昨年2月に肺がんの切除手術を受け1年が経過した。
一年に一回受けている市の健康診査で引っかかっての「早期発見」だったから、術後は薬物投与も必要なく過ごせた。
「1年が経過したので、念のためMRIで精密検査をする」との医師の指示で、2月初旬に受診、「異常なし」と診断が下され一安心している。
手術後の経過観察は2ヶ月に一回から、3ヶ月に一回になっており、順調に回復しているのだと思いながら、ふと不安にかられてもいた。
病変部は取り除かれたにしても、それは一部分に過ぎないだろう。吸いつづけたタバコの害は、病変した部分だけにとどまるのだろうか。もっと広い範囲がタバコに衝撃をうけているのではないか……咳きこんだりした際に頭をよぎる。
なんとなれば、わたしは吸いはじめが27歳であったが、40年近くもの長い間吸いつづけてきたからだ。
わたしは中学生のとき、タバコにむせたことがある。
小学6年から朝刊・夕刊の新聞配達をし、給食費など学費と小遣いをかせいでいた。当時新聞配達の担い手は「新聞少年」と称され中学生が中心であった。
新聞配達は大部分が少年たちであったが、新聞販売店には大学生が「奨学生」として住み込みで働いていた。
わたしたち中学生は、兄貴分の大学生とくつろいだ時間を持つこともあり、そんな折に「どうだ、吸ってみるか」とタバコを渡されたことがある。
数人いた中学生は、「ゴホン:ゴホン」しながら一本のタバコを回しのみした。わたしもひと口吸ったがたちまちむせてしまい、以後口にしたことはない。
一生涯タバコと縁をもつことはなかろう…高校を卒業、社会人になって周りにタバコをふかす人がいても、タバコには興味なく過ごし、20代後半になった。
やがて転機がおとずれる。
26才になったとき、わらび座に在籍していたわたしは、営業部へ部署替えになり、全国を駆け巡って公演班を受け入れる土台作りに関わるようになった。
知らない土地に赴き、団体・個人に会い「実行委員会」を立ち上げる仕事である。
何回か会ううちに気やすくなった実行委員の方が、「どうです一服」とタバコをすすめてくれる。
ついつい「それでは…」と手を出すうちに、自分から求めて買うようになってしまったのだ。
座生活は経済的に厳しく、タバコを贖う金銭的余裕などありはしない。
でも出張中の食費は定額保証されていたから、それを削って購入するようになった。だから一本のタバコをギリギリまで吸い、タバコを切らしたら買い置きなどはない、吸い殻入れから少し長いものを探しだし、指に挟む余地がないので爪楊枝に刺して吸うようなことも多々あった。
あるタバコ吞みの先輩などは、吸いさしを消してそれをポケットに入れ、再び火をつけて吸うのが習慣だったが、ポッケの中でそれが燻ぶりだして大騒ぎになったこともある。
別の先輩はタバコを一箱買うお金がなく、小銭を握りしめてタバコ屋に赴き「一本売ってください」と頼み込んだが断られたとも云う。
そんなありさまだから意地汚く、吸い口ギリギリまで吸うのが常であったのだ。
金はない、健康に悪いと知っていたから、年がら年中「禁煙」に取り組む。
「今度こそ禁煙だ」……決意し、我慢に我慢を重ねる。会議などで仲間が吸っているとついつい決心が揺らぎ、「悪いけど一本ちょうだい」と貰いタバコをする。
それがたび重なると、相手に迷惑をかけているとの自責の念にかられ、「一本10円で分けてくれないか」と懇願、決意した禁煙生活はつづかなかった。
そんな繰り返しの果て、定年になり仕事から離れ、頼るべき仲間がいなくなった、65才の折に禁煙をようやく成就したのだ。
毒物が多くなる吸い口ギリギリまでの喫煙、口腔や食道そして肺に多大なダメージを与えたにちがいない。
「他の人は病気を背負うかもしれないが、俺は大丈夫」…手前勝手な安心感はみじんに砕かれ病を呼び込んだ。
医学の進歩によって、一命はとりとめてもらったが、自ら招いた「自業自得」の責めの罪科は消えることはない。
これからもある不安をもちながら、生きながらえていくしかないのだろう。