4月が過ぎていく

2012年04月20日 | Weblog

花いかだ(松戸市坂川)

 わたしの誕生月は、戸籍の上で4月である。
「なぜ戸籍上は」と断るかと云うと、実は3月生まれなのだ。わたしの父は30代後半で第一子であるわたしを持った。
「あまりに小さくて可哀想だから、4月に届け出れば、遅生まれで学校は1年遅れになる」と案配して、役所に届けたのだと母親に聞いた。
そんな届け出ができるなんて、70数年前の世の中はのんきなところもあった。

 のんきな役所と云えば、わたしの三番目の妹は名前を間違って登録されてしまった。戦争中、父は東京に残って仕事をしていた。
母とわたしと妹は、新潟の母の実家へ疎開し、新潟で二番目の妹が生まれ「恵子」と届け出て受理された。
三番目の妹は「恵美子」と届け出たのである。しかし戸籍の上では「いみ子」となっており、60才を過ぎたいまでも「いみ子」である。
東京の下町っ子は、「し」と「ひ」の区別がつかないが、新潟では全てではなかろうが、「い」と「え」の区別がつかないのだ。
だから「恵美子」と届け出たのに「いみ子」となってしまったが、その届け出にはおそらく祖母が役所に行ったのであろう。
祖母は無筆の人であった。届け出用紙は役所の人が代筆してくれたのだろう。祖母は「えみ子」と発音しているつもりだったが、生粋の新潟県人であったから、「いみ子」と叫んでいたと想像される。
役場の人も生まれも育ちも新潟だから「あぁ、えみ子さんね」と思いながら用紙には「いみ子」と記入していたと思われるのだ。


野の花

 4月には年がひとつ増える。そしてわたしは多分73才になったのだ。
時たま人に「いくつになりましたか」と問われることがある。突然聞かれるとわたしはいつもあわてるのだ。70を越したのは知っている。そして72だったかなぁ、73になったのかが分からないのだ。
新宿三丁目や銀座四丁目は変わることがないから、その風景も含めて覚えているのだが、自分の年は毎年変わるので、「さて、いくつだっけ」とあわてる。
 それともう一つあわてるのは、日にちを聞かれた時である。「今日は何日でしたっけ」と聞かれると、とっさに出てこない。
サラリーマン時代であれば、給料日は25日で、お得意さんへの請求書の届けは、10日の所があそことあそこ、15日締めはどこそこ、20日締め、末締めはここという具合に、日々の日付は頭にあった。

 だが今は違う。「燃えるごみ」は火、木、土、「資源ごみ」は水曜で、「再生できるプラスチックごみ」は金、そして「うたごえ喫茶」は第二火曜と第三水曜、町会役員会は第二火曜など、曜日で動いているのだから、日にちを持ち出されても即答できないのだ。
暗算も生まれつき苦手だから、もしなんらかの検査があったら、ちょいと問題になるのかなぁと、73才の誕生月に余計なことを思っている。



磊也の屋内と野外での演奏を聴く

2012年04月09日 | Weblog


 晩はさほどでもないが朝の冷えこみは今でもきつい。
町会の会合で農家の方が「霜の降りる日がまだあるよ。4月に入ってこんなことは今まであまりなかった。今年の天気はくるっているねぇ」。「枝豆の種まきをしたが、一向に芽が出てこない。ひょっとしたら凍えて種がダメになったかもしれない」などと話している。

 はやく春らしい気候になってくれないと困るのはわが家でも同じである。夫婦のいさかいの元になるのだ。
「冷えるからストーブを点けるよ」と妻が云う。「いやそんなに寒くないよ」とわたしはやせ我慢をしながら云う。
「寒いと心寂しくなるから点ける」と妻が点火する。石油ストーブの残量目盛は半分以下しかない。
家事万端をあずかるわたしは、4月になればストーブを焚く日は少なかろうと、灯油を買い控えたのだ。いつも三缶買うのに二缶に抑えて買ったのは3月中旬だった。
「一夏過ぎた灯油は使わないでください」と説明書きにある。使い残したくないから最終時期の灯油買いには毎年気を使う。
4月初めに残り一缶の封を切った。この調子だと使い残さずタンクを空にしてストーブを仕舞うことが出来そうだ…と見通しのよさを自慢したくなる日々であった。

 4月に入ってから「爆弾低気圧」が全国を襲い大荒れになった。
芽吹いていた桜も開かず、早い時期に開かれた「桜まつり」は、寒さに身をすぼめ蕾(つぼみ)を見上げる始末であったそうだ。
だから、わが家のストーブも大活躍せざるを得なかったので、灯油も無くなる寸前になっているのだ。
寒いからとて灯油を買い足せば、使い残しが大量になりそうだ。寒いが「寒くない」と妻に抗い、灯油が無くなるのを先延ばしにしている。

 朝晩の寒さは残り、例年より5日くらい遅れて桜が満開になっている。花見には行けないが、二日つづけて磊也の演奏につき合えた。







 4月7日(土)は、松戸市下矢切にある「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」で、噺家・柳家さん若さんの寄席が開かれた。
その幕間に、加藤木磊也が津軽三味線で出演させていただけたのだ。
羽織・袴姿で「りんご節」、「あどはだり」、「津軽じょんから新節」ほか一曲を演奏した。
磊也は今年に入っても、和力公演での共演や、朗出演に伴う出演はいくつもあった。
磊也がひとりだけで舞台をつとめるのは、1月22日(日)「は~いビスカス」新年会で、筝・胡弓・津軽三味線を奏でたのが初めてであった。
 今回は、チラシ、プログラムに「出演  加藤木 磊也」と、一人前の芸人として紹介されているのが新しい変化となる。
お稽古に通う合間に、自分の部屋で三味線を弾き込んで出演に備えていたようだ。
大きな拍手をいただき20分間の演奏を終えた。





 翌8日(日)、「関さんの森 はなまつり」にも、磊也が出演させていただいた。「は~いビスカス」スタッフであり、「東葛合唱団はるかぜ」の団長でもあるOさんが推薦してくださったのだ。
野外での演奏は初めてである。三味線の音がきちんと観客に届くだろうかの不安があった。幸いなことにそれは杞憂におわった。
一曲ごとに大きな拍手、曲と曲の合間にお客さんから「野外での演奏はどうですか」と質問が出た。
「自分の弾いている音が聞こえないので、少しやりづらいかな…」。にこやかにお客さんとやり取りする笑顔は、わたしたち祖父母にめったに見せない表情であるのだ。

 参加できなかったOさんへ、Iさんが送ったメールをOさんが転送してくださった。
「今日は感激をありがとうございました。和力・磊也さん、素晴らしいよりもっと何か他に言葉が見つからない青年。
桜、鳥達の囀り、まさに春爛漫、関さんの森に 津軽三味線の響き想像してください。 皆さんの笑い顔、を……」。