小学校2年生になった孫の晟弥(せいや)が初舞台を踏むという。一昨年「茂山千三郎長野社中」が発足した。
磊也(中3)、慧(中1)と共に、「長野社中」に入れていただいて、昨年の秋から狂言の指導を受け始めた。師匠は京都からお出で下さる茂山千三郎師である。
末っ子の野詠は、まだ保育園児だから「社中」入りは見送られたみたいだ。
わたしたちは4人もの孫に恵まれたのに、あまり会う機会がない。わたしたちは千葉県松戸市に住み、朗・陽子一家は長野県阿智村に住居・稽古場を構えている。孫の顔を見に行くにはちょっと遠すぎる。
磊也・慧とは「和力」の公演があると会う機会が多くなった。昨年10月「武蔵野公演」で磊也が「鶏舞」を舞った。舞い手としては初舞台であった。
今年の1月、松戸市で「和力といっしょに新年会」が、わたしの所属する福祉のボランティア仲間が企画してくれ、わたしも昔わらび座で踊っていた「お猿のかごや」を磊也・慧などの伴奏で出演し、親・子・孫三世代の共演を実現してもらった。
晟弥と野詠に会ったのは、昨年の夏休みだ。ディズニーランドに行き、それ以来会っていない。約8ヶ月ぶりに「会いに行こうか」となった。
新宿発18時40分、飯田行きの高速バスは3号車まで運行される。通常は1台の運行なのだから,かなりの人が長野に向かう。週末で帰省する人たちも多いのだろうし、着物姿の年配婦人たちは、東京での催しを済ませての帰りなのかも知れない。お国言葉で話し興じている。
4月20日(金)。日が落ちた新宿の夜景は、色とりどりの光の束が、往来する人々を浮き立たせている。
高速道に入れば周りの景色は闇に閉ざされ、芽吹いているだろう山の木々も見えない。
渋滞もなく、飯田市伊賀良(いがら)バス停に着いたのは22時30分であった。朗のワゴン車に乗り込んで阿智村に向かう。
着いてしばらくすると木村俊介さん、小野越郎君が陽子さんの運転で家に到着した。今宵は「石苔亭いしだ・紫辰殿の宴」で「和力」が出演し、旅館の温泉をいただいて今、帰りついたのだ。
4人の孫たちも一緒に帰ってきた。標高600メートルを越える朗の家はたちまち賑やかになった。
明日の土曜日は、明後日の本番にむけて稽古をするということで、朗・俊介・越郎が打ち合わせを始め、わたしが床に入ったのは午前2時をまわっていた。
4月22日(日)に、「早座(さくら)祭り」が阿智村「園原」という地域で催される。
800年の樹齢を誇る「駒つなぎの桜」に捧げる「そのはら 山の花神楽」と題して、村挙げての大きなイベントである。
「駒つなぎの桜」は、奥州に下る源義経が馬をつないだといわれ、旧東山道と林道の分岐点にある。
桜の木は谷間から崖上にせりあがり、平地となった水田に太い幹がズンと現われる。桜の花が水田に覆い被さるように咲き誇る。下の方はほぼ満開だが、上はまだ3分咲き程度であろうか。
わたしたちの地方は、すでに葉桜になっていたが、こちらは桃と桜が平地では満開である。
水田のやや広がった縁(へり)で、茣蓙(ござ)をしいて「鶏舞」を奉納する、朗・磊也・慧の写真をHPでみた時には、桜の幹は岩に見えた。
「どこの岩のたもとで踊っているのだろう」と思ったものだ。黒々とした幹は、水田の所で木のへその辺りから現われる。ずぶとい幹から、左右にこれまた太い枝が、扇状に広がっている。まだ花も咲いていないから、どこかの岩のたもとでの奉納だと勘違いしたのだ。幹の周囲は約5,5メートルあり高さは約33メートルあるという。
わたしは仕事柄たくさんの土地に出かけ、季節が合えば桜を見る機会も多かった。青森県弘前、秋田県角館・長野県高遠・大阪城・高知城・京都・奈良、そして東京の上野公園・隅田公園・千鳥が淵・王子公園など、花びら舞う木の下で行く春を楽しんだ。
多くの桜の名所は、たくさんの桜がトンネルをつくり、華やかさの研を競っている。阿智村の「義経・駒つなぎの桜」は、古代の官道「東山道」に1本だけ谷間に屹立し、1本だけであでやかな花の山をかたちづくる。
600年以上も前に上演され、今ではあらすじだけしか残っていない「狂言木賊(とくさ)」の復曲を祝い、人間国宝の茂山千作師が出演した「信濃比叡根本中堂」から、「園原能楽堂」に移ると、ちょうど折りよく「長野社中」の演目が始まっていた。
途中からだったので中身はよく分からなかったのだが、朗と晟弥の狂言「しびり」が行われていた。
晟弥は地面に座ってなにやら物申している。まだ発声訓練も十分でないせいか聞こえづらい。どうやら主人に用事を言いつけられた太郎冠者で「足がしびれて動くのは難儀である」と言っているようである。
普段の生活では、晟弥は次男坊だから「物申す」どころか、いつも「物申されて」いる。
「晟弥、うるさいから少し静かにしろ」と磊也にしょっちゅう言われ、「本を読みながら物をたべるな」と慧もことある毎に注意している。「ウン」…と言ってその場では収まるのだが、すぐにまた騒ぎ始める。
いつも「物申される」立場だから、「物申す」役は気持ちよかったにちがいないと、わたしはついつい思った。健気な様子が客席をほんのりと包んでいた。
狂言「蟹山伏」は、磊也・慧が山伏で朗が蟹であった。力自慢の磊也の役・智恵のまわる慧の役―その掛け合いが愉快であった。
それが終わって急な坂道を息を切らせて昇っていくと、件(くだん)の「駒つなぎの桜」が左下方に現れる。
道路には仮設舞台が設けられ、狂言や和力の舞台などが眼下の桜に、手向けられたのである。
晟弥の初舞台は、歴史ある園原の地域で、義経ゆかりの桜の元で行われた。名古屋からお出で下さった方々も、舞台脇でニコニコとごらん下さっていた。
だから晟弥の「初舞台」を瞼に刻んだ歴史の生き証人は、地元の人たちと、わたしたちだけではない。
晟弥はそれをどれほど分かっているか知れないが、「源氏物語」や「枕草子」、更には「今昔物語」などに「園原」の里は、詠われ語られている。1,000年以上も前の歴史に名が残る、「園原」で初舞台が踏めたというのは、たいしたことなのだ。
磊也(中3)、慧(中1)と共に、「長野社中」に入れていただいて、昨年の秋から狂言の指導を受け始めた。師匠は京都からお出で下さる茂山千三郎師である。
末っ子の野詠は、まだ保育園児だから「社中」入りは見送られたみたいだ。
わたしたちは4人もの孫に恵まれたのに、あまり会う機会がない。わたしたちは千葉県松戸市に住み、朗・陽子一家は長野県阿智村に住居・稽古場を構えている。孫の顔を見に行くにはちょっと遠すぎる。
磊也・慧とは「和力」の公演があると会う機会が多くなった。昨年10月「武蔵野公演」で磊也が「鶏舞」を舞った。舞い手としては初舞台であった。
今年の1月、松戸市で「和力といっしょに新年会」が、わたしの所属する福祉のボランティア仲間が企画してくれ、わたしも昔わらび座で踊っていた「お猿のかごや」を磊也・慧などの伴奏で出演し、親・子・孫三世代の共演を実現してもらった。
晟弥と野詠に会ったのは、昨年の夏休みだ。ディズニーランドに行き、それ以来会っていない。約8ヶ月ぶりに「会いに行こうか」となった。
新宿発18時40分、飯田行きの高速バスは3号車まで運行される。通常は1台の運行なのだから,かなりの人が長野に向かう。週末で帰省する人たちも多いのだろうし、着物姿の年配婦人たちは、東京での催しを済ませての帰りなのかも知れない。お国言葉で話し興じている。
4月20日(金)。日が落ちた新宿の夜景は、色とりどりの光の束が、往来する人々を浮き立たせている。
高速道に入れば周りの景色は闇に閉ざされ、芽吹いているだろう山の木々も見えない。
渋滞もなく、飯田市伊賀良(いがら)バス停に着いたのは22時30分であった。朗のワゴン車に乗り込んで阿智村に向かう。
着いてしばらくすると木村俊介さん、小野越郎君が陽子さんの運転で家に到着した。今宵は「石苔亭いしだ・紫辰殿の宴」で「和力」が出演し、旅館の温泉をいただいて今、帰りついたのだ。
4人の孫たちも一緒に帰ってきた。標高600メートルを越える朗の家はたちまち賑やかになった。
明日の土曜日は、明後日の本番にむけて稽古をするということで、朗・俊介・越郎が打ち合わせを始め、わたしが床に入ったのは午前2時をまわっていた。
4月22日(日)に、「早座(さくら)祭り」が阿智村「園原」という地域で催される。
800年の樹齢を誇る「駒つなぎの桜」に捧げる「そのはら 山の花神楽」と題して、村挙げての大きなイベントである。
「駒つなぎの桜」は、奥州に下る源義経が馬をつないだといわれ、旧東山道と林道の分岐点にある。
桜の木は谷間から崖上にせりあがり、平地となった水田に太い幹がズンと現われる。桜の花が水田に覆い被さるように咲き誇る。下の方はほぼ満開だが、上はまだ3分咲き程度であろうか。
わたしたちの地方は、すでに葉桜になっていたが、こちらは桃と桜が平地では満開である。
水田のやや広がった縁(へり)で、茣蓙(ござ)をしいて「鶏舞」を奉納する、朗・磊也・慧の写真をHPでみた時には、桜の幹は岩に見えた。
「どこの岩のたもとで踊っているのだろう」と思ったものだ。黒々とした幹は、水田の所で木のへその辺りから現われる。ずぶとい幹から、左右にこれまた太い枝が、扇状に広がっている。まだ花も咲いていないから、どこかの岩のたもとでの奉納だと勘違いしたのだ。幹の周囲は約5,5メートルあり高さは約33メートルあるという。
わたしは仕事柄たくさんの土地に出かけ、季節が合えば桜を見る機会も多かった。青森県弘前、秋田県角館・長野県高遠・大阪城・高知城・京都・奈良、そして東京の上野公園・隅田公園・千鳥が淵・王子公園など、花びら舞う木の下で行く春を楽しんだ。
多くの桜の名所は、たくさんの桜がトンネルをつくり、華やかさの研を競っている。阿智村の「義経・駒つなぎの桜」は、古代の官道「東山道」に1本だけ谷間に屹立し、1本だけであでやかな花の山をかたちづくる。
600年以上も前に上演され、今ではあらすじだけしか残っていない「狂言木賊(とくさ)」の復曲を祝い、人間国宝の茂山千作師が出演した「信濃比叡根本中堂」から、「園原能楽堂」に移ると、ちょうど折りよく「長野社中」の演目が始まっていた。
途中からだったので中身はよく分からなかったのだが、朗と晟弥の狂言「しびり」が行われていた。
晟弥は地面に座ってなにやら物申している。まだ発声訓練も十分でないせいか聞こえづらい。どうやら主人に用事を言いつけられた太郎冠者で「足がしびれて動くのは難儀である」と言っているようである。
普段の生活では、晟弥は次男坊だから「物申す」どころか、いつも「物申されて」いる。
「晟弥、うるさいから少し静かにしろ」と磊也にしょっちゅう言われ、「本を読みながら物をたべるな」と慧もことある毎に注意している。「ウン」…と言ってその場では収まるのだが、すぐにまた騒ぎ始める。
いつも「物申される」立場だから、「物申す」役は気持ちよかったにちがいないと、わたしはついつい思った。健気な様子が客席をほんのりと包んでいた。
狂言「蟹山伏」は、磊也・慧が山伏で朗が蟹であった。力自慢の磊也の役・智恵のまわる慧の役―その掛け合いが愉快であった。
それが終わって急な坂道を息を切らせて昇っていくと、件(くだん)の「駒つなぎの桜」が左下方に現れる。
道路には仮設舞台が設けられ、狂言や和力の舞台などが眼下の桜に、手向けられたのである。
晟弥の初舞台は、歴史ある園原の地域で、義経ゆかりの桜の元で行われた。名古屋からお出で下さった方々も、舞台脇でニコニコとごらん下さっていた。
だから晟弥の「初舞台」を瞼に刻んだ歴史の生き証人は、地元の人たちと、わたしたちだけではない。
晟弥はそれをどれほど分かっているか知れないが、「源氏物語」や「枕草子」、更には「今昔物語」などに「園原」の里は、詠われ語られている。1,000年以上も前の歴史に名が残る、「園原」で初舞台が踏めたというのは、たいしたことなのだ。