよう」と名づけた。
シンはすでに手術を受けているが、リリーを避妊手術に連れて行きたいと焦るが身体を触らせない。
リリーがとうとう四匹の子猫を産んだ。
内二匹はヨチヨチ歩きのとき捕まえて里親に渡した。一匹は行方不明で残る一匹はすばやく逃げ回るので捕えられず、後になってリリーとともにようやく保護し動物病院につれていった。この子猫も男の子と分かり前の二匹も男の子だったから、三男坊の「サン」と名づけた。

 わが家では飼い猫を二匹、外猫四匹の世話をしている。外猫はシン、リリー、サンの他に、お向かいの飼い猫が参加するので四匹なのだ。お向かいの猫の名はボスとした。
朝は5時半に全員が集合して朝食を待つ。
六匹の猫はそれぞれに個性があって面白い。猫を飼う前は猫の性格がこんなに多様であるなんて思いもよらなかった。
シンは外猫たちの頼もしい大黒柱で、見知らぬ猫が来ると対決して追い払う。
3月になって程なく、シンが左手をかばいながらやってきた。地面につけると痛いのか、その手を持ち上げヒョコヒョコ不自由そうに歩く。
食事をするときもその手は下ろさない。
「骨折したのかしら」妻が心配そうに前足を見守る。「骨折だったら早く治療しなければ」と云うので、翌日キャリーを用意してシンを抱き上げる。
シンはわたしがバイクで帰って来ると、どこで聞きつけるのか跳んでやって来て、「ブラッシングをせい」と目を細め縁側で待つ。
だが抱き上げたことはないので「暴れるのではないか」と心配したが、おとなしくキャリーに入れることができた。これで病院へいけるぞ。
わたしはキャリーの番を妻に頼んで車を取りに行った。帰って来ると妻がキャリーの前で呆然としている。
「シンが頭突きで蓋を開け逃げた」……。

 二日ほど経ったら、不自由にしていた手を地べたについて歩くシンをみた。
「骨折じゃなかったみたいね」と妻は安心の吐息をもらす。それじゃなんの怪我だったのだろう。
シンが遠くから駈けよって来る。庭の柿の木にも登れる。これで一安心だ。
面白いことには、一時期リリーが左手を上げて座るようになった。シンが痛さに耐えかね上げていたのを見て、なんとなく真似をしている様子であるのがおかしい。





小野越郎さんの弾き語り

2017年02月27日 | Weblog
 年明けに開催する「蔵のギャラリー・結花(ゆい)ライブ」(松戸市下矢切)は今回で11回目となる、
140年前の「見世蔵」を所沢から移築した古民家で、入口をはいると800年を経た「けやき(だったと思う)」が木目も鮮やかに、厚さも厚く幅ひろくどっしりと頭上に構え、訪れたひとを迎えてくれる。
1階は喫茶店、階段を上がって2階がギャラリーとなる。
2階の天井は剥き出しで、ゴロゴロ太い材木が縦横に交じり合っている。
ステージ部分とお客さんの間は、座布団1枚置いたくらいの距離で、まさに「指呼の間」といえるのだ。
「和力のホール公演もいいが、まじかで観られるここの楽しみは格別だ」という常連さんも多い。

 和力も新趣向を持ちこんでくる。
2月18日、今年の新趣向はなんだったであろうか。
リハーサルのとき、なにやら耳慣れた三味線・笛・太鼓の合奏が始まった。「あ、なんか聞いたことがある」と聞き耳をたてる。
しばらくすると「キタサノサ― コラサノサ― ドッコイショ」の掛け声で、「吹けや生保内東風(おぼねだし) 七日も八日も 吹けば宝風 稲みのる」と唄い出したのは、小野越郎さんではないだろうか。リハーサルのときは、余人立ち入り禁止だからわたしは階下で聞いている。
三味線をつま弾きながらしっとりと渋くうたいあげていくのに気持ちが吸い寄せられる。

 余談であるが「生保内」は、朗・越郎さんが生まれた秋田県仙北郡神代の隣町で、今では秋田新幹線が止まる「田沢湖駅」、昔は「生保内駅」であったのだが名称がかわった。
盛岡駅を始発にして大曲駅までの鉄路を「生保内線」と云っていた。
この「生保内」はなかなか読みにくくて、わらび座を訪問する人たちが乗車券を購入するのに難儀したとこぼしていたのをよく聞いた。
「いきほない線の神代駅までの切符をください」、駅員はいろいろ調べてくれるが「生きほない線はありません」、「では、なまほない線かな」、乗客・駅員ともに苦労したそうである。
この「内」というのは、先住アイヌ民族が呼称していたのを引き継いだものであるようだ。
おぼろげな記憶でいうと、「内」は「くぼ地」を意味していて方々にある。この沿線にも「鑓見内駅」があったし、北海道には「稚内」がある。

「なんぼ隠しても 生保内衆は知れる わらで髪結うて 編み笠で」とも唄われているから、この地方はかなり山深い里であったのだろう。
豊作を祈念する唄を越郎さんが弾き語る。
ギターやピアノの弾き語りは馴染みがあったが、三味線の弾き語りはわたしにとって初めてだ。
新鮮なうえに、三味線の音色にのっての唄は、野山を身近に引き寄せるもので、お客さんも喜んでくださった。

 

志の輔らくごinNIPPONへのゲスト出演

2017年01月31日 | Weblog


 和力がゲスト出演した「志の輔らくごin森ノ宮」(2016年10月)へ行った際、入口でパンフレットをもらった。
「志の輔らくごinNIPPON」の案内であった。
「毎年お正月に『志の輔らくごinPARCO1ケ月公演』を11年間続けてきたが、劇場が3年間のお化粧直しにはいる。このタイミングにお礼に出かけようと、12都市に伺うことにした」と、志の輔師匠が「ご挨拶のようなもの」で述べられ、1月4日を初日に1月31日までの日程が紹介されていた。
北は北海道から南は沖縄までの日本縦断となるスケジュールであった。
わたしがこの「志の輔らくごinNIPPON」に、和力がゲスト出演すると知ったのは、わたしが窓口となっていたN市での和力公演の「公演日程を変更できないだろうか」との朗からの連絡であった。
「全国12か所の内、6か所でゲスト出演の依頼を受けたが、N市の和力公演とは日程がかぶってしまうので日程の移動を相談して欲しい」。このときゲスト出演する6都市を聞いた。
N市の主催者さんと連絡をとったら、「わたしたちも和力が大好きで、志の輔師匠との共演を応援します」と日程を変えてくださった。
Wariki松戸事務所映像担当のわたしの弟・雅義にN市での録画日程の変更を伝えその理由も説明した。
そしてわたしたちは1月13日の松本会場へ行こう。志の輔師匠のチケットは、発売されると瞬時に売り切れてしまうので、必ず入手できるよう怠りなく準備しようと、誓いあって無事松本会場に行けた。
その模様を弟の雅義が記したので、このブログに紹介する。



 以下の文は雅義の記録である。

 HPで公表しませんでしたが、17年1月の「志の輔らくごin NIPPON」全国巡演に、和力は6カ所の会場へお招きいただきました。
これまで和力は、「横浜にぎわい座」、「京都春秋座」、「大阪森ノ宮」などの「志の輔独演会」にゲストとして招かれ出演させていただきましたが、そのたびにHPで告知してまいりました。

 ところが、今回の「志の輔らくごin NIPPON」においては、少々、事情が異なったのです。

 ご存知かもしれませんが、落語は演ずる前に演題をお客さまにお知らせすることはほぼありません。
舞台袖のまくりに出演者の名前が示され、お客さまは噺を聞き終わってからその日の演題を知ることが通例となっています。
特に独演会では、帰りのロビーに演目が貼り出されるのが常です。
いわば「サプライズ」の演出なのでしょう。噺の内容はもちろんゲストも後で知ることになります。

 1月の「志の輔らくごinNIPPONN」は、全国12カ所で開催されました。
ゲスト出演したのは以下の6ケ所となります。

富山 1月 4日(水)
札幌 1月 7日(土)
松本 1月13日(金)
青森 1月19日(木)
仙台 1月20日(金)
岡山 1月29日(日)

行けなくて残念とお思いになっているみなさまのために、独演会の様子を以下に再現しますのでご堪能いただければ幸いです。

~チケット取得に戦々恐々~

 わたしが選んだのは松本会場でした。
松本で家を建てた友人がいて、いつかその家を見にいきたいと思っていました。
松本は盆地で平地の中心に松本城がそびえ立ち、その周囲を丘陵地帯が囲んでいます。その丘陵地に友人は家を建てました。
設計士さんの説明ですと「松本城の見える家」というネームがつけられたそうです。家の窓から遠くお城が見える風景。なんと素晴らしいコンセプトなのでしょう。いつか見にいきたい、とわたしの心は募るのですが、家を見にいくだけで東京から列車に乗るには、わたしにとって松本はあまりに遠かったのです。
はからずもその思いを実現できる機会がやってきました。
「松本で志の輔師匠の独演会がある」と、わたしは兄から連絡をうけたのです。本当は伝えてはいけないことだったのでしょうが、近親者だけに教えてくれたのでしょう。そうだ、この独演会と絡めれば、「松本城の見える家」を見学できる。
1月13日(金)、松本市民芸術館。これが時と場所でした。家の主とも連絡が取れました。

 チケットの予約販売は、2ヶ月前の文化の日、午前10時に受付開始。1月の12会場が一斉にこの時間に発売されます。
松本会場は平日開催ですし、収容は1,000人です。東京や大阪の人口にくらべて、松本はちょっと小さな都市です。ですから横浜にぎわい座(400人)のように瞬時に売り切れということはまさか、ないだろうとわたしは志の輔師匠の人気を甘く見積もりすぎていたのかもしれません。
当日、休日出勤だったわたしは10時の時報とともに休憩にはいります。着替えに手間取って食堂でタブレットを開いた時は発売5分すぎの10時05分でした。「チケットぴあ」のサイトを開くと、「松本会場は売れ切れ」との表示。たった5分が過ぎただけですよ。わたしは信じられなくて他の11会場をつぎつぎに検索しました。札幌、岡山以外はすでに「売れ切れ」。まだ席が残っていた札幌、岡山も数分後に「売り切れ」になりました。
わたしは独演会チケットの別チャンネルを持つ友人に連絡をして、チケットをようやく確保することができたのです。

 独演会のあるのは「大寒」に近い日です。
白鷺城といわれる姫路城に対し、カラス城と称されるのは松本城です。季節は大寒。漆黒のお城に雪化粧がされたらどんなに美しいのだろうと、わくわくしながら独演会の日を待ちました。
さて当日の1月13日です。
雪を期待していましたが全国的な暖冬で、春のような日差しがつづいています。
ところが、わたしたちが東京を出た13日を境に日本列島が寒波に包まれました。高速バスで長野県に入るころ、行く手に雪が舞い落ちてきます。
午後3時にホテルに着いたわれわれはすぐさま松本城見学。雪はちらちらとしか降っていませんが底冷えのする寒さです。道々、コンビニよりお蕎麦屋さんの店舗が多く見受けられます。さすが信州です。



 〜和力の持ち味が生かされた15分〜

 われわれはお城から10分ほど離れた独演会場に移動しました。
開場時間の6時、客席はすぐに満員になります。
幕が開き、独演会がはじまる。
師匠が一席、噺を終え会場の笑い声を背にして高座を後にします。

 どこからともなくお囃子が聞こえて、客席後方の出入り口から朗が獅子頭をもって登場、小野さんと木村さんが後方を固めて笛と太鼓ではやします。おなじみの江戸囃子。その出方が場内のサプライズとして演出されるのです。
「無病息災」と言いながら獅子がお客さまの頭をかみながら、朗が舞台前に到着します。そこでお正月の口上をのべて舞台に上がり獅子舞がはじまりました。
獅子が猫のように毛繕いをしたり、ときどき耳をぴくぴくする仕草に客席がわきます。意表を突く登場であっという間の退場。その間、5分の演技でした。
衣装を替えた師匠が高座に登場して第2席目がはじまるので、和力の演技は着替えの時間稼ぎの役目があったのかもしれません。
師匠からは噺の枕で和力の紹介にちょっと時間を費やしていただきました。これはわたしの見た「横浜にぎわい座」にも「京都春秋座」でもなかったことです。

 そして新作落語の「ももりん」がはじまります。
横で落語好きの兄が大喜びをしています。

 〜音が鳴り、幕が上がる〜

 ももりんがおわると幕が降り、しばしの休憩にはいります。

 やがてベルが鳴り場内の照明が落とされて、第2幕です。津軽三味線の音色が「じゃじゃじゃーん」と鳴る。まだ幕は閉じられたままです。
幕があがって音の主の小野さんが姿を現します。こういうタイミングにプロによる構成の冴えを感じさせます。小野さんが演奏する津軽じょんから節の独奏が、木村さんとの合奏曲「忍者」へと移る。拍手を受けておわると、「東天紅~(とうてんこ~)」と声を発して派手な衣装を身にまとった朗が舞台中央に登場します。
青森県の田子町に伝わる「鶏舞(とりまい)」が舞われ、「酉年の鶏舞です」と最後に朗が口上を述べて退場。鶏舞の華やかな舞と衣装がお客さまのお正月気分を浮き立たせたにちがいありません。

 そして、最後に師匠が大ネタの噺をして独演会はおわりました。




 終演後のロビーでは大混雑の中、演目紹介の告知がされる。いつもは紙に書かれているだけなのですが、今回は1ヶ月の巡演とあってキチンと板書されていたのが目を惹きました。ゲストの和力も同じ板に出て常連あつかいになっているように見えたのは嬉しい出来事でした。
3時間の独演会の中で和力の出演は15分でした。和力ファンとしてはちょっと物足りない思いもありましたが、独演会に彩りを添える役割は果たせたのではないかと、ロビーで胸をなでおろした兄とわたしでした。そして和力の持ち味が充分に生かされた演出だったことに感謝しました。



 さて、翌朝に予定された「松本城の見える家」のご報告です。
とても良かったですよ。わたしの期待に応えるだけの家でした。翌朝から雪が降りました。家の窓から眼下に広がる松本市内。とおく雪に包まれたカラス城がわたしの目の前に現れたのでした。
(写真を指でクリックすると大きくなります)
(了)



14回目の「暮の打ち逃げ」公演

2016年12月27日 | Weblog
 12月17日(土)、「和力・暮の打ち逃げ」公演を観に、名古屋へ行ってきた。
2003年に「暮れの打ち逃げ公演」が始まり、以来今回まで年末恒例の行事として定着している。
「暮れの打ち逃げ公演」が始まって4年間は、開催日が世間一般の「御用納め」12月28日であった。
5年目以降は開催日がバラケてきたが、それでも12月25、26、27日など年の瀬の押し迫った日で、JRの「繁忙期」にあたるものだから、「割引制度」が使えず遠隔地から参加する者には懐が痛かった。今回が初めて12月20日以前の開催日となり、午後5時開演であったので日帰りすることができた。。

 わたしは「わらび座」で営業を長年やってきている。昨今の事情は分からないが、わたしたちが実行委員会を立ち上げわらび座公演を展開していた当時、「ゴールデンウィーク」、「お盆」、「年末年始」の公演開催は、集客が見込めない…と開催を避けていた。
それを敢えて「暮れの打ち逃げ」と銘打って、御用納めの日に開催したものだから、興業営業の経験者としては「大丈夫か」と心配した覚えがある。
行くと寒空の下、開場を待つお客さんが列をなしていたので、これも驚きであった。第二回目以降は「整理券」が配られ、寒空の下で待つことがなくなり、会場ロビーで寒さをしのぎ、開場時間になると整理券番号順に、客席にはいるように改善された。
この「整理券方式」は、わたしたちもたいへん参考になって、練馬や松戸公演の際には使わせてもらったものだ。

 年によってばらつきはあるものの、名古屋市における「暮れの打ち逃げ」公演は、盛況裏に開催され連続して14年に及ぶ。
噺家の「古今亭志ん生」の著作を読むと、「名古屋は、日本の東西の芸がぶつかりあう地だから、名古屋の人たちは芸を見る見識が高く、生半可なものは受け入れられない」と記されている。
その地域において、年末に行われる「暮れの打ち逃げ」のみか、毎年ではないが夏や秋に開催される「和力」関連の公演にもたくさんの方が訪れてくださり「ありがたいことだ」と行く度に感謝している次第だ。

 今回の公演には、弟の雅義が参加できなかった。雅義は「和力」の映像担当として撮影機材を担いで参加するのであるが、仕事の都合で行けないことがままある。
その際はわたしが撮影担当として機材を借りて出かける。
しかしわたしは名うての機械音痴である。
もう何年にもわたって数多く撮影する機会があったのだが、何本もあるコードの接続に苦労し、ビデオカメラを三脚に固定するのに戸惑い、カメラの電源が分からず余計なところを押しまくり、設定をパーにすることをくり返してきた。
機材に日本語で「電源」とか「入・切」などは書いてない。なにやら目玉っぽいマークだのへんてこな記号があるだけなのだ。
だから今回も、カメラを三脚に固定するのに20分ほどかかったし、電源が分からず開演直前、雅義へ電話して事なきを得た。

「名古屋市北文化小劇場」は、花道がありその一郭に桟敷席が設けられている。
客席の灯りが落ちると、花道にスポットライトがあてられ、鉦・笛・太鼓を演奏しながら加藤木朗・木村俊介・小野越郎が舞台に登場。
笛・三味線・鉦の音にのり加藤木朗が一差し番楽を舞う。
「師走の忙しい中、たくさんの方にお出でいただきありがとうございます」と、加藤木朗がご挨拶。
「今回の舞台の前半は、木村俊介、小野越郎、加藤木朗がそれぞれにどんな演奏活動をしているかに焦点を当てた趣向になっています」。
プログラムをみると1、加藤木朗「日月の祓」(番楽・先舞をモチーフに)、2、木村俊介「母恋歌」(鬼来迎より)、3、小野越郎「舞い散る」など、新たに構成・作曲した作品がならぶ。
加藤木朗の口上がつづく。「長野と愛知の間をへだてる恵那山をわたしは年に何回も行き来しています。この恵那は、胞(えな……胎児と母体をむすぶ器官)と同義語になっていて……」と恵那山縁起を語り客席を沸かせる。(このえなは、第二部の音舞語り「はなの木」の重要なモチーフだったと後で気づく)。
さらに「陰陽」に話が転じ、「この1年の間、身に積もった穢れや苦労を祓うものとしての芸能」に話がおよび、直接ふれてはいないが「暮れの打ち逃げ」が師走の末に執り行われてきたことの意味がわたしは理解したのだ。

 演目は進んで、4、「野分」(鹿踊をモチーフに)、5、合奏曲「北風に踊る」、6、獅子舞で第一部がおわる。
第二部は音舞語り「はなの木」で、昨年のつづきであった。

 最後のあいさつで加藤木朗が「みなさまのご支援で、『暮の打ち逃げ』公演が継続されています。この舞台でわたしたちはさまざまな試みをさせてもらい、成長の糧をいただいております。これからもお力添えをよろしくお願いいたします」と深々と感謝していた。
そういえば「音舞語り」の様式を生み出したのも「暮れの打ち逃げ」公演であった。
「暮れの打ち逃げ」に向けては、出演者が朗の本拠とする阿智村の稽古場に集まり、「合宿」と称して作品づくりを行っている。
いつもは分れ別れの場所で演奏活動をしている3者が集い、共同で作品をつくりあげる。
観て支援していただく方々がいてこそ、芸の練磨が高まり作品の創出が昇華していくものだと、舞台を見終わった清々しさの中で思ったことである。