猫通説はまことか

2024年07月04日 | Weblog



「猫は死に際をみせない」……という通説を聞いた覚えがある。ほんとうにそうなのだろうかと以前のわたしだったら思っていただろう。

しかし猫と暮らしはじめて10年になる今では、疑うべくもない真実だと断言できる。

身近に2例あったからである。



 わが家が猫と同居し始めてほぼ10年になる。

息子の朗が「猫を飼ったらいいよ、それも複数だとベターだ」と勧めてくれた。遠くで暮らす、70才を越えた老夫婦の心のよすがになるだろうとの心遣いであった。

信州に居を構える朗宅では、猫が5匹ほどにぎやかに暮らしている。

わたしと妻はさっそく「動物愛護センター」に申し込み2匹の雌猫をもらい受けた。

掌にちんまりのる500gほどの子猫たちである。

家に帰り放すとすぐさまに追いかけごっこをして賑やかだ。疲れるとなんと下駄箱の靴に入ってひと眠り。

もちろん二階への階段を登れない小ささであった。

出没していたネズミも子猫をバカにしたのか、台所のジャガイモなどをかじり放題、天井裏の運動会も相変わらずであった。



 子猫も少しづつ大きくなって、階段を登れるようになったらいつの間にかネズミは退散。

入れ替わるようにわが家の縁側に姿を現したのは、茶寅の雄猫である。美形のわが家の娘猫に気をそそられたのだろう、縁側に座り家のなかをのぞき込む。

飼い猫ではなさそうだが、わたしたちに物おじしないで、顔を合わせるとかすかに鳴く。「ミャー」と云っているようだがかすれ声である。

かすれ声の歌手、森進一に因んで「シン」と名づけて、食事を提供するようになった。

しばらくするとこのシンガ、小柄なキジトラの雌猫を連れて来た。

「この家は安心だよ」と云わんばかりに、自分は縁の下の地面にいてこキジトラ猫を縁側の上にあげ食事をするのを見守る。彼女が食べ終わるとやおら自分が食べ始める。

シンは男気のある猫であるのだ。

キジトラ猫もわが家の常連になり、食事はシンと共にわが家ですませるようになった。このキジトラ猫は目がパッチリの美形だと、妻が「寅さんシリーズ」の浅丘ルリ子演じる「リリーさん」に因んで「リリー」と名づけた。



 わたしも妻も勤めに出ていたから昼間は留守になる。

すこし薄暗くなる時刻に帰宅、大通りから自宅のある路地へ曲がると、シンあるいはリリーが待ち受けていて先に立ってダッシュ、家の庭を回り込んで縁側の皿の前にチョコンと座り込んで食事のさいそく

 リリーはこの間、早々と4匹の子を産んだ。行方不明になった一匹を除いて三匹をリリーの隙をついて保護、全員雄猫であった。里親を探すのは大変だったがようやく二匹をもらい受けてもらい、一匹は去勢手術をし三匹目の子なので「サン」と名づけてリリーの元に帰した。

里親を探す大変さを味わい、リリーの避妊手術をしようとしたが、保護するのにたいへん苦労した。朗が罠を仕掛けてようやく獣医師にあずけられた経緯は別途の記録がある。



 わが家に縁側には、「シン」、「リリー」、「サン」、それに向かいの家の飼い猫をふくめて4匹が仲よくつどい、食事の世話、水やりに大忙しであった。

このうち向かいの飼い猫はその家で老衰死。

サンは2才くらいの時、縁側にある猫用の小屋の中でぐったりしていた。妻が小屋から抱き取り、脱脂綿にしみ込ませた水を与えたりしたが、妻の腕の中で息絶えた。

シンとリリーはその後、7年ほど仲睦まじく暮らす。



 20208月リリーを見かけなくなった。

それ以前からリリーは、通常のカリカリ餌を食べにくそうにしていた。それで柔らかい食材がよかろうと、リリーだけには缶詰の食事に。

何ヶ月かそういう状態でいたが、ある日からばったり姿を見せなくなったのだ。

リリーが居なくなって4年、今年の1月中旬にサンが姿を見せなくなった。

サンはこの頃、縁側には来るが食事の量が少なくなり、ほんの二口、三口しか口にしない。

水はよく飲んでいたから、わたしはてっきり、ほかにお世話するお宅があり、そこで食べるようになったのだろうと思っていた。

しかしいくら待ち受けても再び姿を現すことがない、身体の不調で食がすすまなかったのに違いない。



 親しく過ごしてきたリリーとシンの失踪は、世にいう「猫は死に際をみせない」…に当てはまるのではないかと考えている次第である。





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人生100年と云われるが

2024年06月05日 | Weblog

 5月末にわが家の固定電話を解約した。ひきつづき7月には愛車を手放すことになっている。

「終活」と云おうか、必要度が減ったものを身の周りから削いでいく事に手を付け始めた。

固定電話は、妻が健在の頃にはある程度使われていた。妻は多趣味で「絵手紙」、「ヨガ」、あるいは音楽や演劇の鑑賞団体からの連絡、友人も多かったから使用頻度も高かったが、妻が逝って1年余が過ぎて振り返ると、用もない着信だけになっている。

主には「不用品はないか」、「家のリホーム」、「墓地・墓石」の案内などだ。

電話料金請求書を見ると、一か月間の通話料は47円にすぎない。こんだけなのに基本料金などを支払うのは「無用の長物」ではなかろうか。

大方はスマホで用が足りるので、ちゅうちょすることなく解約手続きを完了した。



「愛車」を手放すについては、あれこれ考え迷った。

わたしは元気なうちは「生涯ドライバー」を目指していたからだ。

「高齢者は早いとこ免許返納せよ」との世に抗い、「高齢者と云えども個人差がある。ぜんぶ一緒くたにするな」、長年のゴールド免許保持の誇りもあり二年後の次の免許更新を視野に入れていた。

ところがこの件でも妻の存在が大きかったのだ。

妻のスケジュールはいっぱいだった。週に2回は趣味の会がある。足腰の痛み治療にほぼ毎日「整骨院」へ通所、月に数回の病院へ通院など、一日に何回かはは車の出し入れがあった。

妻亡き後、わたしが理事を務めていた障がい者施設の所長の送迎が仕事としてはいり、愛車の活用度が増えたが、所長の入院加療で5月からその仕事はなくなった。

40年ほどつづけている、週二回のボランティア的「新聞配達」に使うだけの状態になってしまったのだ。

わたしはウォーキングで一日八千歩を欠かさないから、買い物などは歩いてすませているし、荷物がかさばるときには妻が愛用していた自転車がある。

愛車の一年間の任意保険は、高齢者だから高めに設定され9万円強かかり、二年に一回の「車検」費用もバカにならない。

 妻が存命中は妻の年金、わたしの年金を合わせて人並みの生活を過ごせていた。

妻は看護師で国家資格保持者だったから、わたしの年金より多かった。

わたしの年金だけでの生活となると、よほど目配りしなければならないのだが、節約にも限度がある。

同居のむすめ猫2匹は、主食のカリカリよりもおやつに目がなく、皿の前に座り込んでさいそくに余念がない。

サラは「カニカマ」、ウリは「煮干し」とそれぞれに好みのおやつがちがう。これがけっこう高額なのだが、無くすわけにはいかないのだ。

前には訪問猫が4匹いてその賄いもしていたが、いまは寂しいが居なくなった。

家のローンは払い終わり、家賃の支払いがないだけが救いである。



 身の周りから削ぎきれないものはたくさんあるが、これからも削ぐことに目を光らせ「人生100年時代」に備えていこう。

いつなんどき「閻魔(えんま)様」の気が変わってお召があるかも知れないが、わたしは今年85才だから残りは15年ほどありそうだ。

わたしが者ごごろついた時分は「人生50年」と云われていたように思う。しかしこれは勘違いかも知れない。

織田信長が戦に臨む際に「人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり……」と舞い謡って出立したと史実にある。

信長が逝ってわたしの世代までは400年以上の間隔があり、いくらなんでも400年間にわたり寿命が同じだとは思えない。

だがわたしの者ごごろついたのは、先の戦争が終わった時期である。若ものも年配者も無理くり戦場に送られ死に追いやられた。

わが国だけの戦死者は310万と云われている。これらの影響で「人生50年」となったのかも知れない。



 わたしのことで言えば、なんどか死地を超えてきている。

幼少期は東京下町の向島に住んでいた。父のはからいで母の実家がある、新潟に縁故疎開していたから、下町一帯で死者10万人をこえた東京大空襲の難から逃れられた。

長じては、40代後半の医療検査で「大腸ポリープ」の切除をやり、以後なんかいかにわたって切除してもらった。この検査・切除がなければポリープのガン化にいたり「人間50年」で終わったことだろう。

更にはまた、80才の折、市の「健康診査」で「肺ガン」が見つかり、早期発見で患部が摘出された。 

 かくかように幾多の試練があったが、世の進歩のおかげでわたしの今がある。

本来であれば身の回りの物をあれこれ「削ぐ」算段をしないで、過ごしたかったものだ。

「人生100年」を、苦労してでも一緒に目指したかったよ…妻の写真に語りかける日々である。





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久方ぶりの「和力」東京公演

2024年03月30日 | Weblog

 

 2024323日(土)、「内幸町ホール」で和力東京公演が開催された。

前回の東京公演は、20189月、「ザムザ阿佐ヶ谷」での公演であるから、実に5年ぶりとなる。

コロナの蔓延があり、人が集う企画は絶無になる月日が長くつづいた。

 

 昨年の初め、和力主宰、わたしの息子・朗から要請があり、「内幸町ホール」の会場使用抽選会に臨んだのは昨年3月の初めであった。

幸いわたしのくじ運が良くて、希望する土曜日をゲットすることが出来たのである。

 

 公演日を20日後に控え心配事がもちあがった。

チケット管理をしている平澤久美子(加藤木朗・塾生)さんから、「あと30席で完売」とのメールがはいりわたしはあわてた。そして次のように打電。「完売を目指すのは危険。指定座席でないので、いっぱいいっぱいだと、席を探す方の緊迫感もあり会場が落ち着かない雰囲気になる」。久美子さん「あと10数枚販売しないと赤字になってしまう。会場内での席探しはなんとかスタッフの力をお借りして…」。

 公演日11日前、久美子さん「チケットは当日券を除き後11席で完売」。

 公演日9日前、「当日券分を除き東京公演完売した。ここで『満員札止め』の告知に入る」。わたし「開演日まで10日ほどある。スケジュール上迷っていた方が申し込んでくる時期だ。会場側は消防法の観点で立見は許してくれない。申し込んで来る方とのトラブルなきよう…」。

 

 「和力」は知る人ぞ知ってはいるが、無名のユニットである。

キャパシティー200席弱の規模ではあるが、チケット発券前は「果たして席を埋められるだろうか」の危惧は少なからずあった。

チケット前売り価格が5,000円に設定されたことも、集客にどう響くだろうかの懸念につながる。

なんとなれば、わたしたちが勧進元として取り組んできた公演は、長きにわたって一般前売り3,500円であった。

ホールの客席数が少ないので一席当たりの単価を上げないと採算割れになってしまうために設定された価格であろうが、旧態依然たるわたしは思い切った価格設定に度肝を抜かれる思いもあったのだ。

 

 それでもわたしとわあたしの弟・雅義が勧進元になり、東京では、「吉祥寺シアター」・「武蔵野公会堂」・「練馬文化センター」・「練馬ゆめりあホール」など公演を積み重ねてきており、熱心なファン層の存在も実感している。

公演の度毎に回収するアンケート用紙に記入いただいた方々を中心に、数多くの人名簿を「和力松戸事務所」のわたしが管理、東京をはじめ首都圏での公演の折には、この人名簿をもとに「ご案内」を発送し集客に励んできた。

その人名簿財産が今回の5年ぶりでの公演で力を発揮してくれたのだ。

 

「満員札止め」になった今回の取り組みで二つ成果を挙げたのではないかと、わたしは考える。

 

 一つは、「チケット販売の一元化」にある。

今回の公演主催は、信州に拠点を置く「和力」本体であり、チケット申し込み・お問い合わせ窓口は「和力塾生」の平澤久美子さん、櫻田真央さんであった。

従前であれば「和力松戸事務所」のわたしは、本体からチケットを預かり「和力松戸事務所」の人名簿を活用して集客に励んでいたものだ。

しかし今回は、公演周知案内もチケット販売も和力本体でのみで行なう。

なぜなら、余裕ある席数の会場であれば、相互で進めて問題はないが、200席弱と限られた席数なので、リアルタイムに席数の推移を把握し対策を講じなければならない。

この策によって数のぶつかり合いなくスムースに終局まで持って行けたのではなかろうか。

 

 二つ目には、首都圏での和力公演の支持者台帳の移管が思いがけずはかれたことにある。

過去の和力公演で蓄積した人名簿は「和力松戸事務所」に保管されていた。

「チケット販売一元化」によって、この人名簿の財産を和力本体に移管でき、これを元に和力営業担当の平澤久美子さん、櫻田真央さんが活用して「満席」につなげた。

わたしは間もなく85歳になる。「人生100年」と云われているが、いつなんどき閻魔(えんま)様のお呼びがあるか知れない。

そうなったら、営々として築き上げてきた財産は人知れずお釈迦になってしまうところだった。

 

 わたしは表方の責任者として、舞台を観ることはできなかった。

舞台際のドアーの前に座っていると、舞台とお客さんの交歓の様がまざまざと伝わってくる。

一年前に逝った妻・和枝が同席したなら、彼女は舞台をどれほど楽しんだだろうか…とふと思う。

 

 心配した雨も完全に上がったようだ。

 

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ゴールド免許失効

2024年02月29日 | Weblog

 

 テレビ番組で好きなのは、NHKBSの「ワイルドライフ」や「ダーヴィンが来た」あるいは「世界ネコ歩き」など動物が活躍するものである。

象やキリン、ガゼル・シマウマ・野牛、ペンギン・白熊・アザラシ・シャチなどの生態を食い入るように見る。

なかでもライオンやヒョウ、チーターなどネコ科の動物に目がない。

なんとなれば、家で同居している娘猫二匹の親戚筋だからである。顔だち姿態が似通っている。

遠くを見つめる様子、臥せっている様、毛づくろいや仲間同士でのパンチの応酬など、大きさは違うが瓜二つなのが親しく感じるのだ。

ネコ科の動物が草や木の遮蔽物に身を潜ませ、獲物の接近を待ち伏せ襲いかかる。襲いかかられる方に同情はするが、俊敏な狩りの姿は優美である。

 

 人間社会でもネコ科の習性をひたすら研究し仕事に活かしているのではないかと、つくづく思う出来事があった。

二月某日、わたしは軽自動車を運転してある人を病院へ迎えに行く用事ができた。わたしのパート先の理事長が緊急に検査をすると云うので、朝方病院へ送った。

しばらくしたら、「検査入院を指示されたので、家に戻り必要な品物を揃え病院へ戻りたい」との連絡があり、再び病院へ向かったのである。

さぞかし急いでいることだろうと、すこしばかり急いた気分ではあった。

病院までは20分ほど、新松戸駅を通り過ぎて片側一車線の道を緩やかに走る。病院はもう目の前である。

すると突然「ピッピッ」と呼子の音、何事かと思う間もなく警察官がわたしの車を停める。「あなたが走行してきたあそこに横断歩道がありますね。歩行者がたたずんでいるのを無視してあなたは走行しました。歩行者妨害の違反です」。

いわれてみればおばさんがいたような気がする。

この道は通いなれた道である。いまは亡き妻の通院する病院でもあったから何百回も行き来している。

そこで折悪しく捕まってしまったのだ。

 

 警察の捕まえ方が気に入らない。

電信柱や街路樹の陰に身を潜ませ気配を消し獲物を捉える。

ネコ科動物をそうとう研究しつくしているのでは、と思わざるをえないではないか。

取り締まりならもっと正々堂々と姿を現し、交通指導すべきではなかろうか。

など云っても通用する相手ではない。違反切符を切られ罰金9,000円を支払う破目になってしまった。

自慢ではないがわたしはこの20年ほど、無事故・無違反のゴールド免許保持者であるのだ。それがパーになったのが虚しくしばらく寝つきの悪い日がつづく。

 

 わたしには長い自動車運転の歴史がある。

30代わらび座の営業部で大阪に在住していたとき教習所に通い一発で免許獲得。

最初の違反は。この大阪で「一時停止違反」でやられた。その後は大阪各地、和歌山・滋賀・鹿児島・宮崎など乗り回したが捕まることはなかった。

わらび座を辞し、東京の会社で都内各地へ配送業務、この会社員生活で3度ほどやられはした。

65才で会社員生活を卒業し、73才から80才まで東京の「ディサービス」勤務、送迎で都心を巡っても無事故・無違反だ。

 

 昨年8月からの運転業務も無事にこなしていた。

通りなれた道での行き来だから、どこで取り締まりをしているかは先刻承知という有利さもある。

最近気になりだしていたのは、街路樹や街灯・電柱の陰にに身をひそめる警察官をしばしば見かけること。「信号無視を捕まえるのかなぁ」と、しばしば黄色信号を突破してしまうわが身を反省したりもしていた。

しかし多くの場面を推察してみれば、信号のない横断歩道に歩行者・自転車が車が行き過ぎるのを待っている場面で、車が停止しないで進行するのを挙げるのだ。

多分、シートベルト装着違反やスマホ通話違反など影を潜めたので、新たに運転者の錯誤に狙いを定め検挙成績を上げるため強化された取り締まりなのだろう。

 

 歩行者優先は交通ルールの大前提だから、「非は我にあり」はうけいれざるを得ない。

運転により慎重さが加わったことは言うまでもない。

だが、ゴールド免許失効はなんとも悔しい限りではあるのだ。

 

 

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旧友と会う

2023年12月28日 | Weblog

 

 12月某日、高田馬場へ出かけた。

高校時代の同級生たちと会うためだ。高田馬場駅は母校の最寄り駅である。

多くの場合ここが落ち合う場所になっている。

 

 以前は一声かかると、同級生の仲良しグループだった10人ほどが集まったものだ。

しかしいつしか物故者も出、施設に入った人もあり、だんだんに減ってここ数年は5人になっていた。

春には、5人のうちの一人が奥さんの付き添いでやってきた。

「帰りは山手線の品川方面に乗せてくれれば大丈夫ですから…」と、奥さんは帰っていった。本人は「付いてこなくてもいいのに」と、かなり威張っていたが…。

 

 今回このW君は、外出に不安があるということで不参加だ。

メンバーは、わたしをふくめて5人、W君を除いたら4人のはずなのに、なぜ5人かというと、E子さんに付き添いが付いているからだ。

前回ももしかするとその前も、E子さんには夫君が付き添いで来ていたらしい。駅で我々と出会ったのを確かめてから、ご本人は別の場所で一献傾け終わるのを待っていたようなのだ。

そんなE子さんの携帯での様子を察知した世話役のO君が、「一緒に飲みましょうよ」と夫君に働きかけて同席するようになった。

 

 E子さんは、同級生の中で抜きんでたマドンナであった。楚々たる風情、長い黒髪、発する言葉にも潤いがある。

この往時のマドンナも寄る年波には抗しきれず、会話にちぐはぐさがあったり、「身に着けて来たイヤリングの片方が見当たらない」と、慌てたりするのを見聞きするにつけ、「軽い認知障害があるのでは…」との危惧があった。

夫君によると、買い物に出かけても「何をしに外出したのか失念したり、ましてや電車を乗り継いで目的地に向かうのが難しくなっている」…ので見守る必要があるのだとE子さんが席を外したときに云う。

 

 一方、わたしの最も親しいM君は杖が手放せなくなっている。

何事によらず面倒見がよく、往時は生徒会長、近年は同窓会事務局長を担い、みんなを纏める中心にいた。

地方公務員として、福祉畑を歩みつづけ、時には上司と大立ち回りもしたという豪のものである。

彼の勤務する地域での「わらび座」公演担当になったわたしの妻も、宣伝機材の調達・観客動員の手助けなどいろいろ世話になった。

息子の朗が主宰する「和力」も、彼が退職後に責任者になっていた「障がい者施設」で主催公演などをしてもらっている。

 

  O君は高校時代、山登りの先達としてわたしたちを楽しませてくれた。新年に「ご来光を拝む」と、大菩薩峠に連れて行ってくれたのが始まりで、夏休み・春休みには丹沢山系をはじめ、いろんな所でキャンプ・山小屋を訪れることが出来た。

野山の遊びは、彼が立案・企画し地図と磁石で地形を読みとる姿は頼もしいものであった。

その野生児であった彼も身体の不自由さはないものの、軽い脳梗塞を患ったという。

 

 かくいうわたしも、杖さえ突かないし身体のあちこちの痛みはないものの、身体の内側ではいろんな異変があり、薬を何種類も服している。

なにより悔しいのは、歩いていて誰彼に抜かれることである。自分としてはセッセと歩いているつもりなのだが、必ず抜かれる。

 

 高校を卒業して65年有余、年が明けるとそれぞれ85才に届くのだ。

人生の最終章に差し掛かっているのは認めないわけにはいかない。

夫君のエスコートで高田馬場駅の階段を上って、改札口に向かうE子さんを見上げてつくづくそう思う夕暮れであった。

 

 

 

 

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