7月22日(日)は、昼の12時から5時にかけて「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の講座があった。
1989年に創立した「東葛合唱団はるかぜ」が、明年5月「第11回コンサート」を森のホール・大ホールで開く。
「郷土部」はそれに照準をあわせ、新しい演目「三本柳さんさ踊り」の仕込みに入っているのだ。
昨年から加藤木朗を講師に稽古を始め、3年がかりの取り組みとなる。
17日に梅雨が明け20日に夏休みがはじまり、「季節は順繰りにまわるのだ」とばかりに暑さが幅をきかせている。
朗は、朝に信州を発ち11時半に会場に到着した。
天井が高い体育館は、この暑さの中でも凌ぎやすく、5時間の講習を終えて朗は信州へ帰って行った。
25日(水)は、わたしが所属する「福祉・文化サロン は~いビスカス」で、月一回のシネマの会があった。
マイケル・ジャクソン「THIS IS IT」がDVDで上映、わたしはマイケル・ジャクソンの映像に初めて触れた。
スタッフ・共演者は「マイケル」と親しげに呼ぶ。マイケルは歌い踊りそして「ここはこういう風にしたい」と、照明から音響、振付、演奏楽器の一つひとつまで、改善したいことを投げかけ、みんなの合意を得ながら舞台をつくり上げていく。
50回のステージの公開直前に、マイケルは50才で急死してしまう。
「THIS IS IT」は、リハーサル風景をもとに2009年ドキュメンタリー映画として公開されたのだ。
マイケルは、アマゾンの自然破壊に反対し、貧しい子どもを引き取り養育していた。純粋で偉大なアーティストは、そねみや偏見で根も葉もないパッシングを受け、数年間、沈黙を守り、「さあ、これからだ」と再び羽ばたく寸前に亡くなってしまった。
わたしは、世間一般の報道の影響で、「食わず嫌い」になっていたのを悔んだのだ。
28日(土)は、代々木の「ギャラリーきらら」で「石井総作陶展」があった。
総君はわらび座で生まれ育ち、朗より2学年上である。
高校を出てから横浜市に住み、在京の「元わらびっ子」たちが総君の下宿で正月を過ごすのが恒例になっていた。朗もわが家へは目もくれず総君の所へ行っていた。
総君が「焼き物の勉強をする」と、備前市に移って10年ちかくなるだろうか。東京で初めての個展を開いたのだ。
妻と共に訪れると山田耕一郎(柳家さん若)君も出迎えてくれた。耕一郎も元わらびっ子で朗の2学年下になる。
朗にとっては総君が兄貴、耕一郎君が弟分になるのだろう。
総君の個展に向けて、「陳列用の棚をつくる」と耕一郎が朗と共に、車で岡山まで二泊三日の旅をして、陳列棚を完成させ「家の一部が崩れかけていたのも、三人で修理した」と総君が云っていた。
実のきょうだい以上のつよい結びつきで結ばれている。
備前焼は素朴でどれもこれも欲しくなってしまう。選ぶのに目移りしたが花挿しを4つ選んだ妻は、家に帰ってあれこれと楽しんでいる。
陶器を載せている棚は朗・耕一郎が出張制作した作品である
28日と29日(日)は、町内の盆踊りであった。28日は朝7時半からテントの設営などで大汗をかいた。晩は「作陶展」から帰って6時から本部席に詰めて、会計係として忙しかった。
子どもたちがたくさん浴衣姿であつまり、踊りはそっちのけで遊びだべっているのも伸び伸びしていいものだ。
背丈がすらりと伸び、腰高の男子生徒(中学三年くらい)が4人、5人と固まっているのを見ると、「いいわかものが育っている」…「磊也もこんな風なわかものだよな」、とついついほれぼれと見惚れている。
30日(月)は、7時から盆踊り会場の片付けでこれまた大汗をかいた。
8月4日(土)には「松戸花火」があって、町会防犯部員として見回りに歩き回り、5日(日)には、「は~いビスカス」のフリーマーケットとつづく。