荒馬座を観た

2007年02月26日 | Weblog
 昨日は「民族歌舞団荒馬座」の松戸公演を観た。開場前からホール入口には大勢の人が並んでいる。
「これは成功しそうだ」と他所ごとながらもよい気分になる。「誓い新たに」と題しての創立40周年記念公演が、松戸市民会館で催されたのだ。

 わたしが秋田の「わらび座」に在籍していた頃、「荒馬座」創立者の方々とお会いしたことがある。あのときから40年以上も経っていることになるのかと感慨ひとしおである。
「わらび座第3班」(学校公演を主にしていた)に所属して、東北各地の学校を巡っていた時に一緒だったM君が、荒馬座の演出者として活躍もしている。
 だからわたしが住む松戸近辺で「荒馬座」公演があると、「身内の懐かしさ」もあり見逃さないように観客として参加していた。

 25人の実行委員がプログラムに名を連ねている。その中で互選されたのだろうか、3人の若い女性が幕前に出てきて、歯切れのよい元気な声で「開会」の挨拶をした。
 客席を見渡すと若い世代の参加が多い。40年に亘り首都圏で活動してきた「荒馬座」の地道な活動の軌跡が偲ばれる。
 若い人々の中に伝統文化の担い手をしっかりと築き上げているのだ。そのことにわたしはたいへんな尊敬を覚える。

 「木遣り」で開幕、「八丈島太鼓」・「獅子舞」とつづく。そして「荒馬踊り」では女性の切れのよい踊りが印象的だった。
 元気な明るい舞台、客席からは存分な拍手の応援がでる。

 40年を迎えてのステージは15名の出演者が、伸び伸びと逞しく客席と一体になってつくりあげていく。
 これからの10年・20年、そして40年先もさらに発展しての歴史を刻んでほしいと切に願いながら、都会の星空のもと家路についた。
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会場確保の顛末記

2007年02月22日 | Weblog
 ことわざに「来年のことを言うと鬼が笑う」というのがある。なんとはなしに聞き慣れているものだから、べつだん意味などは考えていなかったが、ふと、「来年のことを言うと、なぜ鬼が笑うのだろう」と疑問に思ったので、「ことわざ辞典」(岩波書店)を開いてみた。

「明日のことも分からないのに、1年も先のことをあれこれ言っても仕方がないというたとえ」とある。「残忍・非道の象徴で決して笑うはずのない鬼を笑わせてしまう…」とも追記してある。

 公演を組みたてる仕事は、いつも鬼を笑わせることに専念している面がある。手頃な「公演会場」を確保しようと思うと、1年前からの申し込みだ。

 わたしは3年間つづけて1月にやっている「和力」の松戸市公演を、来年もひきつづきやりたい。1月14日(日)に「松戸市森のホール21・レセプションホール」での「和力と一緒に新年会」を成功させていただいた後にそう思った。

 さて、会場を借りようと思い立ち、行動を始めたのはその1月公演の残務整理をおえた、2月になってからである。

 松戸市にはホール施設が4ヶ所あるが、来年は座席数500名余でアットホームな舞台が展開できる「森のホール21・小ホール」でやりたいものだと思っていた。
 来年1月、第2週の土曜日には、松戸か流山にある寺院での公演がすでに決まっている。(これは別ルートでの話なのでわたしはタッチしていない)。
 この日に続けて翌日、日曜日の午後に公演できたらよいなぁと願った。

 本来であれば「実行委員会」を開いて、開催日時・開催場所をみんなで決めるべきなのだが、1年前からみなさんにお集まり願うのは負担をかけてしまう。
 といって、使用会場を「押さえて」おかなくては、実行委員会が立ちあがっても「やる場所がない」という事態になってしまう。
 
 そこで電話をかけて会場の申しこみをした。

 ところが、小ホールは塞がっており、計画は練り直さなくてはならない。
「森のホール大ホール」は、2,000名に近い座席数であり、「松戸市民会館ホール」は1,200席。これでは大きすぎる。
 松戸市で3年前、初めて「和力公演」を実施した「松戸市民劇場」は332席であるから、魅力のあるホールである。しかし、ここでの会場申しこみは6ヶ月前なのだ。

 計算すると、7月になって会場受付することになる。使用したい人がダブルと抽選で決めるという。7月になって来年1月の第2日曜日を申し込んで、はたしてうまく会場が確保できるかどうかがわからない。休日のホール使用は案外と需要が高い。それで抽選に外れたらアウトなのだ。

 わたしはここでハタと当惑して、少しの日数、あれやこれやと考え悩む日がつづいた。
 いっそ寺院の公演はそのままやってもらって、別の日程(小ホールが空いている土・日)に設定しようか…。
 そうなるとメンバーの「移動経費」が大変になる…。なかなかこれぞという案が浮かんでこない。

 森の小ホールの会場へ電話をしてから4日か5日経った。

 所在もなく「念のため」とインターネットで、会場の空き状況を調べていた。

 すると、なんと塞がっていた希望する日が、あいているではないか。なぜそうだかは分からない。わたしは取るものもとりあえず、すぐさま会場に向い当該日程の「仮押さえ」をした。

 その時、受付のお嬢さんから、「仮に押さえておきますが、1週間経って本契約をしなければ、自然に流れてしまいますから気をつけてください」と説明があった。それで、なぜこの日の日程が再び空いたのかがようやく想像ができたのだった。

 多分、前に電話で問い合わせをしたとき、どこかの誰かが「仮押さえ」をしていたのだろう。それで塞がっていたのだが料金の払いこみをしての本契約を結ばなかったのかも知れない。

 来年の年初の日程を指折り数えてみる。

 1月12日(土)寺院ライブ、13日(日)森のホール公演、14日(祝)下矢切・蔵のギャラリー「結花」ライブ、15日(火)幼稚園(予定)と連続したコースが組めることになった。
 できればこの日数をもっと伸ばしたいと思っている。

 鬼が笑うかも知れないが、一年先、来年の手当てをしなければ動きがとれないような忙しい時代になってきている。
 鬼も笑う機会が多すぎて、雲の上で太鼓をたたいて雷雨を呼んだり、雪を降らせたりする本来の仕事がうすくなるから、暖冬になっているのだろうか。
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あのチョコレートは

2007年02月18日 | Weblog
「67才になってこんなに貰えるなんて幸せだと思わなくちゃネ」と妻がいう。バレンタインデーを前後して、チョコレートを4つも頂いた。
3年前まで会社勤めをしていた。23年前に45才で会社勤めを始め、その頃にはバレンタインは他所ごとで、身の近くにはなかった。
 会社が少し大きくなり、事務に若い女性が入るようになった。あるときから、同僚の若い女性たちが金を出し合ってのことだろう、職場の男性たちにチョコを贈ってくれるようになった。
いわゆる「義理チョコ」というものであろう、そのお相伴にあずかってはきた。
「その他大勢」としてもらうチョコレートも食いではあったが、最近頂くチョコレートは、違う趣きがあるように思える。

 わたしが参加している「は~いビスカス」(知的障害者の地域での居場所をつくろうとのボランティアの集まり)で、3名の男性がMOさんから1つづついただいた。
 月に一度伺う新松戸の民舞サークル「舞雀」やその会員の方…などからいただいたのである。

 地域でのささやかな活動と、わらび座・和力の上演運動で知り合った方々からの贈り物なのだ。
 それぞれにきれいな包装紙に包まれ、リボンなども可愛らしくかかっている。いろいろと見つくろって下さったにちがいない。

 ただ、わたしは近頃、甘いものを「食べたい」と思わなくなっている。若い時分には列車を乗り継いでわらび座の営業をしていた。乗り換え駅のホーム売店で、甘納豆や大福や羊羹を買って車中で食べたものだ。
 今では「そういうこともあったなぁ」と懐かしく思うが、甘いものには食指が動かない。それにまだ決まった訳ではないが「予備軍」として、糖尿病に気をつけなくてはならない身に、最近指名されてしまった。寄る年波を感じざるを得ない。

「頂いたのを食べないのなら、職場に持って行ってみんなのおやつにするからね」と、今回も頂いた4ケ全部を手つかずのまま、妻は勤めている病院へ持って行った。
「美味しいチョコだってみんな大喜びだったよ」と妻がいう。「食べるとどれもこれもおいしかった」、妻自身もたっぷりと味わった風情だ。
これは「職場のチョコ」では言われなかった評価である。
いまいただいている方々のは、じっくり吟味した手間も時間もかけた心の篭ったチョコなのである。吟味されたものだから、美味しいのは当たり前のことであるのだろう。

だけれど、つくづくおもんみるに、何故、男性に贈るのにチョコなのだ…というのがわたしが考えても分からない歴史の謎なのだ。
男性の中でも喜んでチョコを食べる者は居るかもしれない。しかし大部分の男性がそうだとは限らない。
「バレンタイン」を考えついた人、「贈り物にはチョコ」と決めた人は偉い。偉いけれども相手は男性なのだから、もう少し違う品物が考えられなかったものだろうか。
せめて、焼酎などがその品目になっていれば、世の大多数の男性が喜こんだにちがいない。

頂いた方々に感謝しながら、頂いたものが食べられないものだから、バレンタインデーの後になると、そんな詰まらないことを考えるのである。
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「びんぼう自慢」(古今亭志ん生)を読んだ

2007年02月17日 | Weblog
 今日で三日目になる。腹具合がわるくてつらい日を送っている。食欲はなくて「これではならじ」と市販のおかゆと、普段は目を向けることのない梅干などを無理して食べる。
 原因はさっぱり分からないが、13日(火)に新松戸で月に一度の「踊りの会」があった。そこでは最近、津軽の「荒馬踊り」をやっている。馬が跳ねまわる動作だからかなり激しい動きになる。
 その基本の動きをみなさんに伝授していたら少し汗にまみれた。終わってバイクに乗って帰ったから、風邪を引いたとしたらそのときかもしれない。

 次の日になって、食欲がなく気分も晴れないから、スケジュールが空いていることをよい事に、なんとはなしにゴロゴロとして過ごした。
 晩、妻が帰って熱を測らされたら、37.4℃あった。これが高いのか低いのか分からないので解説をしてもらったら「熱が出ている」という。
 びっくりして靴下も脱がずに布団にもぐりこむ。着替えをしようとすると、ブルルッと悪寒がするのだ。風邪の引き始めはいつもこの震えがくる。

 以来、水・木・金と寝て過ごした。こんどの日曜から月曜にかけては、町会の役員会で1泊旅行がある。なんとか直さないと振り込んだお金が「もったいない」との思いがつのる。

 寝ながらもっぱら本を読んだ。2冊読みきった。古今亭志ん生の「なめくじ艦隊」と「びんぼう自慢」(ちくま文庫)である。
 わたしは寄席には行った事はないが、めっぽうな落語好きで落語の厚い本を何冊ももっている。
 落語家では、志ん生が大好きでLPレコードも組で購入し、カセットも一揃いある。寝つくことが出来ない夜には、カセットを聞きながら眠っていた時期もある。

「びんぼう自慢」の中で、「あれっ」と思うところが出てきた。

…名古屋てぇところは、昔から芸どころといわれて、たいへんに芸にはうるさいところでありますから、寄席なんぞもたくさんあり、東京からも大阪からも芸人がゾロゾロと集まってくる。そこを根城にして、岐阜だの豊橋だの、伊勢のほうなんぞを回って…。と志ん生は語っている。

 わたしは、わらび座で北海道・関東・関西・中国・九州での営業生活が長かった。東北での営業はやった事はないが、学校公演で回っていたから東北の雰囲気はあるていど理解できる。

 しかし、中京圏は未知の国々であった。「尾張名古屋は城でもつ」という俗謡だかで得た知識で、名古屋城のシャチホコはどんな形であるかは、おおよそ知っている程度であった。
 でも、秋田のわらび座本部で全国の公演計画をたてる仕事をするようになったときに名古屋に、沢山の太鼓愛好会・グループがあるのを知った。大阪とか東京とくらべても抜きん出ているのではなかろうか…と思ったものである。微かに「これはなんだろう」と思った記憶がある。
 
 その後、わたしの息子の朗が名古屋を拠点として活動を始める。強く厚く支えて下さる方々に恵まれて、恒例の公演もやっていただき、教室も永続させていただいている。
「教室の維持もご苦労が絶えないでしょうに、ありがとうございます」とお礼を申しあげた。「名古屋は習い事が盛んな土地柄ですから、これぞと思う事は長く続くのですよ」とおっしゃっていた。

 志ん生の「名古屋は…」という言葉で、東西の文化の混ざり合うところ、そこで切磋琢磨されてまた全国に波及していく場所が、名古屋であることを合点したのである。

 いまでは見ることはないけれど、わたしの子どもの頃、お正月の風物詩として「三河万歳」が家々を回って歩いていた。わたしの家は東京下町の裏長屋だったから、「お祝儀」の実入りも当てにできなかったのだろう「獅子舞い」も「三河万歳」も来たためしはない。        
 でも、「サザエさん」をはじめとして、お正月の漫画には必ずでていた。この三河万歳も名古屋近辺の土地から、はるばる東京に出てきたのであろうかと思う。
 
 朗ならびに「和力」が、「芸どころ」の名古屋で多くの方に支えられ、芸を磨ける機会をつくっていただいているのは、大きなことなのだと改めて思っている。

 明日の7時には、近くの市民センター前に集まって、「町内会ご一同様」のバスが出発する。どうやら腹下しも治まってきたようだ。なにか食べると痛みが少し走るけれども、もうこれだけ休めばそろそろ良くなるだろう。
 こんなに休んだのは久方ぶりだったけれど、志ん生師の語る本を読んで、芸を極める人の根性と、芸どころである名古屋の位置付けをはっきり知ったのは、病気で休んだ代償といえるだろう、大きな財産となったと思えるのだ。
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横山茂コンサートIN結

2007年02月13日 | Weblog
 11日(日)は、町田市鶴川の国士舘大学バス停の近くにある、「結」という喫茶店で「横山茂コンサートが行なわれた。
 2月14日はヨコちゃんの誕生日だそうだ。今年、81才になる。

 歌声は健在である。歌詞の忘れはやはりひんぱんになってきているように思った。

「横山さん、がんばって」とマイクに向うヨコチャンに、親しみぶかく声をかけた人が何人かいた。ヨコちゃんはにこやかに振り向いて「がんばりません」と云いながら通りすぎる。
 決して身を引いた風情でもなく、云い返すものではない。ごく自然な言葉で軽い調子でそんなことをにこやかに云う。
 いやみもなにもない。この一言で会場は温かい雰囲気につつまれた。これも人徳というものであろうか。
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暖かい冬

2007年02月12日 | Weblog
一週間に三度、木・金・土と新聞配達をしている。家計のためと云う訳ではなく、地域でささやかな活動をしている。そのお手伝いである。秋田のわらび座を辞めて帰ってきてから、欠かさずにやっているから、もう20年を越えている。
幸い事故にもあわずに継続することができた。新聞配達で「いやだなぁ」…と思うのは雨の日である。「辛いなぁ」と感じるのは冬、寒い朝に起きるときである。一大決心をして着替えをつかんで布団から出る。
着替えをしてバイクに跨がる。風を切って走り始めるとまるで鼻毛が凍るかのような錯覚にとらわれる。
 約一時間ほどの配達をおわると、頑丈なグロ-ブをしていたにもかかわらず、手先の感覚がなくなっているのだ。
これが毎年二月ごろに経験する朝の風物詩だった。
ところが、今年は暖かい。早朝に起きても鋭い寒さに震えることがなかった。

そんな二月三日(土)にわたしたちは、矢切の渡しに乗って、柴又帝釈天に行く機会に恵まれた。松戸に住んで二十数年経っている。わたしの家から5分ほど行けば、江戸川に出る。上流には「矢切の渡し」がある。
いつかは乗ってみたい。対岸にわたれば「フ-テンの寅さん」の実家がある。柴又帝釈天の参道を歩いてみたい…と常々思っていた。
「近いからいつでも行ける」と思う内に、とうとう二十年も過ぎてしまった。

外套も要らない陽気の中で、待ち合わせ場所、下矢切にある「蔵のギャラリー結花(ゆい)」で、おいしい和食のランチをいただいた。
友人三人と妻がゆったりと食べ、話が弾んでいる。太い柱と梁に囲まれて、久しぶりに時間が緩やかに進んでいく。

車を置かせて貰って、江戸川の「渡し場」に向かう。街中を通りすぎて農家が散在する街道を登る。10分ほどしたら「野菊苑」との表示があり、ここから下り坂になる。
 下りきると視界が広がり一面の畑になる。矢切名物のネギ畑がつづいている。その中に菜の花畑が所々にあり、今を盛りと菜の花が咲いている。
 その向こうには、江戸川の堤があり休日のせいか大勢の人ガ群がっている。初めて乗る「矢切りの渡し」は、31人乗りの素朴な木造船であった。ときおり船頭さんが櫓を漕ぐが、静かにモーターも回転させているようだ。ほぼ10分ほどで対岸に渡る。江戸川を初めて横断したが、水がきれいなことに安心した。

 帝釈天では豆まきがあり、これまた初めて豆まきの現場に参加することができた。

 帰りの船は4時に近かった。やはりこの頃になると、いくら暖冬とはいえ船の上では寒さを感じた。水辺に生い茂る木々も1枚の葉っぱをつけず、むく鳥だろうか枝いっぱいに留まっている。
 暖かい冬とはいえ、やはり立春前の季節であることを船の上では思い知らされた。
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連なる歴史をおもう

2007年02月06日 | Weblog
「わらびっこはきれいだなぁ わらびっこはつよいなぁ わらびっこはやさしいなぁ わらびっこは面白ぇなぁ かならず らい年また来いな!」…。

 1954年、TBSラジオで「村を行くうたごえ」としてわらび座が紹介され、放送の中で児童(小4)の感想がこのように読み上げられている。

 1953年「日本の伝統芸能を学びたい」と東京から移住し、秋田県に住み着いた横山茂さんたち8名の若者たちを最初に受け入れたのは、学校の子どもたちであった。
 先生方も「秋田は民謡の本場だといわれているが、酒の席で唄われるものしか子どもたちは知らない。わらび座のやっている健康な歌と踊りをぜひ子どもたちにみせたい」と、学校での公演実現に力を注いでくれた。

「わたしは、50年ほど前、秋田県の川辺という山奥の分教場で育ちました。そこにわらび座の横山さんたちが来て、本当に貧しい服装でしたが、歌や踊りやお話をしてくれました。毎年、中学を出るまで続いて、わらび座の時間は子どもたちが待ち望んでいた時間でした。
 二つのあざやかな思い出があります。
 同級生のK君は悪さをして、水のはいったバケツを持って立たされていました。わらび座が終わって横山さんたちが帰るとき、その前を通った横山さんがニコッと笑って、ひょろっと背の伸びたKの頭をなでてくれたのです。そしたらKはボロボロッと大粒の涙を流しました。そしたらS先生が「K! ほら! わらび座の横ちゃんが、いいって言ったから、もういい。家さ帰れ! 今日、わらび座さ見たんだから、もう持たなぐてもいぐなって、いがったな」と言ったのです。Kはわーっと泣いて帰っていったのです。
 もう一つは私自身のことですが、3月の卒業の頃、わらび座を呼んだときです。「わらび座の人、帰るってよー」という声で、私は外に出て、恥ずかしいから離れたところから「さいならー、さいなら―、また来てけれなー」と送っていました。横山さんがツツツーと私のところに来て(私、鼻たらしていたんです)、そのアオッパナを横山さんのハンカチだったか、今でいうティシュペーパーであったかで、ヒュ―ッって抱きしめるみたいにして、かんでくれたんですね。それが恥ずかしいって思いでもなんでもなくて、母さんにされたような感じだったんですね。(以下略)」…(横山茂CD制作ニュース№2 宮下敏子さんの発言の抜粋)

 宮下敏子さんから10月29日(日)に「武蔵野公会堂」で開催される「横山茂・和力 連なる3世代の祝・祭」公演へのチケットの申しこみが電話であった。このようなお話をされていたことは思いもよらずに、チケットをお送りした。
 電話では「川辺の山奥でわらび座を毎年、楽しみに見ていた」という事、「もしかしたら加藤木さんは熱海でわらび座の営業をしませんでしたか」とも尋ねられた。「私の友人が熱海にいて、わらび座が目指していることを加藤木さんからお聞きして、日本の文化について考えさせられた…と、若い頃、話していましたよ。加藤木という姓が珍しいのでよーく覚えています」。

 わたしは、熱海ではNさん宅に居候させてもらって、静岡県東部地域の営業をしていた。伊東・下田・三島・沼津など熱海梅園近くのNさんの下宿先から、営業に通っていたのだ。Nさんは豪放磊落な方でその下宿にはたくさんの若者が常に集まっていた。
 朝ご飯は、Nさん宅の崖上に住むSさんがいつも面倒をみてくれた。わたしの若き時代のたいへんお世話になった、思い出ふかいところなのだ。

 その頃のことをご存知なのにはびっくりした。と同時に人と人との出会い、繋がりの妙に不思議な感慨をもった。

「武蔵野公会堂」公演が終わり、暫くして宮下さんからお電話をいただいた。
「和力の舞台は、まっすぐでとても力強いものでした。わたしは今、障害をかかえていますが、あの舞台から生きる勇気をもらいました」とお礼をいわれ、ありがたいことであった。

 そういえば、今年1月14日(日)「和力と一緒に新年会」が、松戸の「森のホール21」レセプションホールで行われ、82才の女性が言っていたことも思い出される。
「どんなものか知らずに来た。来てよかった。この年まで生きていて和力に出会えて幸せだ。元気が出てきました」と、何回も何回も言ってくれていた。
 昨日、別の仕事でお会いした女性も「うつ状態で家に閉じこもっていたけれど、和力をみて力が湧いてきた。わたしでもなにかが出来ると思うようになった」と元気に話していた。

 まっすぐに映えわたる舞台は、確かに多くの人たちの気持ちを朗らかにし、明日への力の糧になっているのだろう。
 かっては、わらび座の舞台を全国に持ち歩き、今、和力を取り組んでいるわたしは、連綿として連なる歴史を感じているのだ。

 舞台の持つ力・それを表現する横山さんや、朗たちを通して多くの人たちが、内から迸り出るエネルギーを実感している。
 文化の持つ作用を普く発揮する、連なる歴史を思うのだ。


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