上市ファミリー劇場へ(3)

2009年03月29日 | Weblog
 わたしの生まれは東京・向島である。戦時中は母の里、新潟に疎開した。戦後は千住に住んだ。向島も千住も隅田川に間近く、疎開の一時期をのぞくと、生まれも育ちも東京下町である。

 新潟に疎開していた幼い頃、大きな風呂敷包みを背負ったおじさんが、家々をまわってきたのをおぼろげに覚えている。
 おじさんは紙風船をくれ、食い合わせてはいけないものを描いたチラシを置いていった。すいかと梅干しを同時に食べるとダメとかが、絵入りで説明してある。

 戦後、東京に戻る。やはり置き薬屋さんがまわってきた。
「雪深いところからくるのだよ」と教えられた。大きな荷物を背負って雪を越えてくるなんて凄い、と子ども心に思ったものだ。
 越中富山の置き薬屋さんだった。

 風邪を引くと頓服(とんぷく)を飲み、ケガは赤いヨードチンキを塗り、腹具合が悪いと真っ黒に練り上げた、熊胆(くまのい)をかじって直した。
 ずいぶんと置き薬のお世話になって、その頃はお医者さんに行った覚えがあまりない。

 その越中富山にわたしは初めて足を踏み入れる。

 北アルプス立山連峰の山々を右手に見ながら、富山インターで高速道を下りる。富山市内に入った途端、車の渦にまきこまれ山をみるゆとりはなくなった。富山駅を過ぎるまで車列にしたがってノロノロ運転で進む。

 やがて右折して上市町に向かう。富山市から15㌔ほど東に進むと人口22,000人余の上市に至る。

 立山修験の裏街道に通じるという道を進む。一帯は特別豪雪地帯に指定されているそうだ。
 剱岳(つるぎだけ)の勇姿がすこしづつ迫ってくる。立山連峰は日本三霊山の一つだと広辞苑にある。
 そのふもとに「北アルプス文化センター」があった。


北アルプス文化センター

 黄色いはっぴを着た女性が数人、会場の飾り付けをしている。みなさん明るく逞しそうな女性たちである。

 その中のひとりが連絡を取り合ってくれた碓井典子さんだった。

 わたしが青春時代を過ごしたわらび座に娘の涼子さんが入っている。わたしはわらび座の公演が近くに来たら見逃さないようにしている。
 涼子さんは昨年5月、新宿で「火の鳥」のヒロイン速魚(はやめ)役をやっていた。のびのびした女優さんでいまでも目に焼きついている。
 涼子さんが主役を演じた「天草四郎」を見損なったのは残念だった。

 そのご両親に会えるのも楽しみだった。また「上市ファミリー劇場」が、「日々の暮らしの中に水準の高い文化とふれあい、こころとからだの感動」をテーマに、年間2回なまの舞台を手がけて10年目を迎えていることに、大きな驚きと関心をわたしは持った。 

 開場時間前から行列ができ、「寒いのでロビーにお入り下さい」と、ファミリー劇場スタッフが案内する。
 ロビー内で順番に並び直してもらって開場時間を待つ。スタッフもお客さんもスムーズである。

 一ベルが鳴っていよいよ開演になる。わたしは例によってロビー受付で待機しスタッフのみなさんは喜んでホール内に急ぐ。
 お仕事の都合で、開演してからお出でになった方々が数人おられた。ロビーにはモニター設備がないので、進行状況がよく分からないがときたまドア越しに大きな笑い声がもれてくる。
 開演して30分が経った。2階からホールに入る。前列はいくらか空いているがほぼいっぱいのお客さんである。

 わたしはロビーとホールを小間切れに行き来して舞台を見る。お客さんの舞台への反応が素早い。
 舞台での山場では自然に、拍手や笑い声がわき起こる。
 舞台と観客、そして観客同士が一体になっているのだ。それが自然になされている。

 10年間にわたって培われた感性というのはやはりあるに違いない。自らも楽しみ他の人たちとも楽しみを共有している。日本の祭りがそうであるように、自らが主人公になり連帯している。

 わたしは、共演者に恵まれ、息の合う照明・音響・黒子スタッフはもとより、主催者、感度の高い観客に出逢える朗は、とても幸せ者だと暗闇の客席でつくづく思った。

 金沢から参加したKさんら4名の方々も、遅くまで後片付けをしてくださっていた。


 宿坊だんご屋からのぞむ参道

 交流会は宿坊の「だんご屋」で行われた。大岩山日石寺(真言密宗大本山)のたもとにある。
 わらび座からたまたま碓井さん宅を訪れていた、Kさん夫妻にぐうぜんに出逢って舞台を見てもらったことも嬉しい記念になった。

 加賀と越中への旅は未知の地域だっただけに、新たな発見と驚きと歴史を考える旅になった。


 宿坊だんご屋









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上市ファミリー劇場へ(2)

2009年03月26日 | Weblog
 3月21日(土)、北アルプス文化センターでの和力公演は、午後6時30分開演となる。

 金沢から上市町までは60㌔くらいの距離だから、午前から午後にかけて、わたしたちは金沢で過ごす計画にした。
 Kさんにすすめられた金沢城と兼六園に行くことだけは決めた。

 ホテルの朝食(バイキング)を食べていたら、Kさんからのメールが入った。
「昨夜はゆっくりできたでしょうか。今日ですが、兼六園から東山茶屋街に行かれたらどうでしょう。桜はまだ早いのですが梅の花がたくさん咲いているのではないかと思います。東山茶屋街は小さなスポットですが、その中の喫茶店でお茶などすると少し金沢らしさが味わえます。ゴーシュというお店があるので、見つけられたら寄ってみてください」。
 
 昨夜いただいた電話では「兼六園に隣り合っている金沢城も見所ですよ」と教えられていた。
「東山街もぜひ行ってみよう。やはり地元の人でないと見つけられない所だね」。

 今朝も寒い。わたしは車で移動することに気を取られて、ジャンパーなど上着を持ってくるのを忘れた。
 雅義が着ていたジャンパーを借りて寒さを凌いでいたのだ。

「旅慣れていると自分を過信しているから不用心なことになるのだよ」と妻は云う。
 こちらにも言い分はある。「その軽装で大丈夫なの」と云ってくれなかった妻の不注意もあるではないかと腹の中で思う。あくまでも腹の中の秘め事である。
 何か言うと弁舌においてはいつも敗退しているから、弟や姪のまえではその姿をさらしたくない見栄がある。
 
 チェックアウトをして車に乗り込む。いくつか道をまちがえながらカーナビを頼りに道をすすむ。
 道をまちがえたお陰で「100万石通り」を目の辺りにできたし、金沢市内を存分に味わうことになった。

                
                 金沢城・石川門から

 金沢城と兼六園はゆったりと見て歩くと、片方だけで1日掛かりになるという。なるほど見上げるお城の石垣は延々とつづいている。
 わたしたちは駆け足であったが、いまを盛りと咲く梅を見、北陸の春を楽しんだ。

 次に向かった東山街にはみなが喜んだ。昔のお茶屋街とのことで、軒先から三味を爪弾く音が聞こえてきそうな風情ある町並みであった。

 輪島塗や織物、扇子・下駄・菓子など、郷土が生み出した味わい深い品々が奥深い店で売られている。
 店先に積み上げての商売ではなく、玄関をはいり格子に囲まれた家の中に、広げられているのだ。

 横町にはいると突き当たりに駄菓子屋がある。昔なつかしい風景であった。わたしの育った東京下町にもあった。
 その隣にKさんおすすめの「ゴーシュ」喫茶店があった。宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」にちなんでつけた店名なのかも知れない。セロ弾きの彫り物があった。

 古民家であるが駄菓子屋さんと棟続きであり、昔の長屋だったのであろうか。江戸の長屋とは広さがちがう。間口2間ほど奥行きは6間ほどもあろうか。深くて広いのだ。
 天井をはしる木材はススでいぶされ、2階への階段も年代を感じさせてくれる。

 ゴーシュで金沢の息吹きをあびていよいよ上市へ向かう。

                

東山街

 高速道を下りて国道を富山駅の方へ向かう。広い道路なのに車が多くてなかなか進まない。

 富山駅から電車だと15分ほどで上市に着くという。

 国道を離れて上市方面に車首をむけると、はるか遠くに雪をかぶった北アルプス連峰が見えてきた。
 進むにつれて山容は大きくなり、その懐に抱かれる感じの所に「北アルプス文化センター」があった。

 
 
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上市ファミリー劇場へ(1)

2009年03月24日 | Weblog

 ホテルから街路を望む(金沢)

「えっ、この車で行ってきたの」、Tさんはわたしの愛車を見つめて驚いたようにつぶやくのだ。
 3日間わたしたちは留守にしたから、行事や会合に出られなかった詫びを言いに、Tさん宅に寄ったらKさんはまず第一声でそう言った。

 富山県の「上市ファミリー劇場」に和力が取り上げられ、わたしと妻、弟の雅義とその娘・桜子ちゃんが車で北陸に向かったのは20日(金)である。
 公演は21日(土)だが、北陸へはあまり行ったことがないから、ゆっくり時間をかけて行こう。交通費が節減できると、桜子ちゃんの車に4人が乗って出かけたのだ。

 Tさんは、わが家の庭に置いてある軽自動車がないものだから、それに乗ってわたしたちが、関東と北陸を往復したのだと思っていたようだ。
 
 Tさんがびっくりするのも無理はない。わたしの軽自動車は20年間乗り回している代物なのだ。
 洗車はあまりしていないから、木の葉が屋根にへばり付いたりしているが、凹みもないし擦った跡もない。
 まだ60,000㌔しか走っていないからエンジンも快調なのである。だが給油口とかテールランプの下側など、さびが浮いているし形が時代遅れなのだろう。
 近場を走り回るのなら分かるけど、遠距離に耐える車ではないと、Tさんは勝手に判断をくだしているようだ。

 この車で練馬の桜子ちゃん宅へ行き、桜子ちゃんの車と入れ替えて駐車しておいたのである。

 雅義が運転して高速道に入り順調に車はすすむ。渋滞はない。昼過ぎに妙高を通ると道の両側にはまだ雪が残っている。
 本日の宿泊地、金沢に着いたのは午後5時を過ぎていた。

「明日の午前中は金沢で過ごすから、夕食のおすすめ所と明日の見所をKさんに聞いてみよう」と車中でメールをつづる。

 お仕事が変わり忙くなったとお聞きしている。雅義への年賀状に「富山公演は近いから行こうと思っているが、仕事の都合で行けないかもしれない」と知らせがあったという。
 あまり早くに連絡するとご迷惑だから、直前にメールを入れたのである。

 返事のメールがなかなか来ない。「Kさんはまだ仕事中なのかも知れない。町のようすも知りたいから出歩いてみようか」と、夕暮れ時の金沢の街に繰り出した。
 駅前を通ると名の通ったホテルの高層ビルがいくつも建っている。

 宵闇せまる中を歩いていると、重厚な民家が所々にあるのだ。加賀百万石の城下町の佇まいである。


 河島英五の歌に「泣きぬれてひとり旅」がある。

 あの人を京都の街で見かけたと教えられた
 (略)
 たぶん誰かと一緒に
 河原町や木屋町を
 歩く姿が忍ばれて
 (略)
 あなた追いかけ京都にひとり
 街も華やぐ祭の夜です
 四条大橋たたずむ私
 (後略)

 あの人が金沢の街をひとり歩いていたと
 何処かしら古い都の影背負い
 肩を落としていたと云う
 (略)
 あなた追いかけ金沢にひとり
 夏の夜空に身をさらされて
 犀の流れを見つめる私
 (後略)
 
 あなた追いかけ京都から金沢
 悲しい女のひとり旅です
 (後略)

 河島英五の歌は、切ない女心を京都と金沢を舞台にして、しっとりとした情感を聞く者に思い描かせている。
 京都にならぶ古都にきたのだと、交差点に浮かび上がる古民家をみながら少し感傷にふける。


 食事をする場所を求めて街中を歩く。東京のように混雑はしていないが、ゆったりした居酒屋・料理屋に人があふれているのが妙であった。
 これぞと思うお店はすでにいっぱいなのである。

 この旅は和力を北陸で見ることと、もうひとつ目的があった。

 雅義の病いの疑いが晴れた祝いもある。桜子ちゃんがそのお祝いにご馳走してくれると云うことで、雅義も張り切ってお店を探す。

 昨年、雅義は大腸ガンの摘出手術を受け、根治したかにみえたのだが、2月の検査で「肺に影がある。転移したのかもしれない」との診断がくだった。
「今度の北陸の旅は、桜子と行く最後の旅になるかも知れない」と気弱なメールをもらった。
 どのように慰めたらよいか分からないで困惑した。

 3月2日の検査では、肺の影が完全に消えていたのだ。

 慰めの旅にならずに喜びの旅になった。

 Kさんからの電話がきた。

「仕事が今終わってメールに気づくのが遅くなってごめんなさい。今どの当たりにいるのですか」。信号機の下の案内板を云う。「それだったらその先に○○というお店があります」と教えてくださった。
「明日は4時に出発して北アルプス文化センターへ向かいます」。明日、お会いできる楽しみができた。

 Kさんにせっかく教えてもらったのだが、寒くもありかなり歩き回ったのでお腹もへって疲れていたので、目の前にある料理屋に入った。
 ここも広いお店なのにカウンターしか空いていなかった。郷土料理を堪能してホテルに帰る道すがら、駅前のショッピングビルに入った。
 
 若い人たちが多く出入りしている。料理屋といいショッピングセンターといい、活気のある古都なのである。
 古い都でありながら、新しい息吹を持った街。 


 料理屋のお品書き(季節感が豊富だ)

 明日は兼六園に行こうと言い合ってホテルに帰った。

 

 
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子ども劇場企画説明会

2009年03月19日 | Weblog
 3月13日(金)、10時半から「子ども劇場」の企画作品提出説明会があった。

和力はホール公演の他に、寺院仏閣・レストラン・喫茶店のライブなどに出演させていただいている。
一方、幼稚園・保育園・学校など児童を対象にした公演もそれにおとらず多い。
 また、市町村のお祭り・会社の記念式典・敬老会・商工会などの集いにも呼んでいただいているから、ありとあらゆる年齢層に受け入れられていることになる。

 和力をごらんになって、人に奨めてくださる方が多くおられると同時に、ご自身が団体の役員をやっている方、自治体で企画を担当されている方々が、たくさんの候補の中から和力を選び、実現させていただく事もたくさんあり感謝している次第である。

「企画作品提出説明会」への出席案内が封書で届いた。このような会合に参加したいと願っていたのだが、どのような手続きをすればよいのか分からなかったので、ありがたい知らせだった。
 だが、どうして和力の存在を知ったのだろう。

「和力を子ども劇場の方々に見てもらおうと、信州のある方が計画して、和力メンバーのスケジュールも確保できた」が「企画作品が提出されていなかいので、せっかくの機会が無理になった」と加藤木朗がいってきた。
「だからその方が、子ども劇場の事務局に推薦してくれたので、和力への招請状が届いたのだろう」。

               
                つややかな葉(つばき)

「子ども劇場・おやこ劇場」は、1966年に誕生してから、600ちかい地域で子どもたちの文化を育ててきている。
 人間のつながっていく力、いまの社会に向き合っていく力を、さまざまな舞台芸術を通して培っていく。

 来年度、2010年の企画はすでに決まっているから、和力がパンフレットに載って企画の選考対象になるのは、2011年からの話になる。
 
 ぜひ子どもたちの中に分け入って、日本の伝統芸の多彩さと深さを共に出来る機会が多くなることを願って、2時間の説明を聞いたのだった。



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里の自然村でのライブ

2009年03月10日 | Weblog

 るーらるはうす邂逅(かいこう)
 
 白い練り塀が広い庭と奥深い母屋を囲む。長屋門は入って右手は門番がひかえていた小屋、左手は吹き抜けの小屋になっていて、厩でもあったのだろうか。
ゆるい坂道の所々にそんな家がつらなって何軒もある。

 屋敷林が家々の集落をつつみ緑の固まりとなり、坂の下で集落が途切れると田んぼが延々とつづいている。
 一枚一枚の田は大きく、尽きることがないように関東平野に雄大にひろがっている。

 緑の集落と田は、線を引いたように鮮やかに区切られている。

 わたしは、関東に長らく暮らしているが、このような景観は初めて見た。かなり裕福な土豪が集まっていたような聚落である。

 その中でもひときわ大きな屋敷の母屋が「るーらるはうす・邂逅(かいこう)」となって、3月1日、2日にオープニングセレモニーが催された。
 1月に「女性たちの旧正月」が、柏市のレストラン邂逅・ヴェルテで行われて、和力を招いていただいた。

 その折、オーナーのTさんが「つくばにある古民家でレストランをしないかとの話がある」と話されていた。
 和力ライブの翌日「つくばでの営業を決めた。ついては和力の出演をお願いしたい」との申し入れがあり、即座に二日間の出演が決まったのだ。

 Tさんが惚れ込んだ古民家の母屋は、400年前に建てられたそうだ。縦横に組まれた柱は太く黒くつややかである。

 年代を経た柱の元でやられる和力の芸は、家全体が喜びをもって迎えてくれている趣があった。

 1日目は地元つくばの関係者、2日目は邂逅のお客さんが招かれての集まりだった。

 1月の邂逅ライブでごらんくださった方は数人おられたが、ほとんどの方は和力を初めて見る。
 だんじり囃子から始まり、笛の独奏、津軽三味線演奏、鶏舞、とすすんでいくと「あっ」と呆気にとられていた雰囲気がだんだんと和んでくる。

 獅子舞いでは頭や首筋を獅子に噛んでもらおうとにこやかに待ち、合掌してお払いを受ける。外国の方も神妙に合掌して頭を噛んでもらっていた。

 それにもましてわたしが驚いたのは、獅子舞いの途中「よっ、日本一」のかけ声が掛かったことである。男性の声であった。

 いままで拍手、笑い声、「かわいい」という嘆声はいつもあったが、「よっ、日本一」と思わず知らず、発したと思われる声に接したのは初めてであった。

 ライブの後、後片付けをしていると女性が話しかけてきてくれた。
「わたしは日本全国歩き回っていて、獅子舞もたくさん見ている。あなたたちの獅子舞はとびぬけて見る甲斐がある。柏で見てそう思ったし、今日もつくづく見惚れていた」。

「日本一」のかけ声をいただいて、2日間のライブは成功しておわった。

           




 2日間のライブであったから、和力メンバーと寝起きをいっしょにした。朝ご飯をコンビニでのにぎりめしをみんなで頬張る。

 ご飯を食べ終わると会場入りまで2時間ほどある。
 
 その間の話が面白かった。
 先ずは3月21日、富山県上市町での演目打ち合わせだ。ホール公演をひかえると和力メンバーは、阿智村の朗宅につどい合宿をする。
 演目の創作・構成・音楽などを合議で練り上げていく。作者・脚本・演出・舞台監督・音楽監督が他にいるわけではない。
 演者自身がそれらを担っている。上市町公演に向け、リハーサルの日にちと時間の配分、そして演目を決めていく。
 それぞれが手帳をめくりながら、スケジュールを調整していく。

 話はいつしか朗が行った青森のえんぶり取材におよび、上市町での「おこし」(えんぶりの和力構成版)をどう変えたいかかが討論になる。

 話はこれから先、和力の舞台にどんな作品をのせるか、やりたいかの話に移っていく。

 それぞれが演者・作者・演出・プロデューサーとしての一面をもつ面々だから、話は具体的でたいへん面白かった。
 作品が創られ練られていくのも、伝統を素にしての素養があるからなのだろう、和やかな中で自ずから納得して会話そのものを楽しんでいる風情は、門外漢のわたしでも心洗われるものであった。

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雪上がりの講習会

2009年03月01日 | Weblog
 2月27日、あと2日で陽春の3月となる。

 春が間近いはずなのに雪が舞う。山あいはいざ知らず、江戸川を渡れば東京になるこの辺りに降る雪は、風にただよい天空をステージにして舞う淡雪ではない。
 大きな粒が地面目がけて一直線に落ちてくるのだ。帽子や首筋にボトンとあたる。「ぼた雪」とわたしたちは呼んでいる。

 東北秋田で雪の季節を何回かすごした。秋田に降る雪は、こんな大きなぼたん雪ではなく、砂糖粒のように細かい粒子がサラサラと音もなく降り注ぐものだった。 杉の枝葉を真っ白に染め上げ降り積もる。枝が重みに耐えられなくなる。ビュイーンとしなって雪をはじき返し、杉のつややかな緑が雪空に映える。

 そんな雪を見てきたから、都会で降る雪はなんて重そうなのだろうと、ついつい比べてしまうのだ。

 翌2月28日(土)は、晴れ上がっておだやかな日になった。

             
              それでも寒そう…


 雪が舞い落ちる中での「講習会」でなくてよかった。

 この日は加藤木朗が「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の講師として招かれているのだ。
 練習会場は学校の体育館だから、雪空の元でやれば講師も受講生も手のひらに息を吹きかけながら、寒さを忍ばなければならなかった。
 体育館は広いから寒くはあるけれど、肌を刺すような冷たさはない。3時間のレッスンはみなさんの熱意でまたたく間に終わった。



 朗は講習会当日に信州からやってきた。

 前日、名古屋で仕事がありそれを終えてからこちらに来て、わが家に一泊して10時からの講習開始の予定だった。
 名古屋の仕事を終えてこちらに向かうと多分、到着は日付が変わった時間帯になってしまうだろうから、講習会の開始を午後にして欲しいが、相談してくれないかとの連絡があった。

 郷土部の方々がその変更を承知してくれて、あまり無理のない日程で移動してくることが出来た。

 花粉症に悩む朗も、みなさんの配慮のお陰でその後のスケジュールを、無事に乗り切って元気に信州へ帰っていった。

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