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渡部玲子リサイタルなどでの出会い

2016年11月30日 | Weblog
 もうすでに1ケ月以上も過ぎてしまっているが、書きかけて未投稿のブログを整理した。(だから投稿日は11月とした)
10月は、前進座「切られお富」(松戸)・「志の輔らくご」(大阪)・「狂言の会」(松戸)・和力「凸拍子」(金沢)・そして「渡部玲子ヴァイオリンコンサート」(東京)に参加した。
この中で思いがけず出会えた人たちがいる。

 金沢での和力公演では、なんとわらび座の俳優・千葉真琴さんに出会えた。
わたしがわらび座在籍当時、演技者としてすごした期間がある。
同じ公演班に岩手出身の千葉清(チバちゃん)さんがいた。
「じゃんがら念仏踊り」(福島・相馬地方)は、ちばちゃん、K君そしてわたしの3人で舞った。
デンコンコン デンデコデンコン デコデコデンコン……初盆の家々を訪れ供養するこの踊りは、太鼓を叩きながら身を屈めそして伸びあがる、薄暗い照明の元、高張提灯が掲げられ、女性陣が手に鉦を持ち、カンカンカン、カッカカカンカンと静やかに踊る。
先人を敬い供養するこの踊りは、わたしが好きな演目だった。
共に踊っていたチバちゃんの息子が真琴さんなのである。
真琴さんは、白山市でのわらび座公演の営業を応援するために、金沢にはいり「wariki金沢事務所」の森田歩未さんと出会ったそうだ。
わたしたちがわらび座にいた当時幼児さんだった真琴さんが、舞台そして営業で活躍する場に出会え、チバちゃんの息災である話も聞け懐かしかった。

 10月18日(火)に「渡部玲子リサイタル」(すみだトリフォニ―ホール)に妻とともに行った。
渡部玲子さんは、わたしたちがわらび座に在籍していた当時「合奏団」で活躍していた同期の仲間である。
午後6時半の開演、わたしのアルバイトは5時半に終わり「もしかしたら遅れるかもしれない」と、気もそぞろに日暮里駅から錦糸町駅に向かう。
錦糸町駅に着いたら20分ほどの余裕があり1ベル前に会場に到着、先に来ていた妻の座席のとなりにすべりこんだ。
その隣には横浜から元わらび座員のM夫妻、後座席には京都から駈けつけたU君、その隣には元わらび座合奏団員だったMちゃん、粂川さんがいた。
わらび座合奏団でヴァイオリンを弾いていた粂川さんにはほんとうに久方ぶりに会った。
休憩時間に粂川さんとちょっと立ち話したが、宇都宮においてご夫妻でヴァイオリンを携えて活躍していると承った。

「渡部玲子ヴァイオリンリサイタル」は20回目となる。
モーツアルト、清瀬保二、ドボルザーク、おき はるお(元わらび座員・作曲家・「飴売りコ」)、ドビュッシー、ブラームスの作品を奏でた。
来年も秋口に第21回目のリサイタルを開催するという。

 今度はさらにどんな出会いがあることか楽しみである。



「凸拍子」公演IN金沢公演2016

2016年10月29日 | Weblog
 10月15日(土)、午後4時から金沢市で「凸拍子」公演が行われた。
わたしは上野駅を11時半に発つ北陸新幹線に乗った。2時間46分で金沢駅に着くのだから驚きだ。
うろ覚えだが新幹線開通前は、特急列車に乗り新潟で普通列車に乗りかえ、全行程6時間か7時間ほどかかっていた。
新幹線が長野を過ぎ富山に入ると、家々の黒い屋根瓦が陽の光を受けて輝いている。たまにはスレート屋根があるが、農家も民家も重厚な黒い屋根瓦なのだ。それが金沢まで延々とつづく。北陸の歴史ある都のたたずまいで心が落ち着く。
午後2時過ぎに金沢駅着、晴れやかな秋空が広がっている。
いままで金沢市には何回も来たが、雨風みぞれに会うことが多かった。雨に煙る古都もそれはそれで趣があるが、抜けるような青空にたたずむ金沢の街は活気があり気持ちが広くなる。
公演チラシの交通案内図にしたがい、駅前から「香林坊方面行き」に乗りこむ。バスの車内はまたたく間に満員になる。話している言葉から推測するに観光客がかなりいるように思える。

「南町下車2分」…南町で降りた。
会場である「石川県文教会館」では、顔見知りの方々がお客さんをむかえる準備を整えておられる。
開場時間まで間があるので、会場の近辺を歩き回った。すぐ近くには加賀百万国の開祖、前田利家を祀る「尾山神社」があるが、以前この会場で和力公演をしたとき見て回ったから、今回は裏道をたどって歩いた。
夜になると賑やかになるのだろうか、あるいはすでに廃業したのだろうか、トタン屋根に連なる居酒屋・小料理屋が間口狭く軒を並べている通りを出ると、がっしりした木組みの一軒家があるのだ。昔はどんな商いをしていたのだろうか。
開場時間が迫ってきたので会場に向かう。
なんと入口から延々と開場を待つお客さんの列が、建物に沿って向こうの方まで並んでいるではないか。「実行委員の方々ががんばったのだなぁ…」と、その列を見ながらありがたく思った
開場時間になり列が動き始めた。チケットをもぎる人、プログラムを渡す人、売店に立つ人、実行委員の方々の手際がよい。

 開演のベルがなり客席の灯りが落とされた。緞帳があがり中幕の前に仄かな灯りが入って加藤木朗が立つ。「みなさん、こんにちわ」と軽快なあいさつ、客席も「こんにちわ」と応える。すでにこの段階で客席と舞台は溶け合い一体化したように思えた。
挨拶につづいて「凸拍子公演」の謂れを語る。曰く「今福優、内藤哲郎、加藤木朗はそれぞれに表現方法・スタイルがちがう。その三つの出っ張りを凸とし、三者が一堂に集うとどのように共鳴し合えるのか、特別ゲストのみなさんにも力をお借りし舞台をつとめる」。
中幕がスルスルと上がると、今福優さんを先頭に今福座の末長愛さん堂本英理さんの「登山囃子」が囃され、つづいて加藤木朗「火伏せ舞」で舞台は一変、内藤哲郎さん「魂音」の太鼓演奏に…動・静・動と舞台は多彩に変化していく。
以後、4番目からの演目を紹介しておく。 4、日本海幻想、5、幻夜行路 6、代々木公園 7、陰(鬼と鹿) 8、囃し道 9、津軽じょんから節即興曲 10、合奏曲「忍者」 11、神祇太鼓であった。

 わたしは、後部座席で演目を楽しみ、同時にお客さんの反応をうかがっていた。演目一つひとつが粒ぞろい、変化に富んだものであり、わたしも楽しんだがお客さんを最後まで惹きつけていることも喜びだった。。
この舞台の様子は、wariki金沢事務所を主宰し実行委員長をつとめた、森田歩未さんがご自身のフェスブックに掲載した文章が活き活きと伝えているのでお借りし、転載することにする。

……凸拍子金沢公演、大盛況でした!
お越しくださいましたみなさま、チケットを広げてくださいましたみなさま、ありがとうございました。
本当に予想以上に素晴らしい舞台でした。
自然に沸き起こる拍手や手拍子、指笛、ブラボーの掛け声!どんどん会場が熱くなって、舞台と客席が一体となって盛り上がっていくのがわかりました。
アンコールの後、幕が閉じるまで、たくさんのお客様が、手を振り続けていたのが印象的でした。帰り、たくさんの人に「よかったよ〜!」「また誘ってね〜」「ありがとう〜!!」と声をかけられました。
今回は、最後の最後までハラハラドキドキで、この気持ちが伝わったのか、お会いしたことのない人までたくさんの応援を頂いたような気がします。
凸拍子金沢公演のシェアされた数は数えてないけど、当日も含め、本当に本当にたくさんの方がシェアしたり、宣伝してくださったり、チケットを広めてくださったりしました。今までになく、県外からもたくさんのお客様が来てくださいました。本当にありがとうございました。
集まったアンケート、感想を一部、紹介させて頂きますね。
「超!濃密なレベルの高い、和楽器の宝物のような音楽をありがとうございました。今福さんの太鼓も声も、加藤木さんの軽妙な語りも太鼓も、そして笛も三味線も素晴らしかったです。お衣装もすてきでした。」
「初めの加藤木さんの踊りの空気が一瞬とまった感じが印象に残りました。すべてよかったです。木村俊介さんの出演も多く、盛りだくさんの贅沢な内容で鳥肌が立ちました。本当によかったです。日本に生まれてこんなすばらしい音楽に触れられて幸せな時間でした。ありがとうございました。」
「大吟醸のように五臓六腑に染みわたりました。あまりに素敵な舞台で大笑いしながら涙が流れました。ありがとうございました。」
「すごく楽しく、静動が織り交ぜられて楽しかったです。加藤木さんのトークも好きです。体があつくなりました。」
「太鼓、三味線、笛の奏でるリズムが体のすみずみまで入ってきて、何とも言えない躍動を作り出します。予想以上の素晴らしさでした。」
「世界超一流の皆様の豪華な舞台にただ圧倒されました。またの機会を楽しみにしています。ご活躍を心よりお祈りしています。」
紹介しきれないくらいのたくさんの感想が寄せられました。
終わったばかりだけど、もう一度観たいな〜!!
本当にありがとうございました!……。

 通常の「和力」公演であれば出演者は3人である。ゲストが加わっても総勢5人ほどの出演者であるが、今回は8人の大舞台になった。受け入れる実行委員会のご苦労も多々あったに違いない。
わたしは、舞台が終わっての撤収作業を手伝いながら、「加賀豊年太鼓」の法被を着たわかい男女の方々が、重い太鼓を櫓から下ろし、舞台用具をテキパキと搬出してくださる姿を見て、舞台を支えてくださったのは実行委員ならびにこれら無私のスタッフのおかげだと、快い疲れの中で感じた。
「シャマロン」で開かれた「懇親会」では、実行委員会事務局長が「舞台内容、観客数、財政がすべて成功した」との報告があり、シャマロンの料理をおいしく頂いた。




志の輔らくごin森ノ宮

2016年10月23日 | Weblog
 10月6日(木)から9日(日)の4日間、大阪森ノ宮の「ピロティホール」で開催された「志の輔らくごin森ノ宮」の最終日に行った。「和力」がゲストとして、招かれている。
大阪環状線に乗り三駅ほど過ぎると車窓から大阪城がみえてくる。森の宮駅は大阪城公園の間際にあった。
森ノ宮駅で降り改札脇の案内図で「ピロティホール」をさがす。
大体の見当をつけて交差点を渡ったら、なんと名古屋市のKさんに行き合った。
立川志の輔師匠の落語会は、チケットの入手がむずかしいと聞いているので、Kさんにお願いしてわたしのチケットをゲットしていただいていたのだ。
Kさんは、和力が出演するステージがあれば、どのような規模であれどこへでも出かけてくださっている。沢田研二のステージも見逃さず、全国の会場に足を運んでいる。取りにくいチケットを手に入れる名手なのである。
Kさんは、きょうもふくめて3日間このステージに通ったと云う。きょうは自宅がある名古屋からではなく、ディズニーランドがある舞浜からなので驚いた。
娘さんとお孫さんたち6人が舞浜に宿をとってディズニーランドを楽しんでいる。「今日は早く帰って孫の世話をしなくてはならない」と、中入りの和力演目が終わったら席を立って帰られた。
昨年5月、「和力」がはじめてゲストとして招かれた横浜「にぎわい座」のときにも3日間、11月京都「春秋座」も全3日間を通われた。

「ピロティホール」での「志の輔らくご」一席目は「茶の湯」、二席目は「帯久」で共に古典落語であった。
一席目と二席目の間に「中入り」があり、ゲストとして招かれた「和力」が腕をふるう時間になる。
お囃子「綾打ち」、津軽三味線独奏「じょんから節曲弾き」、津軽三味線二重奏「忍者」、そして神楽舞「鶏舞」とつづく。
一席目の「茶の湯」で楽しくさんざめいたお客さんたちの「和力」への反応やいかに…と気もそぞろに目を見張り耳をそばたてる。
緞帳がスルスルと上が「中入り」が始まった。最初の演目は「綾打ち」のお囃子だ。太鼓と鉦の賑やかさにびっくりしたのだろうか、場内は静まりかえる。静まりかえっているが、お客さんの全神経が舞台に注がれ身じろぎもしないのが見て取れる。
「和力」を見なれたお客さんは「ここぞ」というとき拍手が盛り上がるが、「ここぞ」のときも静まりかえっている。しかし一曲おわるたびに、大きな拍手を送ってくださり、さいごの「鶏舞」がおわったら拍手と声援がとんだ。
和力のHPや朗からのメールでは「志の輔師匠、お客様、主催者様に喜んで頂けましたので良かったです」とあった。
全演目が終わりカーテンコールで志の輔師匠が、「長野県飯田市でご縁を結んだ『和力』のみなさんが、中入りでお囃子・三味線・笛・舞など日本の芸能を披露してくれました。日本の伝統芸のすばらしさも堪能していただけたのではないでしょうか」とご挨拶のなかで触れて下さった。
ありがたいことに、11月飯田市での独演会にも中入りに呼んでくださっている。

 開催される落語会すべてではないだろうが、前もって演題を示さないのが通例である。
演者が会場の雰囲気などによって「なにを語るか」を推し量り、演題を決めるらしい。
今回の落語会でも終演後ロビーに演題がしめされた。

第一席     茶の湯
中入り     獅子舞 津軽三味線 神楽  和力
第二席     帯久

 中入りは「中入り」とのみ表示されるのが通例であると思われるのに、その演目をもきちんと紹介下さっている事に驚きを感じ会場を後にした。

 


長引いた夏風邪

2016年09月30日 | Weblog
 9月が終わろうとしている。この月もいろんなことがあった。
水道管が壊れた。向かいの奥さんが「ベランダからみるとお宅の塀の内側に水が溜まっていますよ」と注意してくれた。
わたしも確かめる。なるほどうすく溜まっている。前日の台風の影響での雨水だろうとわたしは軽く考えそのままにしていたが、気になるから三日ほどして覗きこむと、その水溜まりにかすかな流れがあるではないか。
よく見ると一ヶ所から水が湧き出ているようだ。そこに指を突っ込むと、モクモクと水が噴き出てくるのでたまげて工務店に電話した。「犬走りでの漏水ですね」とさっそく見に来てくれた。塀の内側の空間を「犬走り」とはよくぞ名づけたものだ。
修理に来てくれるまで4日ほど「止水栓」を捻って水を止め、開ける生活をした。
「顔を洗うから」→止水栓を捻り、「洗い物をするから」、「トイレにはいるから」→止水栓を捻り、「風呂を沸かす」→止水栓を開きそして止める、慌ただしい日を過ごした。
 何としたことか、こんなとき風呂釜が壊れうまく点火できなくなった。悪いことは重なるものだ。ガス屋さんが来て「15年前の器械ですから、寿命ですな」と診断。水道管・ガス釜立てつづけの修理・新調に見舞われ費用の捻出に頭を悩ます。

 わたしの身体も不調で、9月半ばまで苦労した。
「喉がイガイガするなぁ」…気になったのは8月の中頃である。
気になったものの別に熱っぽくもないし、体調に変わりはないからそのままの状態で一週間ほど経った。
この頃になると、喉のイガラッぽい感じのあたりに痰がからまるような感触があり、軽く咳きこむようにもなる。
すっきりしないが、間もなく病院の定期診察の予約が入っているからその時に診てもらおうとそのままにして日を過ごした。
この一週間ほどで症状がすすんだ。寝床に横たわると喉がゼイゼイ鳴り、痰がからみ咳きこむ。
寝るに寝むれない。横になると咳きこむから、妻が掛け布団を数枚引っ張り出して、それに寄りかかれば上半身が起きるよう設えてくれた。いくらかは楽になったが安眠できない辛い日々がつづく。
どうやら知らぬ間に夏風邪をひいたようだ。

 どこでいつ風邪をひいたのだろう…思い当たることは週に2回通っているバイトにあった。
わたしは東京のディサービスに通い、お年寄りを車で送迎、身のまわりの世話、カルタ・トランプ、ゲーム、歌などで日を過ごさせる介護の仕事をしている。
いちばん気を使うのが車での送迎時である。とくに雨の日には相手が濡れないよう気をつける。
8月中頃、たまたま台風が襲来する日が出勤日になった。
大きめの傘を持って利用者さんの自宅へ迎えに行く。
この日は、車いすを使用するAさんの所でわたしはかなり濡れてしまった。このお宅は細い路地の奥にあって、車を横付けできない。
せまい路地空間で車いすを広げ、不自由な身体のAさんの手を引き傘をさしのべ、車いすに誘導、身体を支え「よいしょ」と座らせる。
Aさんを濡らさずにすんだが、わたしはずぶぬれになった。
どうもこのとき風邪を呼び込んだらしい。

 病院で薬をもらい祈る気持ちで飲んだ。
だが発熱はないが痰も咳きも治まらない。寝床に入るとひどくなる。
考えてみればわたしは、喜寿を過ぎている身だ。
ディサービスに通ってくる人は、100才に近い人もいるが、わたしより年下の人たちも多くいる。
そういう中で、お年寄りの世話をし働けることをありがたく思っていた。
しかし咳きこんで眠れない日がつづくと、「これはなんか別の病気ではなかろうか」、「年相応なのかなぁ」…もやもや考え弱気になっていく。
服薬して2週間、夜中の咳きこみが間遠くなってきた。そうなると、「薄紙を剥がすよう」に日一日と良くなる。
4週間を経て正常に復し、バイトも継続している。
少ない年金だからバイトがなければ、壊れた「風呂釜」の支払いをどうするか、悶々と悩むことだっただろう。

 まだまだ達者で、すこしでも長く今の仕事をつづけていきたいものだと願っている。


「わらび座」・小島克昭会長おおいに語る

2016年08月17日 | Weblog
 朝日新聞のテレビ番組欄に、本日の見どころ番組を紹介する「試写室」という囲み記事がある。
「あれ、今晩(8月11日)10時からテレビ東京でアキちゃんが出演するよ」と、妻が記事を見つけ声に出して読みはじめた。
……見だしは「多角経営の劇団に迫る」。秋田県仙北市に拠点を構えつつ、全国にファンをもつ劇団「わらび座」。その運営会社の小島克昭会長が今夜のゲストだ。劇場のある敷地内にホテルや温泉、ビール工場まで多角的に営み、人口約2万7千人の地方都市に潤いをもたらす手腕に迫る。今では年間40万超の客を呼び込む劇団だが、1980年代には倒産の危機もあった。地域演劇が盛んな米国の町を参考に「滞在型リゾート構想」をぶち上げたのが小島で、これが躍進の足がかりに。以来、劇団の人気ばかりか、地元に観光産業も生み出してきた。小島は、地方の魅力について「角度をかえれば、なんぼでもある」と言い切る。小島の言葉の数々は、元気がない全国の地方都市にとってのヒントになりそうだ。(小峰健二)……。
番組名は「カンブリア宮殿」。毎週木曜日に、ニュースが伝えない経済人を1時間にわたって放送する番組であるらしい。

 夜10時を待ちかね妻ともどもに見た。
見終わっていちばん心に残ったのは、「温泉への集客・地ビールの販売などの収益で、外部の作者・演出家・俳優などの力を借りられるようになった」との言葉だった。
演技者の安達和平さんも「多方面の才能に触れることができ、学ぶことによって自己をさらに高められた」と語っている。
わたしが在籍していた当時のわらび座は、営業部員が全国に展開し、「実行委員会」を組織しながらかなり旺盛な上演を果たしていた。
しかしその収益だけでは、座の経営を安定させることは困難で、時々ではあるが給与の遅配・欠配は避けられなかったのも事実だ。
なにしろわらび座は、座員の医・食・住を保障し、子どもは高校まで座で面倒をみていた。
座員の給与は、座の創立者も新入りの座員も同じ額で、世間の相場からみれば、微々たるものだった。
差をつけようにも、原資が少ないのでそれしか配分の仕方がなかったのだろう。
わたしがわらび座に入っていちばんびっくりしたのは、給与が支給されることにあった。
わらび座にはいる前、わたしは東京の小さな新劇団に所属していた。
劇団を成り立たせるため劇団員は「劇団維持費」を月々納入し、公演を打つにはチケットの割り当てがたくさんある。
生活費もあわせて稼がなければならず、ビルの窓ふき、サンドイッチマン、清掃、女性はバーなどで働く人が多かった。
いちばん多かったのは「筆耕」=ガリ版で蝋原紙を鉄筆で切る印刷の一工程である。わたしもガリ版学校に通って一応の技術を習得したが、いろんなアルバイトに精を出したものだ。
わらび座はアルバイトの必要なく、切符売りもしなくてよい。現金支給の額は少ないものの座の仕事一筋だけで生活できることに驚いたものだ。

 わたしは23年間、わらび座に在籍した。
母親が高齢になり母といっしょに暮らしていたいちばん末の妹が結婚することになる。
わたしは5人きょうだいの長男であったが、母親の生活は他のきょうだいたちが支えてくれていた。
わたしと妻も「自分たちで出来る限りのこと」として、座からの現金支給の一部を月々おくっていたが、その額は微々たるものにすぎない。
ある日、二番目の妹から「あんちゃん、ばあちゃんが一人住まいになってしまうよ。いままでわたしたちが面倒みてきたけど、あんちゃんも考えてくれない…」と電話があった。
座にひき取っていっしょに暮らすという選択肢もあったが、母の晩年は母が住みなれた地で過ごそうとわたしは座をはなれた。
座の経営状況が厳しいのは身にしみて分かっていたから、もし座が万一の事態に立ちいったたら、当時の座員300人分の1の責務を果たす決意で、退座ではなく休座として母の元に帰ったのである。
座を離れるにあたっては、当面の生活費を座から借りた。それは十数年かけて返し終わった。

「カンブリア宮殿」放映では、ブルベリー農園が紹介され、東京大手ホテル料理長が「代えがたい食材だ」と賛辞を呈していた。
後継者不足などで休耕地が多い中、周辺農家にブルベリーの栽培ノウハウを伝え、年若い農業の受けつぎ手が将来の夢を笑顔で語っているのが頼もしい。
秋田で初めて手がけた地ビール「田沢湖ビール」は販路が広がり、材料である大麦の生産農家のたわわに稔る畑、「温泉ゆぽぽ」で寛いで料理を堪能する人々のゆったりとした姿などが印象にのこった。
本業である文化の仕事は、「わらび劇場」200回を含め年間700回をこえているという。

 民謡の宝庫、秋田県仙北郡に住みついた9人の若者は、地域の方々に守られ育てられた。
60有余の年数を経て、地域に恩返しできる力を蓄えることができたこと、座員の経済生活も向上していることなどうれしい内容であった。


 
 

喜寿をむかえた

2016年07月20日 | Weblog
 わたしは今年の春「喜寿」をむかえた。「喜寿」といえば77才である。
わたしが幼い頃、「村の渡しの船頭さんは ことし60のおじいさん」という童謡があった。
他人に年令を聞くわけにいかなかったが、昔はたしか60くらいの人はおじいさん、おばあさんだったようにおもう。
おじいさん、おばあさんは世の中のことに明るく、正邪にきびしく、一家言をもっているようだったので、いたずらざかりだった頃のわたしは、おそれ多くなるべく近づかないようにしていたものだ。

 わたしの人生経験でいえば、60才の還暦、70才の古希を経てもなんら達観できず、「喜寿」になっても、老境に入ったという自覚はあまりない。
昔のおじいさん、おばあさんはしっかりしていたのになぁ…とわが身をふり返って思う昨今である。
達観した自覚はないが、しかし身体的な衰えを感じる。
65才まで会社勤めをしていた。
家から直近の駅まで2キロあり、健康維持のためその駅をとばして一つ先の駅まで歩いた。歩道橋やビルの階段などアップダウンのはげしい所をえらんで約1時間ウオーキングをして電車に乗り職場に向かう。

 当時は気づかなかったが、直近の駅までの行程で「あれ、変だぞ」と感じることが起きたのはいつ頃からだったのだろう。
直近の駅までは工業団地を通りほぼ真っ直ぐな道だ。前にも後ろも駅に向かう人・人・人である。
自分ではふつうに歩いているのに、どんどん人に追い抜かれてしまうようになっていたのだ。
それが若い人たちだったらなにも気にとめないのだが、おじさんやおばさんにおいこされ、駅の階段を上ると息がはずむ。
知人に用事があって5階まで上るのに一気に行けず、4階でしばらく息を整えなくてはならない。
65才までの会社勤めの早朝ウオーキングでは、ビルの6階分にあたる坂道を息はずませながらも一気に上りきっていたのに、なんということだ。
自分では老境にはいったと感じていないが、追い抜いて行く人たちや、路傍で佇みあるいは犬の散歩をしている人たち、登校する小・中学生たちは、もしかしてわたしを「おじいさん」とみているのかなぁ…。

 それと寝床から起き上がる時、床に座って立ち上がる時、「どっこらしょ」と掛け声をかけただけでは立てない。
なにかにつかまり「うーん、どっこいしょ」と、物と腕の力を借りてようやく立ちあがるのだ。
病院通いも多くなり内科、眼科、歯科には定期的に通う。
こんなことを挙げていくと、やはりお年寄りになっているのだろう。

 友人・知人との別れが最近とみに多くなってきた。
わたしには、わらび座で青春を共にすごした友人が多い。わらび座の基礎をきづいた尊敬する先輩がつぎつぎと鬼籍にはいる。
先輩のみか、わたしと同年齢、後輩にあたる人たちの訃報に接することもある。
良いにつけ悪いにつけ、わたしを丸ごと知ってくれていた人たちがつぎつぎと居なくなるのだ。
先だって高校の同窓会があり、同期の友人たちと会う機会があった。
そこでも同期の友人が亡くなっていた話を聞いた。
久々に会う同期生は、ほぼ仕事を離れて数年たっている。
その中で60年来の親友のM君は、公務員退職後も福祉の手腕を見込まれ「障害者」にかかわる仕事をつづけていた。わたしの息子・朗が主宰する「和力」公演に際しては主催公演もしてくれ、公演のたび人脈を通して手広く「和力」公演を支えてくれていた。M君は今年職を辞した。
同窓会に参加していたTさんも役員として会社つとめをし、和力公演がある度に5名、6名と誘って参加してくれていた。
今は「老人施設」にはいっての生活で、足の痛みに耐えながらの毎日であるらしい。

 幸いにもわたしは身体のあちこちの痛さはないものの、踏ん張る「根気」がいま一つ出てこない。
80才を過ぎても元気な人はたくさんおり、わたしも世の中から隠遁する気持ちは少しもないのだが、目的に向かって挑む気持ちが薄くなっている。
自らが立ちあげ実行する気力は少なくなってはいるが、しかし日常は忙しい。
週に三日は早朝に250CCのバイクに跨り新聞を配達し月末には集金に出歩く。そして会議に参加し出来得る範囲での行動に参加。
週に二日は、介護職員として東京のディサービスに通い、車での送迎、お年寄りのお世話に日を費やしている。受け取る年金が少ないので給与が楽しみである。
町内会役員にもなっている。いつの間にか最高齢になって「部長に」、挙句の果て「会長に」との要請があったが、固くお断りして役員として頑張っている。
盆踊り、運動会、防犯、防災、夜回りなど行事が多いが、なんとかみなについて行っているのだ。
「知的障害者の余暇支援」のグループにも所属しているから、「フリーマーケット」や「バーベキュー大会」などにもセッセと通う。
「和太鼓指導に来てほしい」と数校の中学校からの要請が毎年くる。「今度こそ断ろう」といつも思うのだが、係の生徒がたどたどしい口ぶりで電話してくると「ああ、いいですよ」と引き受けてしまう。

 わたしの本務は、「和力松戸事務所」である。
主催公演にはいま手をつけられないが、公演・小ライブ・講習などの取り次ぎ、打ち合わせ、契約などにも出かけていく。

 こうみていくと、体力・気力は一時より衰えているにしても、まぁまぁなんとかやっているではないかとも思える。
「喜寿」のつぎは「傘寿」(80才)、そして「米寿」(88才)となる。
それら人生の節目をわたしはどのように乗りこえていけるのだろうか。
よき家族・仲間・友人とに繋がって、慌てずそして焦らずゆっくりと進んでいけたらいいなぁ…。


中野孝憲さんが逝った

2016年06月10日 | Weblog
 夕方の買いものから戻ると、郵便受けに分厚い封筒が入っていた。差出人は中野由利子とある。
わたしはとっさに「中野孝憲さんになにか変事があったのだろうか」と思った。孝憲さん直接の便りでないのを訝しんだのである。
いそいで封を開ける。「中野孝憲 音楽葬」のDVDと挨拶文が入っていた。
「音楽で人と人との絆を繋ぎ続けた生涯でした」、娘一同と記し孝憲さんの経歴を紹介した後、「昨年末まで現役を貫き演奏活動をしていましたが、闘病を余儀なくされ一線を退き……20016年4月12日、79歳にて生涯を閉じました」とある。
今年いただいた年賀状は、チェロを弾く孝憲さんの写真が大きく占めていた。わたしたち夫婦は「たっちゃん元気そうだね」と、写真を見てなつかしんでいたので、亡くなったとの報は驚天動地のことであった。

 孝憲さんとは秋田県に本部を置く「わらび座」で出会った。
わたしがわらび座に入ったのは1963年4月、春とはいえ田んぼの畦には雪が残り、雪の割れ目から蕗の小さな芽が顔をのぞかせる季節だった。
孝憲さんはわたしより10日ほど経ってわらび座に到着したように思う。
「やっぱり秋田は寒いわ。隙間風で指がかじかんで練習に苦労しよる」、手を揉みながら長靴をはいた孝憲さんが話す。孝憲さんの関西弁を東京下町出のわたしは新鮮な思いで聞いた。なにしろ関西の言葉にわたしは初めて触れたのだ。
当時わらび座は、急増する座員を収容する宿舎が不足し、わらび座本部近辺で空いている家を借り、あるいは農家の一室を間借りして凌いでいた。
孝憲さんは大きな農家に寄宿し「北浦御殿」と称し、わたしはその近くの「化け物屋敷」と呼ばれる細長い建物に住んだ。
「北浦御殿」と「化け物屋敷」は、わらび座本部から1キロ弱の同方向にあったから、孝憲さんと同道することも多かった。

 孝憲さんは「大阪フィルハーモニー」でチェロ奏者として活躍していた。
大阪フェスティバルホールでわらび座の公演を見て、チェロ奏者の席を捨てわらび座に入ってきたのだ。
「蝶ネクタイを締め、おさまり返って演奏するのに飽いてしまいわらび座に来た」と聞いたのは、わらび座本部への行き帰りの道でであっただろうか、あるいは同じ公演班でいっしょになったとき、公演が終わった後の交流会の席での自己紹介だったかもしれない。
孝憲さんは、大阪フィルハーモニー時代「たっちゃん」と呼ばれていたということで、わたしたちも「たっちゃん」と呼ぶようになった。
 わたしは演技者養成の「第三期学習班」に所属し、たっちゃんは立ち上がったばかりの「器楽班」の責任者として活動を始める。
たっちゃんは楽団員であったことを鼻にかけることなく、気さくな庶民そのものの人柄であった。

 わらび座は、近辺の人たちとの絆を深めようと、まだ機械化されず多くの人手が必要な、田植え・稲刈りの時期には座員総出で農家にお伺いしお手伝いをして喜ばれた。
田畑をもたない人々の家へは、「地域の日」が設けられ、月に一度ほど訪ねることも併せてしていた。
あるときわたしはたっちゃんと組になり、わらび座から2キロほど離れた家に出向いたことがある。
たっちゃんは、背丈ほどもあるチェロケースを携え遠い道のりを行く。
着いた家では「中野さんが来てくれた」と大歓迎で迎え、「まんずまんず召し上がってたんせ」と、採れたての山菜をご馳走してくれる。
ひとしきりの歓談のあと「中野さんよろしくお願いするっす」との声で、たっちゃんのチェロ演奏が始まるのだ。
その家のご夫婦、呼ばれて来ている近所の人たちは一心に聞き惚れる。
「中野さん、中野さん」と大事にされている様子から、わたしは「たっちゃんは何回も足を運んでいるのだな」と気づく。

 1963年8月、わたしは演技者養成の「第三期学習班」を卒業した。
すぐさま「公演班第三班」が結成され、演目仕込みに入り10月からわらび座地元の仙北郡内の学校公演が始まる。
12月までに小学校48校、中学校3校、あわせて19,000人の生徒たちが鑑賞してくれたのだ。
この「公演班第三班」に「器楽班」のたっちゃんと、ビオラ奏者のIさんが合流することになった。
「三班」のオープニングは、「ポンポコポンのスッポンポン」で始まる「狸ばやし」である。
わたしたち演技者に混じって、たっちゃんも京都音大出のIさんも腹づつみを打ちながら舞台狭しと跳ねまわるのだ。
チェロ演奏は、サン・サーンス作曲「白鳥」であった。
同じ公演班での同行は、翌年春には解消された。

 東京芸大・京都音大などの卒業生がぞくぞくと「器楽班」に入り、たっちゃんとIさんは器楽班に復帰したのである。
「器楽班」は人員も満たされ、バイオリン・ビオラ・チェロ・コントラバス・フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン・打楽器・ピアノなど15名ほどの編成になっただろうか。
「器楽班」は「合奏団」と名を変え、たっちゃんを筆頭に研鑽を積み数年が経った。
「合奏団」の演奏活動を恒常的につづけようと、まずは高等学校公演を始めることになり、わたしが営業を担当することになった。
長野県・静岡県などの高校公演は順調に組んでいけた。
静岡では、高校公演の合間に熱海市で実行委員会が結成され、一般公演を行ったのもわたしにとって楽しい思い出である。
この一般公演では、たっちゃんが津軽三味線の演奏を行った。

 その後、わたしは「合奏団」の営業からはなれ、「歌舞班」の一般公演の営業に転じた。
営業から秋田のわらび座本部に帰ると、「合奏団室」から津軽三味線の力づよい音色が響きわたってくる。
たっちゃんは、チェロの稽古とともに津軽三味線のレッスンに身を入れているのだ。
そしてたっちゃんは「もっと津軽三味線の勉強をしたい」と、わらび座で誕生した由美ちゃん(朗と同年齢)、由利子夫人とともに青森市へ去った。
数年してわたしは青森市のお宅にお邪魔したことがある。
たっちゃんは、民謡酒場で三味線の腕をみがき、由利子さんは看護師として働いていた。由美ちゃんも大きくなって、妹さんも産まれてにぎやかな生活ぶりであった。
 たっちゃんもわたしの家に来てくれたことがある。
東京で用事があり、三日ほどわが家を宿にしてくれたのだ。そのときお土産として持ってきてくれた、棟方志功の板画図が今でもわが家の居間に掲げられている。

 遠く離れていても、最も親しい友人としていつも心に浮かび、その生きざまに励まされていた。そのたっちゃんにはもう会えない。

「音楽は国境を越えて、人と人を結んでくれる……そう言葉で、そしてその姿で教えつづけてくれた父。私たち娘もそれぞれプロとしての道を歩んでおります」。
三人の娘さんがそれぞれに歌い囃し、あるいはビオラを弾き、津軽三味線をつま弾き、その芸を霊前に捧げる。
お弟子さんがサン・サーンスの白鳥をチェロで演奏。
カラッと開けっぴろげな「音楽葬」は、きっとたっちゃんご満足であったにちがいない。
 



猫の捕物さわぎ

2016年05月25日 | Weblog


 外猫「リリー」は、昨年(2015年)1月にわが家を訪れるようになった。
目鼻立ちがすっきりした細身のからだ、一才に満たないようなキジトラ猫が、わたしたち夫婦の安穏な生活に騒ぎをもたらすことになる。



 わが家の「サラ」と「ウリ」は、一昨年9月「動物愛護センター」からゆずりうけ、完全な室内猫として生活をはじめた。
箱入り娘たちが長ずるにつれ、茶虎の雄猫が縁側に座って家の中をみつめるようになる。わが箱入り娘たちに懸想したのであろうか。ひたすら正座し家の中を見詰める。
この猫は人懐こく、食事を出すとかすれ声で「ニャー」と鳴く。それでかすれ声の歌手の名をもらって「進一」と名づけた。
「進一」=「シン」は、食事時になるとわが家の縁側に来て、食べ終えると一休みして何処かへ去る。



「シン」が、小柄なキジトラ猫を縁側へ連れてきた。
妻の観察によると、「この家は安心だよ」と云うかのように、キジトラ猫を縁側に誘いあげ見守る。
キジトラ猫が満腹し皿から離れると、交代して食事を始めるのだ。
わたしたちが起きだす朝の5時半には、2匹が縁側にひかえキジトラ猫がガラス戸をカリカリと引っ掻き、食事をさいそくするようになった。
その仕草の愛らしさ、しばらくして女の子だと分かった。目がパッチリと大きく細面の美人である。妻が「映画『男はつらいよ』のマドンナ・浅丘ルリ子演じる『リリー』のようだ」…リリーと名づける。

 娘猫だと分かり、妊娠するのではないかとの心配がつのる。
「餌付をつづけたら慣れてくるだろう…」、せっせと食事を提供するが人慣れしない。
シンは身体に触っても動じないのだが、リリーはぜんぜん触らせない。捕えて避妊手術をする機会がないまま時間が過ぎていく。
5月に入り3日ほどリリーが来ない日がつづいた。
「どうしたのだろう」と気遣っていたら、縁側に置いた小屋にキジトラ2匹、黒猫2匹の合計4匹の子猫がいる。
避妊手術が間に合わず、可愛い子猫が4匹産まれたのだ。



 未使用の猫トイレに座布団を敷いて、訪問猫用のシェルターとして縁側に置いていた小屋は、寒風吹きすさぶ冬場は、ホカホカカイロを座布団の下に敷きつめ、夜を過ごさせる工夫であった。
シンはそこに入って寝ることもあり、すこしは役に立っていたが、暖かくなるにつれそれは無用の長物に化し、全然使われなくなっていたのだ。
そのシェルターにまだ目を開けていない子猫4匹をリリーが連れてきた。
「ここで育てるのなら安全だ」とわたしたちは子育てを応援する気で喜んだが、翌日にはどこかへ連れて行ってしまった。
「もっと安心できる所があるのだろう。子猫を見せにきたんだよ」と、リリーの義理堅さに感じ入り、「子猫の里親探しをしなくてはならないね」……里親探しを始めたが、事はそう簡単ではなかった。
多くの知人・友人に働きかけるがなかなか引き取り手が見つからない。

 リリーが子猫の首を咥えて移動しているのを見かけた。
それを追う。わが家の前のお宅が、庭の樹木を伐採し小山のように積み上げ、整理しないで何年にもなるその下で子育てをしているのをつきとめた。雨が降っても木と木が重なり合っているから凌げるのだろう。でも、湿気も多いにちがいない。
ペットショップに行き、大きなケージを買ってきた。子猫を捕まえて保護しようと思ってのことである。
産まれて5週目の日曜日、リリーが子猫を咥えて移動する姿を見かけた。後を追い、子猫を口から離して一休みしているところを、抱きとって保護した。
一週間後、もう一匹の黒子猫を保護。
その一週間後にキジトラ子猫がリリーといたので近づくと、子猫はすばやくリリーよりも早く逃げた。
先に保護した二匹は、リリーが咥え「一休み」と子猫を地面に置いた瞬間に近づくと、リリーが一瞬たじろぎ後じさりする、子猫はウロウロと地べたを這いずりまわるだけだったから保護できた。
生後七週目に入った三匹目は、かなりの敏捷さを獲得しているので、捉える事ができないのだ。



 保護した二匹の黒子猫をケージに入れる。
親猫リリーは窓から子猫に呼びかけ、子猫たちもそれにこたえて騒ぐ。
夜はケージで過ごさせ、朝ケージの扉を開ける。食事をモリモリ食べ、ケージの外で二匹の黒子猫は追いつ追われつよく遊びよく眠った。
不思議なのはわが家のサラとウリが、二階に行ったきり降りてこなくなったことだ。階段を下り気配をうかがい、階段を降り切ることがない。
相手は子猫なのだからその内に慣れるだろうと思っていたが、子猫が貰われていく二週間ほどの期間は、二階での生活だった。
子猫たちの里親が見つからなかったら、わが家で面倒をみる覚悟であったが、もしそうなったら、階下と二階に二匹づつが分かれて住みわけなくてはならなかったのだろうか。

 幸いなことに友人が里親を見つけてくれた。引き取られる際に記した経歴書がこれだ。


             黒猫A,Bの成長記録
 母親はわが家に訪問してくるキジトラ(推定1歳半)のリリーです。
今年のはじめ、前からやって来ていた茶虎の雄猫に案内されて来るようになりました。
避妊手術を受けるため保護の機会をうかがっていましたが、用心深く保護できずにいたところ、2015年5月20日に黒猫2匹、キジトラ2匹を出産しました。

授乳期は母猫に任せよう、離乳期に保護しようと時期を待ちました。

黒猫A(尾が細く先っぽが折れている)
6月28日(日)に保護。
 動物病院で診察。体重320グラムで「5週目としては小さい」。その他栄養不足による「結膜炎」、風邪もひいているとの事で、飲み薬と点眼薬を調剤してもらった他、ノミ駆除をしました。
その後、体重は日ごとに増加し、一週間後に375グラムになり、動物病院でも「順調に育っています」。
現在の体重は、680g(14日夕)です。

黒猫B(尾が丸丸している)
7月5日(日)に保護。
 動物病院へ直行。体重420グラムでした。病院での処置は、黒猫Aと同じでしたが、身体がAより大きかったので、飲み薬は「やや強めにしてあります」と調剤してくれました。
現在の体重は、700g(14日夕)です。
                                2015・7・15

                            
 わたしたちは、子猫の里親探しの苦労を身にしみて味わった。
四匹の子猫を咥え、安心できる所をもとめてあちこち移動、心やすまらない日々を過ごさねばならないリリーの子育ての大変さもみた。四匹産まれた内の一匹は行方知れずになっている。
避妊手術をはやくやりたいとわたしたちは熱望し、動物病院に相談したら「捕獲器」を貸してくれるという。避妊手術の予約日は一ヶ月先に決まった。
避妊手術前夜は、手術にそなえて絶食させなければならないので、夜の餌だしはせず、翌朝「捕獲器」の中にいつもよりご馳走と思われる猫缶をお皿いっぱいに盛った。
いつも食事に来る縁側に設置しリリーが来るのを待つ。
リリーがやって来て、捕獲器のまわりを巡るのだがなかなか入口を見つけられない。入口を気づかせようといつものカリカリ食事を入口に置く。
ようようリリーが気づいて入口に来た。入口に入って缶詰のご馳走がある奥に進めば「ガッシャン」と扉が閉まる仕掛けなのだ。
「成功は目前」と見守っている矢先、キジトラ子猫が母猫リリーに先んじて捕獲器の奥に突進、「ガッシャン」の大きな音にリリーは逃げ一日中姿を現さなかった。
この子猫を動物病院へ連れて行ったら男の子と判明。さきに保護した子猫たちも男の子だったから、三男坊の「三太」=サンと名づける。
サンも病院で処置を受け、目薬・飲み薬を調剤してもらい、わが家のゲージに保護して一夜を明かす。
翌朝、ガラス戸越しにリリーがケージの子猫を呼び喚く。ケージの中で子猫も鳴きかえす。
このままにしておくのは「不憫だ」と、外に向けケージを開くとサンが飛びだし、リリーともつれ合うようにして、母子はどこかに消えていった。

 次の避妊手術予約日はやはり一ヶ月先に決まった。
再び「捕獲器」を借りて用意万端ととのえる。
ところが「捕獲器」をみたリリーは寄って来ない。前回の捕獲作戦から一ヶ月も経っているから、捕獲器の記憶はないとの思い込みは人間の方で、用心したリリーは夕方までわが家に寄りつかなかった。
動物病院に捕獲器を返し、次の避妊手術予約をした。「予約がキャンセルになって…」と一週間先が指定された。
「今度こそ…」と、ホームセンターで補虫網の大きなのを買い、手ぐすね引いて待つ。
「来た来た、リリーがやってきたぞ」。食事皿に口をつけ一口食べた。そこを狙ってガラス戸の隙間から網をかぶせた。
みごと網の中に入った。と思うや否や網をかいくぐって一目散に逃走。
「予約していたのに今回も捕獲できませんでした」と、動物病院に詫びをいれ第三回目の捕獲作戦は失敗に終わり、一ヶ月先の予約をした。
一ヶ月が待ち遠しい。「今度こそ」と、日が経つにしたがって気分が昂ぶり、緊張感が増し息遣いがあらくなる。
予約日は決まっている。手すきの時に捕えて「持ちこむ」わけにはいかず、「決められた日、10時までに」という刻限を守らなくてはならないのだ。
日が近づくにつれわたしは失敗へのおそれと焦りに心騒ぐ。
第四回目の捕獲作戦…息を整え、網を差し出しリリーを捕えた。が、今度は網を破って逃走してしまった。
8月から10月にかけての捕獲作戦はことごとく失敗、「予約がいっぱい」との事で次の避妊手術予約日は年を越しての2月に決められた。
わたしはその日に向け、釣り具屋へ行き大きなタモ網を購入、準備を整えインターネットでの捕獲情報を読み漁り知恵をみがく。

 朗から「猫の捕獲に苦労しているようだね」との電話が入った。わたしが捕獲作戦失敗をフェスブックに逐一投稿しているのを見たらしい。
「猫は避妊手術だなんて知らないから命がけで逃げる」、「避妊予約の2月ではすでに孕んでしまうにちがいない。捕える事、手術できる病院を見つける事を手伝うよ」と云ってくれた。
信州の朗宅には、中型犬が一頭と猫が5匹暮らしている。猫の習性にも詳しい朗がそう請け合ってくれ、わたしは肩の荷が下り緊張の日々からようやく解放された気分になった。
「捕獲する道具を作ったので、これを食事に来る縁側に設置し猫が慣れるようにしておいてください」。
送られてきた道具は、縁側に網を敷き、余裕の網を縁側下部に置き、長い棒に巻き付け、食事を始めたら持ちあげ上から網をかぶせる仕掛けであった。

 朗が動物病院探しを始めたら、野田市に住む昵懇のOさんが「ここだったら」とさっそく紹介してくれた。
病院への連絡も手術予約も朗がやり、2016年1月12日(月)に決行することになった。
前日、朗がわが家に到着。
朗は送ってくれ設置した道具を撤去し、新たなものに取り換える作業をはじめた。
今までは、上から網を被せて捕獲する方法だったが、新たに持ちこんできたのは、網を下から上にたぐり上げる仕掛けであった。
軒下に滑車を三ヶ所とりつけ、網の上に食器皿を置き猫が乗ったら室内から紐を引っ張って絡め取る作戦である。
朝5時半、リリーとサンが網の上で食事を待っている。食器皿を置く。リリーとサンが食器皿に向かう。
「今だ」と朗が紐を引いて網を手繰り上げた。「成功」と思いきや、網を破って二匹は逃走してしまった。
「網が弱かったようだ」と、朗はすぐさま次の準備にとりかかる。家に置いてあった園芸用ネット網に取り換え待つ。
待つこと一時間ほどしたら空腹に耐えかねたかサンが縁側に登る。園芸用ネット網は丈夫でサンだけを保護して朗が病院に連れて行き去勢手術を行うことができた。リリーはこの日も終日来なかった。
同時に行ったサンの血液検査はすべて正常値であった。
翌日、朗は成田から出航しアメリカに向かった。

 サンの手術の際、リリーの避妊手術日を朗が予約した。2月1日(月)である。
前日1月31日(日)には、「和力野田市公演」があり、野田公演が終わったら朗が家に寄ってリリーを保護し、朗は信州に帰る段取りだった。
捕えたリリーを一夜そこに保護するつもりで、子猫たちがすごしたケージを再び組み立ててある。
家に到着し待つがなかなかリリーがやって来ない。
「明日の朝に賭けよう」と、朗は信州に帰る予定を変更してくれた。
翌朝5時半に起床、シン、リリー、サンが集まっている。ガラス戸越しに朗の姿を見たリリーはそそくさと退散。他の二匹は食事を済ませた。
朗は「リリーに顔を覚えられてしまったようだ」…と云う。
障子を閉めリリーの登場を待つこと2時間、リリーが縁側に登った。障子の破れ目からそれを確認していた朗が「それっ」と綱を引く。みごとにリリーを保護できた。

 6回目にしてようやくリリーの捕獲が成功した。
朗が工夫した道具と立ち会いがなければ、わたしと妻だけでは今だにリリーとの追いかけっこがつづいていたに違いない。
家にやって来る訪問猫シン・リリー・サンは去勢、避妊手術をしたから、近隣の方々もあるていどは「地域猫」として認めてくれているようだ。

 バイトなどでわたしたちの帰りが遅いと、訪問猫の3匹が路地で待っていて、わたしたちを駆け足で追い越し、縁側に登りガラス戸が開くのを待つ。
捕獲が失敗していたとき、一時は「餌絶ち」をして、訪問猫たちとの関係を切ろうかと思いつめた。
命あるものをむげにはできず、今また信頼関係を築けてよかったと思う日々を過ごせている。
わたしは猫たちとの付き合いを通して、ひとつの変化がある。
畑仕事をしていると、モコモコした虫に出くわす。たぶん「根切り虫」や蛾の幼虫など作物の害虫にちがいない。
前だったら、鍬やスコップで「害虫退治」とばかり駆除していたが、モコモコした猫と接するようになり、モコモコした虫にも目鼻口があり一生懸命に生きているんだと思うと、殺生ができなくなり、「作物の少しばかりの損害より、この子たちの命が大切だろう」と、そっと土に戻すようになったのだ。
猫との生活でゆったりした心が芽生えているのだろうか。

 いずれにしても昨年は、リリーの出産、子猫たちの里親探し、避妊手術のための捕獲作戦で気疲れの多い日々を送っていた。
今年はそれらの心労から開放され行く春を楽しめているのである。

※捕獲器、朗作製の捕獲設計図、その仕掛けなどの写真を掲載したかったのだが、写真「縮小ソフト」がとつぜん使えなくなった。いろいろなことを試したが縮小できず、日ばかりが経ってしまう。残念なことであるがアップをいそいだ。
 


「劇場で上映したい」 ―― 行きつもどりつの整音作業 ――

2016年03月31日 | Weblog


 和力DVD完成記念「映画上映会」が、3月19日(土)「日比谷コンベンションホール」で開催された。
第一部、和力舞台公演(70分)、第二部、ドキュメント加藤木朗と和力(35分)、上映後は飯田基晴監督と加藤木朗のトークショーで締められた。(トークショーの内容は後日アップ)。
加藤木雅義が「劇場で上映したい」とDVD完成直後から漏らし、音響・スクリーンが整った会場探しをやり始めた。
会場の空き状況、飯田監督と加藤木朗のスケジュールの調整などがあり、なかなか会場が確定出来なかったが、日比谷公園内のコンベンションホールに決まり実施されたのである。

 加藤木雅義「劇場で上映したい」……を掲載します。

 


 和力の映像化にあたり、わたしは幸運にもすべての収録現場に立ち会わせていただきました。そのときどきの思いなどをお伝えできればと思います。
14年9月にクランクイン、翌年2月の松戸公演でクランクアップ。さて、あとは映像の編集を待って完成かと思ったものの、それは素人が勝手に思い込んでいただけでした。
その後にできあがった映像に音を合わせる途方もない作業が待ち構えていたのです。
それは業界では「整音」というらしい。
ドキュメント映画と異なり和力は音を出す舞台活動をしているので、この整音が映像には重要な要素としてあります。

収録現場の松戸公演では、本番が始まる前に舞台の各所にマイクが配置されました。
・客席真上の天井からつるされて舞台中央をにらむマイク
・舞台の床板に設置されるマイク
・出演者の各楽器や胸に取り付けられるマイク

 それらの音がひとつ1チャンネルとして、十数チャンネルでそれぞれに拾われます。各音源ごとにクリアに音を録ることができますがそれだけを再生しても商品にはなりません。各チャンネルにある音を映像に合わせて後ろに下げたり前に出したり奥行きをつくるのです。それが整音作業。
映像の最終編集が完成します。
それを待って音声の米山さんがスタジオで長時間かけて音を整えてくださいました。
こうやって映像と音が作品としてできあがってきました。
ほぼ完成と思いきや、そこにひと手間が加わります。
出演者の小野さんと木村さんが整音の現場に立ち会うことになったのです。
それは、和力がベトナム遠征をする前の慌ただしい日のことでした。
その日なら宮城県にお住まいになる小野さんが東京に出てこられることがわかったからです。

 整音当日。
指定されたスタジオの防音された重いドアをあけると、すでに作業は始まっていました。
内には大きな画面がセットされており、そこにできたての映像が流れています。後方にはコンピューターを操作する米山さんが待機。画面の前には小野さんがいて見入っています。
画面では、獅子舞が終わり鹿踊りの登場シーンにさしかかっているところでした。
流れのあらましを申しあげますと、舞台右手で「ピロピロピロ」と篠笛の音。その音に誘われるように鹿が左手から登場という場面です。

ここで小野さんが待ったをかけます。
「鹿の登場前の篠笛は森の妖精をあらわしていますので、もうちょっと(音を)前側で出すことはできますか」。それを受けた米山さんがコンピューターで調整します。場面を巻き戻して、再度の放映。
たしかに篠笛が右の前の方で鳴るようになりました。
一方、わたしが驚かされたのは、鹿踊り登場の篠笛が森の妖精を表現しているという小野さんの言葉でした。今まで何度も鹿踊りを見てきましたが、篠笛の音の意味は気がつかずにいたのです。森の妖精だといわれてみれば、森閑とした印象が目の前にあらわれるようにイメージできます。あの音にマッチしているのはジブリ映画に出てくる森の精のあらわれるシーンではないですか。それが急に映像として頭に浮かんだ。
何気ない鹿踊りの登場ひとつにも、そうしたイメージがあったのです。
「板のマイクをもうちょっとおとなしめに」。調整し、再放映。
「うーん、舞台上部の音を少し出してください」。調整して、放映。
こういうことが1シーンごとに倦くことなく追求される。
同じシーンを何度もくり返しますから、指示を出す方もそのうち何が何だかわからなくなってしまう。
でも、小野さんも木村さんもあきらめません。調整する米山さんもがんばります。
その作業が朝から深夜まで、根気よく2日間連続してつづいたのです。

 今回の和力DVDは劇場公開を想定したものではありません。パソコンや家庭用テレビで視聴することを前提にしたものです。パソコンではきれいな映像を流すことはできても音の奥行きを再現することは不可能に近いことです。
でも、整音に立ち会ったみなさんは、音のクオリティを高めるためにギリギリまでねばります。パソコン視聴が主でこの努力は報われないかもしれないのに、です。
たとえ気がつかれることがなかったとしても細部までおろそかにしない姿勢。そうやって劇場で公開しても満足が得られる作品が行きつ戻りつしながら構築されていったのでした。終わりがないような地味な作業のくり返しで立ち会った者としてはつらい現場でしたが、何だかわたしはとても感動していたのです。

「DVDだけで終わりにするのではなく、一度でも大きな劇場で上映したい」
急に思い立って同じように立ち会っていた飯田監督にそうご相談させていただきました。こうした労に報いるのがわたしの務めだと思ってしまったからです。

 それが3月19日の日比谷上映会をセットさせていただいた理由でした。






2015年 をふり返る

2015年12月31日 | Weblog
 わたしの町会(2,000世帯)では、年が押し迫ると拍子木を打ちならし、町内を見回る昔でいう「夜回り」が5日間つづく。
古典落語「二番煎じ」さながら、寒空のもと身をすくめ小一時間、町内を一巡し町会会館に帰り、おしんこを肴にからだを暖める。
世のため人のため…とはいえ、この5日間が終わると「あぁ、今年も終わるな」とホットするのだ。
なんとなくこの1年間をふり返える気持ちになり、書きためていた文章なども活かして1年のわたしの動きをまとめてみた。

 わたしは昨年、妻は今年「後期高齢者」の仲間入りをした。
お互い持病をかかえているものの、無事息災に年の瀬を迎えることができありがたいことだ。
小さな年寄り家庭だが、ふり返ってみればたくさんの事があった。



 1月31日には、「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」での和力ライブ。
翌日2月1日は、野田市「欅のホール」で和力公演。
2月7日は、松戸市「森のホール」で和力公演。
前年12月末の「練馬文化センター」と「森のホール」公演は、wariki松戸事務所が実行委員会を呼びかけているから、1月、2月は実行委員会の開催、配券、集約などであわただしく過ごした。



 2月14日には、松戸神社「神楽殿新築記念・神楽奉納」に和力出演。ここにもたくさんの方が集まってくださった。

 3月末、今までわが家に寄宿し専門学校へ通っていた孫の慧が卒業し、親元に帰った。磊也が昨年、都内に自分の城をもち独立したから、5年ほどで夫婦だけの生活にもどることになる。



 4月26日の練馬区議選にわたしの姪、加藤木 桜子ちゃんが3期目に挑戦。わたしは3月から週に1日、桜子事務所に通って実務整理のお手伝い。
4月に入ってからは、投票日前日まで10日間ほど事務所詰め。
加藤木 桜子ちゃんは第2位(定数50)で当選。福祉を芯にすえた日頃の旺盛な働きが共感を得たのだろう。




 5月3日は「松戸憲法の集い」(松戸市民会館大ホール)に和力出演。
5月3日から5日の三日間は、「志の輔noにぎわい」(横浜にぎわい座)にゲスト出演が叶い和力の新しい展開となる。
昨年10月に飯田市で「立川志の輔」独演会が催された。
師匠が宿にしていたのか、朗おや子が昼神温泉郷「石苔亭いしだ」に出演したのをご覧になった。
舞台が終わると「いやぁよかったです」と、朗に握手を求めてきた人がおり、そのときはじめて朗は「あ、志の輔師匠」とびっくりしたそうだ。
師匠は「いつか舞台をご一緒したいですね」とおっしゃり、明けて2015年2月に「5月3,4,5日の『横浜にぎわい座』への出演」を師匠自らが打診して来られた。
つづく11月、「京都春秋座」にも引きつがれ、出囃子まで任せていただけたという。
「地方には自分が知らないすごい人がいる」と、朗の芸を評してくださったそうだが、芸を極める達人に見染められ、和力の客層がおおきく広がったのである。
5月6日は、東京立石にある「蕎麦処やなぎや」ライブ。

 6月5日は、2月7日から取りくんだ「和力映像プロジェクト」の受付最終日であった。
「クラウドファンディング」で資金を募り、目標額を突破しての終了で、多くの方の支援に感謝した。
6月7日、「東葛合唱団はるかぜ・25周年記念コンサート」にわたしは、表方の責任者として参加。加藤木 朗がときたま指導にはいる「郷土部」も新しいメンバーを加え、充実した演奏だった。
6月27日、構造建築家 増田一真さんの学術授与式に和力出演。



 7月11日、帯名久仁子さんをゲストに、名古屋市北文化小劇場で「お囃子紀行」、音舞語り「牡丹燈籠」等を夏の日に楽しんだ。
7月15日、外猫リリーが産んだ子猫2匹の里親がようやく決まった。その里親に渡したメモである。
黒猫A,Bの成長記録
母親はわが家に訪問してくるキジトラ(推定1歳半)のリリーです。
今年のはじめ、前からやって来ていた茶虎の雄猫に案内されて来るようになりました。
避妊手術を受けるため保護の機会をうかがっていましたが、用心深く保護できずにいたところ、2015年5月20日に黒猫2匹、キジトラ2匹を出産しました。
授乳期は母猫に任せよう、離乳期に保護しようと時期を待ちました。

黒猫A(尾が細く先っぽが折れている)
6月28日(日)に保護。
 常盤平動物病院で診察。体重320グラムで「5週目としては小さい」。その他栄養不足による「結膜炎」、風邪もひいているとの事で、飲み薬と点眼薬を調剤してもらった他、ノミ駆除をしました。
その後、体重は日ごとに増加し、一週間後に375グラムになり、動物病院でも「順調に育っています」。
現在の体重は、680g(14日夕)です。

黒猫B(尾が丸丸している)
7月5日(日)に保護。
 動物病院へ直行。体重420グラムでした。病院での処置は、黒猫Aと同じでしたが、身体がAより大きかったので、飲み薬は「やや強めにしてあります」と調剤してくれました。
現在の体重は、700g(14日夕)です。



 7月末日をもって妻・和枝が退職した。
職場には年令が上の人たちも多く、まだまだ働きつづけるつもりでいたのだが、足や腰の痛みに悩まされるようになっていた。
妻は中学を卒業し看護学校へ、2年後、熊本市の病院に勤務したのは、17才をちょいと過ぎた頃であったそうだ。
働きに働いて75才でリタイヤ、3ヶ月の充電期間をおいて、都内の「ディサービス」へ週2回勤め始めたから、まだまだ現役を張っているのである。

 9月5日、恒例になっている松戸市立K中学へ「和太鼓講座」。そろそろ退きたいと思っているが、一生懸命な中学生と接しているとなかなか「止める」と言い出せない。
9月6日、「川崎すくらむ21ホール」にて、三響の音公演(三宅島芸能同志会、今福座、道川神楽社中)に和力ゲスト出演。出演団体の個性が鮮烈に飛び散るステージであった。

 10月24日、「いなぎ市民祭」にどんがらと和力が共演。
10月31日、金沢市和力公演。金沢へ行くたびいつも思うが、人と人を繋ぎ合う「実行委員会」の温かさを感じる。



 11月8日、藤岡市みかぼみらい館「太鼓エモーション」に和力出演。グループそれぞれの力演の中、和力の舞い・篠笛・三味線が潤いをあたえたように思う。
11月13、14、15、「立川志の輔独演会」(京都春秋座)にゲスト出演。
11月27日、松戸市小金井「わかば苑」和力公演。

 12月13日、東京早稲田にて「木村俊介コンサート」に参加。ゲストの奄美島唄にしびれる。
12月22日、名古屋における「暮れの打ち上げ」和力公演は、参加することができなかったが、雅義が撮影した映像をみた。
音舞語りに加藤木 陽子が出演。
陽子さんの舞台は「水口囃子」の大胴を叩いていたりする姿などにかって昔ふれている。
陽子さんは磊也が生まれてから、舞台にたっていないから20数年ぶりの舞台復帰だろうが、動きも語りもすっきりとしているのは、たぶん朗や晟弥・野詠などといっしょに、狂言を修行してきている成果だと思った。

 フェスブックができてから、折々のことはそこに記録するものだから、ブログに向かう機会が間遠くなった。
この度、和力に関しての記述は、わたしが参加した範囲にとどまっているが、結成から15年経った和力が、ホール公演、海外公演・ゲスト出演・共演などをふくめ、活動の場を大きくひろげた年でもあったように思う。
朗の地元、阿智村・飯田市の方々の支えが盤石なのが、即ち大きな根っこが地元にあるのが和力発展の原動力であると深く感じた1年でもあった。

 わたしは、wariki松戸事務所を主たる仕事にすえながら、週に二回「ディサービス」に勤務しお年寄りの世話をする副業をもつ。
あわせて、地域において週に3日間、250CCのバイクを駆って「新聞の早朝配達」やその集金、「知的障害者の余暇支援」サークルに所属してのボランティア活動、そして町内会の役員にもなっている。余暇としては8畳間ほどの広さの畑を二面借りて季節の野菜づくりもしているのだ。
喜寿を前に、すこし身のまわりを整理しなくては、「もたないかなぁ」…と感じてもいる2015年の年の瀬である。