「和来座」(わらいざ)公演へ

2019年02月24日 | Weblog


 信州阿智村の昼神温泉郷で2月1日から28日まで「和来座」公演が行われている。
「和力」を主宰する加藤木 朗が、企画・構成・演出を実行委員会から委嘱され、自らも毎日出演し、座長として午前・午後の舞台を務めるという。
それを聞いてわたしたち夫婦は、「ぜひ、行きたいね……」と淡く思った。

 なにゆえその思いは淡いのか。
わが家には家猫二匹、縁側で暮らす外猫が二匹いる。その猫たちが留守番を快く引き受けてくれるだろうか……との心配があるのだ。
家猫は、朝早くに布団のまわりを歩きまわり、「はやく起きて…」とサインをおくる。
どんなに夜更けに寝ても、「休日だからゆっくり寝ていたい」と思っても、だいたい朝の5時半にはやって来る。
朝ごはんのさいそくなのだ。
階下に降り縁側の障子戸を開けると、外猫が皿の前に鎮座し食事を待っている。
わたしたちの一日は、猫たちの食事の世話から始まる。
猫たちは、食べおわるとしばし舌舐めずりをし、おもむろに毛づくろい、その後は日光浴、うたた寝など一日をゆったりと過ごす。
わたしたちが留守にしても、それぞれのペースで生活するだろうから、その点に心配はないが問題は食事である。
この心配があるから、猫たちと暮らし始めて5年ほど、二人揃っての泊まりがけ旅行には行けてない。
妻は友人も多く旅行好きなので、一年に数回はどこかに出かけ、わたしも町会の「役員旅行」などで、家を一晩空けることはある。
しかしどちらかが家に残るから、猫たちへの世話の心配はなかった。

「和来座」公演にはどうしても行ってみたい、「どうしよう、どうにかならないか」と二人して頭をしぼる。
ものの本を読むと、「犬は出した食事をすべて食べてしまうが、猫はすべてを食べることはなく、腹八分目でやめる。留守にする時は分けて数ヶ所に置いておけば大丈夫」との記述がある。
それで家猫の食事は、3ヶ所にたっぷり置けば足りるだろうと見当をつけた。
外猫への対応は猫を飼っている知人に、朝と夕方に食料を補給してくれるようお願いしたら、快く引き受けてくれ出かける算段が整えられた。

「善は急げ」と、2月6日新宿9時5分発の高速バスに乗り信州へ向かう。
飯田市のバス停には午後1時ちょい過ぎに着き、陽子さん(朗伴侶)が迎えてくれ午後2時半開演の「和来座」公演に間に合った。


 
公演プログラム。
第一部 ○獅子舞・独楽など ○落語 ○ゲスト演奏(津軽三味線・和太鼓・篠笛を週替わりで) ○お囃子・神楽 
第二部 ○幕開けの芸 ○落語 ○音舞語り ○アンコール
大道芸・伝統芸能・落語・和楽器演奏・それらを統合した「音舞語り」と、多彩な内容であるうえ、午前の部と午後の部は演目の差し替えがある。
噺家さんと和楽器演奏者は、週替わりなのでこれまた楽しみな企画なのだ。

 わたしたちが参加した6日午後の部は、温泉宿に泊まるお客さんが参加されている雰囲気だ。幕開けの「こまの芸」では白髪のおじさんたち二人が名乗りをあげ軽いジョークをとばし客席をわかせる。
獅子舞では「わおー」との嘆声。落語・和太鼓演奏・だんじり囃子で第一部がおわり、鶏舞で第二部の幕開けとなる。ひきつづいて落語、そして「音舞語り」に移る。「昼神温泉だけの創作音楽劇」とプログラムに銘打っているので、「なにかな」と楽しみにしていた演目である。
「阿智村といえば、『星空日本一』の地としていまでは知られるようになりましたが、この星空は、阿智村をつらぬいて流れる清流、阿智川に住んでいた龍神『阿智姫』の鱗が飛び散り輝く星になったのです」と、村人に扮する朗の語りから始まる。
龍神阿智姫と暗闇大王が、しのぎを削っての争闘の末、3,333枚の自らの鱗を空に散りばめ阿智姫が勝利を得る。
物語がおわると、少しの沈黙のあと大きな拍手がおこった。

 宿泊先の「鶴巻荘」で、出演者のみなさんと夕食を共にし、ゆったりと温泉に浸かり翌7日の朝を迎える。
10時開演に合わせて早めに会場へ行く。会場前にはバスが停まりおおぜいの方が降りてくる。開場を待つ列がながく伸びる。女性が多い。
開演したら爆笑に次ぐ爆笑、大賑わいであった。



 終演そこそこわたしたちは、帰りの高速バスに乗るため、宿がだしてくれた車で飯田へいそぐ。
午後1時16分発の新宿行きに乗り、冬枯れの山々をみながら帰路についた。
この車中、わたしが思ったことはふたつある。
ひとつは、地元の方々のご推挙で、朗が「昼神温泉・冬の陣」を任されたこと。
自分が生き抜いている地で、4週間の大きな企画を一任されたことは大きな財産なのであろう。
ふたつには、よき共演者に恵まれていること。
芸の上で切磋琢磨する共演者が、快く参集してくれる土壌を築いているのもこれまた得難い財産であろう。

 充実した気分で家に帰ると、猫たちは跳びあがり跳ねまわって迎えてくれた。








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晟弥の舞台を観る

2019年01月31日 | Weblog


 1月26日(土)、千葉県野田市の「欅のホール(小ホール)」で「和力」公演が催された。
野田市公民館などが主催してくださり、4年連続の新春公演となる。
野田市は、わたしたちが住む松戸市から車でほぼ1時間の距離であるから、野田市公演の前日には息子の朗がわが家に泊まる。
「今年は晟弥も泊めて欲しい」との予告が朗からあり、わたしたちは「晟弥の舞台が観られるかも……」と期待した。
 わたしたちの一人息子朗は4人のこどもに恵まれ、したがってわたしたちの孫は4人となる。
晟弥は三番目の孫で昨春、高校を卒業。ほどなく父親に弟子入りして芸の修行を始めたと聞いた。
いつかは晟弥の舞台姿を観られるだろうと期待していたが、案外早くその機会がやってきたのは嬉しいかぎりだ。

思い起こせば晟弥の「初舞台」は、いまから12年ほど前に観ている。
遠い記憶をたどってこのブログを探してみたら、「晟弥の初舞台」(2007年4月29日)と題する記述があった。
その要旨を書きぬく。
「晟弥は昨年の秋から『茂山千三郎長野社中』に入れていただいて、狂言の指導を受けはじめた。
小学2年生になったこの4月、阿智村園原の能楽堂で初舞台を踏み、晟弥の兄・磊也(中3)、と姉・慧(中1)も同時に「園原能楽堂」で狂言を演じるというので、わたしと妻は楽しみに訪れ、朗と晟弥が演じる狂言「しびり」が行われている場に間に合った。
晟弥は地面に座ってなにやら物申している。まだ発声訓練も十分でないせいか聞こえづらい。どうやら主人に用事を言いつけられた太郎冠者で「足がしびれて動くのは難儀である」と云っているようだ。
 普段の生活では、晟弥は次男坊だから「物申す」どころか、いつも「物申されて」いる。
「晟弥、うるさいから少し静かにしろ」と、磊也にしょっちゅう云われ、「本を読みながらものを食べるな」と、慧もことある毎に注意している。「ウン」と云ってその場は収まるが、すぐまた騒ぎはじめる。
いつも「物申される」立場だから、「物申す」役はさぞかし気持ちよかったろうと、わたしはついつい思った。
だが晟弥の健気な様子が客席をほんのり包んでいた。
狂言「蟹山伏」は、磊也・慧が山伏で、朗が蟹であった。力自慢の磊也の役、知恵のまわる慧の役、その掛け合いが愉快であった。
晟弥の初舞台は、歴史ある園原の地で、義経ゆかりの桜の下でおこなわれ、名古屋からお出でくださった方々も、舞台をニコニコとご覧下さっていた。
だから、晟弥の「初舞台」を瞼に刻んだ生き証人は、地元とわたしたちだけではないのだ。
晟弥はどれほど分かっているか知れないが、「源氏物語」や「枕草子」、さらには「今昔物語」などに「園原」の里は詠われ語られている。千年以上も前の歴史に名が残る「園原」で、初舞台が踏めたのはたいしたことなのである」……。

 わたしは、この文章の題名を当初「晟弥の初舞台」としていた。しかしすでに初舞台は12年前にさかのぼるのだ。
野田市公演では、第一部の締め「鶏舞」で晟弥が舞った。
舞台上手から鳥舞の衣装に身をかためた晟弥が登場し、朗の舞いに合流する。
その立ち現れ方は、上下左右にぶれることなく滑らかに舞台上をすすんでいく。まるで清流の上をわたるような清らかさがあり、小気味がよかった。
わたしはこの「出」を観て、幼少から修行した狂言の所作が、身についているのではないかと愚考した次第だ。扇子の使い方も危なげなく安心して観ることができた。
次の出番は、「だんじり」の小太鼓であった。
これまた、幼い頃からの父の手ほどきが無理なく身についている余裕があるように思えた。

 乗り越えなければならない峠はたくさんあるにしても、わかい力がこれから多くのものを吸収し、葉を茂らせ幹太く成長するだろうことが期待できるうれしい舞台姿を観ることができた年明けだった。

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2018・年の瀬

2018年12月26日 | Weblog


 師走をむかえると、年賀状にどんな挨拶を記そうか……思いまどう。
250通ちかくにのぼる年賀状には、新年の挨拶だけでなくわたしたちの消息を記すことにしている。

2年前の年賀状は
 旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
わたしたちは、「ディサービス」で週に一・二回働き、明るさをいただくと共に、現役で働けることの喜びを感じています。
 目を転じますと、「年金」・「カジノ」など弱者を食い物にする悪法がまかり通り、憲法を大事にする国づくりがいまこそ大事だと念じます。

 息子の加藤木朗が主宰する「和力」は、みなさまに支えられ芸能活動の場をひろげております。
新春の「和力公演」は、○1月9日(月・祝)午後2時開演 野田市野田公民館 ○1月22日(日)刈谷市文化センター ○2月18日(土)横浜市ひまわりの郷ホール  ○2月19日(日)松戸市蔵のギャラリー・結花(ゆい)などで開催します。

本年もよろしくお願いいたします。
                                2017年 元旦

昨年の年賀状は
 旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
わたしたちは「寄る年波に勝てず」の譬え通り、朝の起きぬけや座って立つ時「よっこらしょ」の掛け声と、なにかにすがって立ちあがるのが日常になりました。
同居する猫二匹はしなやかで敏捷、「あんな時代もあったなぁ…」と往時を懐かしんでいます。
こんな中でも照公は週に二回介護職員として、和枝は週に一回看護師として、東京・谷中にある「ディサービス」に勤務し、なんとか身過ぎ世過ぎをしているところです。
 息子の加藤木朗が主宰する「和力」は、近年「立川志の輔独演会」へのゲストに招かれたり、みなさまのご支援で芸能活動の場をひろげております。
みなさまのお近くにお伺いする折、ご覧いただければ幸いです。

本年もよろしくお願いいたします。
                                2018年元旦


そして来春の年賀状の「案」を書きはじめた。
 照公は今春4月、和枝は翌年5月に80才となります。
和枝は昨年春、足腰の故障で職をはなれており、照公は80才を機に今春3月末で退職することにしました。
年金額が少ないのでパート収入がなくなれば、生活を切り詰めなくではなりません。
とくにそのしわ寄せは、同居する娘猫2匹と、縁側で暮らす訪問猫2匹を直撃するでしょう。
この猫たちの食事は、長い飼育歴のなかでレベルアップしてきました。
食料の買い出しに行き、「たまにはご馳走してあげよう」と、気まぐれにグレードアップしたものを与えることがあります。
すると連中は、グレードアップした少し高いものを要求して、今まで喜んで食べていたものを見向きもしなくなるのです。
「収入が減ったから前通りにするよ」と諭しても、聞く耳もたないだろうと思案しているところです。

 以上の「案」を提出したが、妻が「猫たちの比重が高すぎる」と却下。
推敲に推敲を重ねて次のようになった。

 
2019年の年賀状は
 旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
照公は送迎や介護職員として週二回ディサービスに通っていましたが、4月で80才となり3月末をもって現役を退きます。
思えば小学6年生で新聞配達デビュー、これまで元気に働けたこと幸いでした。
和枝は中学卒業と同時に看護学校で学び病院勤務、昨年春まで現役でした。足腰の不調で勤務を辞めましたが、やはり長く働くことができました。
二人とも年金だけの生活となり、身過ぎ世過ぎがきつくなります。
今春にはどんな夢が叶うでしょうか。
「住みにくい世を住みやすく」、少しでもお役にたてる力を注げる年にしたいと願っています。
本年もよろしくお願いいたします。
                                  2019年  元旦


 来春の年賀状にはどんなことを記載できるだろうか。

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ジパング倶楽部を退会した

2018年11月10日 | Weblog


 ジパング倶楽部に入会してどのくらいになるだろう。
男性は65才から入会でき、JRを利用すると乗車券が30%オフ、特急料金も新幹線(のぞみは適用されない)も30%割り引かれる。
わたしは会員になり、加藤木朗が主宰する「和力」の舞台を観に、東北・北陸・東海・関西・九州に出向きかなり重宝して使った。
年会費3,500円徴集されるが、一回の遠出で元を取り返せる。

 しかし昨年は一回も使うことなく過ぎた。
遠出する機会がなくなったのだ。
「和力」のHPでスケジュールを確認、妻とともに楽しみに出かけていたが、妻が足腰の不調に見舞われるようになり、一人で出かけるのは味気ない……とわたしも出不精になり、毎年通っていた名古屋での公演もご無沙汰してしまう。
また、数年前まで「元わらび座員の集い」が一年に一回、処々方々で開催されていたから、列車に乗って参加する機会があったが、それも高齢化で開催されなくなった。

 遠出ができなくなった理由のもう一つは、猫の存在もある。
「動物愛護センター」でもらい受けた娘猫2匹、娘猫がすこし大きくなったら、縁側に居着いてしまったおじさん猫とその愛人猫がいる。
春まで妻もバイトで家を空ける日があり、わたしのバイト日と重なると夕方まで家には誰もいなくなる。
夕方、家への路地に入ると、訪問猫が駆けより家まで先導し、玄関を開けると家猫が「どこに行っていたんだニャ」とばかりに出迎える。
さっそく食事をあてがうと「カリカリ・ボリボリ」美味しそうに平らげるのだ。
安心しきったそんな姿を見ていると、とても長くは留守にできないなぁ…と思ってしまう。
それでもあるとき、食事の世話を知人に頼んで一泊旅行をしたこともある。なんの問題もなかったが、旅先で「どうしているだろう」と二人して落ち着かない。

 信州の朗宅へ行って孫たちや、5匹の猫、新たに家族入りした「秋田犬」にも会いたいとの思いは募り、地元での公演があるからその機に乗じて「行こうか」と話にはなるのだがなかなか踏み出せず、しばらくお邪魔できないている。

 そんなこんなで、昨年は会費だけ払って会員券を使わなかった。
今年もぜんぜん使っていない。
11月末が更新日なので、はやく退会を決めないと今年の会費が引き落とされる。
少ない年金をバイトで補っている生活では、3,500円の会費は大きな出費なのだ。
あわてて11月の初めに退会手続きを終えた。



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(株)中條 創業60周年記念の宴

2018年10月29日 | Weblog


 10月8日、(株)中條が、創業の地である荒川区日暮里で60周年祝賀会を催された。
わたしたち夫婦もお招きの栄を賜り、日暮里駅直近のホテルへ向かう。
バス・電車と立ちづめだったものだから、ホテルロビーで一息入れていると、(株)中條の社員とおぼしき人たちが集まってくる。
なぜ「おぼしき」なのか……「やぁ、ご無沙汰しています」、「元気そうですね」と声をかけてくれる旧知の社員の他に、多くの男女が宴会場まえで開場準備を始めて、見知らぬ顔もたくさんいるのだ。
わたしが社員としてお世話になり退職したのが65才であったから、すでに15年にちかい歳月が過ぎている。
見知らぬわかい男女がたくさんいるのは、社業が発展しているなによりの証拠なのであろう。

 中條勉社長夫妻が到着されたので「おめでとうございます」とご挨拶をした。
中條社長は「記念式典のなかで『功労者表彰』があり、その折に一言お願いします」と云われる。
「えっ、わたしが会社の功労者…」と内心びっくりし、「はい」と応えたものの自分が功労者に値するのか考えてしまう。
時間になり案内された席には、わたしたちのきょうだいとその縁者が占めている。
わたしは5人きょうだいの長男である。
一才年下の妹・中條祥乃は、創業者中條孝さんの連れ合いだ。車いすで到着、しばらく会っていなかったがすこぶる元気そうだ。
次妹の恵子は、残念ながらこの春急逝し、娘のHさんが遺影を掲げて参加。三番目の妹いみ子と、末弟の雅義にも久方ぶりに会えた。

「創業者中條孝会長がこの夏、亡くなりました。創業60年を本人も楽しみにしていましたが『俺に万一の事があっても式典はやるように』とつよく云われており、開催の運びにしました」と、中條勉社長の挨拶。
演壇右手には、祭りの法被を着た遺影が微笑んでいる。
来賓2社のご挨拶は、「地域に根ざし、顧客の求めに添い、二代目・三代目と確実に引きつがれ、力づよく発展している会社」と共通していた。
会社の歴史がスライドで辿られ、「あー、あんなこともこんな事もあったなぁ…」と懐かしく思い起こす。
中に創業当日、チンドン屋が練り歩く写真があった。
これはわたしも鮮明に覚えている。
わたしは操業日から9ヶ月、開店したての「中條商店」をお手伝いしたのだ。

 開店メンバーは、店主の中條孝さん、連れ合い祥乃さん、小売担当のkさん、そしてわたしの4人であった。
「中條商店開店」を賑やかにチンドン屋が町内を練り歩く。
店主はそれを横目にバイクに跨り、得意先への配達に出かける。開店初日といえどもレストラン・中華店への商品の配達は欠かせないのだ。
仕入先の食肉卸問屋から男女2人が応援にきてくれ、注文に応じてコロッケやメンチ、ポテトフライ・アジフライ・カキフライ・イカフライ・などを手際よく揚げていく。わたしはそれを包み客に渡す役割である。
kさんと祥乃さんは肉の販売で大忙しだった。

 日曜日だけ休みの「中條商店」には、お昼時になると総菜をもとめるお客、夕暮れには「豚コマ100g」、「牛小間300g」、など多数のお客さんで賑わう。
わたしはコロッケやメンチ・豚カツなどを揚げる係だ。
朝の仕込み時には、蒸かしたジャガイモの皮をむき、それを挽肉機へかけほぐし、挽肉を炒めジャガイモに混ぜ、塩コショウして一つひとつ型抜きをする。
Kさんはスライサーで肉の加工をし、祥乃さんはポテトサラダ・マカロニサラダなどの総菜品をつくるのに手間をかける。
店主の孝さんは豚の骨を抜いて、肩・腿・ロース・バラ・ヒレに区分けする作業に汗をながし、バイクの後ろに括りつけた竹籠にいれ早々と出発だ。
早朝から店が閉まる8時ごろまでいそがしい商いの日々がつづく。



 わたしはそんなお手伝いをして9ヶ月後に、予定していたわらび座に入座するのに秋田に向かった。
わたしの後釜には次妹の恵子が入り、いみ子、雅義ときょうだい全部が、学校を卒業すると「中條商店」でお世話になった。
それで今回の「創業60周年」に、5人きょうだい全員が「功労者表彰」の栄に与ったのだろう。



 わたしは二代目社長からねぎらいを受ける中條祥乃さんを見ながら、さまざまなことを思い起こす。
現社長の勉さんは開店時には、まだヨチヨチ歩きの幼子であった。
わたしの父が勉さんの子守をしながら、コロッケの型抜きをしていた姿を思い出す。
なにせ勉さんは活発な子であったから、父は勉さんの腰に紐をくくり、その端を握っての子守である。
年老いた身では幼子の動きに付いていけないので、編み出した父の戦法であった。
わたしの母は賄い方として、掃除・洗濯・食事の世話で大忙しだ。
開店時の様子をまざまざと思い出す。

 わたしはわらび座で23年間過ごし、45才になって母の許に帰り、株式会社中條で再び働かせてもらうようになった。
この23年間に「中條商店」は大きく発展し、社員は20人ほどになり会社組織になっていた。
いま「功労者表彰」を受けている祥乃さんの存在があったればこそ、中條商店は会社へと発展できたのだ…と車いすの祥乃さんをみながら思う。
5人のこどもの育児を全うしながら、祥乃さんの仕事は多面にわたっていた。
創業者の孝さんが担う「卸」部門は、小売りの店が閉じた後に忙しくなる。
祥乃さんは、孝さんが「御用聞き」に出かけて受けた注文、電話での依頼をパーツごとに仕分け整理する。
明日は豚ロースが、豚モモが、豚骨あるいは、牛・鶏がどれほど出荷するか、それを得意先ごと仕訳する。
孝さんがそれをもとに品ぞろえをし、早朝に得意先ごとに計量・納品伝票を作成、バイクに商品を積み中條さんが走りだす。
「卸」の孝さんを送り出すと、小売りの準備にはいる。お客さんが立て込んで来ると対面販売で大忙しだ。
夕刻お客さんが途絶え閉店してからも仕事がある。
ホテル・レストラン・料理店からの発注が入るのは、多くは相手方の仕事が済んでからであり、午後10時過ぎになる。
電話をかけて注文を取るが、追加注文はそれ以後もはいってくる。
未だ「留守番電話」機能がなかったから、祥乃さんは枕元に電話機をおいて眠気覚ましの缶コーヒーを飲みながら、電話の対応をしていた。
その上、経理事務の仕事もある。珠算2級の腕前を活かして、日々の納品伝票だけではなく帳簿付けから請求書発行まで一手にこなしていたのだ。
自分のもてる力をすべて出し切って、大黒柱の孝さんを支えてきた。

 創業60年を経て(株)中條は、社員70名余に発展している。

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