「さんさ踊り」の講習

2010年04月29日 | Weblog

新松戸の桜3/15


「東葛合唱団はるかぜ」の郷土部が、次のコンサートで「さんさ踊りをやる」と聞いたのは、昨年の末だった。
 
 わたしは、「さんさ踊り」に強い思い入れがある。

 高校を卒業して新劇団に入った。在学中に演劇をしていたとか、俳優修行をして自己表現をしたいということではない。

 高校を卒業するにあたって進路にまよい試行錯誤していた時期に、劇団「稲の会」と出会った。
稽古場をのぞきに行き、上下関係はなく経験者も新人もみな平等で、力を出し合って作品を創りだしていることに共感しその一員となった。

 さまざまなアルバイトをしながら、生活を成り立たせ劇団を維持して数年が過ぎ、わたしが20才になった頃、劇団では創造をめぐって、二つの潮流に分かれた。
わたしは7名の仲間と劇団を離れた。7名では出し合うお金に限りがあるから、稽古場を確保できず、家族持ちが多かったから、それぞれバイト生活が主になってなかなか劇団活動ができなくなった。

 そんな折りに「わらび座」を観る機会があったのだ。

 劇団仲間と観に行った。民謡だというから退屈な時間を過ごすだろうが、先輩がすすめるので付き合ったのである。

 舞台を見てびっくりした。

 開幕は「八丈島太鼓」である。緞帳の内からドーンとおもい響きが聞こえ、ゆるゆると幕が上がっていく。太鼓のテンポは早くなり「太鼓叩いてー人様寄せてよーわしも云いたい事があるーよぇー」と、重々しく唄が入る。

 闇の中、二人の叩き手がシルエットで浮かび上がり、太鼓のテンポが上がるにつれて、ホリゾント幕は紺碧に彩られ、大海原をあらわす。

 つづいて「新地鎌踊り」(佐賀)が軽快に踊られて、「阿波踊り」になる。
「さんさ踊り」(岩手)では圧倒された。胸に太鼓を据え軽快に躍りはねる。女性の踊りも伸びやかだ。
「日本にもこんなに勇壮で軽快な踊りがあったのか」と、目を見張って観た。

「できることなら、さんさを踊ってみたい」と、わらび座に応募して入座したのは23才の時である。

 配属された学校公演班は、さんさ踊りが定番のプログラムであったから、ずいぶん躍り込むことができた。

 わらび座を辞めて、郷土部の起ち上げに協力し、数年経ちさんさ踊りを練習項目に加えてもらって、はるかぜの何回目かのコンサートで披露することができた。

 太鼓を抱えて一踊りすると息も絶え絶え、全身汗みずくで「ハアハア」息を弾ませるのも快感であった。
 跳んだり撥ねたり屈んだりを激しくするから、もうこの年になっては出来ないと思っていた。



 ところが郷土部講習で、加藤木朗がみなさんに伝授するのを見ていると、息を荒くするほど体力を使わない。
 しかし踊りの所作は大きく伸びやかだ。

「さんさ踊りは盆踊りですから、先祖を供養する念仏踊りの一種です。このように踊って両手が合わさり、合掌の形になります」。
「日本の踊りは重力に逆らって飛び上がったりはしません。重心を下にして屈み伸び上がることによって、上下の動きが大きくなるのです」。

 4月24日(土)に、信州・阿智村から直行した朗を案内して、根木内東小学校へ向かい、郷土部の「三本柳さんさおどり」講習に付き添ったのだ。

 まずは手の動き、そして足さばき、つぎに手足を揃えての動作は、時間がすすむにつれて、スムースになっていく。
 20人ほどの郷土部メンバーは、上着を脱いだりはしていたが、汗もかかずに息づかいも平常で4時間の講習をおえた。



 わたしは、若いころから熱中して踊った「さんさ踊り」の、ちがった側面をこの稽古現場で見ていて、この芸能の奥深さを更に知ったように思える。

最近の郵便事情

2010年04月22日 | Weblog
 杓子定規(しゃくしじょうぎ)とはこの様なことをいうのだろうか。あきれ果てて開いた口が塞がらない。

 4月18日に弟の雅義から「10日ほど前、知り合いのIさんに書類を送ったのだが届いていない。差出人は和力事務所となっているので、そちらに返送されていないだろうか」との問い合わせメールが入った。

「届いていない」と返事をした。

 20日、外出先から帰るとポストに「宛所に尋ねあたりません」と赤いゴム印を押して、封書が届いている。
 雅義が出した、Iさんへの封書である。

 パソコンの「筆ぐるめ」を開いてみると、Iさんの住所が登録されている。雅義が差し出した封書の宛名とも一致している。
「どうして宛所不明なのだろう」とよくよく見ると、郵便番号の末尾が一字だけ違っている。たとえていえば「―0001」が「―0002」となっているのだ。
 郵便番号は少し間違っていたかも知れないが、住所は完全に書いてあるのだ。それでも届けないのは、どんな了見なのであろうかと腹が立つ。

 昔のことを云っても仕方がないが、以前はもう少し人間のぬくもりがあった。

 わたしは、小規模の編成で学校をまわっていたわらび座第三班に所属していたことがある。
 第一部は歌舞構成で、第二部は「うりこ姫とあまのじゃく」など劇仕立てであった。

 公演が終わると、子どもたちから手紙がたくさん送られてきた。
中には「あきたけん うりこ姫さま」とだけの宛名もあったが、きちんと届いたものだ。
今だと無情にも「宛先不明」で差し戻されてしまう運命であろう。

 機械で読みとり高速で処理しているのだから、規格にあっていないと、どんどん撥ねられてしまうのにちがいない。
 しかし機械だけではなく、担当者の印が2名分押されている。人間の目を通っても撥ねるのは、効率だけを重んじる風潮がまかり通る今の世情を反映しているのではないだろうか。

 政府の「事業仕分け」第二弾が始まった。ムダを見つけ出し、税金の無駄づかいを阻むのはよい。
 しかし、前回の仕分け作業では、必要と思われる科学・文化分野などにも大鉈がふるわれた。

 効率第一主義ではなく、公で維持すべきものはきちんと残していってほしいと願っている。

 そうでなければ郵便事業のように、人間の温かさがない風潮を更に強めることになりかねないからだ。

慧の進学祝いにディズニーシーへ

2010年04月13日 | Weblog
「ネズミーランドに行きたーい」と、電話を掛けてきたのはいつだっただろうか。
加藤木朗の長女、慧(けい)が、初めてディズニーランドに行ったのは、小学校低学年の時だった。

 その慧が今春、高校に進む。

「お祝いを何にしようか」、妻と相談していたら慧から電話がきた。
兄の磊也(らいや)は部活で行けないが、5年生になる晟弥(せいや)、3年生になる野詠(のえ)が同行し、「ディズニーに行きたい」と言う。

 今は「ネズミーランド」とは云わない。
あの頃は、絵本かテレビでミッキーマウスが活躍しているのをみて、「ネズミーランド」と思いこんでいたのだろう。

 この孫たちのリクエストのお陰で、わたしも今回3回目の訪問になる。リクエストがなければ、電車で1時間足らずの所にあるディズニーには、今でも行っていなかったと思う。

「いつでも行けるのだから」と油断をして、未だに「東京タワー」には行っていない。こんな事は自慢にならないのだが、金沢に行って納得したことがある。

 和力が公演した会場から2分ほどの所に「尾山神社」があった。前田利家と妻女のお松を祭ったとても大きな社(やしろ)であった。
 金沢の人であれば、だれでも行っているのだろうと思っていたら、「そこにあるのは知っているけど、わたしはまだ行ったことがない」と、作業をしていた実行委員の女性が云っていた。

 案外、自分の地元の名所・旧跡は「ある」と知っていながら、いつでもいけるのだからと、遅れをとることが多いのかも知れない。

 昨年の4月、この3人でディズニーシーへ行ったから1年ぶりということになる。

 今回もチケットの購入からガイドを名古屋市のKIさんが引き受けて、娘さんのMKさんも同行して下さった。
 いつもいつも「年間パスワード」を持つ、この母娘が連携して、ショーや乗り物を先手先手に予約を取りながら、待ち時間なしに連れまわってくれるから、たくさん体験することができる。感謝の限りである。

 4月3日(土)は、天候にも恵まれ楽しんだ。週明けには春休みが終わる。春休み日記帳にはどんな絵や文がつづられるのだろうか。



 

帯名久仁子さんの「東欧演奏ツアー報告」から(8)

2010年04月07日 | Weblog
ツアー報告(8) 2010・4・6日
 帯名久仁子

 さて、中央奥に見える白い建物が,ニーシュで宿泊していたホテル。ガラス張りのオシャレな建物で、とても快適でした。朝食も美味しく、少し落ちていた食欲が戻りました。
 ホテルの対岸では朝からフリーマーケットが開かれていました。看板の下に馬車が止まってますね、本物の馬ですよ。加藤木さんフォト。



 ニーシュからウジツェへの移動は、約4時間のバス旅です。バスの車窓から空をパチリ。今日は快晴だ~!気持ちのよい出発です。



 移動のバスの中はそれぞれ自由に過ごします。
人それぞれで面白いです。眠る人 、音楽を聴いている人 、しゃべり続ける人 、などなど・・。
 途中、要所要所で大使館の田中さんがバスガイド風 にガイドしてくださいました。マイクパフォーマンス 最高でした。

 くつろぎスマイル加藤木さん。



 ご就寝中 の田中さん。お疲れ様です 今日は足のみ登場です 。



 そうこうしているうちに、ウジツェの街に到着です。これから明日の会場である「ウジツェ国立劇場」の下見に直行します 。



 会場下見終了後、お茶でしばしリラックス 。中央奥の男性が館長さんです。



 今日と明日は、ウジツェからバスで40分ほどのところにあるズラティボールに宿泊です。
 ズラティボールは、セルビアで最もよく知られた高原保養地だそうで、夏は避暑地・冬はスキー客で賑わいます。
 ホテル到着は、会場下見を終え夜になりましたが、これは朝のショット。辺りは一面の雪景色 !道路はカチンコチン に凍ってツルツルです。



 宿泊したホテル「MONA」は高原のリゾートホテル といった風情。標高は1000mを超えてます。



 温度計見てください!マイナス11度 寒すぎ!!ホテルの部屋の中は20度 以上あるので・・この温度差はすごいです。



 出発の朝、みんなで近くの朝市に出かけました。
やっぱり・・メチャクチャ寒い !!そんな中、雪に埋もれそうになりながら建つ無数の露天を発見!!これは民芸品を売っているお店です。



 ホテルの前でパチリ 。今野さん 、グリーンの帽子が似合ってます 。






帯名久仁子さんの「東欧演奏ツアー報告」から(7)

2010年04月02日 | Weblog
 帯名久仁子  2010・4・1

 さて、ちょっと時間が前後しますが・・今日は、ニーシュ公演のプライベート&リハーサルショットです。
 まずは前日の会場下見の様子。左の長髪の大きな人が、現地業者「スカイミュージック」のチーフ、フィリップ 。右から梶野さん 、丸山さん 、セルビア田中書記官 とアンジェルカさん 、通訳のウナさん 。



「鶏舞」リハーサル中の加藤木さん ・木村さん ・小野さん 。




「竹田の子守唄~砂山」リハーサル。私は真ん中で胡弓を演奏しています。(後ろ姿で失礼 )。津軽三味線二丁に挟まれる体験は初めてでした。




 誤植ではなく、セルビア語で和力は「VARIKI」と書きます 。ホールに張り出されたプログラムとAKIRAスマイル 。プログラムには簡単な楽器説明を併記しました。






 本番当日サウンドチェック。木村さん篠笛ソロ「荒城の月 」のマイクセッティング中の梶野さんです。



 この日の照明は、とても幻想的なLED照明でした 。しかし、この美しい光の裏には血と汗と涙の物語が・・。
 本当はご本人にここで熱く語ってもらいたいのですが、照明の常識では絶対に考えられない大困難をクリアです! 丸山伝説 の誕生です。