信濃毎日新聞より

2013年04月18日 | Weblog

関東のこの辺では田起こしが済んだ

 昨日17日に、加藤木朗と磊也がアメリカ・カナダツアーへ出発した。
朗は海外渡航の経験を数多く積んでいるが、磊也は初めての遠征である。
二人とも日本語しか喋れないと、わたしは勝手に思っている。言葉が通じないところに一か月余も居て、道に迷ったらどうするのだろう、食事の注文は二人して「ウィンドウの見本」を指差して頼むのだろうかなどと余計なことを心配している。
出発の前日まで、持参する荷物をあれこれ準備に余念がなかったようだ。
水あたりなどしないで、多くの人たちと楽しく過ごしてくれるように願っている。
下記の記事は「信濃毎日新聞」である。写真は、取り込めなかった。


江戸川堤の桜


阿智の舞台芸能師、父子で海外公演へ 「日本の伝統伝えたい」
関連ページ:話題のトピックス一覧阿智村
(2013年4月9日)

米国、カナダでの公演に向けて練習する加藤木朗さん(左)、磊也さん
 下伊那郡阿智村伍和(ごか)の舞台芸能師加藤木朗(かとうぎあきら)さん(45)と長男磊也(らいや)さん(20)が、15日から約1カ月にわたり米国とカナダを訪れ、太鼓演奏などを披露する。2010~12年に欧州バルカン半島諸国を巡り単独公演をするなど、国外にも活動の場を広げてきた朗さん。父を見て育った磊也さん。初めて親子で臨む海外演奏に、朗さんは「親から子へ受け継がれる日本の伝統芸能の形や、込められた祈りなどを伝えたい」と話す。
 今月17日~5月6日に米国、5月6~17日にはカナダに滞在。カナダ・トロントを拠点に活動する日系2、3世らによる太鼓グループ「永田社中(ながたしゃちゅう)」などを指導するほか、米国では大学や中学校を訪れ、演奏を通じて日本の民俗芸能を紹介する。
 朗さんは、民俗芸能グループ「和力(わりき)」代表として国内外で活動。小学5年時に朗さんから太鼓や舞踊を本格的に習い始めた磊也さんは、阿智村や愛知県での公演にも参加した。観客から「楽しかった」との声を聞くたびに舞台芸能の魅力を感じ、朗さんを目標とするようになったという。
 高校3年の秋、舞台芸能師を目指すことを決意。千葉県松戸市にある朗さんの両親宅に居を移し、東京の津軽三味線奏者などから指導を受けている。
 3月末からは阿智村の自宅で親子で稽古を重ねている。今月8日、太鼓を打ち鳴らした磊也さんは「自分がどこまで世界で通用するか楽しみです」と抱負を語った。
 今回の米国とカナダでの活動は、和力のホームページを見た永田社中の関係者が朗さんに指導を打診してきたのがきっかけとなった。
(提供:信濃毎日新聞)

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気仙沼ツアーに参加して

2013年04月03日 | Weblog
 かとうぎ桜子事務所主催の「気仙沼ツアー」の反省会が、3月29日に行われた。わたしはあいにく町会の役員会があり出席できなかったので、この文章を送った。

 

 わたしは昨年、「和力」の復興支援「チャリティコンサート」に同行して、気仙沼を訪れた。
チャリティ公演会場へ到着する前に三陸海岸沿いを巡って、海に押し流されたのであろうビルが波に洗われ、高架橋が寸断されているのを目の当たりにし、被害の大きさに改めて慄然とした。
また、コンサートが終わってからの実行委員さんたちとの懇談や、観に来てくれた「虎舞保存会」の方たちのお話で、みなさんの身近な人が犠牲になり、祭りの道具がことごとく流された話などを聞いた。

「継続して同じ地域への支援活動」をしている今回のツアーは、より深く被害の実態が身にしみるものとなった。
「復興商店街仮設ステージ」で、和力の演目がおわり和力メンバーは「割烹世界」で昼食をいただいた。
食事が済んで一息入れている所へ女将さんが出て来て、「復興商店街があるこの場所は、『割烹世界』の敷地・店舗だった。津波は仮設ステージが組まれた山裾に家々を根こそぎ流し、由緒ある汁器など瓦礫の中から拾い集めたりした。しかし売上金も金庫に収納していた財産も行方不明になり、割烹世界は一からの出発になった。同じく被害を受けた商店の方々にこの敷地を提供しみなさんと再起を図っている」と、語ってくださった。

 女将さんの話は、先々代からの「割烹世界」の成り立ち、気仙沼での歴史、そして3.11の被害、これからやりたいこと、話は縦横にめぐり津波被害の実態をまざまざと想像させられるものだった。

 食事を終えお話を聞いた後、表に出る。
「仮設ステージ」では、「AKBもどき」と云ったら失礼になるだろうか、短いスカート姿の女子中学生たちが身振りもあざやかに歌う。
わたしは「AKB」を、映像でも観たことはなかった。しかし、天真爛漫に歌い踊る15人ほどの女の子たちの姿は、元気が溢れ爽快なものだった。



 それが終わると、道路に70基はあるだろうか、太鼓を据えての演奏が始まった。半纏(はんてん)の様子では5団体ほどのグループが参加している。幼い子、学童、中・高生、若者、親など混成集団の演奏は、バチさばきも鮮やかに一糸乱れぬものであった。
 地元の人は「太鼓集団は30ほどあるだろうか、気仙沼に伝えられた曲を中心に演奏している」と、説明してくれた。人口およそ70,000人の街で、太鼓演奏人口が多いことにおどろく。

 ツアー二日目は、タクシーを借り切っての被災地視察であった。
わたしは、行く先々で家屋があり、アーケードがあった筈の更地に息をのむ思いで見守るしかなかった。
 ようやく春めいた日差しに照らされた更地は、まだ草も生えずただ広々としているだけである。
所々に供養の花束が置いてある。ある花束は枯れかけ、また供えたばかりの色鮮やかな花束もあった。

 かとうぎ桜子事務所では震災以後、「継続して同じ地域へ」と、幾度も気仙沼を訪れている。
だから今回のツアーは、通りすがりの印象ではなく、その街の歴史、人々の生きざまにも触れられる意義深いものになった。


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