暮れの打ち逃げ公演  ロビー風景

2008年12月30日 | Weblog

 チケットと整理券

和力・天籠公演の2日目のロビーで、
「暖房が利いているし舞台照明の熱もあるから、客席はとてもあたたかい。舞台がはじまれば、さらに暑くなって気分がわるくなるかも知れない」とお客さんが言っている。

「どうしようか」と会場係の女性がK子さんに相談にきた。

 そう言えば19時に開演した昨日(26日)の公演で、わたしは階段状になっている一番上の座席で観ていた。
 舞台が進行して汗ばんできたので上着を脱いだ。そしてハンカチを取り出して額をなんかいもぬぐった事を思い出す。

 今回の和力・天籠公演は2日間連続でやられる。2日目の27日(土)のチケットは早々と完売し、「札止め」の指示がはいった。
「でも1日目はどんな具合だろう」との心配はあった。開演を待ちながら場内を見渡すと、余席はいくつかあるがほぼ満席である。
「よかった」と実行委員の方々の苦労を偲ぶ。

わたしも連続した日程での公演を首都圏で何回か実施したが、どうしてもチケットの売れ行きは均等にはならない。
 ましてや今回は天籠は6回目にして初めての2日間公演である。片方が満席になっても、一方が閑散としないかとの心配が少しあった。


 初日の昼過ぎ名古屋駅に到着しホームに降り立つと風が冷たく「天気予報どおりだ」と待合室に駆け込んだ。

 12月は暖かい日がつづいていたのに、「週末からつよい寒気におおわれるでしょう」との予報が当たったのだ。
 公演当日はもろに寒気が襲ってくる予報だった。
 できれば穏やかな日がつづいてくれないものか、そんな願いをもつけれど、情け容赦なく予報どおりに外気は冷えこんできた。
「お客さんの出足に寒さがひびかなければよいのだが」と杞憂したけれども、その心配はなかった。
 開場30分前の午後6時にはお客さんがすでに列をつくっていた。

「寒い外で並んでもらうのはたいへんだから」と、「整理券」を渡してお客さんをロビーにお迎えする。ホールはリハーサル中なので入れないが、ロビーでくつろいでいただこうという段取りである。
 
 わたしも列に並んで「27番」の札をもらう。


   受付付近にて

 ロビーでは実行委員のみなさんが「和力」のTシャツを着て、熟年の方々と共に若ものが「受付」、「会場」、「販売」の位置についている。ロビーに花が飾ってあるわけではないが明るく華やいでいる。
 あとわずかに迫った「往く年」の慌ただしい賑やかさと、清冽で厳粛な「来る年」に期待する空気が織りなす、あたたかさにロビーはあふれる。


             
               売店でのみなさん              

「天籠・第六弾」が始まる。

 舞台の進行にしたがって「おや」と思うことがでてきた。道具の出し入れをする「黒子」さんのメンバーが少し変わっているようだ。
 常連のH男さんやK子さんが抜けて、新しいメンバーが加わっているようにみえる。
 そういえばK子さんは「当日精算」の所にいて、全体の目配りをしている。

「朗さんの太鼓教室に若いメンバーが加入して、いろいろな場面で活躍してくれている」と、H男さんが云っていた。
 わたしも実感としてその事が分かる。

和力事務所もチケットの連絡先の一つとしてチラシに電話番号が告知されていた。公演の問い合わせの電話は男女ともに青年が多かった。
和力が若い世代に認知されていることを感じていたのだ。

 ロビーでも舞台裏でも若ものが支えてくれる割合が多く、来てくれるお客さんも若ものの姿が多い。
 
 だから熟練の方は、全体の目配りできる配置にあって、すぐさま対応できる余裕がもてるのだろう。

「会場内が暖房と照明器具の熱で暑くなりそうだ」…

「分かりました。会場の人と打ち合わせてくる」とK子さんは、足早に去っていった。

 暖房を止めて始まった舞台は、満席の人いきれもあるだろうが、程よい温かさの中で終わった。

 劇場から外に出ると師走の風はやはり冷たく吹きすさんでいた。
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愛車との別れも近いか…

2008年12月24日 | Weblog
 わが愛車に引導がわたされた。
「部品を探してもどこにもない。次の車検では廃車にするしかないですね」と修理屋から云われた。
「えっ、まだ59,000キロしか走っていないけど…」とわたしは必死になる。できれば一生涯つかいたいのだ。
 職場で乗っていた軽貨物冷蔵車は160,000キロも走っていた。50,000や60,000キロは未だ「小僧っ子」ではないか。


 正面

「でも20年前の車ですよ。ラジエーターも腐食が進んでいるでしょうし、走行中に水漏れでもしたら、処置なしですよ」。
 車検証をみると、「初年度検査」が昭和63年となっている。ホントだ、20年前の車である。

 わたしの二番目の妹が「まだ15,000キロしか走っていないけど、あまり使わないから」と譲ってくれ、平成5年に名義の書き換えをしている。だからわが家に来てからでも15年になるのだ。

 思い出の深い車である。

 乗り始めの頃には、息子一家が住む信州へ中央高速道をつかって何回か往復した。55才にして初めて自前の車をもったのである。
 それまでは個人的に遠出をする場合には、職場の車を借りていた。「これからはいつでも使えるぞ」と少し自慢でもあった。

「車があってよかった」と思ったのは、妻が大腸癌の手術をして退院してからのことである。
 車がわが家に来て翌年1月に「T大病院」に入院した。「照射線治療」が始まり患部が縮小して除去手術があった。
予定された時間を大幅に越えても、手術室から戻ってこない。熊本から駆けつけてくれた妻のお姉さんともども「大丈夫だろうか」と心配したものだ。
 かなり長い間、入院生活を送ってわが家に帰ってきた。このときもこの車が活躍したのである。

                  
                   横

 妻は職場を休んで家で回復を待っていた。もうそろそろ動き出そうかという頃に、大量の下血があり、緊急に病院に行くことになった。
「急がねばならない」、病院への連絡は「車の中からにしよう」と、電話の子機を持ち出した。今では笑い話だが、当時の携帯電話は「子機」ほどの大きさだった。コードレスの「子機」は、どこででも「使えるもの」と思いこんでいたから、自動車に乗った妻が盛んに病院の番号を打ち込み、予約を入れようと努力するのだが通じなかった。松戸から本郷までずいぶん努力をした。
 幸い「緊急入院」として受け入れてくれた。「照射線治療」の余波で膀胱辺りが弱くなって、そこから出血したのではないかと云われた。
 定期診察の際にも、電車での移動が不安なので車が活躍した。

 その頃がいちばん活躍したのではなかろうか。

 わたしが単独で移動するときには、もっぱら「ホンダレブル250CC」である。渋滞のときには車列の脇を抜けていけるし、駐車にも車ほど気を使わないで済む。
このバイクは車よりつき合いが深い。新車で買って20年以上、乗り回しているはずだ。「エンジンのいいのに当たりましたね」と購入したバイク屋にあきれられている。


 バイク

 これも一生物にしたいと願っている。だがこちらも「部品が無くなって修理が大変になっている」と、云われ始めた。
「それなら、これだけの年代物だからバイクも車もクラッシックカーとして引き取ってくれないか」と持ちかけているのだが、色よい返事がない。

 価値ある物だとわたしは思っているのだが、修理不能ということになれば、いずれは別れがくるのだろう。

 両方ともギリギリまで付き合いたいと年の瀬に眺めているのだ。
 
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失われしもの

2008年12月17日 | Weblog

 11月12日に右奥歯の上を抜いた。かかりつけの歯医者さんで思ったよりかんたんに抜けるのには驚いた。
 幼い頃、歯がぐらつきだすと、歯に糸を結わえて誰かに引っ張ってもらう。抜いた歯が上の歯だと屋根にむけて放りあげ、下の歯は地面に向かって放り投げるのが、縁起担ぎの儀式であった。母親にそのいわれを聞いて「なるほど」と思ってその通りにしていたが、そのなんたるかは覚えていない。

 わたしは至って歯が丈夫で、11月12日までは全部「自前の歯」であった。歯石をとるのに歯医者さんには定期的に通っていたが、虫歯もなくて「(この年になるまで)珍しい」と褒められてもいた。

 歯周病は前からあり、それを悪化させないために「歯磨き・ブラッシング」を食事ごとにやっていたから、どうやら無事に今まで保たせてこられたのだろう。

 今から3年ほど前になる。

 妻といっしょに演劇鑑賞に行き、開演を待っていた。突如として左奥歯の上が痛み出した。「終演まで我慢しよう」と思っても、痛みは募る。そのうち冷や汗まで出てくる。耐えきれずに会場を出て歯医者に向かった。
 注射を打たれなにやら処置をしてもらい、痛みはなくなった。

「梅干しの種」を噛み砕くのも、サンマを骨ごと頭から食べるのも不自由は感じなかったのに、固いものは噛めなくなった。
 漬け物を奥歯で「バリバリ」と噛み砕く痛快さを懐かしく思うようになってしまったのだ。

 抜歯してから1ヶ月が経った12月12日に、「義歯の型どりをする」予約で歯医者さんに行った。だが「抜いたところの歯肉が未だ腫れ上がっているので、それが退くのを待つ」と云うことになった。

 1月20日までは、奥歯が一本抜けたままの生活を送る。

 日常生活にはあまり不便を感じていない。だが舌先で歯のなくなった空間を探ると、それは大きくて広い。「小さいと思っていた歯一本って、大きかったのだなぁ」と意外の感にうたれる。

 抜いた歯はそのまま歯医者さんに置いてきてしまったが、昔ぐらつく「乳歯」を引っ張って抜いて、なにやら口で呪文を唱えて放り投げたようにすればよかったかなぁと思わないでもない。

「機会を逃した」かも知れないが、思えばこれからは「機会はいくらでもある」のだ。すでに反対側の同じ位置の歯がぐらついている。

 わたしも来春に「古希」を迎える。身体からすこしづつ「自前」のものが失われていく年頃となったのだろうか。

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孫たちを迎えて…

2008年12月10日 | Weblog

 磊也と慧は制服で…
 


 先週の土曜日、12月6日に親族の結婚式があり、長野から加藤木朗が駆けつけお祝い芸を披露することになった。
 磊也と慧も一緒に来る。高校1年生の磊也、中学2年生の慧はいまでは貴重な戦力となって、朗の芸能生活を支える。

「和力事務所」への公演依頼の問い合わせは、今年になって急激にふえた。

 半年ほど先の事であれば、「和力」メンバーも日程をやり繰りしてくれる余裕が少しはあり、対応できる。
 事務所として、先ずは朗の日程を確認する。そして木村俊介さん、小野越郎さんなどへは朗から連絡してもらう。
 それぞれが主催・共演・客演など多彩な活動をしているから、みんながそろう日程を確保するのはなかなか難しいのだ。

 和力メンバーのスケジュールが調整できないとき、「加藤木朗ファミリー」の出演ではどうかと依頼者に打診する。
 長野・愛知などでは、「親子舞をぜひやりたい」と、「ファミリー」名指しでの依頼も多くなり、場数を踏んでいるから舞台も安定している。

 今回の結婚式でも、磊也・慧の二人がはいれば、BGMのお世話にならず、生伴奏でさまざまな演目が可能なのだ。

 前日はわが家に泊まる。「何時頃に到着するのだろうか」、「磊也の部活が終わってからになるから、ちょっと遅くなると思うよ」と朗の答えであった。

 磊也は「柔道をみっちりやりたい」と飯田市の高校に入った。阿智村から20キロ離れている。授業が終わって帰れば最終バスに間に合うのだが、部活をすれば帰る手だてはない。アップダウンのはげしい道を自転車で通っている。
 往復40キロを毎日漕いでいるからなのだろうか、会うごとに逞しくなっている。

 高校生になって携帯を持つ磊也にメールをする。「夕飯はどうするか。今、どの辺りを走っているのだろう」、「ご飯はあった方が嬉しいです。まだ飯田市です」とすぐさま返事がきたのは、午後7時前であった。

 高速バスであれば飯田市から新宿まで4時間半くらいかかる。朗運転の道具を積んだ「ワンボックスカー」であれば、それより早く到着するにしても、午後10時半か11時頃になりそうだ。

 おでんを煮込んで待つことにする。

 到着したのは午後11時半になった。慧はすぐさま風呂に入って、磊也はおでんをおかずにご飯を食べる。食べるけれどもご飯茶碗に一膳でおわりだ。
 柔道部での重量制限があるようで、節制を苦にしていないのは偉い。

 みんなが床に入ったのは午前1時半をまわっていた。

 翌6日は8時半に家を出発した。

 高速道でお台場にある会場に向かう。途中はかなりの渋滞で10時半に着けるだろうかと心配になったが、少し余裕をもって到着することができた。


式場があるホテル

 式典でのお祝い芸も無事に済んだ。

荷積みは朗親子に任せて帰路につく。彼らはこれから長野まで帰ることになる。

 昨夜、到着が遅れたのは「あまりに眠くて、サービスエリアで一眠りしたから」、「名古屋公演をひかえて、台本の手入れや道具の製作が『間に合うか』の瀬戸際だから、毎日遅くまで仕事をしてどうしても寝不足になる。どうしようもなく30分ほど休んだ」と朗が云っていた。
 昨日から今日にかけてもかなりハードなスケジュールであった。

 そのせいか、バチが数組はいった「バチ袋」が「忘れていますよ」と連絡が入った。今まで数多くのライブ・公演に立ち会ったが「忘れ物」はなかった。
 よほどきつい日程であったのだろう。

 気をつけて過ごしてほしいとつくづくと思ったものである。
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