1年の頭がめぐってきた。
ことしの幕開けは例年と趣が相当にちがう。
コロナウィルスが猛威をふるい、外出をひかえるよう強く呼びかけられ、神社仏閣の初詣で、盛り場の賑わいがないようだ。
交通機関も終電を繰り上げ、道行く人は全員といっていいほど、マスクで顔の半分を覆っている。
高齢者・基礎疾患のある者が感染すると重症化すると云われているから、わたしたち夫婦も用心しなければならない。
幸い二人とも数年前にパート勤めを辞めたので、電車に乗ってぎゅんぎゅん押される心配がなくなっているのは幸いだ。
それぞれが所属するサークルなどの集まりも中止・延期となり家で過ごす時間が多くなっている。
わたしは昨年の1月をどう過ごしただろう…手帳を開いてみた。
まだコロナ以前であったのでけっこう忙しく動いている。
元旦は町内の稲荷神社に詣で、江戸川土手で遠く富士山を望んだ。
2日・3日と来客がありすき焼きを具す。
5日を過ぎると日常の生活が戻り、週に3回早起きしての新聞配達、「知的障碍者の余暇支援」のボランティア活動・沖縄映画「洗骨」鑑賞などで月の半ばが過ぎる。
月の後半、20日M病院診察、22日M病院MRI、23日幕張A病院でVIP検査とつづく。
市の健康診査で前年10月「肺に影がある」との見立てで、精密検査が年明けに集中した。
この間、朗と二人のキャストが埼玉公演のためわが家に2泊。
24日は自動車教習所で免許更新のため「高齢者講習」を受講し合格、あと3年間は運転可能となる。
27日、妻同伴でM病院で肺がん手術の打ち合わせ、30日に入院した。(2月6日手術、13日退院)。
コロナ以前であったから、公私にわたりかなり慌ただしく過ごしていたことになる。
それに比して今年の1月は、定例の会議は復活したものの、「歌声喫茶」や「フリーマーケット」など、人を集める催しはなくなっている。
内科・眼科・歯科医への予約で出かけるのが、スケジュールの主な流れになってしまった。
1月中頃には朗たちのライブが東京で予定されていた。
わが家に泊まってくれるかな…との期待がよぎる。
昨年もわが家に泊まり、新年のお祝い芸を諸所で披露した。
だが今年1月のライブは、「緊急事態」発出により4月に延期となった。
首都圏での公演のみか、地元での活動も制約を受け出番が激減している様子がHPの「スケジュール欄」でみてとれる。
大道具・小道具の制作・獅子頭などの面打ち、などに精を出しているようだが公演がない。
このような状態で生活が成り立つのであろうか…心配は募る。
朗からは「畑・田んぼ・狩猟など自給自足の足場があり、なんとかこの難局を乗り切っている。舞台から離れず、嚙り付いて頑張ります」とのメッセージを受けとった。
わたしは高校卒業と同時に東京で演劇活動に入り、ひきつづき秋田に本拠を置く「わらび座」で45才まで在籍していた。
長らく創造団体に身を置いてきたが今回のような難局は初めて目にすることだ。
やむなく予定されていた公演が中止になった経験はただの1回しかない。
わらび座の公演班が「食中毒」にかかっての中止である。
よくは覚えていないが、1週間か2週間の療養で公演活動は再開された。
今回のコロナウィルスは、昨年の2月から表面化しほぼ1年にわたる流行だ。
この間、わたしの所属する「松戸演劇鑑賞会」では、例会が延期、延期はしたものの「緊急事態宣言」が発せられ、中止になることが重なる。
期待していた「前進座」・「こまつ座」などの鑑賞ができなくなったのだ。
わたしは一会員として「観れなくなって残念」との気持ちと同時に、稽古を積み上げてきた劇団の窮状を思いやる。
それと同時に創造者一人ひとりがどう生活を成り立たせていっているのだろうかを心配するのだ。
劇団員・演奏家・芸人・声楽家・伝統芸能表現者などなど、出番が失われている。
長年かけて真摯に獲得した芸の行き場がない。
公的援助が薄い中で、これら努力の人たちが耐えていけるのだろうか。
耐えていってほしい。
日本の文化をなんとか継承していってもらいたい…と切に願う。
創造団体・創造者としてのOBである、わたし個人としての応援は限れれている。
せめて退会者が続出している「演劇鑑賞会」に踏みとどまり、すこしづつだが再開されている「映画会」や「ライブ」に参加しよう。
こんなことで来月は「演劇鑑賞会例会」・「松元ヒロソロライブ」・「映画会」などに参加する計画を立てている。