紅(暮れない)の打ち逃げin名古屋

2017年09月29日 | Weblog


 9月16日(土)、名古屋市「東別院」で開催された「和力」公演に行った。
妻の和枝は「ぜひ行きたい」と前々から楽しみにしていたのだが、わたしの単独行となった。
なぜかというと、「非常に大きく強い台風」が九州地方に甚大な被害を与えており、これが日本列島を縦断するだろう予報が出たのだ。
妻の姉さんが住む熊本県水俣市では、住民全員の避難勧告が出て、妻が姉さんとしきりに電話でやり取りをしていたのが前夜のことである。
「台風が来るとどんな事態がおこるか知れない。迷惑をかけてしまうおそれがあるので、名古屋行きは中止にする」と、妻は決断したのだ。
元気者でならしていた妻は、2年ほど前から「足腰」の不調に見舞われるようになり、鍼灸院や整骨院に通う身となっている。
気力は充実、なにごとにも挑戦する気概は前にもましてあるのだが、足腰の痛みがつらい。
そんな訳で残念ながらわたしの単独行となったのである。
わたしが出かける時は曇り空ではあるが雨・風はなかった。

 新幹線ホームで駅弁を買う。わたしの大好物「品川名物・貝づくし弁当」である。新幹線で出掛ける楽しみの一つはこの「貝づくし弁当」を食べることだ。新幹線が発車、おもむろに包みを解いてまずは帆立の甘辛煮を食する。
新幹線ひかり号が停車した「三島駅」では、まだ雨は降っていなかったが富士駅を通過する頃、車窓に雨粒が当たりだした。
名古屋駅に到着。地下鉄で「東別院駅」をめざす。
「東別院駅」の地上に出ると大粒の雨が傘を叩くが、幸いにも風はない。信号を渡ると、はやそれからが「東別院」参道となる。
参道を5分ほど行くと、「東別院ホール」が右手に現れた。「和力はここでやるのだろう」、記録用にとカメラを構えた。
傘をさす二人連れのご婦人がいて「もしや和力公演にお出でになりますか」と声をかけてくれる。
「そうです」と答えると「和力公演の会場はもう少し先です。ホラ自動車が出てきた所です」と50メートルほど先をさし示す。
そこにも案内の方がいた。雨の降る中ほんとうにありがたいなぁ……と心でつぶやき大きな門をくぐる。



 名古屋市での「暮れの打ち逃げ」和力公演は、14年目を迎えた昨年で一区切りにしたという。
年末は「忘年会」などもありなにかと忙しい。それで「暮れない」=「紅(くれない)の打ち逃げ」公演として9月に、名古屋と飯田市で開催されたのだ。
わたしはわらび座での営業経験から、年末の公演がよくぞ14年間もつづいたものだと今でも驚いている。
わらび座で全国公演を企画していた時分には、「ゴールデンウィーク」・「お盆」・「年末年始」は、集客が困難であるので「興業の鬼門」として公演企画を避けていたものだ。
とくに年末12月は、月の初めから公演の企画はせず、外すのが当たり前だった。
名古屋の「暮れの打ち逃げ」公演の第一回目は、2003年12月28日(日)であったのには仰天した。「御用納め」の日、暮も押し詰まる1年でもっとも慌ただしい時期に、果たして公演は成り立つのだろうか……と危惧しながらわたしと妻は名古屋に向かった。
地下鉄から地上に出ると、木枯らしが吹き荒れて「寒い」と思わず首をすくめたものである。会場の「千種小劇場」には開場を待つ大勢の方が並んでいた。客席はいっぱいになったのだ。
それから14年間、連続して「暮れの打ち逃げ」公演が開催されたのは、実行委員の方々の大きな苦労があってこそだっただろう。



「暮れの打ち逃げ」を引きつぐ「紅(くれない)」公演は、稔りの秋に開催となり、はやりの言葉でいうと「リニューアル」されて再出発、実施会場もホールではなく寺院となった。
広々とした階段をのぼり本殿にはいると、祭壇前は黒い仕切り幕で遮られ、太鼓・マイクが設置されている。
客席前方は座布団が敷き詰められ、後方はパイプ椅子が並べられ、雨降る中ほぼ満席のにぎわいであった。
 第一部の幕開けは、「こまの芸」である。この大道芸でお客さんの緊張を和らげ、以後の演目に集中してもらう、和力おはこの演目なのだ。
道行く人を、独楽の曲芸で引き留め、さらに巧みな話術で「歯磨き粉」を買う気にさせる「こまの芸」は、博多での「大道芸」であると聞いた。
この作品も「リニューアル」された。
宙高くこまは廻りつづけ、無事に演者のてもとに帰還した。お客さんもホッとしたのか大きな拍手を贈る。
演者が突如云いだす。「実はわたしは『宇宙人』なのです」。客席は「今度はなにを云いだすのか」「ええっ」と軽く笑う。
演者は「宇宙人」と「地球人」を使い分けて落語仕立てでストーリーを紡いでいく。
香具師の口上、落語、独楽の曲芸の三者が一体となる作品に転化したのには、今まで「こまの芸」に親しんできたお客さんたちも驚いたことだろう。
 つづいては、津軽じょんから節即興曲である。
こまの芸は「平土間」(客席とおなじ平面)で行われたが、津軽三味線の演奏は、舞台用語でいう「サブ・ロク」の台上で行われた。サブとは横幅が三尺(90cm)・ロクとは縦が六尺(180cm)のことをいう。人の腰ほどの高さで「サブ・ロク」は二面つくられていた。
その台がある時は一面になり、ある時は合わせられて二面が合体し、その台上で演奏・演舞されるのだ。
ホール公演では、舞台が客席より一段高くなった所で演じられる。平土間では客席から演者の足元が見えづらく、上半身しかみえない視角が多くなる。
この工夫も大成功であったように思う。



 合奏曲「忍者」は、サブ・ロクの一面に越郎さん、もう一面に木村さんが座り二面を使っての演奏であった。
 つづく「音舞語り『盆』」も意表を突く展開である。「だんじり囃子」が終わると、ピィポー、ピィポー、救急車両の音色を木村さんが笛で奏でる。越郎さんがハンドルをさばく動作で朗の許へ、聴診器をあてるがチィーンと鐘を叩いて手を合わせ黙とう。
朗演じる亡者が嘆く。「お盆の初日、家内が迎え火を焚き呼んでくれた。しかし盆が終わるのに送り火を焚くのを忘れて、わたしはさまよい歩き成仏できないでいるのだ」。
すると、彼岸の世から「未だお帰りではありませんね。お盆の期限が過ぎれば永遠に成仏できませんよ」との声が掛かる。
「個人情報」を「あなたはすでに亡くなっているので『故人情報』なのですよ」などのやり取りの末、「家内に送り火を焚き忘れている事を知らせるため」、サブ・ロクの一面の台上で深編みがさを被り踊る。でも気がつかない。次には「ぢゃんがら念仏踊り」を台上で舞う。
舞台上での舞も、大きな移動なしにやられているのだが、せまいサブ・ロク台上での舞は優婉にして見応え充分であり、彼岸の世からのナレーションは、滑舌なめらか、聞くに心地良いものであった。

 第二部も「火伏せ舞」(えんぶり・先舞・荒馬踊り・さんさ踊りをモチーフに)があらたな構成として統一され、つづく「音舞語り『案山子』」(宮沢賢治・鹿踊りのはじまりに触発され)が、子鹿とお兄さん鹿の案山子をめぐっての肝試しが楽しく演舞される。
「カンサンクル」(楽打ち・虎舞・番楽をモチーフに)で、舞台は閉められた。
 独立した演目がひとつの総合体として紡がれ、またかっては町の辻や寺社の境内で演じられた芸能を、寺院の畳敷きの場で観られるのも一興あると感じる「紅」公演であった。
 
「見込んでいた座席数では足らず、ご迷惑をおかけしました」と終演のあいさつでお詫びしたが、見回すと開演前より椅子席がかなり追加されていた。

 飯田市でご覧になった今牧正則さんが「いや~昨日の『紅打ち逃げ公演』は凄かった!過去最高の舞台だったんじゃないかな~ 本当に良かった」とFBで舞台写真を掲載し、このようにコメントしてくださっている。和力を支えつづけて下さっている方の至言をありがたく思いながら読んだ。


 
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