悔しきはコロナでの「面会禁止」

2023年03月07日 | Weblog

 

 妻が入院して6週間になろうとしている。

ときどき足りなくなった品々を看護師さんから電話がきて、それを届けに何回か病院は訪れた。

その品物の受け渡しはエレベーターホールで行われ、病室には行かれない。「コロナ禍で面会を禁止する」と方々に張り紙がしてある。だから入院以来、妻には一目も会えていないのだ。

 

「庭の梅の蕾が膨らんできたよ。サラもウリも(猫の名前)帰ってくるのを待っているよ」と、先日は手紙を添えた。そして「なにか必要なものがあれば、書いて投函してもらうといい」と、わが家の住所と私の名を宛先にして書いたハガキを数枚、看護師さんに託した。

その返事はまだない。筆まめな妻なのにどうしたことだろう。

携帯は病室では掛けられないだろうと家に置いてある。

 

 

 妻はほぼ30年前の19941月に大腸ガン手術のため、都内にある「東大病院」に入院した。

 

 その頃を思い出すと面会は、時間の制約はあったが堂々と病室まで行けたものだ。

わたしは仕事の合間に職場のバイクを借り、汚れものを受け取り、洗濯物を届けに職場の休み時間、あるいは休日ひんぱんに病院通いをして、同室の方と少しばかりおしゃべり、妻の顔色、立ち居振る舞いなどを行くたんびにみることができた。

数週間にわたる放射線治療、患部を放射線でたたき小さくしてから、ガン細胞を切除した。

記憶は定かでないが、二ヶ月ほどの入院生活であっただろうか。

退院に際して主治医が抗がん剤の服用に触れたら、妻はそれを即座に断った。お医者さんは「医療従事者のあなたがそう言うなら」と無理強いはしなかった。

 

 わたしはお医者さんの「云う通りにならない」、妻の意志の強さにびっくりした。

幸いなことに再発せず無事に今までで30年ほどが経つ。

今回の「腸閉塞」での入院は、どうもこのときの大手術に関りがあるようだ。

放射線で患部を叩いたから、その近辺が剝がれそのせいか血尿がしばしば起こり、病院に駆けつけたことが何度かある。

そういうトラブルはなくったが、4年ほど前から腰から足にかけての痛みで杖は手放せなくなっていた。

それまでは78才まで、都内のディサービスに週に二回、看護師として電車通勤していたのだ。

 

 30年前の大手術の影響が、知らず知らずのうちに進行していたとしか思えない。

今回の病は10月初めの食欲不振から始まった。

病院を変え「腸閉塞」との診断が下されたのが1月の26日、病いの特定までほぼ4ヶ月の期間を要してしまったたのだ。

この4ヶ月は食が進まず、「あ、今日は食べれたな」と喜んでいると、嘔吐に見舞われてしまう。

今は、だから全身に栄養がいきわたらず、手術ができない状態なのである。

早くに特定されていれば手術は可能であったろうに…。

その無念さで、わたしは一日中もだえている。「俺が早く病院をかえていたら」と悔やんでいるのだ。

 

 わたしが過ごしているのは、妻と共に築いた場である。

テーブルの向こうにはいつもいた、いっしょにテレビを見、掃除・洗濯、庭の手入れ、猫の世話、この家のそこここに妻の痕跡があるのだ。

この空間に当然居るべき女主人がみえないことほど寂しい辛いことはない。

 

 どんな気持ちでベットに横たわっっているのだろう、

わたしは妻がいなくなった家で、茶碗を洗ったり、猫砂を掃除したり、寝間で本を読んだり、洗濯ものをベランダで干したりする空間に、肝心かなめの彼女がいないことで茫然自失、あまり眠れない日々を過ごしている。

本人に面会できて顔をみ、少しでもいい話ができれば、どんなに心安らぐであろう。

 

 今日は気温が高く4月並みの陽気だという。

ふと思いついて、今日は白封筒に宛先病院・宛名加藤木和枝と書いて、一通したため投函した。

面会できないなら、これからも手紙を書きつづけていこうと、少しばかり気がはれる心地になっている。

 

 

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妻の入院

2023年02月05日 | Weblog

(妻が臥せっていた福祉ベットで日を浴びるサラ)

 

 202325日、妻が入院して11日が経つ。

 入院ができ、病変の特定それに基づき治療方針がしめされたので、予断は許されないが光明がみえてきた。

 これまでの闇が永かった。

 

 昨年の10月初め、嘔吐したので近くの医院で診察。医師は腹周りを擦って「整腸剤」3日分を処方。

この際、妻が以前には定期的に通院し、貧血だかで偶に輸血していたが、最近は行っていないなぁ…と思い出し、T総合病院の「血液内科」に向かう。

血液検査の結果、貧血はさほどでもないが「炎症値」が高く抗生剤を処方された。2週間おいた診察日には「炎症値」はやや下がったものの未だ高水準。

以後、抗生剤をとっかえひっかえ試すが効果はでない。

 

 この間、食欲不振がつづく。

 

 上部消化管(食道から小腸・十二指腸)までのCT検査は異常なく、つづく胃カメラでも異常はないという。

まわされた消化器内科のドクターも「整腸剤」の処方でお茶を濁すのみである。

 

 9月末に40㌔だった体重が、10月に1㌔、11月に1㌔減り、新年明けての体重測定では、ひと月間で6㌔も減少したとディサービスからの連絡、あわてて翌日に受診。

6㌔も減ったから、即入院と告げられるかと思ったが、点滴と消化剤の処方で帰された。

 

 入院が不能なら「在宅医療」を受けようと、ケアマネジャーと相談。

「訪問看護」と「在宅医療」のドクターがきまり、福祉用ベットも設置されて、118日に在宅での1回目の診察、以後毎日の点滴が始まった。

 

 相も変わらず食事はすすまない。ヤクルト一本は飲むが・ヨーグルトはほんのひと口、固形物は受け付けない。ドラッグストアで「総合栄養液」を購入してなんとか飲ませる。

 

 123日、夜半に吐き、明け方にも吐く。固形物は食していないので、胃液しか出ていないようだ。

点滴に来た訪問看護の看護師さんが、腹周りが堅そうだと診立て、在宅医療のドクターが緊急に来てくれた。

「腸捻転のおそれ」…救急搬送でT総合病院へ。ここでの結果は「腸捻転はない」。下剤を処方だけで帰された。

 翌25日(水)は「在宅医療」の二回目の定期診療だ。

ドクターが「原因不明の病気を診る『総合診療科』が市立病院にある。紹介状を書くから行くとよい」と、後刻持ってきてくれた。

 

 翌26日、朝8時半に家を出て「松戸市立総合医療センター」へ向かう。予約なしだから待ち時間はそうとうかかる。

妻は待合室の長椅子に横たわったりして過ごす。

諸検査の結果、「内科としての所見は、『腸管閉塞』と判断した。内科としてできるのはここまで。消化器外科に引き継ぎます」。

消化器外科では、「選択肢は二つある。管を腸内に入れて老廃物を吸い取ること、もう一つは手術だ」という。即座に手術をお願いした。

「それでは7時に手術を開始しましょう」となり、さまざまの書類に署名をする。

病名は「術後腸閉塞」とあった。

妻は19941月に大腸ガンの摘出手術を受けている。その後遺症として腸管が癒着してしまったようなのだ。

 

 癒着した部分を引きはがす手術は予定されたが、それは延期になった。

なんとなれば、3ヶ月余にわたってほとんど食事をしていない。癒着を引きはがすには腸などが脆弱になっている。

先ずは栄養の補給などをはからなければならない。

 

 入院が決まり、本日で11日目になる。

原因も分かり治療方針もたてられ、医療スタッフに見守られながら妻は過ごせるようになった。

ここに行き着くまで、ケアマネジャー・在宅医療のドクター・訪問看護のみなさんの多大なお力添えがあり、感謝しても感謝しきれない。。

 

 病室には立ち入れないのでその後の様子は知れないが、栄養液の投与などで体力は回復しているだろうことを願って、長い一日を過ごしている。

 

 

 

 

 

 

 

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4回目の高齢者講習に

2022年11月30日 | Weblog

 

 わたしはことしの春83才となった。

11月初め運転免許更新の通知がきた。来年5月までに「高齢者講習」を受けるようにとの案内である。なんと期限切れの6ヶ月も前から受講できるのだ。

 

 75才を過ぎると「高齢者講習」が義務化され、認知機能検査・実技試験に合格すると3年間免許が延長となる。わたしは今までに3回ほど受けている。

 

 運転実技はほぼ毎日乗っているうえ、無事故無違反の「ゴールド免許」だからなんの心配もない。

問題は「認知機能」試験にある。「今日は何年・何月・何日ですか」、「今はほぼ何時ですか」との設問には自信があり、それはいつも満点だ。

心配なのは、16枚の絵を次々に提示し記憶させる設問である。

例えば「ライオン」の絵を提示し「これはライオンです。ライオンは動物です」。そして「ライオン 動物」と唱和させる。「耳  身体の一部」、「テントウムシ 昆虫」…など16問、後で「動物はなんですか、身体の一部とは…」を答えるのだ。

今までは無事クリアしたが、その点数が前回低下した。そのとき思ったのは「次回うけるときには、かなり集中しなければ」という緊張感であった。

 

 そんな緊張感をもってまで免許にこだわらず、返納したらよかろう、もう年なのだからとおおかたの人は言うだろう。

ニュースなどでも高齢者の交通事故がひんぱんに取り上げられ、肩身の狭いことこの上ない。

「高齢者ははやいとこ免許を返納すべし」との声が高まるにつれ、わたしの天邪鬼な気持ちは反発を強める。

「何を言うか、ひとそれぞれだろうが」との思いが噴きあがるのだ。

 

 わたしは30代前半で免許を獲得、わらび座在籍時代は大阪・和歌山・宮崎・鹿児島などを仕事で巡った。

わらび座を辞し、サラリーマンになってからは都内各地に配送しまくる。退職後は80才まで都内のディサービスの送迎の仕事に従事、すべて事故はなく乗り切ったのだ。

体力的には2年前「肺ガン」が発覚、医師には「体力的に十分耐えられるから」と即座の摘出手術を勧められ、術後2年の今も毎日一万歩ウォーキングを欠かさない、畑づくりもしている。

 

 免許延長にこだわるのは、運転実績や体力の裏打ちがあることに加えて、やはり日常生活で必要なのだ。

わたしの住む地域は、都市近郊で交通網は発達している方だ。電車に乗れば都心に20分ほど、バスの便もある。

しかし居住地内での移動はかなり困難を極めるのだ。

例えば妻の病院通いがある。行くにはバスで駅へ、電車に乗り換えて目的地に…。車だと15分もあれば行き着くのに、交通機関だと行き帰りで半日仕事になってしまう。

妻のヨガ教室、絵手紙教室の会場も、バス、電車、バスに乗り換え一時間もかかろうか。車だと10分の距離なのに。

 

 そのうえわたしは週に二回、新聞配達をしている。ボランティアに等しい活動なのだがこの地域に根づいて40年以上やっている。

つい先だってまでは、250㏄のバイクで走りまわっていたのだが、バイクは処分してしまった。

自転車で回るのはさすがにきついので車で回っているのだ。

 

 そんなこんなで、もうしばらくは免許を手放せない。

無事免許を取得できるか、122日がその試練の日である。後2日先のことになった。

 

 

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高校時代の友人と会う

2022年10月31日 | Weblog

 

 10月某日、小雨そぼ降る中を駅に向かう。

一週間ほど前、「次の木曜日、都合つくか」と友人のMから電話があった。

いつものメンバーで久しぶりに一杯やろうじゃないか…との誘いである。年に数回は会う仲間たちだ。

定時制高校の同級生である。卒業して65年ほど経つ。長い長い付き合いだ。

 

 高校生の頃には、夏休みになると山登り、キャンプにいそしんだものだ。男性5人に女性5人の気の合ったグループで、「夜灯虫」(やとうちゅう)と名づけて、大学ノートに好き勝手なことを書いて回していた。

このグループは、40人ほどいた同級生の中で、勉学に抜きんでたり、気障を売り物にするグループとは一味ちがうものだった。

向上心がほどほどにあり、成績にはあまり拘らず、さりとて学業に置いてけぼりを食うわけでもない。

M君は生徒会長、わたしは「定高協」(定時制高校連絡協議会)役員に立候補し、その任を果たしたこともある。

 

 この生徒会選挙でわたしがぶった演説が、後に大騒ぎになる。

「最近、マンボズボンやらが流行っている。これをはいて喜んでいる輩がいるが、おかしな事だ。そんなにはきたいなら、いっそのことお百姓さんが身に着けている、『股引』でもはけばよい」…。(マンボズボン=裾が狭まった細ーい仕立て)。

役員選挙の中身に関係ないこの演説は、気障を気取るグループの機嫌を損じた。

下級生が「加藤木さん、ちょっと顔をかして」と教室に呼びに来て、階段上の暗がりに行くと待ち構えていた数人が、「この野郎」とわたしをボコボコにしたのだ。

上級生にボコボコにされたのはこれで2回目となる。

定時制に移ったのは、高校12学期からであった。都心の都立高に合格したが経済的に逼迫して1学期しか通わなかった。

この全日製高校では「新聞部」に所属した。コラム欄でわたしが書いた文章が上級生を怒らせた。

「校舎屋上で南蛮渡来のタバコとやらを吸って粋がっている輩がいるとの風評がある。吸っては白い煙を吐きだす。なにが面白いのだろう。忍術使いの児雷也が大きなガマ蛙の上に乗って印を結ぶと、ガマは白い煙を吐き出し姿を覆い隠す。いくら粋がってもそれには負けるではないか」。

このコラムは匿名であったから、だれが書いたか分からないはずだ。ところが敵は新聞部長を締め上げたにちがいない。わたしを屋上に呼び出しボコボコにした。

それが原因で退学したのではないのだが、2度も同じ目にあったのだ。

 

 ただこのボコボコ事件、わたしは学校に訴えることはしなかった。

ただ2回目のことは、クラスの友人たちの知るところとなり、HRで大騒ぎになった。

わたしは教員室に呼び出されて、ボコボコは「誰にやられたか」問いただされたが、「暗くて分からない」と…。

名前を明かさなかったことに恩義を感じたのだろう、親しくなりはしなかったが、以後何事もなかった。

 

 授業を抜け出して近所を散策、柿をもぎって食したりもした。

近くに早稲田大学があり、その当時は街に溶け込んだ学園として塀などはなく、誰でもいつでも学内に入れたものだ。

われわれは大隅公の銅像前の池に向かい、鯉を生け捕りにしようと努力した覚えもある。

 

 Mは卒業後、地元の区役所に勤め堅実な生活を送る。がしかしどこかおかしなところがあり、酒をしたたかに吞んで家に帰りついたはいいが、バス停の標識をゴロゴロ曳づって玄関先でそれを枕に寝入って、家族を途方にくれさせる…いまであれば「公務員の悪行」と新聞種になりそうなことを仕出かしたりもした。

彼は新婚旅行先の一つに「わらび座」を選んでくれ、あまりおもてなしは出来なかったが奥さんともども秋田の風景を楽しんでもらった。

 

 それから幾星霜、Mにはいろいろお世話になった。

福祉分野一途に勤め上げた彼は、定年後 区内の労働組合・団体が「運営委員会」に結集する「障がい者福祉事業所」の所長に迎えられる。

バーベキュー大会、総会パーティーなどのときには、わたしに「ソーラン節」などを躍らせみなさんの馴染みになるよう計らってくれた。

おかげで「運営委員会」などで、わたしの息子が主宰する「和力」のアピールもでき、公演では労働組合・団体の協力を大いに受け、「和力」ファンを拡大できた。

 

 長い長い付き合い、Mは杖を頼りに、Wは奥さんに付き添われて待ち合わせ場に現れる。

一杯吞んでの話題はもっぱら体調の報告会である。

かっての悪戯っ子の面影はもはやないが、人生を全うに生き切った安堵はお互いにあるのだが、この先どれほど会える機会があるのだろうか。

 

 帰りには雨が上がり、歩道の片隅に溜まる水面に外灯の光が揺らめいていた。

 

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妻の厄災

2022年09月30日 | Weblog

 

 妻の左親指の根元に、小さなシコリが出来たのは9月の初めであった。

「あれれ、なんだコレ」…翌日になると腫れが広がり痛みを伴う。ディサービスにお世話になる日だったので、病院へは行かずにディへの迎えの車へ乗り込んだ。

 

 ディサービスでは、転倒したのでないかと心配し、「病院の診察を早くうけるように」と連絡帳に記入してきた。

もちろん病院へは行くつもりだったが、土・日にひっかかり月曜日に行く。この二日の間に腫れが広がっており車で病院へ急ぐ。

予約なしなのでかなり待されるだろう。「診察が終わったら連絡するように…すぐに迎えに来るから」と、わたしは家にとって帰す。

どの病院へも送迎だけ、妻は看護師なので医療に素人のわたしは、診察に同席することは今までしていない。

菜園で鍬をふるっていたら妻の携帯からの着信音。案外早く済んだなと、携帯に耳を当てると、「病院の看護師ですが、診察に立ち会ってください。これからレントゲン撮影がありそのあとに診察となりますので」とのこと。

 

 鍬を放り出し病院へと急ぐ。

待合室には妻は居らず、看護師さんに尋ねる。「GT検査に行っていますので少しお待ちください」とのことだ。

やがて妻が戻り診察室へ。お医者さんは「改めて窺います。発症したのはいつですか」…。これでわたしが診察に同席を求められた委細が分かった。

最初の診察で妻の答えがしどろもどろだったのだろう。妻は2年ほど前から、直近の記憶があやふやになってきている。

お医者さんの問診にとまどったので、わたしが同席を促されたにちがいない。

撮影された画像をみながら、「加齢によって骨の老化が進んでいる。原因は特定できないが」と、ギブスで手首を固定し「一週間後にきてください。その折にはあなたも同席するように」と、念を押された。

 

 一週間後に病院を訪れる。

その結果をディサービスの連絡帳に記したのが下記の文章だ。

「妻がいつもお世話になりありがとうございます。通院して一週間が経った96日(月)、松戸整形外科病院にて『偽痛風である』と診断されました。痛み・腫れは引いており、包帯・ギブスを外し、ふつうの日常生活OKとなりました。暑さが激しくなると発症する、水分を多めに摂るように、それもお茶などではなく、真水がよいとの指導です。ご心配・お手数をおかけしました」。

この件に関しては「一件落着」と相成った。

 

 わたしは83才、妻は82才になる。向こう三軒両隣では突出した高齢世帯であるが、幸いなことに二人とも日常生活に支障はない。

「老々介護」になっていないのはありがたいが、このところ「ヤバサ」を感じることが多い。

今回の「偽痛風」もそうだが、妻の足腰の痛みは日常のことになり杖は必需品だ。その杖をよく忘れてくる。心当たりを探して巡りまわったのは幾たびぞ。

とうとう行方不明になって今は2代目の杖である。

 

 妻は明朗闊達、人への優しさに満ちた頑張り屋である。

40代でわらび座を辞し元の看護職に服したが、「医療の進歩にわたしの経験が追いついていない」と、10倍余の難関を制して看護学校にはいり直した。

その受験勉強の真剣さには圧倒されたものだ。3年間の学生生活をパート勤めをしながら凌いだ。

「ケアマネジャー」制度が発足すると、猛勉強を開始し「ケアマネ」第一回目の試験に合格。

パソコンも携帯など最新機器に挑戦したのも妻であり、わたしは後塵を拝して追随する身であった。いわばわが家の知的大黒柱であるのだ。

 

 加齢のせいで節々が痛み、「今日は何日だっけ」…同じことを何回も聞き返してくる。

しかし月のはじめの週は「ヨガ」、中頃には「絵手紙」、終盤は「女性の会合」に小まめに出かけている。

老いたりとはいえ、進取の気概はいきつづけ、仲間の出会いを大切にしている。

 

 ヤバサはこれからもひんぱんに出てくるだろう。

なんとかそれを一つひとつ受け入れ、焦ることなく乗り越えていかなくてはならないのだ。

 

 

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