7月後半をふり返る

2012年07月30日 | Weblog

 
 7月22日(日)は、昼の12時から5時にかけて「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の講座があった。
1989年に創立した「東葛合唱団はるかぜ」が、明年5月「第11回コンサート」を森のホール・大ホールで開く。
「郷土部」はそれに照準をあわせ、新しい演目「三本柳さんさ踊り」の仕込みに入っているのだ。
昨年から加藤木朗を講師に稽古を始め、3年がかりの取り組みとなる。
17日に梅雨が明け20日に夏休みがはじまり、「季節は順繰りにまわるのだ」とばかりに暑さが幅をきかせている。
朗は、朝に信州を発ち11時半に会場に到着した。
天井が高い体育館は、この暑さの中でも凌ぎやすく、5時間の講習を終えて朗は信州へ帰って行った。



 25日(水)は、わたしが所属する「福祉・文化サロン は~いビスカス」で、月一回のシネマの会があった。
マイケル・ジャクソン「THIS  IS IT」がDVDで上映、わたしはマイケル・ジャクソンの映像に初めて触れた。
スタッフ・共演者は「マイケル」と親しげに呼ぶ。マイケルは歌い踊りそして「ここはこういう風にしたい」と、照明から音響、振付、演奏楽器の一つひとつまで、改善したいことを投げかけ、みんなの合意を得ながら舞台をつくり上げていく。
50回のステージの公開直前に、マイケルは50才で急死してしまう。
「THIS IS IT」は、リハーサル風景をもとに2009年ドキュメンタリー映画として公開されたのだ。
マイケルは、アマゾンの自然破壊に反対し、貧しい子どもを引き取り養育していた。純粋で偉大なアーティストは、そねみや偏見で根も葉もないパッシングを受け、数年間、沈黙を守り、「さあ、これからだ」と再び羽ばたく寸前に亡くなってしまった。
わたしは、世間一般の報道の影響で、「食わず嫌い」になっていたのを悔んだのだ。



 
 28日(土)は、代々木の「ギャラリーきらら」で「石井総作陶展」があった。
総君はわらび座で生まれ育ち、朗より2学年上である。
高校を出てから横浜市に住み、在京の「元わらびっ子」たちが総君の下宿で正月を過ごすのが恒例になっていた。朗もわが家へは目もくれず総君の所へ行っていた。
総君が「焼き物の勉強をする」と、備前市に移って10年ちかくなるだろうか。東京で初めての個展を開いたのだ。
妻と共に訪れると山田耕一郎(柳家さん若)君も出迎えてくれた。耕一郎も元わらびっ子で朗の2学年下になる。
朗にとっては総君が兄貴、耕一郎君が弟分になるのだろう。
総君の個展に向けて、「陳列用の棚をつくる」と耕一郎が朗と共に、車で岡山まで二泊三日の旅をして、陳列棚を完成させ「家の一部が崩れかけていたのも、三人で修理した」と総君が云っていた。
実のきょうだい以上のつよい結びつきで結ばれている。
備前焼は素朴でどれもこれも欲しくなってしまう。選ぶのに目移りしたが花挿しを4つ選んだ妻は、家に帰ってあれこれと楽しんでいる。


陶器を載せている棚は朗・耕一郎が出張制作した作品である

 28日と29日(日)は、町内の盆踊りであった。28日は朝7時半からテントの設営などで大汗をかいた。晩は「作陶展」から帰って6時から本部席に詰めて、会計係として忙しかった。
子どもたちがたくさん浴衣姿であつまり、踊りはそっちのけで遊びだべっているのも伸び伸びしていいものだ。
背丈がすらりと伸び、腰高の男子生徒(中学三年くらい)が4人、5人と固まっているのを見ると、「いいわかものが育っている」…「磊也もこんな風なわかものだよな」、とついついほれぼれと見惚れている。



 30日(月)は、7時から盆踊り会場の片付けでこれまた大汗をかいた。

 8月4日(土)には「松戸花火」があって、町会防犯部員として見回りに歩き回り、5日(日)には、「は~いビスカス」のフリーマーケットとつづく。

 

中学(男子校)の音楽鑑賞会

2012年07月20日 | Weblog


 梅雨が明けた17日、「和力」と「どんがら」のジョイント公演を、埼玉県志木市民会館へ観に行った。
N中学校の「音楽鑑賞会」が午後2時に始まる。

 和力の学校公演が東京近郊であると、「観に行きたい」と思うが、学校内施設の上演だと「行ってもいいだろうか」と、二の足を踏みなかなか機会がない。
市民会館での行事だったら、受け入れてもらえるかも知れないと、朗をとおしてお願いし「OK」をいただき、休業日の妻と出かけた。

 朝10時半に家を出る。梅雨明けの太陽が地べたを焦がし、つよい日射しをふりそそいでいる。
駅まで20分、いつもだったら駅まで歩くのだが、暑さにたまらず210円を奮発してバスで駅へ向かう。

 東武東上線で志木駅に着き、インターネットで打ち出した地図を頼りに歩き出した。
しばらく歩く内に、三々五々のグループで同じ方向に向かう中学生たちと合流し、15分ほど歩き志木市民会館へ到着した。
「保護者の方はこちらで記帳してください」と生徒たちが受付をしている。名前を名乗ると楽屋に案内してくれ、主催者の方から座席表をいただき、朗と出演者の方々にあいさつを交わした。
わたしたちより早く、朝7時に家を出た磊也は小道具の点検に余念がない。

 昨年の春、高校を卒業し、わが家に寄宿しながら芸道修行中の磊也(加藤木朗・長男)が、メンバーに混ぜてもらって出演するのだ。
磊也は、太鼓と舞いは幼いころから朗に仕込まれ、狂言は中学生になって「大蔵流家元」に弟子入りしている。
わが家に来てから、狂言、津軽三味線、筝、胡弓、江戸囃子、篠笛のお師匠の元に通い始めて1年が過ぎた。



 今回、磊也はどんな役回りで舞台に登場するのだろう。

「獅子舞」では囃子方として締め太鼓を打った。習得中の「江戸囃子」が活きているのだろう。
「だんじり囃子」は下打ち、「鶏舞」をいつもの舞台とおり演じていた。

 わたしがびっくりしたのは、「津軽じょんから節・曲弾き」の場面であった。プログラムを見て、磊也の師匠・山中信人師の独奏だと思っていたら、磊也も三味線をかかえて登場した。
そして師匠の先導のもと一曲弾き終えたのだ。
師匠が所々で「ハッ」とか「オッ」など大きな掛け声をかけていたのは、きっかけや変調などの合図であったのだろう。
手に汗を握る心地で、師匠のバチや指さばきを見つめ、磊也のを見つめると同じさばきで一安心する。
磊也は真剣そのものだった。

 1年そこそこで、師匠になんとかついていけるまでよくぞ育ててくだった、と演奏が終わった後、ありがたく思った。

 男子校の生徒たちの反応もよく、先生方も爽やかな学校の「13回目の音楽鑑賞会」であった。

寄る年波

2012年07月09日 | Weblog


「寄る年波には勝てぬ」……。
わたしは元来がへそ曲がりで負け惜しみがつよいから、「いや、そんなことはないよ、それは気のせいだよ」と今日まで過ごし73才になった。
しかし最近になって「寄る年波は本当かも知れない」と、つくづく思うようになってしまった。

 歩いていて人にどんどん追い越される。20代や30代の若い人たちにだったら「足のコンパスの長さがちがうから仕方ない」と自分を慰められる。
だが40代、50代のサラリーマン風な人や、おばさんにもドンドン抜かれるのである。相手はそんなに急いでいる風でもないのに追いつけない。
70才を過ぎた頃に気づいたが、駅の階段や歩道橋へ登ると息切れがする。

 わたしはからだを動かすことが好きで、50才近くまでジョギングをしていた。
会社勤めになってジョギングから、ウォーキングに切り替え、家から一つ先の駅まで歩いた。
アップダウンの激しさを求め、歩道橋や坂道をえらんで1時間ほど歩いてから電車に乗って通勤した。
思い起こせば、長く急激な坂道(ビルの9階ほどあった)も、歩道橋もつらかった記憶はなかったから、息が弾むのも加齢のせいなのだろう。

 会社を65才で退職し「和力事務所」を2005年4月に立ち上げた。それ以降もウォーキングは欠かさずに一日一万歩以上は歩くようにしている。
家にいるときには、午前の郵便局などへのお使い、午後は食材の買い出しなどで歩数を稼ぐ。



 最近は少し歩くと腰をかけて休みたくなる。
むかしは、道路際のちょいとした段差に腰をかけ休んでいる人をみて「お年だからくたびれたのかなぁ」と人ごとのように思っていたが、わたしもその種族に仲間入りしたのである。
10分も歩くと一息入れたくなる。立ち止まって深呼吸したいのではなく、腰掛けたくなるのだ。
だから今では散歩コースの途中に、ベンチがどこにあり、腰掛けられる石垣はどこにあるかはしっかりと記憶している。

 以前は、歩いていて追い抜かれると「むかっ腹」がたったものだが、今ではそれを受け入れる度量が備わってきた。
人間として角がとれ、穏やかになったのだろうか。


お閻魔(えんま)様

2012年07月01日 | Weblog


 北千住駅前の「シアター1010」で荒馬座公演があり出かけた。
北千住はわたしが小学2年から中学・高校時代を経て、わらび座に23才で入るまで過ごした街である。
久しぶりに駅前へ降り立ち周辺を見渡したが、当然のことながら50年前の面影はない。

 記憶にある駅前広場は、冬場は北風に埃が舞い、夏場はセミの鳴き声が街路樹から降り注いでいた。
今は中・高層ビルが立ち並び、食べもの屋さんがはでな色彩で客を呼びこんでいる。駅前にむかしあった「自転車預かり」の店はない。
新聞少年だったわたしは、販売店のがっしりした重たい自転車にリヤカーをつないで、駅へ夕刊を取りに通ったから、北千住駅はなじみが深いのだ。

 駅前に立つと、にわかに幼いころの記憶がよみがえってきた。
「閻魔堂がちかくにあった筈だ」……。
わたしたちの幼いころは、戦争で焼け野原がたくさん残っていて、車もあまり走っていなかったから、野原や道路が遊び場だった。
夕方になると拍子木を打ち、あるいはドンドンと太鼓を鳴らして客寄せをする紙芝居屋さんがやってくる。
観覧料の代わりに水あめやせんべいを買う。お金がないと紙芝居のおじさんの代わりに、ドンドンと太鼓を叩いて町内を一回りすると、水あめを買わなくても見る権利ができたものだ。
「黄金バット」や「猫娘」などをおじさんは名調子で語り、子どもたちはだいたい同じ時間にくる紙芝居屋さんを待ちわびたものである。

 テレビやゲームがあるわけでなく、子どもの楽しみは、路地いっぱいになって「馬乗り」や「缶けり」、「かくれんぼ」などの遊びだった。
夕方になると誘い合って公衆浴場へ行き、浴槽で潜ったりばたついたりしても遊んだ。
夏場になると「盆踊り」、学校の校庭にスークーリンを張った「映画」などが楽しかった。
 
 わたしたちが「お閻魔様」と呼ぶ縁日も夏場にあった。金魚すくいや、古本、メンコ、どんど焼き、カルメラあめなどが隙間もなく立ち並ぶ縁日に、小遣い銭をにぎりしめて仲間と誘い合って通ったものだ。
アセチレン燈に照らされ地面いっぱいに広がる、雑多なものは子どもの夢をふくらませた。
そしてその奥には閻魔さまがいかつい目をして、おおきな口を広げて座っていた。「嘘をつくと地獄に落ちて閻魔さまに舌をぬかれるのだよ」と云われていたから、見るからに怖い座像であった。

 せっかく北千住に来たのだから、「閻魔堂」に行ってみたいと思い立った。荒馬座公演の開場まで一時間以上の時間がある。
「確かにこの辺を曲がったあたりだ」と古い記憶を頼りにいくつかの路地を曲がり、そして見つからず元の道に戻り、また路地をたどった。
道行く人に「お閻魔さまはどの辺にありますか」と、いい年をしたわたしが聞くのも気恥ずかしい。お寺の名前や神社であれば抵抗なく聞けるのだが「お閻魔さま」とは子どもじみていないかと思うのだ。



 あまり人通りがない路地をまがりしばらく行くと、煉瓦塀がお寺さんの門につづいている。
門前には案内板があり、「7月○日から×日まで閻魔堂を開き云々…」の説明があった。
めざした「お閻魔さま」はこのお寺の中にあるのだ。残念なことには門は閉まり、閻魔堂には入れない。
未練がましくその先に行くと、裏門が開いていて中に入れた。でも閻魔堂と思しき建物も本堂も公開はされておらず、やむなく境内のアジサイを撮って、荒馬座の公演会場へ向かった。



 この閻魔堂を探し回る探検は面白かった。北千住駅前の路地奥には、時代を経た家屋が姿を残し、昔懐かしい匂いがたくさんあった。