旧友と会う

2023年12月28日 | Weblog

 

 12月某日、高田馬場へ出かけた。

高校時代の同級生たちと会うためだ。高田馬場駅は母校の最寄り駅である。

多くの場合ここが落ち合う場所になっている。

 

 以前は一声かかると、同級生の仲良しグループだった10人ほどが集まったものだ。

しかしいつしか物故者も出、施設に入った人もあり、だんだんに減ってここ数年は5人になっていた。

春には、5人のうちの一人が奥さんの付き添いでやってきた。

「帰りは山手線の品川方面に乗せてくれれば大丈夫ですから…」と、奥さんは帰っていった。本人は「付いてこなくてもいいのに」と、かなり威張っていたが…。

 

 今回このW君は、外出に不安があるということで不参加だ。

メンバーは、わたしをふくめて5人、W君を除いたら4人のはずなのに、なぜ5人かというと、E子さんに付き添いが付いているからだ。

前回ももしかするとその前も、E子さんには夫君が付き添いで来ていたらしい。駅で我々と出会ったのを確かめてから、ご本人は別の場所で一献傾け終わるのを待っていたようなのだ。

そんなE子さんの携帯での様子を察知した世話役のO君が、「一緒に飲みましょうよ」と夫君に働きかけて同席するようになった。

 

 E子さんは、同級生の中で抜きんでたマドンナであった。楚々たる風情、長い黒髪、発する言葉にも潤いがある。

この往時のマドンナも寄る年波には抗しきれず、会話にちぐはぐさがあったり、「身に着けて来たイヤリングの片方が見当たらない」と、慌てたりするのを見聞きするにつけ、「軽い認知障害があるのでは…」との危惧があった。

夫君によると、買い物に出かけても「何をしに外出したのか失念したり、ましてや電車を乗り継いで目的地に向かうのが難しくなっている」…ので見守る必要があるのだとE子さんが席を外したときに云う。

 

 一方、わたしの最も親しいM君は杖が手放せなくなっている。

何事によらず面倒見がよく、往時は生徒会長、近年は同窓会事務局長を担い、みんなを纏める中心にいた。

地方公務員として、福祉畑を歩みつづけ、時には上司と大立ち回りもしたという豪のものである。

彼の勤務する地域での「わらび座」公演担当になったわたしの妻も、宣伝機材の調達・観客動員の手助けなどいろいろ世話になった。

息子の朗が主宰する「和力」も、彼が退職後に責任者になっていた「障がい者施設」で主催公演などをしてもらっている。

 

  O君は高校時代、山登りの先達としてわたしたちを楽しませてくれた。新年に「ご来光を拝む」と、大菩薩峠に連れて行ってくれたのが始まりで、夏休み・春休みには丹沢山系をはじめ、いろんな所でキャンプ・山小屋を訪れることが出来た。

野山の遊びは、彼が立案・企画し地図と磁石で地形を読みとる姿は頼もしいものであった。

その野生児であった彼も身体の不自由さはないものの、軽い脳梗塞を患ったという。

 

 かくいうわたしも、杖さえ突かないし身体のあちこちの痛みはないものの、身体の内側ではいろんな異変があり、薬を何種類も服している。

なにより悔しいのは、歩いていて誰彼に抜かれることである。自分としてはセッセと歩いているつもりなのだが、必ず抜かれる。

 

 高校を卒業して65年有余、年が明けるとそれぞれ85才に届くのだ。

人生の最終章に差し掛かっているのは認めないわけにはいかない。

夫君のエスコートで高田馬場駅の階段を上って、改札口に向かうE子さんを見上げてつくづくそう思う夕暮れであった。

 

 

 

 

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ライフスタイル三つの転換

2023年10月17日 | Weblog

 

 妻亡き後、わたしのライフスタイルは三つの点で大きく変わった。

一つはアルコール断ち、二つには増やさない、三つには就労である。

 

 わたしは若いころから酒を嗜んできた。

わらび座を辞しサラリーマンになった40代には、仕事帰り駅の売店でワンカップタイプの焼酎を買い、歩きながらチビチビやりながら帰ったものだ。

これは仕事を離れる60代後半までつづいた。

家で過ごすようになってからは、晩ご飯の支度をしながらお猪口に焼酎を注ぎ、いわゆるキッチンドリンカーと化す。

休肝日などなんのその、連日楽しんでいたものだ。

とはいえ量はそんなに多くはない。せいぜいお猪口に2杯ぐらい…。お目付け役の妻がいて度は超えられない。

健康診査での肝機能はいつも正常値だったから、適正な飲み方だったのだろう。

妻が逝って2ヶ月経って、糖尿の値が思いがけない高さになる。

「一日一万歩は歩いているし…」とお医者さんに愚痴ると「アルコールはどうですか」。

はたと思いあたった。

キッチンドリンカーだけだったのに、妻がいない無聊で夕食後にもお猪口が手放せず、

チビチビとだが杯を重ねていたのだ。

それを知って以後、いまでは一滴も飲まずに過ごしている。

 

 二つ目は増やさない生活だ。

なにを増やさないかというと『本』である。

わが家でいちばん増えるものは『本』であった。

わたしも妻も大の本好きで、それぞれ外出の機会があると必ずと言っていいほど本屋さんに寄る。

読み終わったら交換し、終わると本棚に収める。そんなして本は溜まりにたまっていったものだ。

本棚はスライド式で表棚と裏棚があり6段の高さは天井に届き、横幅は部屋いっぱいだからかなりの収容量になる。

今までにも何度か大量に放出してきた。古くはたまりにたまった山本周五郎・松本清張・司馬遼太郎などの文庫本を、障がい者福祉施設に寄贈、フリーマーケットなどでの販売で活動資金の役に立ててもらった。

それ以降、藤沢周平・田辺聖子・吉村昭・池波正太郎など本棚に積み重なってきている。

妻亡き後、無聊相まって本を読んで過ごす時間が多くなり、あれやこれやの本を購入する量が増えた。

このままだと、二階にある本棚がパンパンになり、ちょいとヤバくないかと思い始めた。

そうだ、家の近くに市民センターがある。小さいながら図書館も供わっている。本はそこで借りることにしよう…と思い至り、いまでは専らそこで借りることにしている。

 

 三つ目は就労である。

盆明けの817日から新たな生活が始まり二ヶ月余になる。

2回やっていた東京でのディサービス勤めを80才で退いた際、市の「シルバー人材センター」に登録していくらか稼ぎたいと資料を集めたりはした。

自分に合う仕事はあるのだろうか…、なにしろ手先は不器用・無愛想・人見知りをする性格である。

持っている資格は「普通運転免許」しかない。グズグズと思い悩むうち4年も経ってしまった。

妻の分と合わせた年金でなんとか身過ぎ世過ぎができていたものだから、新しい稼ぎ先を探す労は知らず知らず先延ばしにしていた。

妻が亡くなり、わたしのより多かった妻の年金がはいらなくなり、わたしだけの年金での生活になった。

この年金の額たるや心もとないのだ。家は妻もろとも苦労してローンを支払い終わって、持ち家になっているから、家賃の支払いはない。

それは救いだが、支給される年金だけでは暮らしは窮屈だ。

なにせ年金を満足に納入し始めたのが、わらび座を辞めて会社員になっての45才からだから仕方ない面はある。

妻の口利きで東京のディサービスで73才から80才まで働くことができた。

今回の就労も唯一の「普通運転免許証」が生きた。

わたしは長年、あるNPO法人知的・精神障害者の支援組織の理事を務めて来た。この法人の理事長が自損事故が多く、車を手放したのだ。

それで理事長の通所・退所、利用者さんの買い物などの介助などをすることになったのである。ほぼ一日に3時間ほどの就労、週に4回やっている。

なにしろわたしは、無事故無違反のゴールド免許保持者である。車の運転は大好きであり性に合った就労だと思う。

 

 84才だからしていつまで元気に過ごせるだろうか…。

 

 

 

 

 

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新盆供養

2023年08月19日 | Weblog

 

 〽デンデンコ デンデコデンコ デコデコデンコ デン

猛暑日がつづき、肌に暑い陽射しがまとわりつく。墓碑が立ち並び陽を遮るものはなにもない。

84日午前10時、わたしの妻・和枝への新盆供養を墓前で執りおこなった。

「お盆までには日があるが、3日に関東で仕事がある。翌日朝にかあさんの新盆供養に『念仏じゃんがら舞い』を墓前で奉納したい」との朗からの申し出があり実現したのだ。

 

 妻・和枝が3月に亡くなり、新盆がちかづくが、お盆にはいつもよりすこしばかり供物を多くととのえ、故妻と毎年やっていた手順でやろうと考えていた。儀式ばったことにこだわらない妻も納得してくれるだろう。

そんな地味なことを考えていたので、朗の申し出は一躍華やかな新盆供養に変わった。

 

「念仏じゃんがら舞い」は、福島県いわき地方での供養舞いである。

腰から回した色布で太鼓を下腹部に抱え、兎の毛を巻きつけたバチで軽く鼓面を打ちならしながら、数人の組で新盆を迎えた家々を訪れその庭先で舞い踊り供養するのだ。

〽デコデコデン デコデコデン デコ デコ デコ デコ……と身をかがめそして身を反らす。摺り鉦が太鼓の音色にかぶさって鈍い音を奏でる。

新盆を迎えた家々では戸口を大きく開け、大きな提灯を掲げて庭前で供養舞を受けるのだ。

 

 わが家では墓前で執り行った。

人っ子一人いない広い墓地に太鼓と摺り鉦の音が響きわたる。「念仏じゃんがら舞い」は故妻も大好きな演目だった。大いに満足してくれたことだろう。

 

 わたしも、深遠な「念仏じゃんがら舞い」が大好きである。

かってわらび座で舞台化された折、わたしも太鼓の打ち手として観客にまみえたことがあるのだ。

いや、そもそもこの踊りがわらび座の舞台にあがるきっかけになった場面にわたしは遭遇している。

いわき市のある公民館でわらび座公演があった。わたしは公演班の一員として舞台に立ち終演を迎えた。

その後「地元の青年団のみなさんが舞を見せてくれるから…」との指示があって舞台に集結した。

公民館後方の扉から、浴衣姿の青年たちが太鼓を抱えバチをやさしく叩きながら一列になって入ってくる。

舞台と客席の間の土間で、突如〽デコデコデン デコデコデン デコ デコ …

地に着くように身をかがめ、そしてだんだんとそり身になってしなやかに舞う。

揃いの浴衣にしろい鉢巻き姿が、天井の低い古い公民館ホールの土間で舞い踊った姿を思い出す。

 

 当時は呆気に取られてみていただけだが、これが創作演出班の手によって、舞台に上がり幸いにもわたしは太鼓3人の中に加えられた。

踊りこむうちにこの舞いは、〽デデン デデン デデンと身を屈める屈折感 〽デデン デデン デデンと身を反らす躍動感 〽デコデコデン ノ デンとバチを突きだす解放感で身も心も自然に一体になる魅力がありはまったものだ。

 

 わらび座を辞し、住居のある松戸市で「東葛合唱団はるかせ」の「郷土部」設立に参加。

わらび座時代に習い覚えた数々を、思い出し思い出し団員に伝えた。

大好きだった岩手の「さんさ踊り」もなんとか思い出して、コンサートで踊り狂った。

次には「念仏じゃんがら舞い」を思い出そうと苦労したが、とうとう思い出せず終わっている。

 

 だが息子の朗が主宰する「和力」では、「念仏じゃんがら舞い」は十八番の一つでありいつも懐かしくみている。

妻も「朗にはこの踊りをもっと踊りこんでもらいたい」と常々言っていたものだ。

 

 猛暑が照りつける中、供養舞が墓前の土の上で舞われる。摺り鉦は朗の芸の継承者「羽化連」のお二人だ。

「この浴衣は20才の頃、かあさんが作ってくれたものなんだ」と、供養舞を終えた朗が言っていた。

作るといっても手縫いしたわけではないだろうが、わたしの知らない母と子との交流があったのだ。

 

 ほのぼのと暖かみのある新盆供養になったのではないか。

 

 

 

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一人ぽっちでの熱発

2023年06月17日 | Weblog

 

 10日ほど前のことである。

目覚めると気だるい。起き上がれないほどではないので、手すりをいつもよりしっかり握って階段を降りる。

とりあえず体温を測るとやっぱり熱発していて379分。

この熱はなんだろう。まさかコロナではないだろうナ…と一瞬恐怖をおぼえる。

前日は関わっている「福祉作業所」の理事会があり、10人ほどと2時間くらい席を共にしていた。ここでなにかに感染したのだろうか。

あるいは寝ざまが悪くて、掛け布団を剥いで寝入っていたのだろうか。

熱発の原因は分からない。

 

 しかしぼんやりしてはいられないのだ。

訪問猫のシンが縁側にどっしり座って家の中を覗き込んでいるし、家の娘猫たちも「朝めし未だかよう」とわたしを見上げている。朝食をそれぞれに差し上げなければならない。

そして熱があるせいかあまり食べる気はないが、いつも通りの朝食を流し込んだ。

食後は日課通りゴミ出しに行く。そこで異変に気づいた。歩いていて前のめりになりよろけ膝をつきそうになる。一瞬だが意識がとぶような心持にもなる。

家に帰りついて熱を測ると385分もあった。

 

 こんな時はどうしたらよかろう。

体調不良になると、いつも妻がてきぱきと処置をしてくれた。「湯冷ましをたくさん飲んで、ほらこの薬を飲んで寝てたほうがいいよ」。

布団を敷き直し、下着を着替えさせ、熱を測り直し布団の縁をトントン叩いて「また後で来るからゆっくりね」。

看護師である妻のしっかりした見守りがあった。

いつでもどこでもなにかあると身近に頼りになる妻がいてくれたものだ。

 

 この熱発は妻だったらどうしてくれただろう。

妻が手がけていた医療品が収納されている引き出しを開ける。

薬袋がいくつかあり、その中に「38度以上の熱のときに服用」と妻が手書きした袋があった。とりあえずはそれを飲む。

そのあとも38度ほどの熱がつづき、しかし夕11時の就寝まえの検温では361分に下がったので「薬の効果がでたか」と安堵して寝る。

 

 熱発2日目、寝起きは371分でやや高い。それが午後になるとまたもや38度をこえてきた。

どうしたらよかろう。このまま寝込んでしまうのだろうか。

独り身の心細さが募ってくる。

今まで妻と二人して乗り越えて来た生活の場、今は独りぽっちの空間なのだ。

 

 電気をつけずパソコンに向かっていると「こんな暗がりで目を悪くするよ」…灯りをとぼしてくれた。

わたしが文章を書きプリントアップして渡すと、すぐさま読んで不穏なところ、仮名遣いの訂正など、安心できる編集者として委ねることができた。

なにしろ彼女の読書量は桁違い。それのみか観劇・クラッシックから演歌までの音楽鑑賞を楽しみ尽くしていたものだ。

杖を突きはじめる前のことだが、友人と誘い合っての小旅行もひんぱんだった。

発病前には「絵手紙」、「ヨガ」の教室にも通い、週2回のディサービスも心待ちにして行っていた。

自己の内面を高めることを楽しみながら日常的にに手がけていたのだ。

 

 高齢夫婦二人きりの生活であっても、彼女のおかげで外の空気が充満する穏やかな日常であった。

わたしは持病があり毎日一万歩のウォーキングを欠かさない。出がけに「ちょいと出かけるよ」と声掛けする。

「どこへ」との問い。「市中見回りだよ」と云えば「ああ、ごくろうさま」…。帰ってドアーを開けるやいなや「おかえりー」の大きな声には、ねぎらいといたわりが含まれていたように思う。

そんな常日頃の声掛けがなくなっているのに、熱発しても独りぱっち。なんでもなく過ごしてきた日々が貴重なものだった、それがもはやないのだ…。

 

 熱発2日目は、37度台の熱に平熱もときおり混じる。保健師である地域の仲間に連絡、昨日からの経過を伝えた。

受診をつよく勧められ、「食事を摂らないと抵抗力がなくなる。なにか持って行ってあげよう」…とのありがたい仰せ。

それは断り、掛かりつけの診療所に電話。すでに受付時間が過ぎていたので明日を期す。

 

 熱発3日目、起き抜けの体温は362分、昼も同程度だったので受診は見送った。

それ以後は平熱で過ごしている。

その話を隣の人にしたら、「うちの子にも熱が出て、なんかが流行っているようですよ。でもなにか困りごとがあったら、すぐに遠慮なく云ってくださいね。できるだけのことはしますから」と気遣ってくれた。

 

 独りぽっちの寂しい日々であるけれど、妻と共に培ってきたご近所・地域の方々との絆に少しばかりの光明を見いだせた2日間であった。

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妻が逝ってしまった

2023年04月07日 | Weblog

{妻が面倒見ていた、いつの間にか芽吹いてきた)

 妻・和枝が詠った詩がある。(19666月、ある青年誌の読者文芸欄に掲載)

 

    おかあさんありがとう    秋田 境 和枝

       二つみつっの小さいときは お湯が目に入らんように

       ゆっくり目おさえて髪あらってくれた

       

       五つのとき 熱出して ねていたら

       仕事からかえった母さんが

       かわいそうに かわってあげられたらね

       とひたいに手をあててのぞきこんだ

 

       小学二年の時

       父ちゃんは熊本に仕事に行った

       母ちゃんのもとに 小一小二小四の子どもが残った

       なれない畑の草取りをしても 働いても働いても 

          ボロボロの麦ごはん

       もらった衣類しかなかった

       勉強すること 三人仲よく助けあうこと

       いつも子どもに教えて 母ちゃんはだまって働いた

       母ちゃんにおこられたことはない

 

       どんな苦しい時でも

       母ちゃんは こびへつらいは断固としてしなかった

       私たちでも 不思議な程に 体にしみた体臭のように

       けっぺきさから一歩も出なかった

 

       ひとのわる口は一度もいわなかった  

       うわさを流すことも絶対にしなかった

 

       熊本から秋田まで 三十二時間

       おまけにすごい吹雪で十時間もおくれて

       結婚式に 来てくれた

       こうして母ちゃんのねいきをきいていると 

                  切ないほどのどかだ

 

       母の愛をいつも全面的に受けて育った私

       いつも母ちゃんに反ぱつした わがままだったなー

       もっということよくきいて やさしくしてあげればよかった

       貧乏で潔ぺき

       母ちゃんによく似ていると云われ乍ら 育った私は

       未来をかちとる闘いの隊列に加わった

       そして闘いの中で愛情をたしかめあって 

       まさちゃんと結婚します

 

       母ちゃん ほんとうにありがとう

       母ちゃんのそばに ずっといたい気がしないでもないけど

       私はみんなと手を取り合っていきます

 

 

「あんたには過ぎたる嫁さんだよ」…何人かの先輩に冷やかされ、生活を共にして56年になる。

母親譲りの潔癖さとやさしさ、そして白髪まで似て来ていた。

わたしが外出から帰ると、「ただいま」をいう前に、「お帰り」の大きな声、いたわりとねぎらいの声かけがいつもあった。

その声がとうとう聞けなくなってしまった。

 

 発病して6ヶ月余、入院して2ヶ月と2日で力尽きたのだ。

家のあちこち、庭のあちこち、道路のあちこち、行くところ踏みしめる所、どこにも妻の痕跡がある。

車の助手席にもいない。寝床の隣にもいない。食卓の椅子にもいない。

仏壇の上の遺影がにこやかに笑いかけているだけだ。

こんなはずではなかった、帰って来てほしかった。たとえ車いす生活になったにせよ、もっといっしょにいたかったのに。

 

 2023328日朝543分に旅立ってしまった。享年82才。死因 老衰。  遠因 癒着性腸閉塞。

41日、コロナ禍のもとでもあり、息子夫妻と4人の孫、在京の家族と地域の友人たちとだけ、40名ほどで見送lった。

ある新聞の訃報欄の経歴に、「元荒川生協病院労働組合委員長」と記されている。

 

 

 

姉上からの弔電  桜が舞い散る4月、いいお天気です。さようなら。

         寂しくなりました。さようなら。   熊本より貞子

 

弟君からの供句  <子どもの頃の思い出より>

         囲炉裏火や 家族囲みて ふかし芋

         麦踏や 草履小さく 寒波吹く

         <学校卒業後久しぶりに学校を訪ねました>

         校舎跡 森林暗く 猪ぞ跳ぶ      大阪より健亮

 

看護学校時代の4人の友人からの供花に添えられた言葉と供句

 加藤木和枝さん聞こえますか。こんなに早くお別れするなんて思ってもなく、本当に残念です。

「今度、会いに行こうね」と4にんで話し合っていたのに……。間に合いませんでしたね。返す返すも残念でただただ悲しくてなりません。

皆、40才を過ぎてからの3年間の勉学、正看護師を目指して、5人で励ましあって乗り切りましたね。一番年上だったあなたの頑張る姿には、ずい分励まされました。

ありがとうございました。

あなたの大好きだったお花を4人で相談してお供えすることに決めました。

お花に囲まれて安らかにお眠りください。

 

   お別れの 言葉交わさず 君は逝く 頑張りぬいた 人生残して(つむぎ)

 

 

 よききょうだい、たくましく育つ子や孫、よき友に恵まれ、楽しく明るく 一途な人生を全うした。

 

 

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