「ひびきわたり 受けつがれ」

2009年05月29日 | Weblog
 5月中旬までに郵送するつもりだった通信物を、月末になった昨日、ようやく発送することができた。
「わらび座OB・南信州のつどい」の案内状である。80通を郵便局の窓口にもちこんで、料金別納のスタンプを押し、係員に渡して一安心できた。

 わらび座に入り2年か3年、あるいは10年、20年と活動し、わたしは老いた母の面倒をみるため辞めたが、それぞれの事情で座を離れた人は多い。
 座にいた当時は、部署が違っても同じ目的を持って青春を共にした仲間たちだ。

 年1回の逢う瀬を楽しみに、20年間つづいている「わらび座OBのつどい」には、毎年たくさん集まる。
 互いの消息を伝えあい、親睦をふかめ、歌や踊りも飛び出し、夜を徹して語り明かす。

 昨年は「伊豆高原のつどい」に、沖縄から秋田までのOBが、40名あまり参加した。 その前は、04年信州安曇野、05年山形上ノ山温泉、06年滋賀長浜、07年愛知半田で開催された。
 全国に散るOBが世話人を引き受け、開催の運びになる。

 わたしは今年度の開催を引き受け「南信州のつどい」の企画を立てることになった。
 その下地は、昨年4月「和力・松戸市公演実行委員会」が、「和力の本拠地を訪問し、稽古場や畑を見てみたい」。
 あわせて朗夫婦の長男磊也(らいや・高一)と慧(けい・中二)が葛藤しながら、伝統芸能を受けつぐ様子を2年半にわたって取材した「桜の下で」が、NNNドキュメントとして放映された直後であった。
 磊也が15才の元服の儀を奉納した「『※駒つなぎの桜』を訪ねよう」と、11名の実行委員が2台の車に分乗し阿智村へ行ったことへの自信があった。
 素朴な自然があふれる阿智村を、みなさんがたいへん気に入ってくれたのだ。
※ 義経が奥州に下向するとき、馬を繋いで休んだと云われる桜の巨木。ここでの奉納の儀をラストシーンとして、NNNドキュメンタリー07が全国放映された。

 昨年のつどいは、元わらびっ子(わらび座第二世)・柳家さん若(山田耕一郎)師の落語二題が目玉であった。
 耕一郎君は朗の2才下である。わらび座で生まれ育った。両親は演技者であるから公演に出ると2~3ヶ月は留守になる。
 朗も、わたしたち両親が営業だったから、仕事に出ると3~4ヶ月は帰ってこない。

 朗・耕一郎の二人は、親がいない間わらび座の保育施設で幼児期を、学校へ行き始めてからは学童寮で生活を共にする期間が長くつづいた。
 これは朗と耕一郎の特殊事情ではなく、子どもたちの多くがそうだった。

 当時のわらび座は、年令にあわせた寮に子どもたちの生活の場があった。月曜から金曜まではそこで生活し、土曜日に親元に帰って月曜朝まで過ごす。
 両親が公演班に所属し、あるいは営業に出ていたりすれば、親が帰ってくるまでは寮での生活が延々とつづくのだ。
 
 同世代の子、上の年令の子、下の子もみんなきょうだいのようにして育った。
 

 その後、わらび座を離れた元わらびっ子もけっこう多い。
彼らは以前、お正月になると泊まりがけで横浜に集まっていた。その当時は石井総君(朗の2才上・現・備前焼作家)が横浜で本屋を任されて働いていた。
 正月期間は店を閉めているので、格好の溜まり場となっていたようだ。

「正月休みに寄るから」と朗からの連絡がはいる。泊まっていくのかと快諾して待っていると、家には寄っただけでいそいそと横浜へ出かけていく。
 元わらびっ子が集まってくる。女性たちも子連れでやってくるとの話だった。


 わらび座OBがつどいを開いているのと同様に、第二世代も年に一度の逢う瀬を楽しんでいたのである。

 わたしたち第一世代は、わらび座の基礎を築いた年代である。
わらび座で生まれ育った第二世代は、現わらび座で、演技・演奏・舞台スタッフ・制作などで活躍し、わらび座の土台骨をしっかりと支えている。
 座外の第二世代は、伝統芸能・陶芸などをめざす者だけでみると、その活動は社会的認知度を高めている。

 南信州のつどいには、朗ファミリーが出演する手はずだ。昨年は落語で第二世代目がみなさんに芸を披露した。
 朗は05年安曇野のつどいで、コマの芸をもってみなさんのお目見えを果たしたが、今回は30分にわたりご覧いただく。


 昨年に引きつづいて、秋田から松本美智枝さんが参加してくれる。わらび座保育所を創設したコンちゃんは、元わらびっ子に逢うのを楽しみにしているのだ。

 南信州の燃える紅葉の下でどのような交流が展開されるか、計画を思い描きながら、みなさんへの案内状を差し出したのである。



 
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開演までの恐怖…

2009年05月21日 | Weblog

 開演直前

 舞台用語に「板付き」(いたつき)がある。開幕を前にして、出演者が舞台で待機することをいう。
 出演者は、緞帳(どんちょう)が閉まっている舞台の「板」を踏みつつ、緞帳を通して微かに伝わる客席のざわめきを聞きながら、精神を集中させていく。
 日常の自分を捨て、役になりきる神聖な時間と場所が舞台での「板付き」なのだ。
 

 1ベル(開幕を予告する合図)が入り、程なくして2ベルが鳴ると緞帳が上がり、客席のざわめきは緞帳のあがるのに合わせるように静まっていく。
 照明がはいり音響がはいって、沈黙に閉ざされていた舞台に生命が宿る。

 舞台監督が「板付きです」と告げれば、神聖な時間と空間がそこから始まるのだ。
 開演前に緊急な作業が入っても、舞台スタッフは足音を忍ばせ声を潜めて、自分たちの動きが目につかないよう立ち動く。
 出演者でない者にとっても緊張し、神聖な瞬間となる。


 表方スタッフも同様である。時間差はあるけれど、いかに気持ちよく会場に集った方々をお迎えするかに緊張して「開場時間」を待つ。


 折り込み作業をする表方スタッフ
 
 今回の「はるかぜコンサート」では、緊張がコンサート数日前から始まった。

 5月16日(土)のコンサートに、わたしは前回に引きつづき、受付など表方のスタッフを統括する任を与えられた。
 わらび座そしてひきつづく和力の営業で、表方運営の経験があるのを見込まれたのであろう。

「東葛合唱団はるかぜ創立20周年・10thコンサート」は、森のホール21小ホール(定席516)で、13時と17時の2回、はじめて複数回の上演となった。
 チケットは、「第一回目」の分と「第二回目」が別けて発行され、はるかぜ団員を中心に普及されていった。

 はじめのうちは遅々として伸びないチケット販売だったそうだ。公演日が近づくにつれて急激に伸び始めたという。

 とくに第一回目の参加者が、客席数を大幅に上回る事態になってしまったと聞いた。
 これはただ事ではない、表方の責任者として実情を知りたい。開催5日前、5月11日(月)のはるかぜ運営委員会に出席させてもらう。

 第一回目の参加者予測は590名、第二回目は491名だと、組織担当の方から報告があった。第一回目はすでに定員を70名以上超過している。

 第一回目のチケットを買った人に「第二回目へ回ってもらった」、「心を鬼にしてチケットを引き上げた」など、はるかぜ団員は作品の仕上げに忙しい中、手分けして対策をとっている。
 嬉しい悲鳴といえるが、大幅な定員超過なのである。

 はるかぜ組織部は70名超過というが、これだけにとどまらないだろうとわたしは予測した。
 たとえば、わたしや妻がすでに現金化したチケットはこの数字に含まれているが、チケットを預けて参加するかどうか、確認していない人の分は含まれていない。その方々には無礼を詫びながらお断りするが、すでに売れてしまっているチケットもありそうだ。
「読み切れていない数字」があるはずなのだ。

 むかしだったら、「立ち見はでるけれど、これ以上のチケット販売はやめましょう」で済んだ。
 わたしがわらび座の営業をしていた頃は、世の中が大雑把というか、おおらかな雰囲気を残していた。
 観に来る人たちが多すぎて、通路と客席を隔てるドアを開け放して背伸びして舞台に見入る人たちがいても「盛況でよかったですね」と、会館の人たちも喜んでくれたものだ。立って観てくれた人も「よくやったなぁ」と、主催者に声を掛けてくれた。

 今は「定員をオーバーしたら開催はみとめられません。消防法違反になりますから」と、通路に座ることさえ断られる。

 はるかぜ運営委員会では「カウントして入場者を確認し、定員になったらストップする」という案が最初に出た。
 いい案かも知れないが、専門家でないのにカウントの機械を、カチカチと押し続けることができるだろうか。
 わたしだったらダメである。なにかに気を取られて押すのを忘れる、忘れたと慌てて押し続けてぼうだいな数が表示されるおそれもある。

「整理券を発行する」、あらかじめ定員の516まで作っておいて、それ以上になったら入場をお断りしようとなった。


 整理券持参の方への案内

 客席への入場をお断りした場合、①第二回目公演に参加してもらう②ロビーでモニター鑑賞をしてもらう(チケット代金を払い戻す)③帰る方には、チケット代金と交通費(300円)をお渡ししようと確認した。
 それと共に、鑑賞時間の変更をもっともっとお願いする、出演者の近親者であってもこれ以上のチケット普及はしない、預けたチケットを回収することが話し合われた。

 家に帰ると、わらび座で営業をしたことがある妻が「せっかく観ましょうと楽しみにやって来て、会場に入れないとなると、たいへんな混乱になるよ。チケット代を返し、お詫びに手ぬぐいなどを渡しても納得してもらえない。平謝りに謝ってもダメだったからねぇ。恐ろしいくらいの雰囲気だよ」と心配する。

 わたしはふと思い出す。05年に加藤木朗が住む南信州・阿智村で「和力・愛知万博出演・壮行公演」を、実行委員会が実施してくださった。
 村あげての取り組みとなり、早々と「満員御礼・札止め」となる。だがこの時点で中央公民館ホールの椅子席を大幅に超過してチケットが出ていた。
 観に来てくれる人が満足してくれるか、実行委員メンバーはその対策に頭を悩ませた。

 公民館から座布団を運び込み、ステージ前の収容人員を増やして乗り切っておられた。「満員札止め」になってからでも「なんとかチケットが欲しい」と、実行委員の方々の元に申し込みがたくさんあったそうだ。実行委員の親戚筋からも要請される。
「普段から親しい人だから断りにくいのだよ」と、苦悩されていた姿を思い出す。

 はるかぜコンサート開催までの数日間は、会場外にあふれるお客さんの姿を思いえがいて、心配がつのり少しつらい日々を過ごした。


 いよいよコンサート当日となる。

 受付・精算・場内・場外・身体の不自由な方の案内・花束受付など表方スタッフ20名が開場時間を待つ。

 ロビーも板付けとおなじ緊張感がただよってくる。場外係ははやばやと整理券を手渡している。

 開場時間になり、整理券番号順に入場を案内する。開場して10分過ぎて15分が経過する。列をつくっていたお客さんはほぼ入場した。
 開演10分前になる。お客さんはまばらになった。整理券番号は400番台を過ぎたが、どうやら超満員になるのは免れたようだ。「当日券」販売を解除し、すぐさま数人の方が当日券を求められた

 1ベルが鳴る。整理券発行番号は464であった。整理券の発行をやめる。開演間際に駆けつけてきたお客さんは15人ほどいた。
 516の座席に対して超過することなく、安堵の息を大きく吸い込む。


 はるかぜリハーサル風景

 第二回目は、整理券発行数が490番になった。発行をストップしてからも入場者がいたので、第一回目よりも少し多くの参加者があった。

 ロビーでのモニター鑑賞をやらずに済んだし、「会場がいっぱいだから」とお帰しする方もなく、さしたるトラブルもなくスムーズな運営が出来た。

 はるかぜ団員が、チケット移動をやった団結の力、表方スタッフは、全体の責任をもつわたしの足らざるところを補い、自律的にそして自主的に各セクションを充実させて臨機応変に臨んでくれた。

 2時間半の演目が終わる。ドアをいっぱいに開けてお見送りをする。どなたも満ち足りた表情で出口にむかっている。
「1部、2部、3部ともにどれも見応えがあった。完成度が高い。遠くからきた甲斐がありました」と、愛知からわざわざお出で下さった、はるかぜ・郷土部と親しい方が述べておられたことに代表されるように、舞台の出来栄えは抜群だったようだ。
 
 

 出演者・指揮・指導、舞台スタッフが渾身の力で舞台をつくりあげている。それを裏で支える表方スタッフの一員に加えてもらい、よき仲間と時間を共にできた喜びを満喫し、2回公演で疲れたが充実した1日となった。
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さらばミニカよ…

2009年05月14日 | Weblog

 お世話になった軽自動車

 乗り回した軽自動車との別れは5月8日であった。わたしの二番目の妹から譲ってもらったときには、購入してから5年目で15,000㌔走っていた。
 わたしが15年乗ったから、合計すると20年間、現役で走りつづけてくれたことになる。
 まだ60,000㌔しか走行していないから、エンジンは快調で悪いところはない。

「部品を探すのにたいへん苦労した。修理するにも部品がなければ、話にならないので今回の車検で終わりですね。20年前の車ですから」と自動車屋から、昨年4月の車検時に引導を渡されていた。

「引導を渡された」話をブログで書いたら、数人の方から「もしかしたら譲ってあげられるかも知れないよ」とのお話があった。
 いずれも親族の方が「車を買い換えるかもしれない」、「軽を手放し普通車にするらしい」との情報だった。

 だが買い換えを延期したり、手放す軽を親が引き取ったりなどで、ありがたい話は実現しなかった。
 来年4月末まで車検期間は有効だから、「それまでに探せばいいや」、「その内よい話があるだろう」とのんびり構えていた。

「捨てる神あれば拾う神あり」の諺どおり吉報がにわかに舞い込んだ。地域に「知的障害者の居場所をつくる」ボランティアサークルがある。
 わたしもスタッフの一人として微力を注いでいるのだが、仲間のDさんが「あまり乗らないので、娘が軽を手放すと云っている。走行距離は95,000㌔だけど…」との話をくださった。

「渡りに船」と話を進めてもらう。


 新たに譲ってもらったダイハツの軽

 4月いっぱいで駐車場との契約を止めたい、とのことであり28日に受け取りそのまま自動車屋に持ち込んだ。
 自動車屋は「連休期間に名義変更と修理を終える」と云う。

 事はトントン進んで、名義替えと修理が済んだ車を5月8日に引き取ることになった。

 今まで乗っていたのは、三菱の「ミニカ」という愛称の車だった。小さな小さな車で、後部座席に乗る人は足の置き場に困るものであった。

 だけれど15年も付き合っていると、家族同然の愛情がある。

 普段はあまり化粧もしないで走り回るから、落葉の季節になると、屋根にたまった柿の葉などを舞わせながら走る。
 登校途中の中学生たちが目を見張り、行く秋の風情を楽しんでいた光景を思い出す。
 小柄ながら働き者で、ボランティアサークルの資金稼ぎの米の配達、引っ越し、集会での資材運搬などずいぶん活躍した。

 息子の朗が住む長野へは、中央高速道を何回も往復した。「山椒は小粒でぴりりと辛い」の諺どおり、普通車をドンドン追い抜いて、悔しがらせた元気者でもある。
 わたしたちの仲間を乗せて、那須方面に泊まりがけの旅行をこれまた何回もやっている。

 いちばん世話になったのは、妻が入院加療していたときである。家族の一員としてこのときもせっせと走り回ってくれた。

 車を妹からもらって、1年ほどして大腸ガンの手術を妻が受けた。長い入院生活を終えて自宅療養になったが、身体の不具合で緊急に病院へ行かなくてはならないことが何回かあった。
 その折に活躍したのである。

 家は松戸で入院加療したのは、東京本郷のT大学病院であったから、身体の不調なときに電車、バスに乗り継いでは行けない。
 途中で気分がわるくなって周りに心配と迷惑をかけるだけである。
 車に乗れば安心して移動できるのである。

 熱い日盛りT大学病院の駐車場にうずくまり、診察が終わるのを待ってくれていた。

 ときたま疲れすぎてバテることもあった。バッテリーが上がって立ち往生したり、長野へ行ったときには知らない土地だから、縁石にぶつかってパンクしたりもした。
 家の駐車場が狭いから、柿の木に頭をこすって生傷が絶えなかった。でも、大病を患うことなく、大ケガに遭うこともなく過ごし、わたしたちと、生活を共にしていたのだ。

 引き渡し廃車依頼をする前日、名残を惜しんで妻を乗せて買い物に出かけた。

「名残惜しいね。この車にはずいぶんお世話になったから」と妻は愛おしむように車を撫でる。
 
 乗り納めの7日、妻とふたりでワンカップを買って車体に注いだ。お神酒のつもり、ささやかなお別れの儀式である。
 車体はサビが浮いたりしているが、心臓部のエンジンはまだ60,000㌔で若いのだ。第二の人生をどこかで元気に送って欲しい。

「ほんとうは、最後まで付き合いたかったのだよ。今までほんとにありがとう」と労をねぎい別れを惜しんだのである。


 借りた畑のトウモロコシ(周辺に比べていちばん元気だ)


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韓国の歌と踊り

2009年05月05日 | Weblog

 春たけなわの季節に

 コッタジ・トヌムのみなさん、ようこそ。

 5月2日、みなさんの歌と舞いを「上野水上音楽堂」で拝見しました。
「みんなが心に思っている、言いたいことをストレートに歌っている」、「今を生きていくのに勇気が出る」、「自分の生き方を見つめ直せる」と、一緒に行った妻が電話で話しています。
 本日みなさんが出演される「松戸市憲法集会に行って聴こうよ」と誘っています。

 トヌムの「農楽舞い」も民衆のエネルギーを、力強くあらわしていました。

 ありがとうございました。

 奇しくも同じ5月2日、韓国では「日本芸能和力(わりき)」が、ソウル「国立民俗博物館」で演奏を披露していたのです。
 国際文化交流の一端を担っての出演だと聞いています。

 文化を通して、日・韓両国の絆がますます強まることを期待しています。

                          日本芸能和力 事務所


 以上のコメントをつけ、和力のチラシをコッタジ・トヌムの全員18名と、通訳5人の方に5月3日渡すことができ、グループ宛てには和力パンフと和力CDを添えた。


 チラシの紹介

 和力は、5月2日に渡韓して7日まで滞在、「国立民俗博物館」の公演を軸に、幼稚園・学校、野外劇場など多様な公演をする。

 韓国での出演依頼がある、と聞いたのは4月に入ってからであった。

「ゴールデンウィークと円高の影響で、買い物目当てで渡航する人も多く、韓国便のチケットが高騰し通常の3倍の値段になっている。この影響があるのだろう、韓国の招請団体の結論がなかなか出ない」と朗が云っていた。
 招請団体としても、渡航費用のあまりに高い負担で、予算の組み替えなど論議を尽くさざるを得なくなったにちがいない。
「来週の月曜日には結論がでる」、「火曜日に持ち越された」と、ヒヤヒヤしながら吉報を待つ日がつづいた。

 航空券の予約期間が切れる間際に、招請が正式に決まってわたしたちもホットした。

 そして偶然にも同じ時期、韓国の音楽グループ「コッタジ」と踊りグループ「トヌム」のみなさんと、お近づきになれた。
 5月2日は、上野水上音楽堂で、舞台上の姿を客席から楽しんだのだが、3日には、「松戸市憲法集会」第一部に出演したあと、招請呼びかけ人である渡辺一夫さん(松戸市わらび座公演前回実行委員長)が、コッタジ・トヌムのみなさんを「戸定邸」にご案内する中に、わたしを加えてくださった。

 戸上邸は、松戸市市民会館から歩いて5分ほどの所にある。水戸藩最後の藩主(最後の将軍・徳川慶喜の弟)が1884年に建て、国の重要文化財に指定されている。
 屋敷は高台にあるから眼下の江戸川を一望し、かっては富士山も眺めることができたという。

 コッタジ・トヌムのみなさんは、来日以来、多忙な演奏日程だったので、集会出演後のひとときをゆっくりしてもらいたいとの、渡辺一夫さんがお気づかいなさっての企画である。

 先ほどの松戸市民会館での演奏は、熱気あふれるものであった。

 1200余席の松戸市民会館ホールは、ほぼいっぱいに埋め尽くされていた。
トヌムの農楽舞いがチャルメラに似た音色の楽器に先導され、太鼓の勇壮な演奏に客席は圧倒された。

 つづくコッタジの歌は、会場が静まりかえり、終わると共感の拍手がこれまた怒濤のように響きわたった。

「5月3日憲法集会」の実行委員会で、コッタジ・トヌムの説明を渡辺一夫さんがされたが、実行委員のみなさん、なかなかイメージ出来なかったようだ。
「東葛合唱団はるかぜ」の太田幸子さんが、コッタジの歌をCDなどで聞いていて「すばらしい歌のグループです」と歌の感想を話して、みなさん理解を深められたという。

 だから、市民会館を埋め尽くしている1,000人余の人々も、コッタジ・トヌムを知る人はほとんどいなかったであろう。
 わたしは「会場係」であった。座って見ることはできず、立って人垣の間から舞台をみていた。
 歌がすすむにつれて、張りつめた空気に場内がつつまれていく。凛とした爽やかな空間がすみずみまでみなぎる。

 思わず知らず、手を振り、拍子をとり舞台と客席は一体となっていく。

 言葉は十分に分からないけれど(字幕は写された)、鍛錬された歌唱力と知性にあふれた物腰、そして直截なアピールが、舞台・客席を一体にする。
 心と身体が熱く燃え上がるのを、ゾクゾクと感じたのである。

 コッタジ・トヌムのみなさんは、憲法集会が終わると、パレードの先頭に立って松戸市内を巡った。
 パレードを終え、「憲法集会」の夜の懇親会にもみなさんが参加された。この折りには、「ちょうど韓国で公演している和力事務所を紹介します」と、あいさつする時間をくださった。

 和力は、日本の伝統芸を通して、和力を知らない韓国の人々の胸に、共に生きていく喜び・勇気を、コッタジ・トヌムのように舞台から発しているにちがいないと、懇親会の席でつくづくと思っていた次第である。

 後日、朗から来た手紙の一節には次のように記されていた。

「感謝のことを韓国では『カンサ ハムニダ』と言うので、やはり、日本の文化の源流なのだと、感じました。食事もおいしくて、何度でも行きたいと思った今回の公演でした。お客さんも主催者も、大変よろこんで下さいました」…。



 和力・韓国でのポスター


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