家電製品の故障

2022年04月28日 | Weblog

 

 朝起きてご飯をチンしようとしたが動かない。昨夜使ってなんでもなかったのにどうしたことだろう。

別のコンセントに差し込んだり、本体につながる電線の根元を引っ張ったり押し下げても、そして「奥の手」叩いてみても作動しない。かって旧式のテレビなどは「叩けば」なんとかなったものだ。

説明書を取り出し「故障だと思ったら」の項目をなぞっても原因となる項目がなく途方にくれる。

説明書の表紙には「購入日202011月」・「購入金額27,000円」と記入してあるから使い始めてこの4月で1年と4ヶ月しか経っていない。

 

 前につかっていた電子レンジは10年以上は使い込んだ。そのレンジが不具合になったので、妻と共に量販店へ行って選んだのがこのオーブンレンジなのだ。

今までの解凍・温めだけでなく、「オーブンで調理する」・「グリルで調理する」という文言に惹かれ、値がはるが目をつぶり購入した。

その時は「これを使えば調理の巾が広がり、うまいものが食えるだろう」とのつよい期待があった。

しかし「オーブン」も「グリル」も使うことなく、「解凍」と「温め」だけに使用は限定されていた。

いつかはオーブンやグリルで調理しようとは思っていたが、その機会はなかなか訪れることなく過ぎてしまったのだ。

わが家での食事担当はわたしである。料理に興味や関心がつよいかというとそうでもない。

なにしろ未だもってレシピ本なしに作れるのは「野菜炒め」と「肉じゃが」・「おでん」・「即席ラーメン」ぐらいなもので、手慣れた「カレーライス」なんかもいちいち説明書にたよる始末なのだ。

レシピ本なしに「肉じゃが」をつくれると云ったが、これも「醤油は大匙で何杯だったか、味醂は、砂糖はどうだったろう」と、レシピ本を引っ張り出すことが多々ある。

調理の素養がないのだろう。「この調味料とこの調味料を合わせるとこういう味になる」との想像が及ばないのだ。

そこにいくとわたしの母はうまい料理を食わせてくれた。大匙や小匙を使っている場面は見たこともない。それでも煮物・煮魚など抜群の旨さだった。

それを当然のように食い、「うまい」と労わず過ごしたことが、申し訳なく悔いが残る。

いつまで経っても「おふくろの味」に追いつけずにいる。

 

 

 高額のオーブンレンジを買ったが「宝の持ち腐れ」で、レンジ機能だけの使用に留まって、他の機能を使わないままに不具合になってしまった。

「ご相談センター」に電話し修理に来てもらうことにする。「1年の保証期間が過ぎているので、出張料は3,500円かかる」。「量販店の保証に入っていますか」。量販店で3,000円の保証料を払うと4年間は面倒を見てくれる。このオーブンレンジを買うまでは、店員が勧めるまま3,000円を支払い4年間の保証を受けていた。

電化製品は案外と長持ちして4年以上使っているので、今回は3,000円をケチったのである。

修理に来た技術者は、いろいろ試みた末「この部分に通電していない。これを交換すると15,000円になる。どうしますか」。

接触不良などの単純な不具合でなく、手がかかる故障だと判明した。名のある会社の製品なのに14ヶ月でぽしゃってしまい、保証期間がわずかに過ぎている。

悔しいが諦める他はないと断じて、出張料金3,500円・消費税を入れると4,000円に近い金を払ってお引き取り願った。

 

 ないと不便なのでさっそく量販店に出向く。

今度ばかりは高望みせずに「チン」機能だけのレンジを選んだ。9,000円をすこしこえる価格である。3,000円の追加保証金を費やすのは業腹なので今回もやらない。

 

 悔しく損をした気分で4月を送ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

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弥生3月のご馳走

2022年03月25日 | Weblog

 

 3月になっても寒さは厳しく、春はまだまだ先だと思っているうちに、庭の梅の蕾が膨らみ、10日を過ぎると満開になった。

ほどなくして近くに住む知人が、まだ蕾の堅い「菜の花」を届けてくれた。江戸川土手に群生しているのを摘み毎春持ってきてくれるのだ。

さっそくお湯をグラグラ沸き立てくぐらせると、春の野の青さが目にしみる。小分けにして10日間ほど味わった。

家から5分ほど歩くと江戸川に行き着く。堤防は土に覆われ分厚く高くいろんな草花が生い茂る。

つくし、たんぽぽ、そして菜の花が春の訪れを告げ、まもなくすると小さな鎌を携え「ノビル」や「ヨモギ」を摘む人たちが行き来しだす。

 

 わたしは気が向くとウォーキングコースとして堤防へ上る。遠くに東京スカイツリー、秩父の山並みやひょっとすると富士山が遠くに望めることもある。

春にはヒバリが高い空で甲高い声、初夏にはツバメが素早く飛び交う。広い河川敷では、野球・サッカー・ゲートボールで大賑わいだ。

江戸川の流れは光を照り返しゆったり流れ、堤防はウォーキングコースとしては最適なのである。

たまにしかウォーキングコースとしないのは、江戸川は全国に6河川しかない「スーパー堤防」であることにある。高さは10メートルを超え、階段を一直線に登ると息切れしてしまう。風がもろに吹きつけると進むに難儀する。

無風で日差しがゆるやかな日、ゆるやかなスロープ(車が昇り降りできる坂)をゆるゆる登れば息切れせず堤防の真上に着く。

ジョギングをする人はひきもきらずにいる。わたしもかって65才頃までこの堤防上を走っていたものだ。

母が飼っていた小型犬を連れ、堤防の中段に自転車をおきウォーミングアップを丹念にして川上に向かって走りはじめる。

堤防上はコンクリートで固められているから、足腰の保護のため草が茂る中段を走っていた。小型犬は後になり先になって共に走る。JR武蔵野線の鉄橋までは片道5㌔、往復して10㌔を走りぬけば汗びっしょりだ。整理体操をし犬を自転車のカゴに入れ家路につく。

思い起こせばその頃、自転車を押し堤防の急斜面を登っても、息切れなんかしていなかったように思う。

やはり「寄る年波には勝てず」、無理は利かなくなったものよ。

 

 堤防は軽快な自転車で疾走する人、ジョギング・ウォーキングそしてただなんとなく歩く人、そして先ほど触れたように、野草を刈る人などさまざまだ。

この時期に群生する「菜の花」は、堤防全面にあるのかと云えばそうでもない。あっちに一群がり、こっちにちょびっと、とまだら模様に芽を出している。多分「ノビル」も「ヨモギ」もそうなのだろう。

それらを摘んで春のご馳走としていただけるのがありがたい。

 

 春のご馳走と云えば「菜園」でも思いがけない贈り物がある。

冬枯れした畑地に取り残した「白菜」や「山東菜」、「小松菜」などが数株づつ残っていた。育ちそこないひねこびた株をそのままにしていたのだ。

3月の陽光を受け葉の間から茎が伸び花芽をつける。花が咲かないうちに摘み取って食べられるのだ。一つの株から次から次へと茎が伸びるので、葉物野菜を買わずにすむ。「春菊」も摘みのこしたものを寒さ除けカバーをかけておいたら生き残って、盛んに新芽を伸ばし始めた。

そんなこんなで春の陽光の贈り物が来月4月までつづきそうだ。

おまけに庭の甘夏の木には、100個ほどの実がたわわに稔り、それも食べごろとなった。近所にもお裾分けしたが、毎日食していても食い切れないほどだ。

 

 限りある年金生活のなか、大自然の恵みで豊かさを感じる3月を迎えている。

 

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術後2年……

2022年02月25日 | Weblog

 

 一昨年2月に肺ガンの摘出手術をうけた。

抗がん剤投与・放射線治療の必要はなく、経過観察だけに留まり、2ヶ月に一回だったのが、3ヶ月そして4ヶ月に一度となり、今年に入ってからは6ヶ月に一回となった。

年に一回、市の「健康診査」を欠かさず受けていたので、「早期発見」が幸いし命を長らえられたのである。

若いころは粋がって「医者嫌い」を標榜し、いま思えば鼻持ちならない青臭い時期があった。それが終生つづいていたなら、とっくに命を終えていたにちがいない。

 

 わたしが40代半ばに、妻が看護師に復帰し病院勤務についた。妻はわらび座に入る前、現役の看護師だった。わらび座では「医療部」に在籍したことはあったが、わらび座生活後半には、人手を多く要する「営業部」へ配属。

わらび座を辞した後「昔取った杵柄」の看護職に復帰したのである。

妻が勤務する病院が、わたしの職場に近接していたので、わたしは妻の勤める病院に通うようになった。

当時のわたしは、「コレストロール値」が高く、薬剤治療を受けていたので定期的に通院していたのだ。

その折節に「胃」や「腸」の検査を勧められ、「念のためやってみようか…」と、胃と大腸の検査を受けた。

父は胃ガンで61才の若さで他界していたし、わらび座に在籍しているわたしより若いTさんが、大腸ガンで亡くなったという便りもあり、「検査」に前向きになったのだ。

苦しい思いをしての胃カメラ検査、胃は異常なかったが、「大腸にポリープがある。ポリープを放置するとガン化する」との見立て、一日の入院、内視鏡でポリープを切除してもらったのは、40代後半であっただろうか。

ポリープが出来やすい体質らしく、その後も2年に一回ほどの「大腸ファイバー」・内視鏡検査で、小さなポリープを数回切除している。

思い立って検査しなかったら、多分「大腸ガン」で「人生50年」を終えていただろう。

 

 医療の進化のおかげで、大腸ガンは未然に防げたし、肺ガンは無事摘出してもらえた。

いずれも「早期発見」のたまものである。

だが寄る年波だ、妻と高齢の二人暮らし、いつなにが起こるか分からない危惧はある。

わたしは母親から引き継いだのであろう「糖尿」の気があるほか、いくつかの内臓疾患をかかえている。

妻はわたしほどに内臓疾患はないが、過去に数度大きな手術を受けており、その後遺症なのか腰や足の不調がある。

足腰の痛みで出歩くことは少ないが、掃除・洗濯に精を出し、洗濯物を二階のベランダへ運ぶのに、スムーズにとはいかないが階段の昇り降りに不自由はない。

一方わたしは足腰の痛みはなく、病が進行しないよう一日一万歩を歩いて運動療法を欠かさない。雨風雪が吹き募ろうがなんとかやっている。

今年の2月は平年の気温を上回っているそうだが真冬である。雪が降り北風が強い日がしばしばあった。

そんななかで休まず歩きつづけるには訳がある。

「きょうは雨」あるいは「風が吹く」などを理由にやめてしまうと、やめる口実をいつも思いつき継続できなくおそれがあるのだ。

わたしは「タバコをやめたい」と、何年にもわたってやめる挑戦をした経験がある。「この一箱を吸い切ったらやめる」。そして箱が空になる。仲間が煙を吐いているとついつい意地汚く「一本ゆずってちょうだい、これでやめるから」と貰いタバコを繰りかえす。

「みんなに迷惑をかける」との口実で、「最後の一箱だぞ」と買う。買った一箱の一本を吸って、「これで終わり」との強い決意で、残りを水浸しにしたのは幾たびか。そしてまた「こんどこそ一本だけ」との口実で、またまた一箱購入、一本吸って「これでおさらば」と水浸しの刑に処す。

何度も繰りかえすうち「勿体ないことだ。水浸しにしなくても、必要としている人はいるだろう」。これも世のため人のためと、駅のベンチや公園の椅子に置き去りにすることを思いつく。

置き去りにするタイミングはこれでなかなか難しい。目ざとい親切な人が「もしもし忘れものですよ」と、声掛けしないように気をつけ、気苦労が多いのだ。

苦労せず気やすく置き去り出来たのは電話ボックスである。

しかし家に帰ってしばらくたつと「あのタバコはどうなっただろう」。おめおめと電話ボックスに出かけ、公園のベンチを訪ねる。「あった、あった」と勇んで一服したことは数知れない。

なにしろ「これ一本」、「あと一本」でやめる・やめられるとの口実で自分を納得させての所業は何年も繰り返されたのである。

 

 だからはげしい寒さの季節、口実は「打ち出の小槌」を振るようにさまざまに思いつく自分である。

そんな己を知る身であるから、一回でも口実を考えついて「一万歩ウォーキング」を休んだら、「打ち出の小槌」が大活躍するのが目に見えているのだ。

2年前の2月、手術当日と翌日の2日間をのぞいては、「一万歩ウォーキング」はつづいており、そのおかげであろう、今年2月の市の健康診査での数値は、血糖値は高めであるが、他は正常値に収まっている。

 

 

 

 

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2022年を「コロナ」と共に迎える

2022年01月30日 | Weblog

 

 元旦は、週二回やっている新聞配達の日にあたり、早々と起き配達区域を一巡りするうち空が白んできた。

配り終え車を庭先に入れ、ふと仰ぐと南天のたわわな実が、新春の朝日をはじき返している。新年をよい天気のもとでむかえられた。

冷蔵庫を開け、生協が宅配した「おせち料理」を皿に盛りテーブルへ……いつもの朝食とは一味ちがう華やぎに彩られ、雑煮を添えての新年の宴がはじまる。

「数の子」や「栗きんとん」それに「ニシンの昆布巻き」などを味わい、「ことしも無事に過ごせるよう…」、年改まった朝に願う。

元旦のもう一つの楽しみは、束ねられて届いた年賀状を、一枚一枚はぐって目を通すことにある。

「明けましておめでとう」の一筆書きもあるが、ことしはやはり寅のデザインが多い。思い思いの意匠で新年を寿いでいる。

一枚めくる毎に、姿、人柄などを束の間だが思い起こしつつ次々にはぐっていく。

「賀状はこれを最後にします」との断りが数通、年々増えていくように思う。

 

 実はわたしたちも80才を越える折、「賀状をどうしよう…」と頭をしぼった。「年に一度のあいさつぐらいはしていこうよ」とつづけることにした。

ことしのわたしたちの賀状は、「誕生日を迎えると、照公83才・和枝82才となり、『共に白髪の生えるまで』の域に達しました。年を重ねても『悟り』に達するにはほど遠く、先ずは達者に過ごせています」との書き出しで90通余を差し出した。いっときは二人合わせて250通ほど出していたが、半分以下に減っている。

勤めを辞め儀礼的な賀状を止めたことが大きいのだが、しかしわたしたちが年を経るごとに相手も年を重ねるから、鬼籍に入る人も多くなる。

目の前に大きく聳えていた山が少しづつ崩れ、周りを見渡すといつの間にやら、わたしたちは「長老」の位置にいるのだ。

還暦・古希を過ぎるころまで、周りには人生の先達者が多く、「まだまだ若輩ものだから」と紛れているうちに、行く先々で最年長の座を占めるようになってしまった。

先達たちはまぶしくみえたものだが、わたしにはそんな光り輝くものはなく、平々凡々と暮らしている。

「世のため人のため」に微力をささげつつ、今年も身の丈に合った暮らしを送れるよう足腰を鍛えよう……。

 

 年金生活者の老齢夫婦の二人暮らしは、社会と途絶せずに過ごせていけているのはありがたいことだ。

だが社会的な繋がりを阻むのが、感染症の流行・拡大である。

妻が通う「ヨガの会」や「絵手紙教室」などはしばしば中止になる。わたしが関わる「知的障碍者の余暇支援」の会合や行事も欠けて久しい。

「不要不急の外出は控えよ」、「マスクをせよ」、「手をしっかり洗え」と云われつづけ2年にもなる。

202016日、「中国武漢で原因不明の肺炎が発生」との報道。またたく間に世界中に「新型コロナウィルス」が広がりはじめた。

2年経つ今年202216日、一日当たりの感染者が111人となり、「全国的に第6波に突入」と医師会長が警告。正月早々縁起でもない事態になる。

昨年20218月に「感染第5波」が到来、20日に25,992人が全国で感染した。ただこの山場を過ぎると8月末から減少に転じ1215日には174人になり、素人目では「やれやれ、もうじきマスクなしの生活に戻れる」と思っていた。

しかしウィルスが「オミクロン株」に置き換わったとの報道、またまた感染者が増えはじめ1231日には506人に、年を越し先ほど触れた16日に111人、翌7日には6,203人にまで急激に増えていく。

 

 わたしたちは勤めをリタイアしているから、医院の予約・食料品の買い物に出かけるくらいで「不要不急の外出」は控えることができる。

しかし出かけなければ仕事にならないのが世の大勢である。

息子の加藤木朗は、伝統芸能継承・表現者として世を渡っている。「三密を避ける」ということで、人が集まることが厳しく制限され、公演活動もままならないのがこの2年間であった。

1月中旬に関東・東北にかけてのツアーが組まれ、出動の準備でわが家に一泊した。急激な感染拡大により、ツアーの一部が中止・延期に追い込まれ、結局わが家で足止めになり連泊することになってしまった。

125日には、全国で65,579人の人が発病している。日々発病者が伸びつづけ「近いうちに10万人をこえるだろう」と専門家が云っているのだ。

おそれをなし苦渋した主催者が、ライブの中止・延期を選択する気持ちも分からなくはないが、事態の出口が見通せない。

わたしは80年余を生きてきて、2年にもわたる社会の閉塞をはじめて経験している。

かっての天然痘・コレラ・スペイン風邪などの流行は、こたびのように2年、3年と猛威をふるったのだろうか。

 

 3年目にはいった「コロナウィルス感染症」は世をさまざまに分断している。

この分断の世がなんとか収まるよう願う年の初めである。

 

 

 

 

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八十路を過ぎたが師走はやはり忙しい

2021年12月30日 | Weblog

 

 12月も残りわずかになった。

八十路を過ぎパート勤めもなくなり、「忘年会」・「クリスマス」などとは無縁、遠出することは少なくなった。

でも122日(木)、「和力×びかむ」の饗宴が、東京「内幸町ホール」で催されるので、電車に乗っての遠出を久しぶりにした。

JR新橋駅から徒歩5分とチラシにあり、スマホで検索し会場を目指す。スマホは「4分、3分、2分、1分」と目的地が順調に近づくことを示すが、「1分」のところを過ぎると「4分」になってしまう。それでまた「4321分」と辿りなおして、1分の所で周りを見渡すが、高いビルが立ち並ぶばかりで「内幸町ホール」は見当たらない。3度ほど無駄足を重ねる。妻は杖を片手にすこししんどくなったようだ。

道を尋ねようにもビルばかりで途方にくれる。ようやく路面に面し空いている店があり「内幸町ホールはどの辺りですか」と尋ねる。男の人は即座に「内幸町はもう少し先ですよ」と指さす。「内幸町ホールなのですが」と念を押しても「内幸町に行ったらあるでしょう」とのすげない返事だ。

仕方ないのでまた辿りなおして、1分の所でちよいと方角を変えると、おしゃれな衣装屋さんがあった。その店の女性の方はわざわざ表に出て、わたしのスマホを手に取り「確かにこの辺ですね」といろいろ操作して確かめる。「もう少し先にいったあたりの感じですよ」というので、礼を言って30メートルほど進む。すると立て看板があり「内幸町ホール」と矢印があるではないか。

道を尋ねた男の人にせよ、女の人にせよ、ほんの身近にある区の施設である「内幸町ホール」を知らないとは驚く。地元の人ではなく遠くから通っているのであろう。駅と店との行き来だけで近所に何があるかは不明なのだ。たぶん地元の人たちはビルの高い高い所に住まわっているに違いない。

 

 わたしは10代後半に新橋でバイトをしたことがある。

駅前のパチンコ屋でサクラ稼業だ。「大当たり台」に一日中座って球を弾くのだ。だが不器用なわたしは、「大当たり台」なのに弾いても弾いても球が溜まらない。球がなくなりそうになるとパチンコ台の裏で店員がザザーと補給してくれたものだ。その頃はパチンコ台の裏で、人が球を補給していた時代だった。

その頃の新橋駅の周辺は、パチンコ屋とか飲み屋が雑然と立ち並ぶ猥雑な街で、いまみたいに高いビルが立ち並ぶツンとした所ではなかった。…と昔を思い起こす。

 

 ようやく「内幸町ホール」の立て看板に出くわしたが、またしても所在が分からない。仕方なしに目の前のビルに入り警備のおじさんに尋ねる。「ホールはこの入り口を出たところのエスカレーターで降りまっすぐ行く」と案内されようやくに目的地に着くことができた。

会場はたっぷりした座席が200席ほどあろうか、わたしの弟の雅義、姪の桜子さん、「東葛合唱団はるかぜ」郷土部のみなさんの姿も…年末の忙しい中での参加、ありがたく遠くの席へ眼差しであいさつを交わす。

 

 チラシには、<和力>による神楽の舞・大道芸・祭囃子と、<ぴかむ>の琵琶・尺八・筝がコラポレートし、芸術性と大衆性を兼備した新しい表現を生み出します…とある。

客席の明かりが落ち、和力お馴染みの「コマの芸」が始まり、つづいて木村俊介さんの篠笛が嫋々と会場を包み込み、獅子舞・だんじり囃子など和力の十八番。スケジュールが合わなかったのか小野越郎さんの津軽三味線が欠けたのが残念である。

ユニットびかむ(B come)のみなさんの演奏には初めて触れた。

坂田美子さん(琵琶・歌・語り)

坂田梁山さん(尺八)

稲葉美和さん(箏)のお三方だ。

わたしはテレビで視聴したことはあるが、琵琶を生で拝聴するのは初めてである。張りのある声で「耳なし芳一」や樋口一葉の「十三夜」など数段を語る。琵琶を奏でながらの弾き語りは、登場する人物を彷彿とさせる。落語・浪曲・義太夫などをふくめ、日本の語り文化の豊かさを改めて知る。

琵琶の弾き語りで思い出したのは、わたしの父のことだ。

父は薩摩琵琶だか筑前琵琶の免許皆伝であったそうな。直接その芸に触れることはなかったが、「詩吟」を伝授されたことはある。

父は多芸の人で家の修理なども玄人はだしの腕前でやってのけたが、その器用さはわたしは受け継げれなかった。

 

 師走の月初めに心洗われるライブに出会い、いろんなことを思い起こせもし、「今年もなんとか無事に乗り切れた」とありがたく思う。

この遠出の後はいつもの月にない忙しさに追われることになる。

11月の中旬ごろから「今年も市田柿をお願いしたい」との問い合わせ・注文が入りはじめる。

かって「和力公演」の際に、物販で朗が在住する南信州特産の「市田柿」を扱った。朗の友人の生産農家からの供給で、味は抜群、数量も豊富でファンが増えて毎年、扱うようになったのだ。

12月初めから30を超える個人や団体へ、数量を確かめ集計、生産農家へ発注する。

生産農家から出来上がり時期を確認、受け渡し日時や場所を電話で調整するのは一仕事なのだ。

20日には届いたのでそれを車で配り歩く、指定された場所で落ち合うなどして終わったのは25日になっていた。

この師走の忙しさは例年通りなのである。

 

 

 この一年は、昨年に引きつづく「コロナ」にふりまわされた。幸いにも感染することなく、また「老々介護」にも立ち至らず、年を重ねられそうである。

 

 

 

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