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独り身での緊急入院

2024年11月14日 | Weblog

 

 10月第二週の10日(木)、体調は夕刻までなんの変りもなかった。

「さて寝るか」…床にはいるとお腹の張りが気になる。と同時に上腹部に鈍痛がはしる。仰向け、うつ伏せ、左向き右向きになってもシクシクした痛みは去らない。

痛みを和らげるのに転々とし、終いには起き上がり様子をみるがなんの効果もあらわれずとうとう一睡もできず朝を迎えだ。

11日(金)、9時過ぎに折よく訪ねてくれた知人に、掛かりつけの総合病院へ送ってもらう。

 

 CT.検査の結果、「胆管結石」と判明、即入院を命じられる。

いやはやこれは困った。よもや入院になるとは思いもしなかったのでなんの準備もしていない。

着のみ着のままだし、痛さにかまけて台所の洗い物は水に漬けたままだ。

何よりの気がかりは同居する娘猫2匹。

1時間以内に戻ってくるので帰宅できないか」と看護師さんに聞く。「先生に問い合わせたが『このまま入院』とのことです」。

 

 病室に案内されいろいろな書類にサイン。

病衣やタオル、バスタオルなど手軽にレンタルでき、家から持ってこなけければならないものはほとんどない。病衣に着替えてベットイン。

急な入院で家はもぬけの殻、娘猫たちの世話をどうするかが一番の気がかりだ。

 

 地域の仲間たちの助けがありひといきつく。

この地に移り住んで以来の仲間たち、その仲間たちが手分けして面倒をみてくれることになった。

Dさんは朝晩猫の食事の世話、Fさんはわたしが担当する週一回の新聞配達を引き継いでくれた。10軒余りの読者の所在を病院まで打ち合わせに来る。その際、携帯電話の充電器や歯ブラシなどを持ってきてもらう。

 

 これで家の懸念材料はなくなった。

 

 夕刻になると数人のスタッフが待ち構える部屋に案内され部分麻酔、カテーテルが挿入されたそうだ。結石で分泌物が通りにくくなっている部分をこれによって凌ぐようなのだ。晩飯は絶食。

前夜一睡もできなかったが、この施術によって安眠できるのはなによりである。

寝床に入りながら思ったのは、11日(金)に診察に来た幸運である。土。日、月(祝)で病院は3連休になっていたはず、「金曜に受診できてよかった」とつくづく思い寝入った。

 がしかしこの5人部屋には年配の重症者が3人いて、隣のベットのおじいさんはカラオケに行っている気分なのか低い声で唄を歌う。

音程もよいから聞き苦しくはないが眠るには邪魔だ。ほかの二人は痰が絡まるせいなのか

看護師さんを呼んで吸引してもらう間隔が短い。。

家で寝入る際には、娘猫どもが布団に入り込んだり、薄くなったわたしの髪の毛をねぶったりしての妨害はいつものことだが、病室の騒ぎは愛猫どころではない。

それでもいつしか寝入って朝を迎えた。

 

 朝ご飯はお粥250gにおかずとみそ汁で、このパターンが4日間つづく。このおかゆ250gは手ごわい。なにしろ無味無臭なので完食するのに難儀だった。食べづらいといってもわたしは戦後の食糧難時代の育ちだから、食べ残すことなくいつも完食。

それと同時に一日8,000歩のウォーキングは、入院当日は出来なかったが2日めからは点滴の棒をひきずりながらやりおおせた。

信州に住む息子の朗は「仕事の目途をはやくつけて駆けつける」と云ってくれていたが、往診の際先生に聞くと「経過は良好だからわざわざ来なくてもよい」とのお墨付き。

入院6日目に退院となった。経過をみて結石の除去手術を決めるというからもう一回入院はある。

 

「退院時には車をだすから」と仲間の何人かは云ってくれたが、「病院の廊下をグルグル歩き回るのに飽きたので、電車に乗り歩いて帰る」と、リュックに荷物を詰め込み久方ぶりに街中をウォーキング。

家への路地を曲がると、なんと足音を聞きつけたのかサラが「ミャ、ミャ」みじかい鳴き声を上げながら走り寄ってのお出迎え。ウリも大きな目を見張りながらほほを擦りつけてくる。

思いなしかサラとウリは数日間、わたしの傍にべったりだったように思う。

 

 妻亡き後、独り身での生活。なにかと不安なこともあるが、頼りになる地域の仲間たちにこれからもお世話になりながら過ごしていける安心がある。

 

 

 

 

 

 

 

 


車を手放す

2024年09月07日 | Weblog

 

 わたしは「わらび座」在籍時、30歳前半で普通運転免許証を取得して以来、85歳までいろんな車を乗り回してきた。

わらび座時代には座が所有する普通車で、大阪界隈、和歌山・鹿児島・宮崎などを営業で駆け巡ったものだ。

座を辞し会社員生活をした45歳代から65歳までの20年間は、会社の冷凍車などで東京都内を走りまわった。

 

 自分の車を持つことなど夢のまた夢、そんなことありえないことだと過ごしていた。

だが、ひょんなことから自分の車を所有することになる。

商売をしていた二番目の妹が、「あまり使わないから欲しかったらあげる」と軽自動車をくれたのが、1993年わたしが54歳のときである。

妹の稼業で5年使用、走行距離は15,000㌔の軽自動車「ミニカ」であった。

家に車は来たけれど、わたしはもっぱら250㏄の自動二輪「ホンダレブル」を愛用して、出番はあまりなかった。

車を持つありがたみを知ったのは、車を貰った翌年19941月に妻・和枝が大腸がんで入院・手術そして退院してからである。

大手術を経て自宅療養の折、出血などの障害が起きる。お世話になった病院に連絡し診察の予約をとり、車で東京へ向かう。ほぼ一時間の道のりだ。その折、この軽自動車がたいへん役立った。

妻の病状が回復してから、息子・朗が一家を構える信州へ高速道を何回か行き来もした。

「形式が古くなって部品の調達が出来ない」、「ミニカ」との別れは、20095月でわたしが乗り回した期間は15年間に及ぶ。走行距離数は60000㌔になっていた。

(※200954日掲載ブログ「さらばミニカ」参照)

 

 車所有の便利さを知ったわたしは、ミニカ廃車前に知人・友人に手放せる車はないかの大宣伝を始めた。

いろんな情報が入って来て、なんどかぬか歓びの場面があったが、「捨てる神」に巡り合えたのである。

わたしの住む地域で同じ志の行動を共にするお宅で、「娘が乗っていた軽自動車を廃車にすると言っている。どうだろう」とのお声がかり、「拾う神」はさっそくとびついた。

娘さんが10年間乗り9万キロ走破の「ダイハツムーブ」をもっけの幸いといただく。

修理費用はかなりかかったが、わが家専属の第二号がやってきた。2009年わたしが70歳のときである。以後20208月までの14年間お世話になった。

特にこの車は後半になるほど、その重要性が増すことになる。

 妻は78歳までパート勤めで、看護師として都内の「ディサービス」に勤めていた。そのうち足腰の痛みが出てくるようになり杖がてばなせなくなり退職。

妻は明朗闊達、読書にもめがないが、観劇・音楽鑑賞、絵手紙・ヨガ、地域での社会変革活動にと動きまわっていた。

自転車、バスを利用しての移動だったが、足腰の不調で自転車は不安でのれなくなりそのうえ、毎日のように整骨院への通所があり、病院への通院が増えた。

わたしは80歳で妻が通っていた都内のディサービスでの、介護・送迎の職を辞したのでフル回転で妻の移動を助けることが出来た。

20208月の早朝、わたしは地域に定着以来つづけている、ボランティアにちかい「新聞配達」に出る。

途中まで順調に走行していた車が、突然にガクッときてハンドルを取られた。エンジンを切り降りてタイヤ周りを目視するが分からない。

さて車を始動させようとキーを回すがかからない。なんとか押して車を道路の片隅に寄せる。交通量の多いところでなく幸いであった。

修理工場に引き取ってもらい診断の結果、「修理するには莫大な費用が掛かる。それに部品集めができるかどうか」との頼りない答えだ。

2009年から2020年までの11年間、総走行距離数14万キロ「ダイハツムーブ」とのお別れになる。わたしの81歳のときである。

{※くるまのへたりで…20208月のブログ)

 

 もはやわが家で車は必需品になっている。修理工場に代車を借り中古車両を探してもらう。

当今、中古車が少なく値も高騰しているという中で、「ススキワゴンアール」を入手。情報によれば年配の持ち主がセカンドカーにしていたものだそうで、走行距離は13000㌔余り、ただ年式は古く13年前のものであった。古いから税金が高くなっているせいか、落札できたそうだ。

この車は、わが家に来てから1年は今まで通りの活用であったが、翌202210月に体調を崩した妻の病院通いに、もっぱら使われるようになる。

ひんぱんに病院通い、そのうち在宅医療・在宅看護を経て20221月に入院。体力回復を待ち、手術をするとのことであったが、入院2ヶ月後の2023328日。82歳で力尽きてしまった。

いつもいつも助手席には妻がおり、「桜の蕾がふくらんできたよ」、「そんなにスピードださなくても間に合うから」…なんでもない日常の折節の会話がなくなってしまった。

 

 妻が逝き、思い出が深すぎる車、それに妻の移動がなくなった車、庭の駐車場に鎮座する時間が多くなった車…。

運転にはまだまだ自信があるがわたしは85歳になる。免許証の有効期限はまだ2年半あるが、20247月に信州に住まう息子の朗に引き取ってもらった。

ワゴンアールのわが家での滞在は3年半ほどで、総走行距離は30,000㌔をわずかに下回っていた。

 

 


猫通説はまことか

2024年07月04日 | Weblog



「猫は死に際をみせない」……という通説を聞いた覚えがある。ほんとうにそうなのだろうかと以前のわたしだったら思っていただろう。

しかし猫と暮らしはじめて10年になる今では、疑うべくもない真実だと断言できる。

身近に2例あったからである。



 わが家が猫と同居し始めてほぼ10年になる。

息子の朗が「猫を飼ったらいいよ、それも複数だとベターだ」と勧めてくれた。遠くで暮らす、70才を越えた老夫婦の心のよすがになるだろうとの心遣いであった。

信州に居を構える朗宅では、猫が5匹ほどにぎやかに暮らしている。

わたしと妻はさっそく「動物愛護センター」に申し込み2匹の雌猫をもらい受けた。

掌にちんまりのる500gほどの子猫たちである。

家に帰り放すとすぐさまに追いかけごっこをして賑やかだ。疲れるとなんと下駄箱の靴に入ってひと眠り。

もちろん二階への階段を登れない小ささであった。

出没していたネズミも子猫をバカにしたのか、台所のジャガイモなどをかじり放題、天井裏の運動会も相変わらずであった。



 子猫も少しづつ大きくなって、階段を登れるようになったらいつの間にかネズミは退散。

入れ替わるようにわが家の縁側に姿を現したのは、茶寅の雄猫である。美形のわが家の娘猫に気をそそられたのだろう、縁側に座り家のなかをのぞき込む。

飼い猫ではなさそうだが、わたしたちに物おじしないで、顔を合わせるとかすかに鳴く。「ミャー」と云っているようだがかすれ声である。

かすれ声の歌手、森進一に因んで「シン」と名づけて、食事を提供するようになった。

しばらくするとこのシンガ、小柄なキジトラの雌猫を連れて来た。

「この家は安心だよ」と云わんばかりに、自分は縁の下の地面にいてこキジトラ猫を縁側の上にあげ食事をするのを見守る。彼女が食べ終わるとやおら自分が食べ始める。

シンは男気のある猫であるのだ。

キジトラ猫もわが家の常連になり、食事はシンと共にわが家ですませるようになった。このキジトラ猫は目がパッチリの美形だと、妻が「寅さんシリーズ」の浅丘ルリ子演じる「リリーさん」に因んで「リリー」と名づけた。



 わたしも妻も勤めに出ていたから昼間は留守になる。

すこし薄暗くなる時刻に帰宅、大通りから自宅のある路地へ曲がると、シンあるいはリリーが待ち受けていて先に立ってダッシュ、家の庭を回り込んで縁側の皿の前にチョコンと座り込んで食事のさいそく

 リリーはこの間、早々と4匹の子を産んだ。行方不明になった一匹を除いて三匹をリリーの隙をついて保護、全員雄猫であった。里親を探すのは大変だったがようやく二匹をもらい受けてもらい、一匹は去勢手術をし三匹目の子なので「サン」と名づけてリリーの元に帰した。

里親を探す大変さを味わい、リリーの避妊手術をしようとしたが、保護するのにたいへん苦労した。朗が罠を仕掛けてようやく獣医師にあずけられた経緯は別途の記録がある。



 わが家に縁側には、「シン」、「リリー」、「サン」、それに向かいの家の飼い猫をふくめて4匹が仲よくつどい、食事の世話、水やりに大忙しであった。

このうち向かいの飼い猫はその家で老衰死。

サンは2才くらいの時、縁側にある猫用の小屋の中でぐったりしていた。妻が小屋から抱き取り、脱脂綿にしみ込ませた水を与えたりしたが、妻の腕の中で息絶えた。

シンとリリーはその後、7年ほど仲睦まじく暮らす。



 20208月リリーを見かけなくなった。

それ以前からリリーは、通常のカリカリ餌を食べにくそうにしていた。それで柔らかい食材がよかろうと、リリーだけには缶詰の食事に。

何ヶ月かそういう状態でいたが、ある日からばったり姿を見せなくなったのだ。

リリーが居なくなって4年、今年の1月中旬にサンが姿を見せなくなった。

サンはこの頃、縁側には来るが食事の量が少なくなり、ほんの二口、三口しか口にしない。

水はよく飲んでいたから、わたしはてっきり、ほかにお世話するお宅があり、そこで食べるようになったのだろうと思っていた。

しかしいくら待ち受けても再び姿を現すことがない、身体の不調で食がすすまなかったのに違いない。



 親しく過ごしてきたリリーとシンの失踪は、世にいう「猫は死に際をみせない」…に当てはまるのではないかと考えている次第である。






人生100年と云われるが

2024年06月05日 | Weblog

 5月末にわが家の固定電話を解約した。ひきつづき7月には愛車を手放すことになっている。

「終活」と云おうか、必要度が減ったものを身の周りから削いでいく事に手を付け始めた。

固定電話は、妻が健在の頃にはある程度使われていた。妻は多趣味で「絵手紙」、「ヨガ」、あるいは音楽や演劇の鑑賞団体からの連絡、友人も多かったから使用頻度も高かったが、妻が逝って1年余が過ぎて振り返ると、用もない着信だけになっている。

主には「不用品はないか」、「家のリホーム」、「墓地・墓石」の案内などだ。

電話料金請求書を見ると、一か月間の通話料は47円にすぎない。こんだけなのに基本料金などを支払うのは「無用の長物」ではなかろうか。

大方はスマホで用が足りるので、ちゅうちょすることなく解約手続きを完了した。



「愛車」を手放すについては、あれこれ考え迷った。

わたしは元気なうちは「生涯ドライバー」を目指していたからだ。

「高齢者は早いとこ免許返納せよ」との世に抗い、「高齢者と云えども個人差がある。ぜんぶ一緒くたにするな」、長年のゴールド免許保持の誇りもあり二年後の次の免許更新を視野に入れていた。

ところがこの件でも妻の存在が大きかったのだ。

妻のスケジュールはいっぱいだった。週に2回は趣味の会がある。足腰の痛み治療にほぼ毎日「整骨院」へ通所、月に数回の病院へ通院など、一日に何回かはは車の出し入れがあった。

妻亡き後、わたしが理事を務めていた障がい者施設の所長の送迎が仕事としてはいり、愛車の活用度が増えたが、所長の入院加療で5月からその仕事はなくなった。

40年ほどつづけている、週二回のボランティア的「新聞配達」に使うだけの状態になってしまったのだ。

わたしはウォーキングで一日八千歩を欠かさないから、買い物などは歩いてすませているし、荷物がかさばるときには妻が愛用していた自転車がある。

愛車の一年間の任意保険は、高齢者だから高めに設定され9万円強かかり、二年に一回の「車検」費用もバカにならない。

 妻が存命中は妻の年金、わたしの年金を合わせて人並みの生活を過ごせていた。

妻は看護師で国家資格保持者だったから、わたしの年金より多かった。

わたしの年金だけでの生活となると、よほど目配りしなければならないのだが、節約にも限度がある。

同居のむすめ猫2匹は、主食のカリカリよりもおやつに目がなく、皿の前に座り込んでさいそくに余念がない。

サラは「カニカマ」、ウリは「煮干し」とそれぞれに好みのおやつがちがう。これがけっこう高額なのだが、無くすわけにはいかないのだ。

前には訪問猫が4匹いてその賄いもしていたが、いまは寂しいが居なくなった。

家のローンは払い終わり、家賃の支払いがないだけが救いである。



 身の周りから削ぎきれないものはたくさんあるが、これからも削ぐことに目を光らせ「人生100年時代」に備えていこう。

いつなんどき「閻魔(えんま)様」の気が変わってお召があるかも知れないが、わたしは今年85才だから残りは15年ほどありそうだ。

わたしが者ごごろついた時分は「人生50年」と云われていたように思う。しかしこれは勘違いかも知れない。

織田信長が戦に臨む際に「人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり……」と舞い謡って出立したと史実にある。

信長が逝ってわたしの世代までは400年以上の間隔があり、いくらなんでも400年間にわたり寿命が同じだとは思えない。

だがわたしの者ごごろついたのは、先の戦争が終わった時期である。若ものも年配者も無理くり戦場に送られ死に追いやられた。

わが国だけの戦死者は310万と云われている。これらの影響で「人生50年」となったのかも知れない。



 わたしのことで言えば、なんどか死地を超えてきている。

幼少期は東京下町の向島に住んでいた。父のはからいで母の実家がある、新潟に縁故疎開していたから、下町一帯で死者10万人をこえた東京大空襲の難から逃れられた。

長じては、40代後半の医療検査で「大腸ポリープ」の切除をやり、以後なんかいかにわたって切除してもらった。この検査・切除がなければポリープのガン化にいたり「人間50年」で終わったことだろう。

更にはまた、80才の折、市の「健康診査」で「肺ガン」が見つかり、早期発見で患部が摘出された。 

 かくかように幾多の試練があったが、世の進歩のおかげでわたしの今がある。

本来であれば身の回りの物をあれこれ「削ぐ」算段をしないで、過ごしたかったものだ。

「人生100年」を、苦労してでも一緒に目指したかったよ…妻の写真に語りかける日々である。






久方ぶりの「和力」東京公演

2024年03月30日 | Weblog

 

 2024323日(土)、「内幸町ホール」で和力東京公演が開催された。

前回の東京公演は、20189月、「ザムザ阿佐ヶ谷」での公演であるから、実に5年ぶりとなる。

コロナの蔓延があり、人が集う企画は絶無になる月日が長くつづいた。

 

 昨年の初め、和力主宰、わたしの息子・朗から要請があり、「内幸町ホール」の会場使用抽選会に臨んだのは昨年3月の初めであった。

幸いわたしのくじ運が良くて、希望する土曜日をゲットすることが出来たのである。

 

 公演日を20日後に控え心配事がもちあがった。

チケット管理をしている平澤久美子(加藤木朗・塾生)さんから、「あと30席で完売」とのメールがはいりわたしはあわてた。そして次のように打電。「完売を目指すのは危険。指定座席でないので、いっぱいいっぱいだと、席を探す方の緊迫感もあり会場が落ち着かない雰囲気になる」。久美子さん「あと10数枚販売しないと赤字になってしまう。会場内での席探しはなんとかスタッフの力をお借りして…」。

 公演日11日前、久美子さん「チケットは当日券を除き後11席で完売」。

 公演日9日前、「当日券分を除き東京公演完売した。ここで『満員札止め』の告知に入る」。わたし「開演日まで10日ほどある。スケジュール上迷っていた方が申し込んでくる時期だ。会場側は消防法の観点で立見は許してくれない。申し込んで来る方とのトラブルなきよう…」。

 

 「和力」は知る人ぞ知ってはいるが、無名のユニットである。

キャパシティー200席弱の規模ではあるが、チケット発券前は「果たして席を埋められるだろうか」の危惧は少なからずあった。

チケット前売り価格が5,000円に設定されたことも、集客にどう響くだろうかの懸念につながる。

なんとなれば、わたしたちが勧進元として取り組んできた公演は、長きにわたって一般前売り3,500円であった。

ホールの客席数が少ないので一席当たりの単価を上げないと採算割れになってしまうために設定された価格であろうが、旧態依然たるわたしは思い切った価格設定に度肝を抜かれる思いもあったのだ。

 

 それでもわたしとわあたしの弟・雅義が勧進元になり、東京では、「吉祥寺シアター」・「武蔵野公会堂」・「練馬文化センター」・「練馬ゆめりあホール」など公演を積み重ねてきており、熱心なファン層の存在も実感している。

公演の度毎に回収するアンケート用紙に記入いただいた方々を中心に、数多くの人名簿を「和力松戸事務所」のわたしが管理、東京をはじめ首都圏での公演の折には、この人名簿をもとに「ご案内」を発送し集客に励んできた。

その人名簿財産が今回の5年ぶりでの公演で力を発揮してくれたのだ。

 

「満員札止め」になった今回の取り組みで二つ成果を挙げたのではないかと、わたしは考える。

 

 一つは、「チケット販売の一元化」にある。

今回の公演主催は、信州に拠点を置く「和力」本体であり、チケット申し込み・お問い合わせ窓口は「和力塾生」の平澤久美子さん、櫻田真央さんであった。

従前であれば「和力松戸事務所」のわたしは、本体からチケットを預かり「和力松戸事務所」の人名簿を活用して集客に励んでいたものだ。

しかし今回は、公演周知案内もチケット販売も和力本体でのみで行なう。

なぜなら、余裕ある席数の会場であれば、相互で進めて問題はないが、200席弱と限られた席数なので、リアルタイムに席数の推移を把握し対策を講じなければならない。

この策によって数のぶつかり合いなくスムースに終局まで持って行けたのではなかろうか。

 

 二つ目には、首都圏での和力公演の支持者台帳の移管が思いがけずはかれたことにある。

過去の和力公演で蓄積した人名簿は「和力松戸事務所」に保管されていた。

「チケット販売一元化」によって、この人名簿の財産を和力本体に移管でき、これを元に和力営業担当の平澤久美子さん、櫻田真央さんが活用して「満席」につなげた。

わたしは間もなく85歳になる。「人生100年」と云われているが、いつなんどき閻魔(えんま)様のお呼びがあるか知れない。

そうなったら、営々として築き上げてきた財産は人知れずお釈迦になってしまうところだった。

 

 わたしは表方の責任者として、舞台を観ることはできなかった。

舞台際のドアーの前に座っていると、舞台とお客さんの交歓の様がまざまざと伝わってくる。

一年前に逝った妻・和枝が同席したなら、彼女は舞台をどれほど楽しんだだろうか…とふと思う。

 

 心配した雨も完全に上がったようだ。

 


ゴールド免許失効

2024年02月29日 | Weblog

 

 テレビ番組で好きなのは、NHKBSの「ワイルドライフ」や「ダーヴィンが来た」あるいは「世界ネコ歩き」など動物が活躍するものである。

象やキリン、ガゼル・シマウマ・野牛、ペンギン・白熊・アザラシ・シャチなどの生態を食い入るように見る。

なかでもライオンやヒョウ、チーターなどネコ科の動物に目がない。

なんとなれば、家で同居している娘猫二匹の親戚筋だからである。顔だち姿態が似通っている。

遠くを見つめる様子、臥せっている様、毛づくろいや仲間同士でのパンチの応酬など、大きさは違うが瓜二つなのが親しく感じるのだ。

ネコ科の動物が草や木の遮蔽物に身を潜ませ、獲物の接近を待ち伏せ襲いかかる。襲いかかられる方に同情はするが、俊敏な狩りの姿は優美である。

 

 人間社会でもネコ科の習性をひたすら研究し仕事に活かしているのではないかと、つくづく思う出来事があった。

二月某日、わたしは軽自動車を運転してある人を病院へ迎えに行く用事ができた。わたしのパート先の理事長が緊急に検査をすると云うので、朝方病院へ送った。

しばらくしたら、「検査入院を指示されたので、家に戻り必要な品物を揃え病院へ戻りたい」との連絡があり、再び病院へ向かったのである。

さぞかし急いでいることだろうと、すこしばかり急いた気分ではあった。

病院までは20分ほど、新松戸駅を通り過ぎて片側一車線の道を緩やかに走る。病院はもう目の前である。

すると突然「ピッピッ」と呼子の音、何事かと思う間もなく警察官がわたしの車を停める。「あなたが走行してきたあそこに横断歩道がありますね。歩行者がたたずんでいるのを無視してあなたは走行しました。歩行者妨害の違反です」。

いわれてみればおばさんがいたような気がする。

この道は通いなれた道である。いまは亡き妻の通院する病院でもあったから何百回も行き来している。

そこで折悪しく捕まってしまったのだ。

 

 警察の捕まえ方が気に入らない。

電信柱や街路樹の陰に身を潜ませ気配を消し獲物を捉える。

ネコ科動物をそうとう研究しつくしているのでは、と思わざるをえないではないか。

取り締まりならもっと正々堂々と姿を現し、交通指導すべきではなかろうか。

など云っても通用する相手ではない。違反切符を切られ罰金9,000円を支払う破目になってしまった。

自慢ではないがわたしはこの20年ほど、無事故・無違反のゴールド免許保持者であるのだ。それがパーになったのが虚しくしばらく寝つきの悪い日がつづく。

 

 わたしには長い自動車運転の歴史がある。

30代わらび座の営業部で大阪に在住していたとき教習所に通い一発で免許獲得。

最初の違反は。この大阪で「一時停止違反」でやられた。その後は大阪各地、和歌山・滋賀・鹿児島・宮崎など乗り回したが捕まることはなかった。

わらび座を辞し、東京の会社で都内各地へ配送業務、この会社員生活で3度ほどやられはした。

65才で会社員生活を卒業し、73才から80才まで東京の「ディサービス」勤務、送迎で都心を巡っても無事故・無違反だ。

 

 昨年8月からの運転業務も無事にこなしていた。

通りなれた道での行き来だから、どこで取り締まりをしているかは先刻承知という有利さもある。

最近気になりだしていたのは、街路樹や街灯・電柱の陰にに身をひそめる警察官をしばしば見かけること。「信号無視を捕まえるのかなぁ」と、しばしば黄色信号を突破してしまうわが身を反省したりもしていた。

しかし多くの場面を推察してみれば、信号のない横断歩道に歩行者・自転車が車が行き過ぎるのを待っている場面で、車が停止しないで進行するのを挙げるのだ。

多分、シートベルト装着違反やスマホ通話違反など影を潜めたので、新たに運転者の錯誤に狙いを定め検挙成績を上げるため強化された取り締まりなのだろう。

 

 歩行者優先は交通ルールの大前提だから、「非は我にあり」はうけいれざるを得ない。

運転により慎重さが加わったことは言うまでもない。

だが、ゴールド免許失効はなんとも悔しい限りではあるのだ。

 

 


旧友と会う

2023年12月28日 | Weblog

 

 12月某日、高田馬場へ出かけた。

高校時代の同級生たちと会うためだ。高田馬場駅は母校の最寄り駅である。

多くの場合ここが落ち合う場所になっている。

 

 以前は一声かかると、同級生の仲良しグループだった10人ほどが集まったものだ。

しかしいつしか物故者も出、施設に入った人もあり、だんだんに減ってここ数年は5人になっていた。

春には、5人のうちの一人が奥さんの付き添いでやってきた。

「帰りは山手線の品川方面に乗せてくれれば大丈夫ですから…」と、奥さんは帰っていった。本人は「付いてこなくてもいいのに」と、かなり威張っていたが…。

 

 今回このW君は、外出に不安があるということで不参加だ。

メンバーは、わたしをふくめて5人、W君を除いたら4人のはずなのに、なぜ5人かというと、E子さんに付き添いが付いているからだ。

前回ももしかするとその前も、E子さんには夫君が付き添いで来ていたらしい。駅で我々と出会ったのを確かめてから、ご本人は別の場所で一献傾け終わるのを待っていたようなのだ。

そんなE子さんの携帯での様子を察知した世話役のO君が、「一緒に飲みましょうよ」と夫君に働きかけて同席するようになった。

 

 E子さんは、同級生の中で抜きんでたマドンナであった。楚々たる風情、長い黒髪、発する言葉にも潤いがある。

この往時のマドンナも寄る年波には抗しきれず、会話にちぐはぐさがあったり、「身に着けて来たイヤリングの片方が見当たらない」と、慌てたりするのを見聞きするにつけ、「軽い認知障害があるのでは…」との危惧があった。

夫君によると、買い物に出かけても「何をしに外出したのか失念したり、ましてや電車を乗り継いで目的地に向かうのが難しくなっている」…ので見守る必要があるのだとE子さんが席を外したときに云う。

 

 一方、わたしの最も親しいM君は杖が手放せなくなっている。

何事によらず面倒見がよく、往時は生徒会長、近年は同窓会事務局長を担い、みんなを纏める中心にいた。

地方公務員として、福祉畑を歩みつづけ、時には上司と大立ち回りもしたという豪のものである。

彼の勤務する地域での「わらび座」公演担当になったわたしの妻も、宣伝機材の調達・観客動員の手助けなどいろいろ世話になった。

息子の朗が主宰する「和力」も、彼が退職後に責任者になっていた「障がい者施設」で主催公演などをしてもらっている。

 

  O君は高校時代、山登りの先達としてわたしたちを楽しませてくれた。新年に「ご来光を拝む」と、大菩薩峠に連れて行ってくれたのが始まりで、夏休み・春休みには丹沢山系をはじめ、いろんな所でキャンプ・山小屋を訪れることが出来た。

野山の遊びは、彼が立案・企画し地図と磁石で地形を読みとる姿は頼もしいものであった。

その野生児であった彼も身体の不自由さはないものの、軽い脳梗塞を患ったという。

 

 かくいうわたしも、杖さえ突かないし身体のあちこちの痛みはないものの、身体の内側ではいろんな異変があり、薬を何種類も服している。

なにより悔しいのは、歩いていて誰彼に抜かれることである。自分としてはセッセと歩いているつもりなのだが、必ず抜かれる。

 

 高校を卒業して65年有余、年が明けるとそれぞれ85才に届くのだ。

人生の最終章に差し掛かっているのは認めないわけにはいかない。

夫君のエスコートで高田馬場駅の階段を上って、改札口に向かうE子さんを見上げてつくづくそう思う夕暮れであった。

 

 

 

 


ライフスタイル三つの転換

2023年10月17日 | Weblog

 

 妻亡き後、わたしのライフスタイルは三つの点で大きく変わった。

一つはアルコール断ち、二つには増やさない、三つには就労である。

 

 わたしは若いころから酒を嗜んできた。

わらび座を辞しサラリーマンになった40代には、仕事帰り駅の売店でワンカップタイプの焼酎を買い、歩きながらチビチビやりながら帰ったものだ。

これは仕事を離れる60代後半までつづいた。

家で過ごすようになってからは、晩ご飯の支度をしながらお猪口に焼酎を注ぎ、いわゆるキッチンドリンカーと化す。

休肝日などなんのその、連日楽しんでいたものだ。

とはいえ量はそんなに多くはない。せいぜいお猪口に2杯ぐらい…。お目付け役の妻がいて度は超えられない。

健康診査での肝機能はいつも正常値だったから、適正な飲み方だったのだろう。

妻が逝って2ヶ月経って、糖尿の値が思いがけない高さになる。

「一日一万歩は歩いているし…」とお医者さんに愚痴ると「アルコールはどうですか」。

はたと思いあたった。

キッチンドリンカーだけだったのに、妻がいない無聊で夕食後にもお猪口が手放せず、

チビチビとだが杯を重ねていたのだ。

それを知って以後、いまでは一滴も飲まずに過ごしている。

 

 二つ目は増やさない生活だ。

なにを増やさないかというと『本』である。

わが家でいちばん増えるものは『本』であった。

わたしも妻も大の本好きで、それぞれ外出の機会があると必ずと言っていいほど本屋さんに寄る。

読み終わったら交換し、終わると本棚に収める。そんなして本は溜まりにたまっていったものだ。

本棚はスライド式で表棚と裏棚があり6段の高さは天井に届き、横幅は部屋いっぱいだからかなりの収容量になる。

今までにも何度か大量に放出してきた。古くはたまりにたまった山本周五郎・松本清張・司馬遼太郎などの文庫本を、障がい者福祉施設に寄贈、フリーマーケットなどでの販売で活動資金の役に立ててもらった。

それ以降、藤沢周平・田辺聖子・吉村昭・池波正太郎など本棚に積み重なってきている。

妻亡き後、無聊相まって本を読んで過ごす時間が多くなり、あれやこれやの本を購入する量が増えた。

このままだと、二階にある本棚がパンパンになり、ちょいとヤバくないかと思い始めた。

そうだ、家の近くに市民センターがある。小さいながら図書館も供わっている。本はそこで借りることにしよう…と思い至り、いまでは専らそこで借りることにしている。

 

 三つ目は就労である。

盆明けの817日から新たな生活が始まり二ヶ月余になる。

2回やっていた東京でのディサービス勤めを80才で退いた際、市の「シルバー人材センター」に登録していくらか稼ぎたいと資料を集めたりはした。

自分に合う仕事はあるのだろうか…、なにしろ手先は不器用・無愛想・人見知りをする性格である。

持っている資格は「普通運転免許」しかない。グズグズと思い悩むうち4年も経ってしまった。

妻の分と合わせた年金でなんとか身過ぎ世過ぎができていたものだから、新しい稼ぎ先を探す労は知らず知らず先延ばしにしていた。

妻が亡くなり、わたしのより多かった妻の年金がはいらなくなり、わたしだけの年金での生活になった。

この年金の額たるや心もとないのだ。家は妻もろとも苦労してローンを支払い終わって、持ち家になっているから、家賃の支払いはない。

それは救いだが、支給される年金だけでは暮らしは窮屈だ。

なにせ年金を満足に納入し始めたのが、わらび座を辞めて会社員になっての45才からだから仕方ない面はある。

妻の口利きで東京のディサービスで73才から80才まで働くことができた。

今回の就労も唯一の「普通運転免許証」が生きた。

わたしは長年、あるNPO法人知的・精神障害者の支援組織の理事を務めて来た。この法人の理事長が自損事故が多く、車を手放したのだ。

それで理事長の通所・退所、利用者さんの買い物などの介助などをすることになったのである。ほぼ一日に3時間ほどの就労、週に4回やっている。

なにしろわたしは、無事故無違反のゴールド免許保持者である。車の運転は大好きであり性に合った就労だと思う。

 

 84才だからしていつまで元気に過ごせるだろうか…。

 

 

 

 

 


新盆供養

2023年08月19日 | Weblog

 

 〽デンデンコ デンデコデンコ デコデコデンコ デン

猛暑日がつづき、肌に暑い陽射しがまとわりつく。墓碑が立ち並び陽を遮るものはなにもない。

84日午前10時、わたしの妻・和枝への新盆供養を墓前で執りおこなった。

「お盆までには日があるが、3日に関東で仕事がある。翌日朝にかあさんの新盆供養に『念仏じゃんがら舞い』を墓前で奉納したい」との朗からの申し出があり実現したのだ。

 

 妻・和枝が3月に亡くなり、新盆がちかづくが、お盆にはいつもよりすこしばかり供物を多くととのえ、故妻と毎年やっていた手順でやろうと考えていた。儀式ばったことにこだわらない妻も納得してくれるだろう。

そんな地味なことを考えていたので、朗の申し出は一躍華やかな新盆供養に変わった。

 

「念仏じゃんがら舞い」は、福島県いわき地方での供養舞いである。

腰から回した色布で太鼓を下腹部に抱え、兎の毛を巻きつけたバチで軽く鼓面を打ちならしながら、数人の組で新盆を迎えた家々を訪れその庭先で舞い踊り供養するのだ。

〽デコデコデン デコデコデン デコ デコ デコ デコ……と身をかがめそして身を反らす。摺り鉦が太鼓の音色にかぶさって鈍い音を奏でる。

新盆を迎えた家々では戸口を大きく開け、大きな提灯を掲げて庭前で供養舞を受けるのだ。

 

 わが家では墓前で執り行った。

人っ子一人いない広い墓地に太鼓と摺り鉦の音が響きわたる。「念仏じゃんがら舞い」は故妻も大好きな演目だった。大いに満足してくれたことだろう。

 

 わたしも、深遠な「念仏じゃんがら舞い」が大好きである。

かってわらび座で舞台化された折、わたしも太鼓の打ち手として観客にまみえたことがあるのだ。

いや、そもそもこの踊りがわらび座の舞台にあがるきっかけになった場面にわたしは遭遇している。

いわき市のある公民館でわらび座公演があった。わたしは公演班の一員として舞台に立ち終演を迎えた。

その後「地元の青年団のみなさんが舞を見せてくれるから…」との指示があって舞台に集結した。

公民館後方の扉から、浴衣姿の青年たちが太鼓を抱えバチをやさしく叩きながら一列になって入ってくる。

舞台と客席の間の土間で、突如〽デコデコデン デコデコデン デコ デコ …

地に着くように身をかがめ、そしてだんだんとそり身になってしなやかに舞う。

揃いの浴衣にしろい鉢巻き姿が、天井の低い古い公民館ホールの土間で舞い踊った姿を思い出す。

 

 当時は呆気に取られてみていただけだが、これが創作演出班の手によって、舞台に上がり幸いにもわたしは太鼓3人の中に加えられた。

踊りこむうちにこの舞いは、〽デデン デデン デデンと身を屈める屈折感 〽デデン デデン デデンと身を反らす躍動感 〽デコデコデン ノ デンとバチを突きだす解放感で身も心も自然に一体になる魅力がありはまったものだ。

 

 わらび座を辞し、住居のある松戸市で「東葛合唱団はるかせ」の「郷土部」設立に参加。

わらび座時代に習い覚えた数々を、思い出し思い出し団員に伝えた。

大好きだった岩手の「さんさ踊り」もなんとか思い出して、コンサートで踊り狂った。

次には「念仏じゃんがら舞い」を思い出そうと苦労したが、とうとう思い出せず終わっている。

 

 だが息子の朗が主宰する「和力」では、「念仏じゃんがら舞い」は十八番の一つでありいつも懐かしくみている。

妻も「朗にはこの踊りをもっと踊りこんでもらいたい」と常々言っていたものだ。

 

 猛暑が照りつける中、供養舞が墓前の土の上で舞われる。摺り鉦は朗の芸の継承者「羽化連」のお二人だ。

「この浴衣は20才の頃、かあさんが作ってくれたものなんだ」と、供養舞を終えた朗が言っていた。

作るといっても手縫いしたわけではないだろうが、わたしの知らない母と子との交流があったのだ。

 

 ほのぼのと暖かみのある新盆供養になったのではないか。

 

 

 


一人ぽっちでの熱発

2023年06月17日 | Weblog

 

 10日ほど前のことである。

目覚めると気だるい。起き上がれないほどではないので、手すりをいつもよりしっかり握って階段を降りる。

とりあえず体温を測るとやっぱり熱発していて379分。

この熱はなんだろう。まさかコロナではないだろうナ…と一瞬恐怖をおぼえる。

前日は関わっている「福祉作業所」の理事会があり、10人ほどと2時間くらい席を共にしていた。ここでなにかに感染したのだろうか。

あるいは寝ざまが悪くて、掛け布団を剥いで寝入っていたのだろうか。

熱発の原因は分からない。

 

 しかしぼんやりしてはいられないのだ。

訪問猫のシンが縁側にどっしり座って家の中を覗き込んでいるし、家の娘猫たちも「朝めし未だかよう」とわたしを見上げている。朝食をそれぞれに差し上げなければならない。

そして熱があるせいかあまり食べる気はないが、いつも通りの朝食を流し込んだ。

食後は日課通りゴミ出しに行く。そこで異変に気づいた。歩いていて前のめりになりよろけ膝をつきそうになる。一瞬だが意識がとぶような心持にもなる。

家に帰りついて熱を測ると385分もあった。

 

 こんな時はどうしたらよかろう。

体調不良になると、いつも妻がてきぱきと処置をしてくれた。「湯冷ましをたくさん飲んで、ほらこの薬を飲んで寝てたほうがいいよ」。

布団を敷き直し、下着を着替えさせ、熱を測り直し布団の縁をトントン叩いて「また後で来るからゆっくりね」。

看護師である妻のしっかりした見守りがあった。

いつでもどこでもなにかあると身近に頼りになる妻がいてくれたものだ。

 

 この熱発は妻だったらどうしてくれただろう。

妻が手がけていた医療品が収納されている引き出しを開ける。

薬袋がいくつかあり、その中に「38度以上の熱のときに服用」と妻が手書きした袋があった。とりあえずはそれを飲む。

そのあとも38度ほどの熱がつづき、しかし夕11時の就寝まえの検温では361分に下がったので「薬の効果がでたか」と安堵して寝る。

 

 熱発2日目、寝起きは371分でやや高い。それが午後になるとまたもや38度をこえてきた。

どうしたらよかろう。このまま寝込んでしまうのだろうか。

独り身の心細さが募ってくる。

今まで妻と二人して乗り越えて来た生活の場、今は独りぽっちの空間なのだ。

 

 電気をつけずパソコンに向かっていると「こんな暗がりで目を悪くするよ」…灯りをとぼしてくれた。

わたしが文章を書きプリントアップして渡すと、すぐさま読んで不穏なところ、仮名遣いの訂正など、安心できる編集者として委ねることができた。

なにしろ彼女の読書量は桁違い。それのみか観劇・クラッシックから演歌までの音楽鑑賞を楽しみ尽くしていたものだ。

杖を突きはじめる前のことだが、友人と誘い合っての小旅行もひんぱんだった。

発病前には「絵手紙」、「ヨガ」の教室にも通い、週2回のディサービスも心待ちにして行っていた。

自己の内面を高めることを楽しみながら日常的にに手がけていたのだ。

 

 高齢夫婦二人きりの生活であっても、彼女のおかげで外の空気が充満する穏やかな日常であった。

わたしは持病があり毎日一万歩のウォーキングを欠かさない。出がけに「ちょいと出かけるよ」と声掛けする。

「どこへ」との問い。「市中見回りだよ」と云えば「ああ、ごくろうさま」…。帰ってドアーを開けるやいなや「おかえりー」の大きな声には、ねぎらいといたわりが含まれていたように思う。

そんな常日頃の声掛けがなくなっているのに、熱発しても独りぱっち。なんでもなく過ごしてきた日々が貴重なものだった、それがもはやないのだ…。

 

 熱発2日目は、37度台の熱に平熱もときおり混じる。保健師である地域の仲間に連絡、昨日からの経過を伝えた。

受診をつよく勧められ、「食事を摂らないと抵抗力がなくなる。なにか持って行ってあげよう」…とのありがたい仰せ。

それは断り、掛かりつけの診療所に電話。すでに受付時間が過ぎていたので明日を期す。

 

 熱発3日目、起き抜けの体温は362分、昼も同程度だったので受診は見送った。

それ以後は平熱で過ごしている。

その話を隣の人にしたら、「うちの子にも熱が出て、なんかが流行っているようですよ。でもなにか困りごとがあったら、すぐに遠慮なく云ってくださいね。できるだけのことはしますから」と気遣ってくれた。

 

 独りぽっちの寂しい日々であるけれど、妻と共に培ってきたご近所・地域の方々との絆に少しばかりの光明を見いだせた2日間であった。