「駒つなぎの桜の下で」を観てー薫さんと雅義のやりとりー

2007年12月23日 | Weblog
 12月9日(日)深夜1時20分から「NNNドキュメント`07」が放映された。

日常のわたしは早寝早起きの習慣があり、この時間帯に起きていることなどめったにないから、番組の存在を知らないで過ごしてきた。
 世の中は広いもので、「ドキュメンタリー番組が好きでこの番組は欠かしたことがない」と言う方にこの機会で何人も出くわした。
お勤めをしていてよくその時間まで起きていられるものだと、わたしは驚きながらその話を聞いた。


 わたしの妻にメールを下さった方がいる。その要旨は次のようなものであった。

「……昨日、ビデオに録って夜、みさせていただきました。
素敵なご子息とお孫さんです。「駒つなぎの桜の下で」親子の舞い、日本絵巻を見ているような穏やかで心に染みるものでした。すてきな番組でした。らいやくんの素直さと優しさ、どうしたらあんな素晴らしい子に育つのか、親の姿勢なのでしょうね。ありがとうごさいました。……」


 この番組を好きな方でも全部が全部、起きてテレビの画像を見詰めているのではなく、録画をして後で楽しむ方が多いのかも知れない。
 ただ、後でわたしの所へ電話してくださった方々は、観ようと頑張ったがいつの間にか眠ってしまい「残念なことをした」と悔やんでいる人も多い。


 放映されてから二週間になるが、番組を観ての感想を連絡してくれる人がひきもきらない。全国放送の影響力の大きさに驚いている次第だ。

今夜は熊本より妻の旧友からの電話があった。

 いちばん初めにメールで連絡をくださったのは、松戸市下矢切にある「蔵のギャラリー結花(ゆい)」の増田薫さんであった。
 結花というのは蔵を改造して喫茶店をされて、2階のスペースを開放して文化活動をしているところだ。
 ご縁があって、和力もその2階で2年連続してライブを開催している。メールを拝見すれば、その運営もたいへんなことが垣間見える。


それに対する返信を弟の雅義が送っている。

 
この往復メールをご両人の了解をもらって、再現することにする。多くの方々の感想に共通するものが色濃く反映していると思うからである。


「……加藤木 兄弟 様

観ました、観ました、ドキュメント’07!! (結局ナマで観てしまいました。眠かった。何て感想を言えば良いのか・・・

このわくわくしたような、こみ上げる気持ち。

何もかもが、阿智村の景色とともに美しくて・・・感動しました!
朗さんのひょうきんぶってる(?)その笑顔の裏には 凄いものがあるとは感じていましたけれど。

それから、奥様の陽子さんてどんな人なんだろうかと 思っていましたが、いかにも芯の強そうな方で、ああ、この人が朗さんを支えている人なんだなあと、納得。

本当に、彼らの今後が気になって仕方ありません。

私自身は、結花の今後についても、悩みは絶えないのですが 、加藤木親子に触発されて
「頑張るぞ!」と改めて思いました。

またお会い出来ること、心待ちにしております。
来年の5月6日(和力・結花ライブ)、頑張りますね!

どうぞ皆様、良いお歳をお迎え下さい。

蔵のギャラリー・喫茶 結花(ゆい)

増田薫」


「蔵のギャラリー結花(ゆい)」玄関


……結花 増田薫様

あたたかいメールありがとうございました。

子供も 15 歳になれば自分の進路に直面していきます。
世間の習いのように疑いなくサラリーマンを目指すのだったら、そのまま高校・大学へとすすみ、企業のご厄介になるということで良いのですが、目指すのは芸人という特殊の世界です。

こういう技の世界は、その年齢の時にしか出来ないことがあるらしいのです。

勉学を積んで、それから芸の世界に入っていってももちろん良いのですが、でも、その年齢になるともっと微妙なところがマスターできなくなってしまうのかもしれません。

勉学を積んだ能力が、技を吸収する能力を消してしまうこともあるのでしょう。

ですから、子供達が小さいときの教育には、朗が細心の注意を払っていたと聞いています。

でも、子供が違う世界を進むことを望めば強制は出来ないのだし。そういう葛藤は彼の中にもあったと思います。子供が「芸の道に進みたい」と言えば、親が「せめて高校、大学を出てからにして」と訴えるのが、世間では見聞きすることです。それが朗の家庭では逆なのですから。



何気なく見たことというのは大切なことだ、と私は、私が若い頃に東洋医学を学んだときに、先生に教わったことがあります。
私たちの意識というものは、もっと大きな無意識に支えられている、というのです。歩くことでも意識して歩いている訳でもないし、食物を食べて消化するのも考えてのものではありません。
そんなことを考えてしていたら疲れてしまいます。

ですから体の多くはこの無意識、潜在意識で動いているのだと、先生はおっしゃっていました。
「氷山の一角」という言葉がありますが、一角として見えているのが自分たちの「意識」で、その他の見えない水面下の氷山(潜在意識)に支えられている、といった方がわかりやすいかもしれません。

だから、教育というのは潜在意識からはじめるのが良いのだと。


そんなことを言っても、素人にはどういうふうにして潜在意識に働きかけるのがよいのかがわかりません。


ずっと昔、朗が生まれ育ったわらび座の元座員の方からお便りをいただいたことがあります。
昔のわらび座は、民俗歌舞団といわれて、色々な地方の踊りや演奏を発掘して公演活動をしていました。
それを身近で観たときの、わらび座内の共同保育所は大騒ぎだったといいます。
子供たちが舞台の真似をして遊びを始めるのです。
佐渡おけさの笠がないので座布団をかぶって踊りをする女の子、物差しをズボンのベルトに差して鬼剣舞を踊る男の子たち。

そうやって、今の朗が、そして小野さんが遊んでいたのです。


朗が次々に新作の舞を編み出したり、津軽三味線だけで身を立てて行こうとわらび座を独立した小野さんが和力にきて、太鼓のバチさばきが素晴らしいのは、この時に遊びで身につけた、何気ない素養が今に生きているのではないかと思ってしまうのです。

お師匠さんに面と向かって稽古をつけていただくのも大切ですが、小さい時に何気なく見ていたものがバックボーンとなって芸を支えるということはあるかもしれません。


歌舞伎の世界は「梨園」といって閉ざされた世界です。

そこに生まれた者が代々の名跡を継いでいく宿命があります。
別な世界で生まれた者が成人になって飛び込むこともあるらしいのですが、大成する例は少ないようです。
中で生まれ育った子女にはとてもかなわない世界なのでしょう。
これが潜在意識を教育するという例なのかもしれません。

梨園の子女は生まれて物心つかないうちから歌舞伎の音曲・立ち居振る舞いに囲まれていますから、その何気ない見聞きが修行のもとになっているのです。後からの修行者はとうてい太刀打ちができません。


はじめての子ができたとき、朗は団員が共同生活をして運営する劇団で活動をしていました。磊也がよちよち歩きを始めて、父親のあとをつきまとう。父親は舞台でリハーサル。
磊也は遊びながら何気なく劇団員の稽古を見つめている。

そこまでは朗が小さい頃のわらび座の風景と同じでした。しかし、演じ手の反応の方はばらばらだったのです。

朗は自分が精進している芸を磊也に見せたいと願いました。そのときにははっきりしていたのかどうかわからないけれど、自分の後継者を育てるという思いがあったに違いありません。

しかし、芸に精進する者の価値観は同じではありません。「稽古場に子供がいると気が散る」と自分の世界を構築したいメンバーもいたのだといいます。

それでその後、朗は自分の職場を変えてまで磊也の潜在意識のために動き、現在の今があるのだとわたしは思っています。

ですから、朗が、「磊也が自分のように生きて欲しい」というのは、ただ単なる希望だけではないのです。




しかし周囲では、磊也が成長するにつれ、進路を選ぶことがたいへんになると、何となくは感じていました。

それが、15歳であんなすばらしい舞台設定で元服の儀ができるなんて。
すごいでしたね。

自分も人の親として、あんなことを自分の子供にできたらと、羨ましい気持ちで見ていました。



「舞台での目標は何か」と私が朗に問いかけたことがあります。

すると彼は、「自分の舞台を見ていただいたお客様が元気になることです」と即座に答えたのです。


朗が目指したのは、演奏する音が良くなることや、踊りがうまくなることなどではなくて、


舞台を通してお客様の裡に棲む魂と対面することだったのです。


こまごまの芸の習得より、むしろ朗が息子の磊也に最終的に伝えたいことは、実はこのことなのかもしれません。


あの番組をみて薫さんが少しでもやる気を出して、そして元気になることがあれば、朗にとっても本望だと思います。

ほんとうに、温かいお言葉、ありがとうございました。

加藤木雅義 」






 


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天祖神社・神楽殿での公演

2007年12月19日 | Weblog
 12月14日(水)は、板橋ときわ台にある「天祖神社・神楽殿」で和力公演が行われた。神楽殿での公演はさぞや和力に似合うものであろうと、わたしはこの日を待っていた。
 池袋から「東武東上線」に乗る。池袋駅の隣は北池袋駅でそこを通過すると、盛り場の賑やかさは消えて、両側になんとも懐かしい風景が広がってくる。

 わたしは墨田区向島に生まれたから、東武線の沿線で育ち東武線に乗る機会が多かった。今でも浅草に行くときには東武・伊勢崎線に乗る。家々の間を縫って走る電車は曲がりくねり、そんなにスピードは上がらない。
 駅も古ぼけていて、今にも「工員さん」や「女工さん」が弁当箱を包んだ風呂敷を手に、乗ってくるのではないかと思わせる雰囲気がある。
 あまりキラキラしていない、しっとりと落ち着いた「場末」のなつかしい味が、駅舎にも沿線の家々にも染みついているのだ。ときわ台駅に向かいながら「東武線の沿線はなんか共通しているなぁ」と懐かしい気持ちになる。

「ときわ台」駅に着いた。南口を降りて「はて、どちらかな」と見回すと、右手前方にこんもりとした木々が見える。「あそこに違いない」と森の社(やしろ)を目指していく。
 境内に入り広い参道に沿って進む、正面は本殿が建っておりその左手に神楽殿があった。この広い境内も祭礼の時には人で埋め尽くされるのだろう。




 神楽殿のステージ部分で和力メンバーがリハーサルをしている。ゲストの池上眞吾さんを迎えて、加藤木朗・木村俊介・小野越郎の4名が入念に相談しながら演目を進めていく。
 昨日から上京して、池上さんのお稽古場で稽古をしていたとのことである。アメリカ公演のフルメンバーであり、この機会にしっかり稽古を積むのであろう。
 定刻の7時に近づく。もはや神社の境内は闇につつまれている。本殿のお灯明と社務所の灯りが柔らかく闇に浮かび上がる。神楽殿の玄関にも灯がともされた。
 
 開演。例によってわたしは受付の場所から離れることは出来ない。でも障子越しに舞台の進行は分かるし客席の息づかいも充分に感じることができる。
 舞い・津軽三味線・笛・箏での拍手の出方はホール公演と同じようにでる。朗のトークへの反応も敏感だ。
 受付をしていて感じたのは、今回は若い年代の方が比較的、多かったのではないかと思えた。それらの方々も満足していただけたのだろう、「アンコール」がでて最後まで楽しんでくださったようだ。

 アメリカ公演もこのように人々の心を捉えることができるだろう。宮司さんからは「このコンサートをここの神楽殿でやってもらって、祭られている神様もきっと喜んでいるにちがいない」との言葉をお聞きして、夜の電車に乗り込み家路につく気持ちは温かかった。

 
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「駒つなぎの桜の下で」ー全国放映ー

2007年12月12日 | Weblog
 果たしてその時間まで起きていられるだろうか、12月9日はそんな試練の日となった。深夜1時20分から「NNNドキュメント`07」が始まる。

長野県阿智村に住む加藤木朗一家6人の芸と生活を2年半にわたって追った、ドキュメント「桜の下で」が半年前、5月19日(土)と翌週29日の2回、テレビ信州で60分番組として放映された。
 取材に要したフイルムは200本、編集に2ヶ月余をかけて公開された作品は、信州の大自然の下で伝統芸を受け継ぐ親と子の絆が、詩情豊かに表現されていた。

「テレビ信州」は長野県限定の電波なのであろう、関東に住むわたしたちは残念ながら見ることができなかった。
 わたしはディレクター小口浩美さんから送ってもらったDVDをダビングして「桜の下で」をかなり多くの方に見ていただいた。

「全国で見られないのはもったいない内容だよ」と伝手を辿ってマスコミ関係に働きかけてくださる方や、「わたしは一日中見ていました、一旦テープは返すが又、貸してくださいね」と言われる方などで、放映から半年経っても手から手にダビングしたテープは動き回っていた。





 そんな最中での全国放映の知らせである。わたしと妻は手分けして200名にちかい方々に連絡したように思う。弟の雅義もメールや通信などで広範囲に連絡してくれ、雅義の娘さん桜子ちゃんもブログで呼びかけてくれた。
 松戸の実行委員の人々も働きかけてくれたから、全国ではどれほど大きな動きになったか底が知れないくらいだ。

 ディレクターの小口浩美さんが所属する会社のホームページを開くと、全国放映に向けて徹夜作業で編集をしている小口さんの写真が写っている。
 30分に凝縮しての放映だというから、「どの部分を削って凝縮するのだろう」と小口さんの写真を見ながら思っていた。
 全国放映されたものは、60分を単に30分に凝縮したものではなかった。大自然のなかで紡がれる親子の絆、そのテーマーは変わっていない。変わっていないが、新しく導入された画面がたくさんあったのだ。
  前回の画面では語ることが少なかった磊也(らいや)が、小学生に手を添えてバチさばきを教えていたりする場面などが挿入された。
 教えられる側だっただけの前回放映から、一歩踏み出した姿が捉えられている。

「NNNドキュメント`07」が深夜1時50分に終わるとたんに電話が鳴った。「遅い時間だけれど、まだ起きていると思って…」。「夫が起きていてテレビを見ていたら、加藤木朗さんが写っていてびっくりしてわたしを起こしてくれた。とても中身がよくて感動しました」。松戸公演で「和力」をごらん下さる方からの電話だった。
 翌朝になると、黒木啓さんからも電話が入った。黒木さんはカメラマンでわらび座時代からの友人である。「画面がとても澄明で美しかった。その中で芸に励んでいる朗親子の姿は逞しかった。朗君が生まれ故郷のわらび座に行っての交歓も紹介されている。芸を取得した原点がわらび座であったのは、元わらび座員としても嬉しい感慨をもつ」と語ってくれた。

 弟の雅義にも感想を言って下さった方が何人もいたようだ。そのうちの一人、同僚のYさんからのメールを送ってくれた。

……今朝はねむいなぁ~。
  昨晩、夜中に目が覚めて、寝付けなかったのでTVを観ていたら、「加藤木朗 さん」のドキュメントを放送していました。
  朝も早いのに、内容が興味深かったため、最後まで観てしまった次第です。
  思春期の多感な時期の子どもたちに、世間一般とは違う生活・生き方を強いて はいないか、選択させてはいないかという親の心配と、子どもの親への信頼感  がなかなか普通の家庭では築けない絆を、番組をみていて感じました……。

 月曜日から人に会う度に「観たよ、みたみた。よかったねぇ。60分のを観ていて30分に短縮されるから、中身が薄くなりはしないか心配したけど、テーマーが浮き立って見劣りしなかった」とこもごもに言って下さる。

 わたしは、今回は満を持して「録画」の準備をしていた。すでに番組が発表されてから、「録画して送って欲しい」という要望もあったのだ。
 ところが、翌日「再生」して観ようとしたら、なんとテープが絡まって録画されていない。いくら努力しても動かないのだ。
 本番の録画前に、「失敗しては事だ」と何回かリハーサルをやっていた。番組を写しては巻き戻し、再生しては録画して「これで大丈夫」と自信がつくまで繰り返したのだ。
 多分、その過程でテープが絡まったのに相違ない。

 木曜日に自分の大切にしていた着物をくださる、82才のおばぁちゃんの所へいく。
 おばぁちゃんはこの番組を楽しみにしていて、テレビを点けっぱなしにして待っていたそうだ。ところが不覚にも眠ってしまって起きたのが3時だと言って嘆いていた。このおばぁちゃんに早速もっていく予定だったが残念なことをした。

 朗がDVDを送ってくれそうな気配だったから、それを待って観られなかったみなさんに、観てもらえるようにダビングしようと待ち構えているところである。
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私の着物が生き続けていく…

2007年12月07日 | Weblog
 今年のお正月に「和力と一緒に新年会」を、松戸市の森のホール「レセプションホール」で開いていただいた。
「レセプションホール」にステージはない。多分、普通には立食パーティとか結婚披露宴などに使われているのだろう。

 ステージがないから、演者と観客は同じ平面で接することになる。村の社(やしろ)でのお正月をイメージして、客席の半分は座布団を敷いて座るようにして、その後ろにはパイプ椅子をならべた。
 照明などの変化はないものの、親しみやすいステージでお客さんは喜んでくださった。

 和力の演目が終わりお神酒や汁粉をいただく。ステージ部分に長机が運び込まれて、和力メンバーがお客さんと対面しての交流会もやられた。
 時間が経って片付けに入る。パイプ椅子に座っていたお年寄りが「来て良かった。今度はいつ見ることができるのだろう」と、何回も繰り返し話していたと言うことを聞いた。
 おばぁちゃんの隣にいたSさんが「幸せそうに話しかけてくる。こちらまで豊かなうれしい気持ちになってきた」と言っていた。

 わたしは直接お会いしなかったが、その話は記憶の底にいつまでも残っていた。でもどこの誰とは分からなかった。
 先日、このおばぁちゃんから電話がかかってきた。「私がいつも和力の事を思っているものだから、和力からお手紙がきました。私の気持ちが通じたのだと嬉しかったです」。
 わたしの弟、雅義が「和力広報担当」で、年に何回か「和力ニュース」を発行し、11月に和力ファンに送付してくれた。和力の支援者とアンケートを書いてくれた方々に送っている。おばぁちゃんはアンケートに、自分の住所・氏名も書いてくれたのに違いない。

「足が不自由になってきたけど、近くで和力の公演があれば、タクシーでいくから教えてください」と念を押されて電話が切れた。

 ちょうどよい機会が訪れた。和力がアメリカ公演をした直後に一週間ほど、松戸・柏地域でライブをする。
 北松戸駅に近い所で、「和力と一緒に新年会」を30名規模で行うことが決まった。30名はまたたく間にいっぱいになったが、わたしは数人の枠を確保してもらって、このおばぁちゃんHさんにお知らせの手紙を出した。

 昨日、Hさんから電話が入った。「せっかくのご案内なのだが、歩くことができなくなって友だちを誘いに行くこともできない。とても残念だ。所でわたしが持っている着物を和力さんが使ってくれないだろうか」とおっしゃる。
 さっそく朗に問い合わせた。「ありがたいお話です。ぜひいただいて下さい」。

 Hさんにその旨をお伝えする。「嬉しい。役にたててもらえるのですか。わたしの大事にしていた着物が、これからも生き続けていくのです…」。

 わたしは「着物が生き続けていく」という言葉にびっくりした。我が身はいずれ滅びようとも、自分の愛し大切にしてきたものが、生き続けていく。自分が信頼し愛する者たちの手によって、生命を吹き込まれ歴史を刻んでいく。

 82才になるHさんのお宅に来週お伺いすることになった。

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テレビ放映のお知らせ

2007年12月01日 | Weblog
 みなさま、お元気でお過ごしの事と存じます。12月になり慌ただしい気分になってまいりました。

 お世話になっている日本芸能「和力」は、年末恒例名古屋公演、引き続く1月のニューヨーク・ロサンゼルス公演を控えて、その準備に余念がありません。
 
 さて、テレビ放映のお知らせです。放送時間は深夜にかかっていますが、お時間がありましたらご一見いただきたく、ご案内申し上げます。




全国放送で再登場                 日本テレビ系列

                放映時間   2007年12月9日(日)25:20~ 30分

「親子舞い」~駒つなぎの桜の下で~ 


 伝統芸能で独自のステージを展開している加藤木朗は、長野県・阿智村に本拠を構えています。
 自分が受け継いできた伝統芸をわが子に伝承する姿が、朗親子を追ったドキュメンタリー番組として、「テレビ信州」(レグルスの鼓動・5月19日・10時30分~60分間、2回目は5月29日)で放映されました。

 小学6年から中学3年春までの長男・磊也(らいや)、小学4年から中学1年になるまでの長女・慧(けい)を、親から子に伝統芸を伝承する姿を写したドキュメンタリーです。

 奥州に下るとき源義経が馬をつないで休息したといわれる、長野県・阿智村の「駒つなぎの桜」は満開の時期を迎えます。
 慧の大太鼓の伴奏にのって磊也は、桜の大木に「鶏舞い」を奉納し、15才になる「元服」の儀を執り行いました。

 親から子への芸の伝承が、足かけ3年の取材で写し出されております。
 ぜひ、ご高覧ください。

                             07.12.01
                          
                         和力事務所  加藤木照公


                    
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