12月某日、高田馬場へ出かけた。
高校時代の同級生たちと会うためだ。高田馬場駅は母校の最寄り駅である。
多くの場合ここが落ち合う場所になっている。
以前は一声かかると、同級生の仲良しグループだった10人ほどが集まったものだ。
しかしいつしか物故者も出、施設に入った人もあり、だんだんに減ってここ数年は5人になっていた。
春には、5人のうちの一人が奥さんの付き添いでやってきた。
「帰りは山手線の品川方面に乗せてくれれば大丈夫ですから…」と、奥さんは帰っていった。本人は「付いてこなくてもいいのに」と、かなり威張っていたが…。
今回このW君は、外出に不安があるということで不参加だ。
メンバーは、わたしをふくめて5人、W君を除いたら4人のはずなのに、なぜ5人かというと、E子さんに付き添いが付いているからだ。
前回ももしかするとその前も、E子さんには夫君が付き添いで来ていたらしい。駅で我々と出会ったのを確かめてから、ご本人は別の場所で一献傾け終わるのを待っていたようなのだ。
そんなE子さんの携帯での様子を察知した世話役のO君が、「一緒に飲みましょうよ」と夫君に働きかけて同席するようになった。
E子さんは、同級生の中で抜きんでたマドンナであった。楚々たる風情、長い黒髪、発する言葉にも潤いがある。
この往時のマドンナも寄る年波には抗しきれず、会話にちぐはぐさがあったり、「身に着けて来たイヤリングの片方が見当たらない」と、慌てたりするのを見聞きするにつけ、「軽い認知障害があるのでは…」との危惧があった。
夫君によると、買い物に出かけても「何をしに外出したのか失念したり、ましてや電車を乗り継いで目的地に向かうのが難しくなっている」…ので見守る必要があるのだとE子さんが席を外したときに云う。
一方、わたしの最も親しいM君は杖が手放せなくなっている。
何事によらず面倒見がよく、往時は生徒会長、近年は同窓会事務局長を担い、みんなを纏める中心にいた。
地方公務員として、福祉畑を歩みつづけ、時には上司と大立ち回りもしたという豪のものである。
彼の勤務する地域での「わらび座」公演担当になったわたしの妻も、宣伝機材の調達・観客動員の手助けなどいろいろ世話になった。
息子の朗が主宰する「和力」も、彼が退職後に責任者になっていた「障がい者施設」で主催公演などをしてもらっている。
O君は高校時代、山登りの先達としてわたしたちを楽しませてくれた。新年に「ご来光を拝む」と、大菩薩峠に連れて行ってくれたのが始まりで、夏休み・春休みには丹沢山系をはじめ、いろんな所でキャンプ・山小屋を訪れることが出来た。
野山の遊びは、彼が立案・企画し地図と磁石で地形を読みとる姿は頼もしいものであった。
その野生児であった彼も身体の不自由さはないものの、軽い脳梗塞を患ったという。
かくいうわたしも、杖さえ突かないし身体のあちこちの痛みはないものの、身体の内側ではいろんな異変があり、薬を何種類も服している。
なにより悔しいのは、歩いていて誰彼に抜かれることである。自分としてはセッセと歩いているつもりなのだが、必ず抜かれる。
高校を卒業して65年有余、年が明けるとそれぞれ85才に届くのだ。
人生の最終章に差し掛かっているのは認めないわけにはいかない。
夫君のエスコートで高田馬場駅の階段を上って、改札口に向かうE子さんを見上げてつくづくそう思う夕暮れであった。