妻が入院して6週間になろうとしている。
ときどき足りなくなった品々を看護師さんから電話がきて、それを届けに何回か病院は訪れた。
その品物の受け渡しはエレベーターホールで行われ、病室には行かれない。「コロナ禍で面会を禁止する」と方々に張り紙がしてある。だから入院以来、妻には一目も会えていないのだ。
「庭の梅の蕾が膨らんできたよ。サラもウリも(猫の名前)帰ってくるのを待っているよ」と、先日は手紙を添えた。そして「なにか必要なものがあれば、書いて投函してもらうといい」と、わが家の住所と私の名を宛先にして書いたハガキを数枚、看護師さんに託した。
その返事はまだない。筆まめな妻なのにどうしたことだろう。
携帯は病室では掛けられないだろうと家に置いてある。
妻はほぼ30年前の1994年1月に大腸ガン手術のため、都内にある「東大病院」に入院した。
その頃を思い出すと面会は、時間の制約はあったが堂々と病室まで行けたものだ。
わたしは仕事の合間に職場のバイクを借り、汚れものを受け取り、洗濯物を届けに職場の休み時間、あるいは休日ひんぱんに病院通いをして、同室の方と少しばかりおしゃべり、妻の顔色、立ち居振る舞いなどを行くたんびにみることができた。
数週間にわたる放射線治療、患部を放射線でたたき小さくしてから、ガン細胞を切除した。
記憶は定かでないが、二ヶ月ほどの入院生活であっただろうか。
退院に際して主治医が抗がん剤の服用に触れたら、妻はそれを即座に断った。お医者さんは「医療従事者のあなたがそう言うなら」と無理強いはしなかった。
わたしはお医者さんの「云う通りにならない」、妻の意志の強さにびっくりした。
幸いなことに再発せず無事に今までで30年ほどが経つ。
今回の「腸閉塞」での入院は、どうもこのときの大手術に関りがあるようだ。
放射線で患部を叩いたから、その近辺が剝がれそのせいか血尿がしばしば起こり、病院に駆けつけたことが何度かある。
そういうトラブルはなくったが、4年ほど前から腰から足にかけての痛みで杖は手放せなくなっていた。
それまでは78才まで、都内のディサービスに週に二回、看護師として電車通勤していたのだ。
30年前の大手術の影響が、知らず知らずのうちに進行していたとしか思えない。
今回の病は10月初めの食欲不振から始まった。
病院を変え「腸閉塞」との診断が下されたのが1月の26日、病いの特定までほぼ4ヶ月の期間を要してしまったたのだ。
この4ヶ月は食が進まず、「あ、今日は食べれたな」と喜んでいると、嘔吐に見舞われてしまう。
今は、だから全身に栄養がいきわたらず、手術ができない状態なのである。
早くに特定されていれば手術は可能であったろうに…。
その無念さで、わたしは一日中もだえている。「俺が早く病院をかえていたら」と悔やんでいるのだ。
わたしが過ごしているのは、妻と共に築いた場である。
テーブルの向こうにはいつもいた、いっしょにテレビを見、掃除・洗濯、庭の手入れ、猫の世話、この家のそこここに妻の痕跡があるのだ。
この空間に当然居るべき女主人がみえないことほど寂しい辛いことはない。
どんな気持ちでベットに横たわっっているのだろう、
わたしは妻がいなくなった家で、茶碗を洗ったり、猫砂を掃除したり、寝間で本を読んだり、洗濯ものをベランダで干したりする空間に、肝心かなめの彼女がいないことで茫然自失、あまり眠れない日々を過ごしている。
本人に面会できて顔をみ、少しでもいい話ができれば、どんなに心安らぐであろう。
今日は気温が高く4月並みの陽気だという。
ふと思いついて、今日は白封筒に宛先病院・宛名加藤木和枝と書いて、一通したため投函した。
面会できないなら、これからも手紙を書きつづけていこうと、少しばかり気がはれる心地になっている。