加藤木雅義が「柳家さん若が真打ちに昇進」第二弾を寄稿してくれました。第一弾とともにご愛読ください。
古来より、歌舞伎役者が大成する要素に、1「声」、2「振り」、3「男」という言葉がある。
3の「男」というのは容姿、顔のことらしい。「顔」と直接的に言わず「男」と置く、そういう言葉の選び方に江戸っ子の繊細さを感じる。この序列によれば売れっ子になるには声が顔立ちより上位になるようだ。書物によれば口跡の良さ、ともある。
この格言にそって柳家さん若の今後を占ってみたい。
さん若には持って生まれた声の良さがある。これが高座に接したときの第一印象だ。彼のする噺は声の響きが心地いい。
かつてわらび座の営業職にいた私の兄に聞くと、お母様が座で歌手をされていたのだという。
その子がこれを受け継いだ。
私的なことで申し訳ないが、私にはどうしても忘れられない落語がある。幼いときにその噺を聞いて惚れこんだ。ただ、そのタイトルが何だと聞かれてもわからないし、演じた噺家の名前も知らないのだ。あまりに雲をつかむような話で申し訳ない。
確か戦前から戦後の歌謡史を題材にして、それをおもしろおかしく高座にかけた。それだけは鮮明におぼえている。
戦前の音楽がどうだったのか、そして戦中の日本が元気だった頃の軍隊歌謡はこうだったと、誰も知らないような歌を高座で自身が唄ってみせるのだ。それが実にみごとで聞き惚れるほどの美声だった。私は噺の中に出てくる高木東六作曲の「空の神兵」の歌詞を探し出し、それをそらで唄えるように練習したくらいだった。
歌がテーマだけに噺の最後は、60年代の大学生が流行のジャズで腰をくねらせる様子をみせる。その時代の最先端の音楽だ。一方、その親は息子を大学にやってしまって機械式の脱穀機が買えないでいる。それで昔ながらの足踏み脱穀機で息子と同じように腰をくねらせている、というオチだった。
1970年代、どうやらその噺家は売れっ子らしかったのだが、ある時を境にラジオ、テレビから突然、姿を消したのだ。だからよけいに私の心に残る。あれは誰だったのだろう? そしてどこに行ってしまったのか? と。
私の乏しい記憶では「さん」がつく名前だということだけが残っている。つまり「○○亭(?)さん○」という名前だったのは、かろうじておぼえていた。
だから、さん若が柳家さん喬師匠に弟子入りしたと聞いたときは、私は小躍りして喜んだものだった。高座名に「さん」がついている。もしかすると私が探し求めていた噺家は、さん若の師匠なのかもしれないと思ったのだ。
それからパソコンでさん喬師匠の演目を調べた。しかし、戦中戦後の歌謡史を扱った噺をやった形跡がない。私の思い違いだった。
ところが、去年(17年)の暮れにYouTubeを見ていたら偶然にも発見したのだ。私が40年近く探し求めていた噺家は、「三遊亭さん生」師で今は川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)師と名前をかえていたのである。噺のタイトルは「ガーコン」だったこともわかった。
ウィキペディアで検索すると前の演題名は「世は歌につれ」とある。そうだ、たしかにこれだ。それが今では「ガーコン」とタイトルが変わっていた。しかも高座名も違っているのだから、私が見つけ出せないはずだ。
オチが田舎に残った父親が足踏み機で「ガーコン、ガーコン」と脱穀していたので、そちらの名前にしてしまったようなのだ。きわめていい加減だと思う。
今では足踏み脱穀機など知ることもないが、日本が高度成長期になる前まではこれが農家の一般的なものだった。
私はこの発見に嬉しくなり、今年の正月は、YouTubeでこの「ガーコン」だけをくり返しみた。
なぜ、そんなにさん生師と「ガ-コン」にこだわったのか。それはさん生(川柳川柳)師の声に惚れたからである。40年ぶりに見る師匠は頭も白髪になり今年85歳になるという。よけいなことだが、このままで行けば「ガーコン」という名作が誰も受け継ぐ者がなく消え去ってしまう、という心配が私の脳裏によぎるようになった。
そこで名案が浮かんだ。「さん」つながりで、さん若に「ガーコン」を継いでもらえたら良いのにと、私は秘かに願うようになったのだ。さん生師の美声に肩を並べることが出来るのは、私の少ない見聞では、柳家さん若しかあり得ないと思っている。
今年(18年)に入って私は有楽町のマリオンに落語を聞きに行った。さん若が出演すると聞いたからである。マリオンといえば昔の日劇の跡地に出来た建物だ。そんなメジャーな場所での高座が、真打ち昇進直前のご褒美としてさん若に用意されたのかもしれない。柳家一門の大師匠3人が出演する中で、さん若がかけたのは「棒鱈(ぼうだら)」という滑稽噺だった。ここでも、さん若は地方の下級武士を演じて良い喉を聞かせる。あらすじは省くが、きっとこの噺はさん若の代表作になると思わせるほどの受け方だったことを、お知らせしたい。
私が声で惚れた噺家は、三遊亭さん生師、柳家さん若のふたりを置いて他にない。
さん若は噺家としての第一関門である「声」は合格として良いかもしれない。
さて、2の「振り」はどうか、である。これは演技力のことを言っているのだと思う。
神田神保町の落語カフェというところで、さん若は3ヶ月に一度くらいの割合で独演会を開いている。お客さまが30人も入れば満員になる小さな会場だ。神田神保町という会場が良い。落語でくり広げられる江戸下町のメッカである。この会が彼の新ネタを披露する機会になるのだという。以前、私は足繁く通ったことがある。
小さな前座噺をやり、中くらいの噺をして休憩に入る。そして最後に大ネタをかける。その間、2時間。大きなホールで名人がやる独演会そのままのプログラムだった。
中で強く印象に残ったのは「お菊の皿」だった。
神保町の独演会場を出て靖国通りを少し歩くと九段坂にぶつかる。5分ほどの距離だ。坂下から見上げれば靖国神社の鳥居がそびえている。左手に千鳥ヶ淵をのぞみながら坂をあがり靖国に至ると、社の真向かいに番町という地域が広がっている。昔の大名屋敷が建ち並んだ場所だ。番町の東側には江戸城が鎮座し、至近に半蔵門がある。大名が登城するには好立地だ。
お菊は番町にある屋敷のお女中だった。殿様が大切にしている皿を割ったために責められて屋敷の井戸に飛び込んで自害したといういわれがあった。そのお菊が夜ふけになると、皿の枚数を数えながら井戸から姿を現すというのが「番町皿屋敷」の物語だ。
噂を聞いた神田の職人が真夜中にお菊を見に行く。やがてそれが江戸の評判を呼び、見物客が押し寄せてしまうという噺だった。おどろおどろしく井戸から姿を現すと、「よっ、待ってました、お菊ちゃん!」と大向こうから声がかかるようになる。
観客が増えていくことに困惑しながら、毎夜、井戸から姿を現すお菊。そのお菊の困った表情が秀逸なのだ。
さん若はわらびっ子として、生活の中で芝居や楽曲に囲まれて育った。それが今の演技力の財産になっているのかもしれない。
テレビがまだなかった時代、ラジオの名人寄席で育った私は、落語とは「聴く」ものだと思う傾向がある。だが、さん若の「お菊の皿」に接すると、落語とは「見る」ものだと考えを改めてしまう。彼は落語を「演じて」独特な力を発揮する。
後に「お菊の皿」が北トピア(北区)で大賞をとった。(2014年)
さん若がふたつ目のとき、最後に私が彼の高座を見たのは2年前のことだった。私の住む近所の商店街が毎年、落語フェアを開いており、加盟する飲食店に芸人を呼んで噺を聴かせる催しをする。さん若が出演したのは町会事務所の2階だった。
40席ほどのパイプ椅子がしつらえられた会場の隅に、私は腰を下ろした。
その日、さん若が演じたのは「八五郎出世」という噺だった。
大工の八五郎の妹(お鶴)が、ふとしたことからお殿様に見そめられお抱えになる。やがて子どもを宿した。お殿様に子がなかったので、お世取りをお産みになったとお屋敷は騒ぎになる。
兄の八五郎がお殿様に呼ばれお目通りとなるのが、ことのあらすじだ。
お菊の皿で触れたが、距離が近くても坂下の神田と、坂上のお屋敷町とでは九段坂をはさんで別の世界になる。
大家に呼ばれて、「お鶴がお世トリを産んだ」と聞かされると、八五郎は「お鶴が子を産んだって? あいつも変なやつだと思っていたがとうとうトリを産みやがったか」と勘違いをする。やがてお殿様の屋敷に行き、家老に案内されて大広間に通される。産まれて初めて見るその畳の広さに、裏長屋で育った八五郎は肝をつぶす。
お殿様が登場し、平伏する八五郎と家老。お殿様が「苦しゆうない、おもてをあげい」と言うのだが、八五郎は「おもて」が何のことだかわからない。「畳表? これだけの畳を上げるには、おいら、ひとりではどうにもならない。助っ人を呼んでこなくては」とつっぷしたまま考え込んでいる。
隣の家老に意味を知らされてようやく顔をあげる八五郎。その間、家老と殿様と珍妙なやりとりがあって笑わせる。ふと八五郎が真顔になって、「お殿様の横でにこにこ笑っているのは、お鶴ではないか」と気づく。「すこし見ないうちにそんなに立派になって」と、本当に妹を思う慈愛に満ちた兄の顔になって、さん若が向こうにいるお鶴に語りかけるのだ。今までの珍妙なやり取りから、妹を見出したときの表情の落差に感動して、会場の片隅で私は不意に涙ぐんでしまった。
今度の涙は、方言の使い方ではなく、さん若の演技力によってもたらされた。
噺が終わり、さん若が退場して客は次々と出口に向かう。会場にひとり残った私は椅子の片付けする若者に「今の噺家さん、とても良かった。感動して涙が出てしまった」と通りすがりのおじさんになって話しかけた。
手を止めた彼は「さん若さん、私もファンなンですよ。今、ふたつ目のトップを走っている芸人さんらしいですよ」と教えてくれたのだ。真打ちに一番近い噺家だと伝えたかったのだろう。
だが、さん若も最初から演技力があった訳ではない。彼がふたつ目になった直後の08年、もう10年前になるのだが、松戸の「蔵のギャラリー結花」で高座をつとめたことがあった。会を主催した私の兄に様子を聞いたところ、兄は「声を張り上げることに気を持って行かれて、まだまだ」と、高座の印象を語った。だからその頃はまだ、さん若はどちらに伸びるか誰にもわからない状態だったのかもしれない。いったい、何がきっかけでこんな味のある噺家になったのだろうか。滑稽を演し物にして、人を泣かすなどは並大抵の力ではない。
役者が大成する3つの要素に戻ってみたい。
2「振り」。
さん若には演技者としての才能がある。だから「振り」は良しとしたい。
さて、1「声」、2「振り」、3「男」のうち、最後の「男ぶり」についてである。顔の好みは人それぞれだから、これはむつかしい判断だ。
ただ、私はさん若の愛嬌のある気性と面立ちを好ましく思っていることはある。これは噺家としては大切な財産になる。
さん若が34歳で前座修行に入ったとき、周囲は18歳から20歳前後の年齢だったのだろう。つまり、さん若は同僚よりひと回りもふた回りも年上で、若い者の中におじさんがひとり紛れていたようなものだ。だが、さん若は年齢の垣根をこえて修行に明け暮れ、周囲から愛された、のだと思う。
彼の公式ブログに「ばっきゃの会」というのがある。「ばっきゃ」とは秋田県でふきのとうを指すらしい。それを覗くと折々に、さん若がつぶやく言葉に同業らしき人からのコメントが寄せられている。「さんちゃん」と呼ばれて愛されていことに気がつく。身近で接してわかるのだが、さん若はその人となりに嫌みがないのが周囲から親しまれる理由なのかもしれない。業界の周囲から愛されるということは、彼が充分「男前」であることを証明していると思わずにいられない。
口跡の良さと小気味良い語り口で落語ファンを魅了した古今亭志ん朝師は、入門5年目で異例の真打ち昇進を果たしたという。昇進披露の舞台で、後見人の大師匠は「明るく嫌みのない芸風」と志ん朝師を紹介している。
当人が聞いたらびっくりするかもしれないが、私は、さん若の高座と人となりにも「明るく嫌みのない」ものがあると感じている。
さて結論を出したい。
柳家さん若は、私の独断では1「声」、2「振り」、3「男」をすべて兼ね備えていることが理解することができた。この遅咲きの噺家がこの秋に真打ちとして飛び立とうとしている。
私はこれからの人生をかけても、柳家さん若の行く末を、この目で見届けたいと思っているのだった。
18年1月25日