わたしの生まれは東京・向島である。戦時中は母の里、新潟に疎開した。戦後は千住に住んだ。向島も千住も隅田川に間近く、疎開の一時期をのぞくと、生まれも育ちも東京下町である。
新潟に疎開していた幼い頃、大きな風呂敷包みを背負ったおじさんが、家々をまわってきたのをおぼろげに覚えている。
おじさんは紙風船をくれ、食い合わせてはいけないものを描いたチラシを置いていった。すいかと梅干しを同時に食べるとダメとかが、絵入りで説明してある。
戦後、東京に戻る。やはり置き薬屋さんがまわってきた。
「雪深いところからくるのだよ」と教えられた。大きな荷物を背負って雪を越えてくるなんて凄い、と子ども心に思ったものだ。
越中富山の置き薬屋さんだった。
風邪を引くと頓服(とんぷく)を飲み、ケガは赤いヨードチンキを塗り、腹具合が悪いと真っ黒に練り上げた、熊胆(くまのい)をかじって直した。
ずいぶんと置き薬のお世話になって、その頃はお医者さんに行った覚えがあまりない。
その越中富山にわたしは初めて足を踏み入れる。
北アルプス立山連峰の山々を右手に見ながら、富山インターで高速道を下りる。富山市内に入った途端、車の渦にまきこまれ山をみるゆとりはなくなった。富山駅を過ぎるまで車列にしたがってノロノロ運転で進む。
やがて右折して上市町に向かう。富山市から15㌔ほど東に進むと人口22,000人余の上市に至る。
立山修験の裏街道に通じるという道を進む。一帯は特別豪雪地帯に指定されているそうだ。
剱岳(つるぎだけ)の勇姿がすこしづつ迫ってくる。立山連峰は日本三霊山の一つだと広辞苑にある。
そのふもとに「北アルプス文化センター」があった。
北アルプス文化センター
黄色いはっぴを着た女性が数人、会場の飾り付けをしている。みなさん明るく逞しそうな女性たちである。
その中のひとりが連絡を取り合ってくれた碓井典子さんだった。
わたしが青春時代を過ごしたわらび座に娘の涼子さんが入っている。わたしはわらび座の公演が近くに来たら見逃さないようにしている。
涼子さんは昨年5月、新宿で「火の鳥」のヒロイン速魚(はやめ)役をやっていた。のびのびした女優さんでいまでも目に焼きついている。
涼子さんが主役を演じた「天草四郎」を見損なったのは残念だった。
そのご両親に会えるのも楽しみだった。また「上市ファミリー劇場」が、「日々の暮らしの中に水準の高い文化とふれあい、こころとからだの感動」をテーマに、年間2回なまの舞台を手がけて10年目を迎えていることに、大きな驚きと関心をわたしは持った。
開場時間前から行列ができ、「寒いのでロビーにお入り下さい」と、ファミリー劇場スタッフが案内する。
ロビー内で順番に並び直してもらって開場時間を待つ。スタッフもお客さんもスムーズである。
一ベルが鳴っていよいよ開演になる。わたしは例によってロビー受付で待機しスタッフのみなさんは喜んでホール内に急ぐ。
お仕事の都合で、開演してからお出でになった方々が数人おられた。ロビーにはモニター設備がないので、進行状況がよく分からないがときたまドア越しに大きな笑い声がもれてくる。
開演して30分が経った。2階からホールに入る。前列はいくらか空いているがほぼいっぱいのお客さんである。
わたしはロビーとホールを小間切れに行き来して舞台を見る。お客さんの舞台への反応が素早い。
舞台での山場では自然に、拍手や笑い声がわき起こる。
舞台と観客、そして観客同士が一体になっているのだ。それが自然になされている。
10年間にわたって培われた感性というのはやはりあるに違いない。自らも楽しみ他の人たちとも楽しみを共有している。日本の祭りがそうであるように、自らが主人公になり連帯している。
わたしは、共演者に恵まれ、息の合う照明・音響・黒子スタッフはもとより、主催者、感度の高い観客に出逢える朗は、とても幸せ者だと暗闇の客席でつくづく思った。
金沢から参加したKさんら4名の方々も、遅くまで後片付けをしてくださっていた。
宿坊だんご屋からのぞむ参道
交流会は宿坊の「だんご屋」で行われた。大岩山日石寺(真言密宗大本山)のたもとにある。
わらび座からたまたま碓井さん宅を訪れていた、Kさん夫妻にぐうぜんに出逢って舞台を見てもらったことも嬉しい記念になった。
加賀と越中への旅は未知の地域だっただけに、新たな発見と驚きと歴史を考える旅になった。
宿坊だんご屋
新潟に疎開していた幼い頃、大きな風呂敷包みを背負ったおじさんが、家々をまわってきたのをおぼろげに覚えている。
おじさんは紙風船をくれ、食い合わせてはいけないものを描いたチラシを置いていった。すいかと梅干しを同時に食べるとダメとかが、絵入りで説明してある。
戦後、東京に戻る。やはり置き薬屋さんがまわってきた。
「雪深いところからくるのだよ」と教えられた。大きな荷物を背負って雪を越えてくるなんて凄い、と子ども心に思ったものだ。
越中富山の置き薬屋さんだった。
風邪を引くと頓服(とんぷく)を飲み、ケガは赤いヨードチンキを塗り、腹具合が悪いと真っ黒に練り上げた、熊胆(くまのい)をかじって直した。
ずいぶんと置き薬のお世話になって、その頃はお医者さんに行った覚えがあまりない。
その越中富山にわたしは初めて足を踏み入れる。
北アルプス立山連峰の山々を右手に見ながら、富山インターで高速道を下りる。富山市内に入った途端、車の渦にまきこまれ山をみるゆとりはなくなった。富山駅を過ぎるまで車列にしたがってノロノロ運転で進む。
やがて右折して上市町に向かう。富山市から15㌔ほど東に進むと人口22,000人余の上市に至る。
立山修験の裏街道に通じるという道を進む。一帯は特別豪雪地帯に指定されているそうだ。
剱岳(つるぎだけ)の勇姿がすこしづつ迫ってくる。立山連峰は日本三霊山の一つだと広辞苑にある。
そのふもとに「北アルプス文化センター」があった。
北アルプス文化センター
黄色いはっぴを着た女性が数人、会場の飾り付けをしている。みなさん明るく逞しそうな女性たちである。
その中のひとりが連絡を取り合ってくれた碓井典子さんだった。
わたしが青春時代を過ごしたわらび座に娘の涼子さんが入っている。わたしはわらび座の公演が近くに来たら見逃さないようにしている。
涼子さんは昨年5月、新宿で「火の鳥」のヒロイン速魚(はやめ)役をやっていた。のびのびした女優さんでいまでも目に焼きついている。
涼子さんが主役を演じた「天草四郎」を見損なったのは残念だった。
そのご両親に会えるのも楽しみだった。また「上市ファミリー劇場」が、「日々の暮らしの中に水準の高い文化とふれあい、こころとからだの感動」をテーマに、年間2回なまの舞台を手がけて10年目を迎えていることに、大きな驚きと関心をわたしは持った。
開場時間前から行列ができ、「寒いのでロビーにお入り下さい」と、ファミリー劇場スタッフが案内する。
ロビー内で順番に並び直してもらって開場時間を待つ。スタッフもお客さんもスムーズである。
一ベルが鳴っていよいよ開演になる。わたしは例によってロビー受付で待機しスタッフのみなさんは喜んでホール内に急ぐ。
お仕事の都合で、開演してからお出でになった方々が数人おられた。ロビーにはモニター設備がないので、進行状況がよく分からないがときたまドア越しに大きな笑い声がもれてくる。
開演して30分が経った。2階からホールに入る。前列はいくらか空いているがほぼいっぱいのお客さんである。
わたしはロビーとホールを小間切れに行き来して舞台を見る。お客さんの舞台への反応が素早い。
舞台での山場では自然に、拍手や笑い声がわき起こる。
舞台と観客、そして観客同士が一体になっているのだ。それが自然になされている。
10年間にわたって培われた感性というのはやはりあるに違いない。自らも楽しみ他の人たちとも楽しみを共有している。日本の祭りがそうであるように、自らが主人公になり連帯している。
わたしは、共演者に恵まれ、息の合う照明・音響・黒子スタッフはもとより、主催者、感度の高い観客に出逢える朗は、とても幸せ者だと暗闇の客席でつくづく思った。
金沢から参加したKさんら4名の方々も、遅くまで後片付けをしてくださっていた。
宿坊だんご屋からのぞむ参道
交流会は宿坊の「だんご屋」で行われた。大岩山日石寺(真言密宗大本山)のたもとにある。
わらび座からたまたま碓井さん宅を訪れていた、Kさん夫妻にぐうぜんに出逢って舞台を見てもらったことも嬉しい記念になった。
加賀と越中への旅は未知の地域だっただけに、新たな発見と驚きと歴史を考える旅になった。
宿坊だんご屋