5月中旬までに郵送するつもりだった通信物を、月末になった昨日、ようやく発送することができた。
「わらび座OB・南信州のつどい」の案内状である。80通を郵便局の窓口にもちこんで、料金別納のスタンプを押し、係員に渡して一安心できた。
わらび座に入り2年か3年、あるいは10年、20年と活動し、わたしは老いた母の面倒をみるため辞めたが、それぞれの事情で座を離れた人は多い。
座にいた当時は、部署が違っても同じ目的を持って青春を共にした仲間たちだ。
年1回の逢う瀬を楽しみに、20年間つづいている「わらび座OBのつどい」には、毎年たくさん集まる。
互いの消息を伝えあい、親睦をふかめ、歌や踊りも飛び出し、夜を徹して語り明かす。
昨年は「伊豆高原のつどい」に、沖縄から秋田までのOBが、40名あまり参加した。 その前は、04年信州安曇野、05年山形上ノ山温泉、06年滋賀長浜、07年愛知半田で開催された。
全国に散るOBが世話人を引き受け、開催の運びになる。
わたしは今年度の開催を引き受け「南信州のつどい」の企画を立てることになった。
その下地は、昨年4月「和力・松戸市公演実行委員会」が、「和力の本拠地を訪問し、稽古場や畑を見てみたい」。
あわせて朗夫婦の長男磊也(らいや・高一)と慧(けい・中二)が葛藤しながら、伝統芸能を受けつぐ様子を2年半にわたって取材した「桜の下で」が、NNNドキュメントとして放映された直後であった。
磊也が15才の元服の儀を奉納した「『※駒つなぎの桜』を訪ねよう」と、11名の実行委員が2台の車に分乗し阿智村へ行ったことへの自信があった。
素朴な自然があふれる阿智村を、みなさんがたいへん気に入ってくれたのだ。
※ 義経が奥州に下向するとき、馬を繋いで休んだと云われる桜の巨木。ここでの奉納の儀をラストシーンとして、NNNドキュメンタリー07が全国放映された。
昨年のつどいは、元わらびっ子(わらび座第二世)・柳家さん若(山田耕一郎)師の落語二題が目玉であった。
耕一郎君は朗の2才下である。わらび座で生まれ育った。両親は演技者であるから公演に出ると2~3ヶ月は留守になる。
朗も、わたしたち両親が営業だったから、仕事に出ると3~4ヶ月は帰ってこない。
朗・耕一郎の二人は、親がいない間わらび座の保育施設で幼児期を、学校へ行き始めてからは学童寮で生活を共にする期間が長くつづいた。
これは朗と耕一郎の特殊事情ではなく、子どもたちの多くがそうだった。
当時のわらび座は、年令にあわせた寮に子どもたちの生活の場があった。月曜から金曜まではそこで生活し、土曜日に親元に帰って月曜朝まで過ごす。
両親が公演班に所属し、あるいは営業に出ていたりすれば、親が帰ってくるまでは寮での生活が延々とつづくのだ。
同世代の子、上の年令の子、下の子もみんなきょうだいのようにして育った。
その後、わらび座を離れた元わらびっ子もけっこう多い。
彼らは以前、お正月になると泊まりがけで横浜に集まっていた。その当時は石井総君(朗の2才上・現・備前焼作家)が横浜で本屋を任されて働いていた。
正月期間は店を閉めているので、格好の溜まり場となっていたようだ。
「正月休みに寄るから」と朗からの連絡がはいる。泊まっていくのかと快諾して待っていると、家には寄っただけでいそいそと横浜へ出かけていく。
元わらびっ子が集まってくる。女性たちも子連れでやってくるとの話だった。
わらび座OBがつどいを開いているのと同様に、第二世代も年に一度の逢う瀬を楽しんでいたのである。
わたしたち第一世代は、わらび座の基礎を築いた年代である。
わらび座で生まれ育った第二世代は、現わらび座で、演技・演奏・舞台スタッフ・制作などで活躍し、わらび座の土台骨をしっかりと支えている。
座外の第二世代は、伝統芸能・陶芸などをめざす者だけでみると、その活動は社会的認知度を高めている。
南信州のつどいには、朗ファミリーが出演する手はずだ。昨年は落語で第二世代目がみなさんに芸を披露した。
朗は05年安曇野のつどいで、コマの芸をもってみなさんのお目見えを果たしたが、今回は30分にわたりご覧いただく。
昨年に引きつづいて、秋田から松本美智枝さんが参加してくれる。わらび座保育所を創設したコンちゃんは、元わらびっ子に逢うのを楽しみにしているのだ。
南信州の燃える紅葉の下でどのような交流が展開されるか、計画を思い描きながら、みなさんへの案内状を差し出したのである。
「わらび座OB・南信州のつどい」の案内状である。80通を郵便局の窓口にもちこんで、料金別納のスタンプを押し、係員に渡して一安心できた。
わらび座に入り2年か3年、あるいは10年、20年と活動し、わたしは老いた母の面倒をみるため辞めたが、それぞれの事情で座を離れた人は多い。
座にいた当時は、部署が違っても同じ目的を持って青春を共にした仲間たちだ。
年1回の逢う瀬を楽しみに、20年間つづいている「わらび座OBのつどい」には、毎年たくさん集まる。
互いの消息を伝えあい、親睦をふかめ、歌や踊りも飛び出し、夜を徹して語り明かす。
昨年は「伊豆高原のつどい」に、沖縄から秋田までのOBが、40名あまり参加した。 その前は、04年信州安曇野、05年山形上ノ山温泉、06年滋賀長浜、07年愛知半田で開催された。
全国に散るOBが世話人を引き受け、開催の運びになる。
わたしは今年度の開催を引き受け「南信州のつどい」の企画を立てることになった。
その下地は、昨年4月「和力・松戸市公演実行委員会」が、「和力の本拠地を訪問し、稽古場や畑を見てみたい」。
あわせて朗夫婦の長男磊也(らいや・高一)と慧(けい・中二)が葛藤しながら、伝統芸能を受けつぐ様子を2年半にわたって取材した「桜の下で」が、NNNドキュメントとして放映された直後であった。
磊也が15才の元服の儀を奉納した「『※駒つなぎの桜』を訪ねよう」と、11名の実行委員が2台の車に分乗し阿智村へ行ったことへの自信があった。
素朴な自然があふれる阿智村を、みなさんがたいへん気に入ってくれたのだ。
※ 義経が奥州に下向するとき、馬を繋いで休んだと云われる桜の巨木。ここでの奉納の儀をラストシーンとして、NNNドキュメンタリー07が全国放映された。
昨年のつどいは、元わらびっ子(わらび座第二世)・柳家さん若(山田耕一郎)師の落語二題が目玉であった。
耕一郎君は朗の2才下である。わらび座で生まれ育った。両親は演技者であるから公演に出ると2~3ヶ月は留守になる。
朗も、わたしたち両親が営業だったから、仕事に出ると3~4ヶ月は帰ってこない。
朗・耕一郎の二人は、親がいない間わらび座の保育施設で幼児期を、学校へ行き始めてからは学童寮で生活を共にする期間が長くつづいた。
これは朗と耕一郎の特殊事情ではなく、子どもたちの多くがそうだった。
当時のわらび座は、年令にあわせた寮に子どもたちの生活の場があった。月曜から金曜まではそこで生活し、土曜日に親元に帰って月曜朝まで過ごす。
両親が公演班に所属し、あるいは営業に出ていたりすれば、親が帰ってくるまでは寮での生活が延々とつづくのだ。
同世代の子、上の年令の子、下の子もみんなきょうだいのようにして育った。
その後、わらび座を離れた元わらびっ子もけっこう多い。
彼らは以前、お正月になると泊まりがけで横浜に集まっていた。その当時は石井総君(朗の2才上・現・備前焼作家)が横浜で本屋を任されて働いていた。
正月期間は店を閉めているので、格好の溜まり場となっていたようだ。
「正月休みに寄るから」と朗からの連絡がはいる。泊まっていくのかと快諾して待っていると、家には寄っただけでいそいそと横浜へ出かけていく。
元わらびっ子が集まってくる。女性たちも子連れでやってくるとの話だった。
わらび座OBがつどいを開いているのと同様に、第二世代も年に一度の逢う瀬を楽しんでいたのである。
わたしたち第一世代は、わらび座の基礎を築いた年代である。
わらび座で生まれ育った第二世代は、現わらび座で、演技・演奏・舞台スタッフ・制作などで活躍し、わらび座の土台骨をしっかりと支えている。
座外の第二世代は、伝統芸能・陶芸などをめざす者だけでみると、その活動は社会的認知度を高めている。
南信州のつどいには、朗ファミリーが出演する手はずだ。昨年は落語で第二世代目がみなさんに芸を披露した。
朗は05年安曇野のつどいで、コマの芸をもってみなさんのお目見えを果たしたが、今回は30分にわたりご覧いただく。
昨年に引きつづいて、秋田から松本美智枝さんが参加してくれる。わらび座保育所を創設したコンちゃんは、元わらびっ子に逢うのを楽しみにしているのだ。
南信州の燃える紅葉の下でどのような交流が展開されるか、計画を思い描きながら、みなさんへの案内状を差し出したのである。