晟弥の初舞台

2007年04月29日 | Weblog
 小学校2年生になった孫の晟弥(せいや)が初舞台を踏むという。一昨年「茂山千三郎長野社中」が発足した。
 磊也(中3)、慧(中1)と共に、「長野社中」に入れていただいて、昨年の秋から狂言の指導を受け始めた。師匠は京都からお出で下さる茂山千三郎師である。
 末っ子の野詠は、まだ保育園児だから「社中」入りは見送られたみたいだ。
 
 わたしたちは4人もの孫に恵まれたのに、あまり会う機会がない。わたしたちは千葉県松戸市に住み、朗・陽子一家は長野県阿智村に住居・稽古場を構えている。孫の顔を見に行くにはちょっと遠すぎる。
 磊也・慧とは「和力」の公演があると会う機会が多くなった。昨年10月「武蔵野公演」で磊也が「鶏舞」を舞った。舞い手としては初舞台であった。
 今年の1月、松戸市で「和力といっしょに新年会」が、わたしの所属する福祉のボランティア仲間が企画してくれ、わたしも昔わらび座で踊っていた「お猿のかごや」を磊也・慧などの伴奏で出演し、親・子・孫三世代の共演を実現してもらった。
 
 晟弥と野詠に会ったのは、昨年の夏休みだ。ディズニーランドに行き、それ以来会っていない。約8ヶ月ぶりに「会いに行こうか」となった。
 
 新宿発18時40分、飯田行きの高速バスは3号車まで運行される。通常は1台の運行なのだから,かなりの人が長野に向かう。週末で帰省する人たちも多いのだろうし、着物姿の年配婦人たちは、東京での催しを済ませての帰りなのかも知れない。お国言葉で話し興じている。
 4月20日(金)。日が落ちた新宿の夜景は、色とりどりの光の束が、往来する人々を浮き立たせている。
 高速道に入れば周りの景色は闇に閉ざされ、芽吹いているだろう山の木々も見えない。
 
 渋滞もなく、飯田市伊賀良(いがら)バス停に着いたのは22時30分であった。朗のワゴン車に乗り込んで阿智村に向かう。
 着いてしばらくすると木村俊介さん、小野越郎君が陽子さんの運転で家に到着した。今宵は「石苔亭いしだ・紫辰殿の宴」で「和力」が出演し、旅館の温泉をいただいて今、帰りついたのだ。
 4人の孫たちも一緒に帰ってきた。標高600メートルを越える朗の家はたちまち賑やかになった。

 明日の土曜日は、明後日の本番にむけて稽古をするということで、朗・俊介・越郎が打ち合わせを始め、わたしが床に入ったのは午前2時をまわっていた。

 4月22日(日)に、「早座(さくら)祭り」が阿智村「園原」という地域で催される。
 800年の樹齢を誇る「駒つなぎの桜」に捧げる「そのはら 山の花神楽」と題して、村挙げての大きなイベントである。
「駒つなぎの桜」は、奥州に下る源義経が馬をつないだといわれ、旧東山道と林道の分岐点にある。
 桜の木は谷間から崖上にせりあがり、平地となった水田に太い幹がズンと現われる。桜の花が水田に覆い被さるように咲き誇る。下の方はほぼ満開だが、上はまだ3分咲き程度であろうか。
 わたしたちの地方は、すでに葉桜になっていたが、こちらは桃と桜が平地では満開である。

 水田のやや広がった縁(へり)で、茣蓙(ござ)をしいて「鶏舞」を奉納する、朗・磊也・慧の写真をHPでみた時には、桜の幹は岩に見えた。
「どこの岩のたもとで踊っているのだろう」と思ったものだ。黒々とした幹は、水田の所で木のへその辺りから現われる。ずぶとい幹から、左右にこれまた太い枝が、扇状に広がっている。まだ花も咲いていないから、どこかの岩のたもとでの奉納だと勘違いしたのだ。幹の周囲は約5,5メートルあり高さは約33メートルあるという。

 わたしは仕事柄たくさんの土地に出かけ、季節が合えば桜を見る機会も多かった。青森県弘前、秋田県角館・長野県高遠・大阪城・高知城・京都・奈良、そして東京の上野公園・隅田公園・千鳥が淵・王子公園など、花びら舞う木の下で行く春を楽しんだ。
 多くの桜の名所は、たくさんの桜がトンネルをつくり、華やかさの研を競っている。阿智村の「義経・駒つなぎの桜」は、古代の官道「東山道」に1本だけ谷間に屹立し、1本だけであでやかな花の山をかたちづくる。

 600年以上も前に上演され、今ではあらすじだけしか残っていない「狂言木賊(とくさ)」の復曲を祝い、人間国宝の茂山千作師が出演した「信濃比叡根本中堂」から、「園原能楽堂」に移ると、ちょうど折りよく「長野社中」の演目が始まっていた。
 途中からだったので中身はよく分からなかったのだが、朗と晟弥の狂言「しびり」が行われていた。
 晟弥は地面に座ってなにやら物申している。まだ発声訓練も十分でないせいか聞こえづらい。どうやら主人に用事を言いつけられた太郎冠者で「足がしびれて動くのは難儀である」と言っているようである。
 普段の生活では、晟弥は次男坊だから「物申す」どころか、いつも「物申されて」いる。
「晟弥、うるさいから少し静かにしろ」と磊也にしょっちゅう言われ、「本を読みながら物をたべるな」と慧もことある毎に注意している。「ウン」…と言ってその場では収まるのだが、すぐにまた騒ぎ始める。
 いつも「物申される」立場だから、「物申す」役は気持ちよかったにちがいないと、わたしはついつい思った。健気な様子が客席をほんのりと包んでいた。
 狂言「蟹山伏」は、磊也・慧が山伏で朗が蟹であった。力自慢の磊也の役・智恵のまわる慧の役―その掛け合いが愉快であった。

 それが終わって急な坂道を息を切らせて昇っていくと、件(くだん)の「駒つなぎの桜」が左下方に現れる。
 道路には仮設舞台が設けられ、狂言や和力の舞台などが眼下の桜に、手向けられたのである。
 晟弥の初舞台は、歴史ある園原の地域で、義経ゆかりの桜の元で行われた。名古屋からお出で下さった方々も、舞台脇でニコニコとごらん下さっていた。
 だから晟弥の「初舞台」を瞼に刻んだ歴史の生き証人は、地元の人たちと、わたしたちだけではない。
 晟弥はそれをどれほど分かっているか知れないが、「源氏物語」や「枕草子」、更には「今昔物語」などに「園原」の里は、詠われ語られている。1,000年以上も前の歴史に名が残る、「園原」で初舞台が踏めたというのは、たいしたことなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

街頭での公演

2007年04月18日 | Weblog
 4月16日(日)は東京区議選の公示日であった。わたしの姪、加藤木桜子ちゃんが練馬区議選に出る。
 桜子ちゃんは、福祉の仕事をする中で、福祉を必要としている社会的弱者を、行政に携わることによって、大きくとらえ直していきたい…との決意で区議へ出馬する決意を固めたようだ。
 昨年の5月、わたしの弟である父親の雅義に、自分の意向を話して直ちに行動に入った。6月からは、勤めの合間をぬっては紹介された方々を巡り歩き、駅頭でのアピールもやり始めた。

 そして、いよいよ公示を迎えたのである。過酷なスケジュールの中で、いとこである加藤木朗が主宰する、日本芸能「和力」の公演が6月15日(金)「練馬文化センター」であることを知って、自分の住む大泉学園でもやろうと計画してくれた。
 彼女は落語では、小三冶・志ん朝が大好きで志ん朝の葬儀にも参列したという。和力も気に入ってくれ、昨年の東京公演ではサポーターとして、力を発揮してくれた。
「4月に選挙が終わるから6月には和力を呼ぼう」と、「練馬文化センター」公演の前日、6月14日(木)に「大泉学園ゆめりあホール」でやることになった。


選挙期間中の桜子ちゃん

「いとこの桜子ちゃんが和力を呼んでくれる」と朗は喜んだ。「大泉学園で和力を知っている人はいないだろうから、桜子ちゃんの身近な人たちに先ず知ってもらおう」…。そのためには人が集まる場所で、和力の宣伝をして6月14日「ゆめりあホール」への参加をアピールしよう。それで選挙初日に「和力宣伝」が計画された。

 スケジュールは、午前9時半、12時半に「桜子事務所」横で、14時半にはお風呂屋さんの駐車場で、17時には大泉学園駅前で演奏をすると計画された。
 心配していた空模様だったが、幸いに今日は晴れ渡っている。わたしが9時ぎりぎりに大泉学園の目白道路沿いにある「桜子事務所」に到着したら、朗・木村俊介さんが太鼓などを車から降ろして準備にとりかかっていた。
 事務所横の歩道に沿って、欅が3本生えている三角形の空き地がある。シートを敷いて二人が座ればいっぱいの敷地に、締め太鼓を2台ならべた。

「鶏舞」の衣装をつけ朗が立つ。野外のそれも道路での演奏だから、衣装は略式であると思っていたら、舞台で使うそのままの衣装を身にまとっている。通りすがりの人たちはそのあでやかな色彩に目を凝らす。
 太鼓は中学に入りたての朗の長女・慧(けい)が叩き、木村さんがその傍で笛を奏でる。磊也は修学旅行で来られなかった。
 萌え出たケヤキの新芽の下で、伸びやかに重厚に「鶏舞」がすすむ。扇子が柔らかな春の日差しを反射する。観客は、目白通りの向こう側でも観てくれている。
 木村さんの「津軽三味線曲引き」がしっとりと響きわたる。次には「だんじり囃子」の勇壮な大太鼓が響いた。
 演奏は無事におわった。道路に車を停めて窓を全開にして観ていたのは、子ども連れの親子だった。

「次は12時半ですね」と念押しをして帰る人たちもいる。朗・俊介・慧は休憩して次の出番に備える。
 11時半頃、警察から警告が入る。「選挙事務所横での演奏はやめるように」とのことだ。急遽、場所の移動を検討する。100メートルほど先の交差点に、少しの空き地があるのでそこでやろうとなった。
 12時半の第2回目を心待ちに、集まってくれた方々は7名もいた。この方々も移動してくれて荷物を降ろし始めた。

 朗から「道路使用許可をとっているのか」との問いがある。「そうでないとこんな大きな交叉点での演奏は違法行為になる」…。ここは目白通りの終着点になる、かなり広い交叉点であり、普段から車の渋滞が激しい所でもある。
「桜子ちゃんにも迷惑をかけることになりかねない」…との危惧を朗からしめされ、集まった方々にお詫びをしてここからは撤収した。

 選挙の微妙な状況の中だから、違法と思われる事はやめようとなり17時の駅前の和力宣伝演奏も取りやめとなった。お風呂屋さんの駐車場での演奏は大成功だったということだ。
 
 予定していた4回の公演が2回しか出来なかったが、事務所前での宣伝演奏とお風呂屋さんでの演奏が成功したことに、今回は満足しなければなるまいと思った。
 中止した駅前での演奏も、今から考えればかなり危険だったように思われる。わたしは確認していなかったが、朗が「駅前を下見しておいた。チラシの配布・宣伝・演奏などを禁止するとの標示があった」と言っていた。

 強行すれば多分、パトカーが何台も駆けつけ、取り巻かれるような事態になったかも知れないと今更ながら背筋が寒くなる。「道路交通法違反」・「迷惑条例違反」などという大義名分が取り締まる側にはある。
 わたしはかってわらび座に在籍していた。わらび座公演が近づくと、実行委員のメンバーと営業のわたしたちは、豆絞りに半纏を着込んで、スーパーの前・駅前・公園など人の集まる所に出かけて、太鼓を打ち鳴らし踊りをして「宣伝」したものだ。
 この頃は今よりのんびりしていた時代だったのだろう。人も集まり、チケットがどれほど伸びたかは分からなかったが、取り組むメンバーの熱気は盛り上がった。
 でも25年以上も昔のことである。交通事情も変わり、生活も忙しくなっている。多分、人だかりがして通るのに不便を感じたら、即、携帯電話で110番する人もなきにしもあらずだ。

 交番から自転車で警官が駆けつけ、やっさもっさ話をしている内にパトカーが馳せ参じる。それが2台も3台も赤色燈をつける騒ぎになって「道交法違反の疑いがある。暑まで同行をお願いしたい」となれば、事であった。
 わたしは、昔のイメージがあったものだから、「大丈夫・大丈夫…」との気安い思いしかなかったのだ。

 朗が長野から来たその足で、演奏予定の場所を下見していたのに、わたしは「空間があればできるもの」と思いこんで、下見もしていなかったことの迂闊さを、今では悔やんでいる。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地域の再生と伝統…

2007年04月08日 | Weblog
「松戸」…。東京下町・北千住に住み、小学生だったころのわたしには、草深い「田舎」というイメージが「松戸」にはあった。
「田舎に行けばアケビや山ブドウが藪の中にわんさと成っているだろう。採りに行こうよ」と遊び仲間といっしょに、初めて松戸に降り立ったのは50年も昔のことだ。
 田んぼや畑が広がる農村地帯であった。草深い藪地はない。少し勾配があって山に入りこんだかと喜ぶと、すぐに途切れて道の両側は管理が行き届いた竹林であり、野の幸はなにも得られないでがっかりして帰った覚えがある。
 いまでは人口48万人、東京のベッドタウンとして急速に大きくなった。

「和力」は、一昨年1月に7人の実行委員のお力で、初の「首都圏公演」を松戸市で成功させていただいた。
 更には3年の間に「ホール公演」4回、「ライブ」を3回も実施してもらっている。

 取り組んでいただいた方々は、和力をわが子のように愛して下さり「和力を知ったわたしたちの手で、和力の魅力をもっと多くの人に知ってもらおう」と、さまざまな人・集まりに声をかけて、和力出演の機会を模索してくださる方々がいる。また和力の芸の力を「地域の再興」に結びつけたいと、踏み出した方もおられる。

 松戸市は水戸街道が通る宿場町であったから、歴史に残る町並みもたくさんある。「矢切地域」もその一つである。しかし「東京外環道」の建設により町の様子が大きく変わってきた。
 「矢切の渡し」に近い下矢切に、130年前の明治の蔵を所沢から移築、「ギャラリー喫茶・結花(ゆい)」がある。
 コンサート・うたごえ喫茶・沖縄の三線(さんしん)教室・朗読教室など、地域に根ざした多彩な活動を行っており「和力」のライブを昨年と今年の2回やっていただいた。
 オーナーの増田美恵子さんは、「和力の伝統芸能を通して町に出ていき、矢切地区の再興のきっかけをつかみたい」と願っておられる。
 それのみか「伝統木構法」の権威であるご主人(増田一眞様)の講演・セミナーにもご同伴になって、時間をいただいては「和力」のことをお話くださっている。

「甦る住文化」(菊間満/増田一眞共著)には「明治維新以来の欧化政策は(中略)東洋文化の否定、伝統の否定、過去の一切の否定という形をとり、伝統文化のすぐれた面とヨーロッパ文明の粋とを融合させるという創造的な方向をとりませんでした…」(j-fic出版)と記されている。この本を拝見しながら、伝統芸能を現代に受け継ぎ・甦らせる活動をしている「和力」と、伝統構法を継承・発展させる運動を展開している建築家・お職人の方々との、「伝統」を受け継ぐ共通性を認識させられた。

 地域に根ざし、伝統を研ぎ澄ましている方々との触れ合いが、いずれは実現できるだろうと楽しみにしているところである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紙芝居からテレビドラマに

2007年04月03日 | Weblog
 わたしは「紙芝居世代」というのであろうか。小学生のころ午後になると、おじさんが拍子木や太鼓を鳴らして人集めをする。こどもたちは、水あめやおせんべいを買って自転車の荷台に高くつくられた、紙芝居の舞台を見上げていた世代である。
 路地のちょっとした広場にそのおじさんたちは決まった時間に来て、「黄金バット」や「猫娘」などの物語を、太鼓などをドドンと打ち拍子をとりながら語っていたものである。明日に期待させるよいところで終わる。幼いながら明日が楽しみであった。

 テレビを初めて目にしたのはわたしが中学生のときである。風呂屋の番台の上にテレビが置かれて、男湯からでも女湯からでも見えるように設えられていた。
 テレビは出現したけれど、日々の生活に追われているわたしたちの家庭では高嶺の花である。電気屋の店先か風呂屋でしか見られない時代だった。
 ある出版社の「年表」によると1953年「街頭テレビに黒山のひとだかり」と記載されている。これと同時に紙芝居のおじさんたちを見かけることがなくなったように思う。

「力道山」の空手チョップに風呂屋の脱衣所は、ウォーンと天井が鳴り響いて大騒ぎになる。プロレスに大人も子どもも熱狂して手を振り、大きな声を上げていた。
 相撲のときにも風呂屋は混んでいた。栃錦と若乃花の取組みを風呂屋の脱衣所で見上げていたのを、今でも鮮やかに思い出せる。

 高校を卒業して劇団に所属した。アルバイトをしなければ生活を維持できないし「劇団維持費」も払えない。個人経営の軽印刷所で昼の時間に働いて、夜の稽古に通っていた。
「ハナ肇とクレージィキャッツ」の「シャボン玉ホリデー」という番組は、このバイト先で、昼ご飯を食べながらみんなと一緒に見た。これもよく覚えている。

 わらび座に入った。わらび座は集団生活である。独身寮は1部屋にベッドが上下2段、向かい合って4人の定員である。列車の寝台車のような作りであった。ベッドに横たわると頭の上にわずかな空間がある。持ちこんだ下着と本などを置けるだけである。
 わらび座では、5年ほど演技者をやり営業に転じた。この頃の営業活動は、団を組んで全国に展開した。座の財政事情ともあいまって、経済的には厳しいものであった。出張先で宿泊施設に泊まる予算は見込まれていない。それだけの費用を捻出できない。支援者宅に泊めて頂くか、独身者の所に居候していくばくかの家賃を分担したりして、行動の拠点を確保していた。
 営業部員は、公演を予定している日から3ヶ月前ごろから公演予定地に入る。大体3ヶ所を担当地する。そこを行き来して、実行委員会をつくりチケットを販売して、公演班を迎えるのである。

 ご好意で泊めていただいける方も多かった。お勤めに間に合うように、一緒に起きて朝ご飯をいただく。
 そのとき、NHK朝の連続テレビ小説を見る。「おはなはん」・「鳩子の海」とか「おしん」なども見た。見たけれどもそれはきれぎれなものであり、連続しては見ていない。泊めていただいた方はお勤めに出かける。一緒にバスに乗り、わたしは次の公演予定地に移動する。

 結婚して座員宿舎に引っ越し1部屋をあてがわれた。縦に長い、10畳ほどの広さであった。ここでもテレビを持った覚えはない。
 わらび座を辞めて母親と同居して暮らすようになる。母は階下での生活でここにはテレビがあった。
 勤めから帰って母の部屋で夕飯を食べさせてもらう。このときには母が楽しんでいる「時代劇」などを見ていた。
 2階の自分たちの部屋にはテレビはなかった。なかったけれど不自由だとは感じなかった。なにせ、朝早くからの仕事で帰りも遅くなる。テレビを見る時間もなく、習慣もなかったからなんとも思わなかったのだ。

 やや広い家に引っ越して、わたしたちの2階にもテレビを入れた。「日本むかし話」をずいぶん録画した。西部劇も大好きで「シェ―ン」や「真昼の決闘」などたくさん録画した。
 その後は録画にも飽きてしまった。録画しても見る機会はない。日常的にはニュースと天気予報と野性の王国をみるだけになった。

 寝る前にリモコンであちこちに番組を変えて、見たいものを探して見る。そしたら昨年、、なんと「見たかったのはこれだった」というのに出会ったのだ。
「チャングムの誓い」だ。このスケールの大きい歴史ドラマには熱中した。同じく韓国の「初恋」にも行き当たった。共にNHKBS2で午後11時過ぎから始まる。

 その次にはやはり韓国の、パン屋を開業した女性のドラマが始まり(題名を忘れた)これも楽しみにみた。その次には「チェオクの剣」が始まった。女性の忍者が縦横無尽の活躍をするものだった。これには余り興味が持続せずに、知らない間に終わっていた。
「春のワルツ」は、見逃さないように最後まで見ることができた。生活力が逞しい、笑顔の溢れる、ウニョンの大ファンになった。これも終わってしまった。
 日本のドラマはなんとなく食い足らなくて、こんなに夢中にはなれない。どこがどうちがうのだろうか。
 だが、自閉症の青年と周りの人々との交流をえがいた「僕の歩く道」(草薙剛主演)は、毎週の放映が待ち遠しいものであった。番組の最後に流れる「ありがとう」という歌(smap)も心に沁みた。こんな作品がつくられるのだから、日本のドラマもたいしたものだと思う。

 今は、月曜日の23時から放映される「ER」アメリカの「緊急救命室」が面白い。
 新聞配達のある週末はきついけれども、23時からの放映だと外出から帰って見れるからありがたい。ブロードウェイのミュージカルなどが放映される機会が多くなっているから、以前のようにテレビを全然みないという事ではなくなってきている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする