病からの生還

2021年02月27日 | Weblog

 

 昨年2月に肺がんの切除手術を受け1年が経過した。

一年に一回受けている市の健康診査で引っかかっての「早期発見」だったから、術後は薬物投与も必要なく過ごせた。

1年が経過したので、念のためMRIで精密検査をする」との医師の指示で、2月初旬に受診、「異常なし」と診断が下され一安心している。

 

 手術後の経過観察は2ヶ月に一回から、3ヶ月に一回になっており、順調に回復しているのだと思いながら、ふと不安にかられてもいた。

病変部は取り除かれたにしても、それは一部分に過ぎないだろう。吸いつづけたタバコの害は、病変した部分だけにとどまるのだろうか。もっと広い範囲がタバコに衝撃をうけているのではないか……咳きこんだりした際に頭をよぎる。

なんとなれば、わたしは吸いはじめが27歳であったが、40年近くもの長い間吸いつづけてきたからだ。

 

 わたしは中学生のとき、タバコにむせたことがある。

小学6年から朝刊・夕刊の新聞配達をし、給食費など学費と小遣いをかせいでいた。当時新聞配達の担い手は「新聞少年」と称され中学生が中心であった。

新聞配達は大部分が少年たちであったが、新聞販売店には大学生が「奨学生」として住み込みで働いていた。

わたしたち中学生は、兄貴分の大学生とくつろいだ時間を持つこともあり、そんな折に「どうだ、吸ってみるか」とタバコを渡されたことがある。

数人いた中学生は、「ゴホン:ゴホン」しながら一本のタバコを回しのみした。わたしもひと口吸ったがたちまちむせてしまい、以後口にしたことはない。

一生涯タバコと縁をもつことはなかろう…高校を卒業、社会人になって周りにタバコをふかす人がいても、タバコには興味なく過ごし、20代後半になった。

 

 やがて転機がおとずれる。

26才になったとき、わらび座に在籍していたわたしは、営業部へ部署替えになり、全国を駆け巡って公演班を受け入れる土台作りに関わるようになった。

知らない土地に赴き、団体・個人に会い「実行委員会」を立ち上げる仕事である。

何回か会ううちに気やすくなった実行委員の方が、「どうです一服」とタバコをすすめてくれる。

ついつい「それでは…」と手を出すうちに、自分から求めて買うようになってしまったのだ。

座生活は経済的に厳しく、タバコを贖う金銭的余裕などありはしない。

でも出張中の食費は定額保証されていたから、それを削って購入するようになった。だから一本のタバコをギリギリまで吸い、タバコを切らしたら買い置きなどはない、吸い殻入れから少し長いものを探しだし、指に挟む余地がないので爪楊枝に刺して吸うようなことも多々あった。

あるタバコ吞みの先輩などは、吸いさしを消してそれをポケットに入れ、再び火をつけて吸うのが習慣だったが、ポッケの中でそれが燻ぶりだして大騒ぎになったこともある。

別の先輩はタバコを一箱買うお金がなく、小銭を握りしめてタバコ屋に赴き「一本売ってください」と頼み込んだが断られたとも云う。

そんなありさまだから意地汚く、吸い口ギリギリまで吸うのが常であったのだ。

 

 金はない、健康に悪いと知っていたから、年がら年中「禁煙」に取り組む。

「今度こそ禁煙だ」……決意し、我慢に我慢を重ねる。会議などで仲間が吸っているとついつい決心が揺らぎ、「悪いけど一本ちょうだい」と貰いタバコをする。

それがたび重なると、相手に迷惑をかけているとの自責の念にかられ、「一本10円で分けてくれないか」と懇願、決意した禁煙生活はつづかなかった。

 

 そんな繰り返しの果て、定年になり仕事から離れ、頼るべき仲間がいなくなった、65才の折に禁煙をようやく成就したのだ。

毒物が多くなる吸い口ギリギリまでの喫煙、口腔や食道そして肺に多大なダメージを与えたにちがいない。

「他の人は病気を背負うかもしれないが、俺は大丈夫」…手前勝手な安心感はみじんに砕かれ病を呼び込んだ。

医学の進歩によって、一命はとりとめてもらったが、自ら招いた「自業自得」の責めの罪科は消えることはない。

 

 これからもある不安をもちながら、生きながらえていくしかないのだろう。

 

 

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コロナ禍と創造者

2021年01月25日 | Weblog

 1年の頭がめぐってきた。

ことしの幕開けは例年と趣が相当にちがう。

コロナウィルスが猛威をふるい、外出をひかえるよう強く呼びかけられ、神社仏閣の初詣で、盛り場の賑わいがないようだ。

交通機関も終電を繰り上げ、道行く人は全員といっていいほど、マスクで顔の半分を覆っている。

高齢者・基礎疾患のある者が感染すると重症化すると云われているから、わたしたち夫婦も用心しなければならない。

幸い二人とも数年前にパート勤めを辞めたので、電車に乗ってぎゅんぎゅん押される心配がなくなっているのは幸いだ。

それぞれが所属するサークルなどの集まりも中止・延期となり家で過ごす時間が多くなっている。

 

 わたしは昨年の1月をどう過ごしただろう…手帳を開いてみた。

まだコロナ以前であったのでけっこう忙しく動いている。

元旦は町内の稲荷神社に詣で、江戸川土手で遠く富士山を望んだ。

2日・3日と来客がありすき焼きを具す。

5日を過ぎると日常の生活が戻り、週に3回早起きしての新聞配達、「知的障碍者の余暇支援」のボランティア活動・沖縄映画「洗骨」鑑賞などで月の半ばが過ぎる。

月の後半、20日M病院診察、22日M病院MRI、23日幕張A病院でVIP検査とつづく。

市の健康診査で前年10月「肺に影がある」との見立てで、精密検査が年明けに集中した。

この間、朗と二人のキャストが埼玉公演のためわが家に2泊。

24日は自動車教習所で免許更新のため「高齢者講習」を受講し合格、あと3年間は運転可能となる。

27日、妻同伴でM病院で肺がん手術の打ち合わせ、30日に入院した。(26日手術、13日退院)。

コロナ以前であったから、公私にわたりかなり慌ただしく過ごしていたことになる。

 

 それに比して今年の1月は、定例の会議は復活したものの、「歌声喫茶」や「フリーマーケット」など、人を集める催しはなくなっている。

内科・眼科・歯科医への予約で出かけるのが、スケジュールの主な流れになってしまった。

1月中頃には朗たちのライブが東京で予定されていた。

わが家に泊まってくれるかな…との期待がよぎる。

昨年もわが家に泊まり、新年のお祝い芸を諸所で披露した。

だが今年1月のライブは、「緊急事態」発出により4月に延期となった。

首都圏での公演のみか、地元での活動も制約を受け出番が激減している様子がHPの「スケジュール欄」でみてとれる。

大道具・小道具の制作・獅子頭などの面打ち、などに精を出しているようだが公演がない。

このような状態で生活が成り立つのであろうか…心配は募る。

朗からは「畑・田んぼ・狩猟など自給自足の足場があり、なんとかこの難局を乗り切っている。舞台から離れず、嚙り付いて頑張ります」とのメッセージを受けとった。

 

 わたしは高校卒業と同時に東京で演劇活動に入り、ひきつづき秋田に本拠を置く「わらび座」で45才まで在籍していた。

長らく創造団体に身を置いてきたが今回のような難局は初めて目にすることだ。

やむなく予定されていた公演が中止になった経験はただの1回しかない。

わらび座の公演班が「食中毒」にかかっての中止である。

よくは覚えていないが、1週間か2週間の療養で公演活動は再開された。

今回のコロナウィルスは、昨年の2月から表面化しほぼ1年にわたる流行だ。

この間、わたしの所属する「松戸演劇鑑賞会」では、例会が延期、延期はしたものの「緊急事態宣言」が発せられ、中止になることが重なる。

期待していた「前進座」・「こまつ座」などの鑑賞ができなくなったのだ。

わたしは一会員として「観れなくなって残念」との気持ちと同時に、稽古を積み上げてきた劇団の窮状を思いやる。

それと同時に創造者一人ひとりがどう生活を成り立たせていっているのだろうかを心配するのだ。

 

 劇団員・演奏家・芸人・声楽家・伝統芸能表現者などなど、出番が失われている。

長年かけて真摯に獲得した芸の行き場がない。

公的援助が薄い中で、これら努力の人たちが耐えていけるのだろうか。

耐えていってほしい。

日本の文化をなんとか継承していってもらいたい…と切に願う。

創造団体・創造者としてのOBである、わたし個人としての応援は限れれている。

せめて退会者が続出している「演劇鑑賞会」に踏みとどまり、すこしづつだが再開されている「映画会」や「ライブ」に参加しよう。

 

 こんなことで来月は「演劇鑑賞会例会」・「松元ヒロソロライブ」・「映画会」などに参加する計画を立てている。

 

  

 

 

 

 

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座友・平野樹一朗さん、松本美智枝さん逝く

2020年12月30日 | Weblog

 年の瀬を控えつぎつぎに「欠礼」の便りが届く。それも年毎にふえている気がする。

さもありなん、わたしは81才、わたしの身の回りの方々も着実に年令を重ねているのだ。

身内では、妻の甥が3月に51才で病没した。

わたしの妹・中條祥乃が4月に79才で旅立った。わたしと2才ちがいの妹とは、幼いころからの思い出がずっしり詰まっている。

自分のことはさておき人の面倒をみる、そして気っぷの良さ…東京下町っ子の気質に溢れた妹だった。

わたしが23年間、「わらび座」で過ごすことができたのは、この妹あってのことである。

 

 わたしがわらび座に入ったのが19634月、研修期間を経て公演班に所属した夏頃、父の病気が発覚。11月にその死がやってきた。

わたしは5人きょうだいの長男であり、妹・祥乃は結婚していたが、ほかの妹・弟3人はまだ学校に通う身であった。

わたしは長男としての責があり、家に帰るかどうかおおいに悩んだ。

その折「こっちは何とかするから、あんちゃんは目指すことをやったらいいよ」と、言ってくれたのが祥乃である。

その励ましでわたしはわらび座にひきつづき在籍できた。

わらび座で所帯を持ち「ともに白髪の生えるまで」の配偶者に恵まれ、子の朗も誕生した。

そして数多くの同輩・先輩・後輩の座友とも出会えたのだ。

妹の一言がなければ、わたしの人生は異なる展開をしたことだろう。

われわれきょうだいの大黒柱だった、妹・祥乃のことは稿を改めて触れることにしよう。

 

 23年間のわらび座生活で、「同じ釜の飯を食った」その仲間たちは、この10年ほどの間、少なからずの後輩・同輩、数多くの先輩が鬼籍に入ってしまった。

今年は平野樹一朗さんと松本美智枝さんの訃報を得た。

 

 平野樹一朗さん(通称ラノさん)は、わらび座営業部の重鎮であった。

わたしが初めて営業をしたのは、急性腎炎で舞台を降り入院生活を終わった病休明けである。

地元の「生保内公演」を、わたしが担当することになり、その折にラノさんが付きっ切りで面倒をみてくれた。

ラノさんは囲碁の名手である。そのせいか公演する日までの長いスパンの中で、「この時期にはこれをやり、当面はこれだ」と、全体の流れと局面の押さえを教えてくれる。

無理くり自分の経験と方法を押し付けるのではなく、こちらの考えを聞き出しながらの助言だから、安堵してわたしにとって初めての公演を無事やりとげることができた。

 

 わたしは舞台に復帰し、しばらくして営業部にうつり、直接ラノさんの薫陶を受けることになる。

わたしが営業部入りした時期、東日本を統括する「東京支局」と西日本を管轄する「大阪支局」が確立していた。

わたしは、大阪支局管内の奈良・和歌山・滋賀・岡山・鹿児島・宮崎などで、実行委員会を組織し公演班を迎えるため駆けまわった。

数年して「東北支局」が開設されラノさんが着任。わたしが大阪支局を引き継ぐことになる。

新米支局長のわたしを、東京・谷純一、東北・平野樹一朗の両先輩が大いに支えてくれ、ベテラン営業部員を配置、公演スケジュールの割り振りなども優先して、やりやすい環境をいつも心がけてくれたものだ。

以後ラノさんは総務部長として円滑な座運営の中心として活躍。

わらび座定年退職後、わたしの息子・朗が主宰する「和力」の秋田公演に力をそそいてくれもした。

「東京に用事がある。久しぶりに会おう」と、わが家に泊まって語り合ったのは、7年ほど前になるだろうか。それ以後は年賀状のやり取りだけであったので、近況はつかめず年を経た。

「欠礼」の便りで、享年85才、4月に永眠されたとの報に触れた。

 

 

 

 松本美智枝さん(通称コンちゃん)は、わらび座保育部の創設者である。

1960年代はわらび座の公演活動が全国展開、座員が急増した時期であった。

わたしは90何番目かの入座であったが、200人一時は300人を超える座員を擁するようになる。

公演で、営業で、長期に本部を留守にする座員のために、乳児・幼児・学童の子どもたちを24時間見守り、長期間預かる施設がつくられた。

「コンおばちゃん」と慕われ、定年までその責を全うしたのである。

定年後は巣立った「わらびっ子」の成長を楽しみに全国を駆け巡ったようだ。

わたしの息子・朗が主宰する「和力」公演にもしばしば訪れてくれた。

わたしと妻が久しぶりにコンちゃんと再会したのは15年ほど前、名古屋でのことである。和力公演が開催される会場に着くと、陽だまりに開場を待つ長い列ができていた。

わたしたちも列に並んでヒョイと前方をみると、コンちゃんがいるではないか。年末の寒い時期、不自由な片足をかばいながら遠く秋田からやって来てくれたのだ。

名古屋のみならず、松戸市公演や長野へも足を運び、わらびっ子だった朗と小野越郎の成長を楽しんでくれたようだ。

 それのみかわたしが、和力の田沢湖公演やわらび劇場公演などの際には、コンちゃん宅に泊めてもらうことが3度、4度とあった。

その折に、絶えて久しく会っていなかった、わらびっ子第二号だったSちゃんと同宿した。

「コンおぼちゃんの家の雪下ろしにきた」…盛岡から冬場には何度もやってくるそうだ。

 

 わらびっ子に慕われたコンちゃん、12月にその生涯を閉じたとの報に接する。

 

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早くなる日暮れ

2020年11月30日 | Weblog

 

 年の瀬を目前にして「今年も無事に乘りきれた」と、つくづく思う。

今年前半でわたしが81才、妻が80才になった。

妻は2年ほど前から「足腰の痛み」をかかえ、わたしはこの春、肺の手術をした。

そんなことはありながら、二人ともまずは健在で日常生活を送れている。

「ともに白髪の生えるまで」…寝たきりにもならず、生活できていることがありがたい。

 

 わたしは一昨年8月に、介護職のパートを辞めた。

年金が少ないので、パートを辞めたら市の「シルバー人材センター」に登録しよう…少しでも稼ぎたい。

資料を取り寄せ、実際に働いている友人・知人に聞いて回ったりもした。

「いま少しは充電期間」と、登録を先延ばしにしていたら、思いもかけず市の「健診」に引っかかり、手術の憂き目にあうことになってしまったのだ。

10年以上前ようやく「禁煙」を成し遂げたが、「遅かりし由良之助」で肺が喫煙でダメージを受け摘出手術をうけたのである。

幸いなことに他に転移がなく、抗がん剤服用も無用とのこと、年に一回の健診をまじめに受けていたればこそ「早期発見」ができたのだ。

経過観察も2ヶ月に一回が、3ヶ月に一回となったが、まだ「根治」ではないらしく来年春には、「悪さがないように、CT検査をします」といわれている。

 

 なかなか無罪放免とはならない。

「シルバー人材センター」は棚上げ、もっぱら「晴耕雨読」の生活を送っている。

わたしの一日の主な重点は、「ウォーキング」一万歩をやりきることだ。

午前中に5千歩以上、午後は残りをこなし、雨風・雪でも滞りなくやり遂げている。

以前はジョッキング10㌔を日課にしていたが、65才あたりからウォーキングに切り替えた。

勉強は好きではないが、身体を動かすことは大好きなのだ。

だからウォーキングは苦にならない。

いつも立ち寄る公園がある。

そこで一息入れ、公園で遊ぶ子どもたちをしばし眺めて過ごす。

「よい子のみなさん、おうちに帰る時間ですよ」。防災無線が呼びかける。

呼びかける時間は、夏の間は5時半だった。

秋口には5時になり、11月に入ってからは4時半だ。

遊んでいる子らは「よい子が住んでるよい町は……」のチャイムをきっかけに、自転車に打ち跨り、小さい子はおかぁさんに手を引かれ帰っていく。

「秋の日暮れはつるべおとし」とはよくいったものだ。だんだんと空の光が薄れて、外灯が灯りはじめる。

「あと2千歩歩かなくては…」と、わたしもやおら立ち上がり歩きはじめる。

 

 思えば 夏の間は、夕方7時ごろまで明るかった。

わたしがバイトに出かけていた頃、仕事が終わり家への最寄り駅で下車すると6時を過ぎる。

家まで2㌔ほどの道のりを日陰を探し辿りながら歩いた。

太陽が真上にあるから日陰はそんなにない。電信柱の細い影に身を隠し家路をいそいだことを思い出す。

日が長く暑さ激しい折には、わたしのもう一方の日課、畑しごとが大変だった。

100区画以上に区切られた畑地を2区画借りての作業だから、「畑しごと」と云うのもおこがましいが、それでも手がかかるのだ。

連作を避け、種まき・植えつけ時期も逃さないように気を張る、水やり・雑草抜きもこまめにやらなくてはならない。

ところが夏場は、日がな一日カンカン太陽が照りつける。

日陰のない広い畑地にはとても出ていられなかった。

 

 それが日暮れがはやくなった今の時期は、昼のうちも畑地に手がかけられる。

11月に入ってからは、白菜・小松菜・春菊・高菜・京菜・ルッコラなどの収穫期だから、夏場ほど鍬をふるうなどの仕事はない。

夕食の用意をして、思い立って5分ほどの畑地にいそぐ。

畑地の道路寄りは外灯に照らされているが、自分の畑に屈んで小松菜を抜こうとしても、手元は暗い。手探りで抜くのだ。

まだ5時ちょいと過ぎだというのにこのありさまである。

 

 車もライトを照らして走っている。

12月の「冬至」まで、まだ一日一日と暗さが早まり深まっていく。

道行く人たちはマスクで口元を覆い、表情が定かでない。突然あいさつされて戸惑うことがしばしばある。

わたしが散策する地域は、人と行き交うこと稀であるから、わたしはマスクをはずしている。

だから相手はすばやく認識できるのだろうが、マスクをしている人は見慣れた近所の人であっても見わけがつかない。

それであいさつが遅れるのだ。

 

 早いとこマスクなしの日常を取り戻したいと願う日々である。

 

 

 

 

 

 

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家庭菜園に精出す

2020年10月30日 | Weblog

(9月7日に種まきした白菜・山東菜が成長した。巻くかどうか心配だったが、これから巻き始めるだろう) 

 

 新型コロナの終息がなかなか見通せない。

わたしが関わる複数のグループの会議や行事が繰り延べになり、出歩くことや人に会うことが皆無になった期間は長かった。

10月になって「松戸演劇鑑賞会」が6ヶ月ぶりに例会を再開し、久方ぶりに劇場を訪れた。

「知的障碍者の余暇支援」サークルにボランティアスタッフとして参加している。

「スタッフ会議」は10月から定期開催になったが、月に一回やっていた「フリーマーケット」・「うたごえ喫茶」はまだ再開できずにいる。

会議・行事が減って余裕の時間が大巾にふえた。

家に閉じこもることのない日常をつづけるのに、20095月から始めた「家庭菜園」がおおいに役立つ。

 

 100区画ほどに区切って農家が貸し出している農園が近くにある。

一区画8畳間ほどの二区画を、わたしは開所したときから借り、春野菜・夏野菜・秋野菜の出来を楽しんでいるのだ。

園芸本に頼りきっての耕作だが、妻との二人暮らしなので、食い切れないほどの稔りに恵まれることがある。

なにしろいちどきにいっぺんに稔るるものだから、わが家だけでは手に余るのだ。

ゴーヤ・キュウリ・冬瓜・大根・白菜・玉ネギ・大葉など、ご近所にお裾分け・知人へ配り歩いて喜んでもらっている。

 

 わたしが菜園で心がけているのは、農薬を使わないこと、化成肥料もなるべく避けることである。

化成肥料は、ミミズを即死させる作用があるという。だから台所で出る残飯、米糠、畑で抜いた雑草・柿の木など庭の落ち葉などを混ぜ合わせ発酵させたものを堆肥として、鶏糞・牛糞など有機肥料を補助的に用いている。

畠の耕作者のなかには、網を振りかざして蝶々を追い回すおじさんがいる。

たしかに蝶々は青菜に卵を産みつけるだろう。しかしその被害はそんなにひどいものではない。葉っぱに所どころ穴が開く程度だ。

少しぐらい虫たちに食わせてもよいではないか、野菜作りで生業を立てているわけではないでしょう…というのがわたしの立場だ。

畠で土を掘り返していると、まん丸でコロコロした幼虫が出てくる。わたしも昔は鍬でひねりつぶしていた。

根切り虫かもしれないが、野菜を全滅させはしないだろう。うちの野菜で命を長らえるのなら、少しばかりの野菜が被害にあってもよいと思う。

 

  因みにこの秋の種まき・植え付けは次のものである。

91日、白菜をポットに種まき(発芽せず97日に畑地に直播き)。

914日、玉ネギをポットに種まき(発芽がまだらなので、ホームセンターで苗100本    注文。1025日植え付け)。

     この日ジャンボニンニクも植え付けた。

915日、大根の種まき。

919日、春菊・高菜の種まき(1029日、収穫を始める)。

105日、ほうれん草・水菜・小松菜・ルッコラの種まき。

1026日、絹さや・スナップエンドウの種まき。

 

 秋の日差しを受けて、手塩にかけた野菜が背を伸ばしていく。少しづつ摘み取り食卓にのせる楽しみで日に何回か畑に通う生活がつづいているのだ。

 

 

 

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