家庭菜園に精出す

2020年10月30日 | Weblog

(9月7日に種まきした白菜・山東菜が成長した。巻くかどうか心配だったが、これから巻き始めるだろう) 

 

 新型コロナの終息がなかなか見通せない。

わたしが関わる複数のグループの会議や行事が繰り延べになり、出歩くことや人に会うことが皆無になった期間は長かった。

10月になって「松戸演劇鑑賞会」が6ヶ月ぶりに例会を再開し、久方ぶりに劇場を訪れた。

「知的障碍者の余暇支援」サークルにボランティアスタッフとして参加している。

「スタッフ会議」は10月から定期開催になったが、月に一回やっていた「フリーマーケット」・「うたごえ喫茶」はまだ再開できずにいる。

会議・行事が減って余裕の時間が大巾にふえた。

家に閉じこもることのない日常をつづけるのに、20095月から始めた「家庭菜園」がおおいに役立つ。

 

 100区画ほどに区切って農家が貸し出している農園が近くにある。

一区画8畳間ほどの二区画を、わたしは開所したときから借り、春野菜・夏野菜・秋野菜の出来を楽しんでいるのだ。

園芸本に頼りきっての耕作だが、妻との二人暮らしなので、食い切れないほどの稔りに恵まれることがある。

なにしろいちどきにいっぺんに稔るるものだから、わが家だけでは手に余るのだ。

ゴーヤ・キュウリ・冬瓜・大根・白菜・玉ネギ・大葉など、ご近所にお裾分け・知人へ配り歩いて喜んでもらっている。

 

 わたしが菜園で心がけているのは、農薬を使わないこと、化成肥料もなるべく避けることである。

化成肥料は、ミミズを即死させる作用があるという。だから台所で出る残飯、米糠、畑で抜いた雑草・柿の木など庭の落ち葉などを混ぜ合わせ発酵させたものを堆肥として、鶏糞・牛糞など有機肥料を補助的に用いている。

畠の耕作者のなかには、網を振りかざして蝶々を追い回すおじさんがいる。

たしかに蝶々は青菜に卵を産みつけるだろう。しかしその被害はそんなにひどいものではない。葉っぱに所どころ穴が開く程度だ。

少しぐらい虫たちに食わせてもよいではないか、野菜作りで生業を立てているわけではないでしょう…というのがわたしの立場だ。

畠で土を掘り返していると、まん丸でコロコロした幼虫が出てくる。わたしも昔は鍬でひねりつぶしていた。

根切り虫かもしれないが、野菜を全滅させはしないだろう。うちの野菜で命を長らえるのなら、少しばかりの野菜が被害にあってもよいと思う。

 

  因みにこの秋の種まき・植え付けは次のものである。

91日、白菜をポットに種まき(発芽せず97日に畑地に直播き)。

914日、玉ネギをポットに種まき(発芽がまだらなので、ホームセンターで苗100本    注文。1025日植え付け)。

     この日ジャンボニンニクも植え付けた。

915日、大根の種まき。

919日、春菊・高菜の種まき(1029日、収穫を始める)。

105日、ほうれん草・水菜・小松菜・ルッコラの種まき。

1026日、絹さや・スナップエンドウの種まき。

 

 秋の日差しを受けて、手塩にかけた野菜が背を伸ばしていく。少しづつ摘み取り食卓にのせる楽しみで日に何回か畑に通う生活がつづいているのだ。

 

 

 

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ゲスト猫「リリー」がいなくなった

2020年09月15日 | Weblog

 

 819日を境にキジトラ雌猫の「リリー」を見かけない。

5時半が、わが家の起床時間だ。今日は来ているかと期待し縁側の障子を開ける。常であれば縁側に臥せていたり、ガラス戸を見上げて待っている。

それが突然いなくなったのだ。「どうしたのだろう」と立ち回りそうな所を探し回り、近隣の人にたずねても消息不明。

 

 リリーがわが家で食事するようになって7年余りになる。

一歳に満たない小柄なキジトラ猫が来たのには次のような事情がある。

「動物愛護センター」で雌の子猫二匹をもらい受けた。手のひらに乗る500gはどの娘猫だった。

少しづつ成長し数ヶ月したら、縁側のガラス戸ごしに家の中を伺う、ふくふくした雄の茶虎猫が来るようになった。家の娘猫たちに興味をもったのだろう。

鳴く声がかすれているので、かすれ声の歌手「森進一」の一字をもらい「シン」と名付けた。

しばらくすると「シン」が子猫を連れてきた。

縁側に子猫を上げ、自分はその下で「この家は安心だよ」とばかり見守る。子猫が食事を終えるとやおら縁側に上がり残りを食べはじめ、以後連れ立ってやって来るようになった。

子猫は目元がパッチリした美形で、「寅さん映画」に登場する「浅丘ルリ子」に因んで「リリー」と名付けたのが妻である。

 

「シン」も「リリー」もここまで大きくなぅたのには、どこかで食事を頂いていたにちがいない。

しかしもっぱらわが家に来るようになり、朝・昼下がり・夕に食事、縁側に置いた二組の「爪とぎ器」の上で終日過ごすこともあった。

 

 わたしと妻が週に数回バイトに出ていた時期があり、朝から夕方まで家を留守にする。暮れ方、家への路地を曲がると、「リリー」が一目散に駆け寄り出迎え、先導して家に向かう。

そして縁側に座りガラス戸が開くのを見上げて食事を待つ。

この出迎えが健気であり心が和む。

リリーの思い出は尽きないが、次の一件が記憶に残る。

 

 

 リリーが来はじめて半年ほど、3日程来ない日があった。「どうしたんだろうね」と妻と心配していたら、なんと子猫を4匹産んでいたのだ。

わが家の縁側の隅に寒さ除けの小屋が置いてある。そこに4匹の子猫を連れて来た。ここで安心して育てるといい…見守るからねと思っていたら、次の日にはどこかに連れて行ってしまった。

授乳期には母猫に育ててもらい、そのあと子猫を保護して里親を探そう。

3週間目に首を咥えて移動中のリリーを発見。足元にいた二匹を保護、ホームセンターでゲージを購入し養いはじめた。

あわせて「里親」探しをはじめたがこれが難航する。引き取り手がなかなか見つからない。

わが家で面倒を見るわけにはいかないのだ。なぜならわが家の二匹の娘猫は子猫が来てから二階へ上がって降りてこなくなった。

ときたま階段の下まで来て、部屋の様子をみ、子猫の気配を感じるとまた2階に避難する。

動物病院で手当てをしてもらい子猫は二匹とも男の子と分かる。ほどなく里親が見つかり2匹の兄弟猫を引き取ってもらった。

残る子猫は一匹だ(なぜか一匹は行方不明)。4週間目、移動中を発見。リリーの足元にいるので前と同じように簡単に捕まえられると思ったら、リリーと同じ速さで走り去る。

1週間前に2匹を保護した際には、2匹ともウロウロするだけだったのに、素早さをこの1週間で身につけたのだ。

 

 この子猫も食事に来るようになり、縁側に集うのは「シン」・「リリー」・「子猫」そしていつの間にか奥の家の飼い猫まで混ざり4匹となり、飼い猫2匹とあわせて6匹の食事の世話となった。

これ以上増えたら養いきれない。リリーがまた子を産むと困る。「里親」探しは難航するに決まっている。リリーを早く捕まえて避妊手術をしなくては……。

動物病院の「手術日」にあわせて予約し、リリーを捕まえる算段、なにしろリリーは警戒心が強く、身体を触らせない猫だ。

ホームセンターで捕虫網を購入し食事中のリリーにかぶせたが破られて失敗。次の手術日の予約をとり釣具屋でタモを購入したがそれも失敗した。

動物病院の手術日は月に一回だから、月日がどんどん過ぎる。「はやく避妊手術を」と焦りに焦る。

動物病院で「捕獲機」を借りて仕掛けたが成功しない。

 

 見かねた息子の朗が罠を手作りしてやって来てくれた。

第一回目は罠の隙間から逃げられた。朗はしばらく長野へ帰り、改良した罠を仕掛けたがリリーはかからず子猫を捕捉。病院へ連れて行ったら雄だったので去勢手術をしてわが家のゲージで養う。

すると親猫のリリーが窓越しにさかんに呼びかけ、子猫も鳴き交わす。

あまりに切実に鳴き交わすので情にほだされゲージを開ける。リリーと子猫は連れ立って跳んで行く様は嬉しさに溢れていた。子猫は雄だったので貰われていった兄弟猫2匹の後輩として三男坊「サン」と名付けた。

朗の罠の改良でようやくリリーを捉え手術ができたのは半年以上も経ってからだった。

 

 そのうち奥の家の猫が老衰死、「サン」も若くして死亡。

残ったのはシンとリリーだけになった。

相変わらず朝・昼・晩には必ず訪れ、シンは愛おし気にリリーの毛づくろいをして過ごすことも多かった。

こうした日がずぅーとつづくと思っていたのに、突然に行方知れずになってしまったのだ。

わたしたちの寂しい思いは強いけれど、シンの寂しさはいかばかりだろう。

ゲストが一人きりになった縁側には、寒さ除けの小屋と、爪とぎ器が2台日を浴びている。

 

 

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車のへたりで運転免許証返納かを迷う

2020年08月30日 | Weblog

 

 わたしはこの春、「高齢者講習」を受講、認知・実車検査を受け運転免許証の更新ができた。

81歳であるから次の更新時には84歳となる。

高齢者の運転に危惧の目が注がれ、「免許証返納」を勧める世の中である。これからの3年間、乗り続けるのが憚れる事態であるのは承知している。

だが、「個人差があるだろう」というのが、わたしの立場だ。

昨年8月まで6年間、「送迎」を中心に都内のディサービスに勤務、車の行きかう都内の主要道路・脇道・路地を縦横無尽に走り回ってきた。

職場だけでなく、居住地においても自動二輪車・軽自動車を毎日のように駆り、無事故・無違反「ゴールド免許」保持者なのだ。

だから人にはとやかく言ってもらいたくない。

 

 しかしそんな強気な気持ちがぐらつく事態がきた。

免許を更新して3ケ月が経った7月、20095月から11年間おせわになった「ダイハツ・ムーブ」が突然へたり込み、レッカー移動。

走行距離は14万キロを超えていたが、「エンジンの調子はよい」と修理工場のおじさんは太鼓判を押していた。.

だが修理のたんびに、「年式が古く部品がなかなかみつからない」とこぼしてもいた。

それもそのはずこの軽自動車は、友人の娘さんが10年近く乗り、走行距離95000㌔、「廃車にする」というのを貰い受けたものだ。

娘さんとわたしに仕えて、あわせて20年以上働いたことになる。

「修理すれば費用は莫大なものになる」と、通告され廃車にすることを決めた。

 

 これからは「車なしの生活にしよう」とふと思う。

近年、足腰の不調が強まった妻の通院などをどうするか。これはタクシーなどを使うしかないだろう。

修理屋にすすめられる「中古車」を買い、購入費・車検・保険料・修理代などを考えれば、月に数回のタクシー代のほうが安上がりにちがいない。

なにしろ次の免許更新まで3年しかなく、それ以降は「免許証返納」しかないな、と思っていたのだから、それを早めてしまおうか。

だが動力源がないと、不便なこともある。

週に数回、ボランティアに等しい「新聞配達」がある。

息子の朗が田を耕し収穫した「阿智米」のファンが多く、月に何回も10㌔・20㌔と運ぶのには、自転車では遠すぎる。

 

 そうだ運転免許証はバイクだけを残して返納しよう。警察のホームページをみるとそういう方法もあるようだ。

気持ちは「中古バイク」購入に固まる。

それでインターネットで調べはじめた。バイクといっても移動用だけではない。荷物も運ばなければならない。

そういう機種に的を絞って調べる。

新車だと40万ほどする。中古はどうかと見ると安くなってはいるが、べらぼうに安くはなっていない。

これだったら新車にした方がよかろう。

20年来世話になっている修理屋に連絡する。「バイクのカタログをもってお伺いする」と即答、「バイクだと奥さんを乗せて通院することもできない。いっそのこと軽の中古車を探した方がよいのでは……」とわが家の事情を知るおじさんが云う。

 

 それもそうだ、同程度で軽自動車が入るなら、それに越したことはない。

バイクはやめにして、軽の中古の出物を待つことにした。

何回か引き合いがあったが、落札値が合わず日にちが経つ。

とうとう「ムーブ」がエンコして2ヶ月を迎えようする8月29日、「スズキ・ワゴンアール」を迎え入れた。

14年前の車だそうだが「走行距離」13500㌔余り、車体も傷はなくきれいだ。

車には「シルバーマーク」が貼られていたというから、お年寄りが大事に乗っていたにちがいない。

 

 この車がいま庭に鎮座している。

眺めやりながら「免許証返納」は遠のいた。

3年経ったら「高齢者講習」を受けて、免許証更新に挑まねばと密かに思っているところである。

 

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はじめての手術

2020年07月28日 | Weblog

 幸いにしてわたしは、80歳になるまで大病とは縁遠かった。

それでも20代半ば、朝起きたら目が開けられないほど顔面がむくみ緊急入院、「治っても半人前しか動けなくなるおそれが」…医師の診断がくだり、2か月余ほぼ寝たきりで病院生活を過ごしたこともある。

安静を徹底し「亜急性腎炎」に留まり、なんの制約もない日常生活をおくれるようになった。

30代で交通事故での入院は二週間ほど。

大腸ポリープ切除の入院は40代で2回ほどあり、これは一泊ですんだ。

50代にはいってから、コルステロール値が高く薬を飲み始めた。

60代後半になってから、いわゆる「生活習慣病」といわれる病が確定、「病(やまい)持ち」となって、薬の数が増えていく。

そんなことはありながらも、元気に70代を経過したのである。

 

 昨年春、80歳になり7月末をもって介護職員としてお年寄りの面倒をみていた「デイサービス」を辞めた。

まだ働かなきゃ…市の「シルバー人材センター」の資料をみながら思案。

「年内は晴耕雨読の生活もよかろう、年が改まったら仕事を探そう」と日を送る。

毎年10月に市の「健康診査」を受けており、その結果「肺の精密検査を受けるよう」とのお達しがきた。

この通知は過去に2回ほどあり、精密検査の結果、「影はあるが、若年のころ軽い結核にかかり自然治癒したものだろう」とのことで大事には至らなかった。

しかし今回ばかりは、再度のレントゲン検査、ひきつづくCT検査・MRI検査へと進み、医師は「VIP検査」を指示、「肺がんは、脳などに転移しやすいので、最先端医療器具で検査する必要がある。この機器は市内の病院にはなく幕張まで行って受診せよ」。

やはり肺がんに罹ってしまったのか……。

思い当たる原因はタバコであり医師もそう言う。

わたしの吸い始めは28歳ごろだった。

わらび座での仕事が営業に変わり、「実行委員会」を立ち上げ公演を成立させるため、全国各地にとび、いろんな方々とお会いするようになり、「どうです一服」と勧められ、何気なしに一服・二服するうちに病みつきになったのだ。

わらび座を辞め、就職した会社ではタバコ吸いが大勢いて、それにまぎれて吸いつづけ、会社を定年で辞め2ほど経ってようやく禁煙できた。

この長い喫煙がガンを招いたにちがいない。

 

 年末・年始は検査に明け暮れ、すべてのデータが出そろったのであろう、「あなたは体力もあり手術に耐えられる」と1月中旬手術を勧められ同意。

「外科医として手術を決定しても、あなたの肺活量は弱く麻酔医が受けてくれない。気合を入れて肺活量検査を…」。

再度の肺活量検査にまわされ、何回も機器を相手に悪戦苦闘する羽目になった。長年のタバコがたたって、かっての長距離ランナーも形無しである。

なんとかクリアし、130日入院、26日手術と決まった。

 

 入院するや、理学療法士が訪れ「手術に備え腹式呼吸を会得しましょう」、訓練が始まる。

日に一回、リハビリ室に出向いて主には上半身を揉みほぐしてもらい・自転車こぎ・階段の上り下りなどでしごかれるのだ。かてて加えて、手術が決まった際に購入した、呼吸のリハビリ機器(親指大の球が3個並列に入った箱、そこへ空気を吹き入れ球を宙に浮かせる)での格闘もある。

 

 6日間身体を鍛え手術当日が来た。妻に見送られストレッチャーで手術室へ。

手術室は天井がバカ高く、ゴーと低い音が鳴り響いている。

「看護師の○○です」と声をかけストレッチャーを移動してくれる若い男性。この声掛けが頼もしく、気持ちがフット安らいだ。

「麻酔に入ります」と聞いたように思った瞬間、意識がなくなる。

なんの覚えのないまま手術は済んだ。

わたしは「肺の手術」と告げられたとき、肋骨を何本か切って患部を切除するものと思い込んでいた。

しかし脇下に穴を穿いて患部を取り除く手術であったから、負担はごく軽く済んだ。

 

 手術当夜は「集中治療室」で一泊。

翌日には部屋に戻され、再び理学療法士による訓練である。

術後7日目に退院。

退院に際しては、電車・バスに乗り継いで帰る気であった。なにしろわたしは「集中治療室」に泊まった日をのぞいて、毎日一万歩のウォーキングを院内で欠かさずやれていたのだ。

ウォーキング歴は10年以上になる。(それ以前は10キロ走のジョギングをやっていた)。

そんな自信があり自力で帰る気でいたが外はそぼ降る雨。なんとなく気怠く、友人に連絡し車で帰宅。

帰った日は、ずっと休まず続けていたウォーキングをカット。

翌日からウォーキングを始めてびっくり仰天した。

家の玄関を出て表通りまで20メートルほどなのに、息切れが激しく石垣に腰を下ろしてしばしの休息だ。

手術後、点滴瓶をぶら下げた器具を杖代わりに、病院内の廊下を毎日一万歩歩いていたのに思いもかけない事態ではないか。

お医者さんは「つとめて体を動かせ」といっていた。その言葉を励みにまた歩き始める。2、30メートル歩くと息切れがして、他所のお宅の花壇の縁に腰掛け息継ぎ、用水路の金網にすがり一息、ゴミ置き場の容器に胸を預け呼吸を整えていたら、自転車で通りかかった女性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。

そんな状態で4日間ほどが過ぎ、以後はよろけることなく、目標を達成できるようになった。

 

 術後1ヶ月目の診察。レントゲンをみた医師は「順調に回復しています。わたしからの薬の処方はありません」。抗がん剤を飲まなくて済んだのだ。

次は2ヶ月先に来なさい…となり、つい先だっての診察では「3ヶ月先に」となった。

医学の進歩のおかげで、大腸ポリープをガン化する前に切除でき、肺がんも早期発見・みごとなメスさばき患部を摘出、大事に至らずすみありがたいことだ。

 

 80歳の終わり際に手術がすんで、2ヶ月ほどで81歳になった。

一日の初めは五時半に起きる。内猫二匹、外猫二匹の食事の世話。それがすんだらわたしたちの朝食の支度でいっとき忙しい。

朝食後は新聞をゆっくり読み、ゴミ出しに出る。ゴミを置いてから20分ほど歩く。それで3,000歩ほどかせぎ家に帰る。

庭木の剪定をふくめ家の内外の片づけ、そして郵便局などへ出かけ畑にも寄ると、午前中での歩数は5,000歩をこえる。

午後は畑の草抜きなどに精出し、買い物に行く。なんとか5,000歩になる。

あわせて一日10,000歩をキープする生活で案外忙しく日を送っており、「シルバー人材センター」への申し込みはしていない。

仕事を辞めて1年を経過する。

やり繰りすれば身過ぎ世過ぎはなんとかできそうで、猫4匹の扶養家族をかかえる今の生活は、変化なくつづけていけるだろうとの見込みである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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創造者の自粛生活

2020年06月29日 | Weblog

 2020年が半ばを過ぎた。

庭のアジサイが色づき、梅の木の葉陰に青い実が見える。

家庭菜園ではトウモロコシが穂を出し、カボチャが蔓を伸ばし実が大きくなってきた。

例年より4日ほど遅いようだが、「関東甲信越地方が梅雨入りした」と、611日に発表された。

すこしのずれがあっても季節は移り、草花は時期を違えることなく咲きそして実をつけていく。

 

 人の営みも季節に順応し移り変わるのだが、今年はだいぶようすがちがった。

わが家は小学・中学校の通学路に面している。

朝夕はランドセルを背負う小学生、制服やスポーツ着姿の中学生でいっとき賑わうのだが、その賑わいが途絶えて久しかった。

新型コロナウィルス蔓延以前は、「下校時の中学生は横に広がってしゃべくり、交通の妨げになっている」…「学校に申し入れ注意してもらうか」、町会の役員会で話題になったりしていたものだ。

下校時間はほんのひと時のことである、なにもそこまで言うことはあるまい…とそれは沙汰止みになった。

放課後の解放感からか、下校の道行を仲間同士で大いに語り、分かれ道で「また、あした」と手を振り合う若ものたちは、野放図に明かるく活気あるものだ。

 

 わたしの散歩コースに側溝を隔て小学校の校庭がある。校庭はいつも賑やかで跳ねまわるこどもたちの歓声であふれていた。しかしこの3ヶ月ほど、無人の校庭・校舎にチャイムがうつろに鳴りひびくばかり。

校庭をめぐり咲き誇る桜も、そのあと芽吹いたイチョウの葉が日差しにきらめくようになっても、その下に歓声はなかった。

 

 この3ケ月ほど、子どもや若ものの姿は路上になく、朝夕の賑わいが失わわれていたが、ここにきてようやく登下校が始まった。

ただこの登下校もかっての賑わいはない。

なんとなれば、気密回避のためか、「午前の部」と「午後の部」などに分散しているらしいのだ。

だから登校も下校も三々五々マスク姿で、かってのような若さの勢いは感じられない。

しかし子たちや若ものがいっときでも道路を横切り、校庭でも歓声が響くようになり、町が生き返ったように感じる。

 

 少しばかり通常の生活が戻ってきたのかなぁ…、このまま順調にとねがうばかりだ。

年金暮らしのわたしたちには、「不要・不急の外出を控えよ」と、繰り返し言われなくても外出の機会は多くない。

しかしわたしがスタッフをつとめる、「知的障害者の余暇支援」の団体が、活動資金稼ぎのため月に一度やっている「フリーマーケット」・「歌声喫茶」も中止になり、会員になっている「松戸演劇鑑賞会」の例会は4例会、6月例会が中止になった。

わずかばかりの外出の機会はほとんどなくなってしまっている。

 

 全国のホール・劇場・寄席・ライブハウスなどが閉鎖され、営々と訓練を重ねている劇団員・音楽家・表現者の出番が閉ざされてしまった。

わたしは高校を卒業し新劇団に入り、以後秋田県に本部を置く「わらび座」に40代半ばまで在籍した。

それ以後、息子・朗が主宰する芸能ユニット「和力」の松戸事務局として、いまでも活動している。

60年余にわたる文化・創造に関係する中で、今回のような窮状は初めてだ。

 

 わたしは曲がりなりにも、年金でなんとか暮らしている。

しかし発表の場を失われた創造・表現者の生活はどうなっているのか。

身近な加藤木朗の動向を探ってみた。

加藤木朗は、2月中旬から二週間にわたり、信州昼神温泉卿のホールで「和来座」を昨年に引きつづいてプロデュース上演をした。

コロナ渦が深化して「後半になるほど客足が減った」そうだ。

3月にゲスト出演が予定されていた飯田市での「立川志の輔独演会」が5月へ延期、さらに11月に延期された。

6月に決まっていた学校公演、自治体主催の「音楽祭」も秋に移った。

3月・4月・5月・6月とゲスト出演の企画は軒並み「中止」となる。

かてて加えて、「踊り教室」・「太鼓教室」などもずべて閉じられ、本業での収入は皆無になってしまったそうだ。

 

 この期間をどのように凌いでいたのか、朗主宰「地力塾」生のFBなどで知ることができた。

一つには舞台で使う道具の制作である。「権現舞」の面打ちであったり、小道具・衣装箱、稽古場の整理整頓のための棚づくりなど、次には、伝統芸能の母である「農作業」・「狩猟」にかなりの時間を費やしたようだ。

田んぼの畦を補強・トラクターでの土起こし、そして田植え、石ころの多い畑の拡張、「狩猟」ではイノシシや鹿を捕まえ、害獣駆除に一役買い、自治体から「駆除報奨金」を受け取り、少しばかりこずかいを稼いでもいたという。

 

 69日、朗よりのメール。「昨日より、名古屋での教室がひとつ始まりました」。

これから休止していた教室は復活していくだろう。近いうちには公演・ライブの再開も可能になるだろう。

ひとまずの山を乗り越えつつあることに、すこしばかり安堵し、一年の半ばが過ぎていく。

 

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