野の鳥・野の花

2018年03月28日 | Weblog


 朝晩は「寒い……」と感じることもあるが、お日さまの輝きがつよくなり、昼はあたたかく袖をめくって歩く季節になった。
ホームセンターへ行くと色とりどりの季節の花が、鉢やポットからはみ出るように咲き誇っている。
子連れのおかぁさんが幼子に「これはなぁんだ」と、チューリップを指さし幼子の答えを待つ。
幼子は「お花ぁ」と元気いっぱいこたえる。
おかぁさんは一瞬声が出ない。「そうねぇ、お花だね」……。
おかぁさんは「チューリップ」とこたえて欲しかったらしく、ちょいと当てが外れたふうなのだ。
わたしはこのやり取りを見て、わたしもこの幼児さんとそんなに変わらないのではないかとふと思った。
ホームセンターの花の棚には、チューリップの他にさまざまな花が春の日を浴びている。これらの花々の名をわたしはほとんど知らない。
付けられている名札をみると「ラベンダー」とか「ベチゥニア」などとある。舌を噛みそうでとても覚えられるものではない。
わたしも幼児と同じく「花」としか答えられないだろう。

 わが家の庭には梅の花が散ってヤマブキとボケが花開いている。
路傍にはスミレの他に白や紫の小さな花の群落が所どころ見うけるがこれらの名も知らない。
草花だけではなく鳥の名も不案内である。

 まだ寒さがきびしかった2月の初め頃だった。畑に白菜と大根が残ってその間に雑草が茂っている。
乾いた地面に屈んで草抜きをしていると、スズメよりすこし大きめな鳥がチィチィと囀りわたしの手元をとびまわる。わたしが立ちあがると畑に突き立てた棒の先に留まってチィチィとわたしを見ながら鳴く。
ウグイス色を身にまとう可愛らしい小鳥である。
わたしは「地べたの中の虫を食べたいのだろう」と、帰り際、鍬で畑地をすこし掘り起こして帰った。
次に行った時にもその小鳥がやってきた。100区画ほどの貸農園は寒さのせいか人の姿はない。
わたしは屈んで草を抜きはじめた。ウグイス色の小鳥がわたしの手元をチョンチョン跳びはねて離れない。
草を抜くとどこに隠れていたか、ちいさな黒クモが素早く走り去る。白菜を抜いて台所で洗うとこの黒クモによく出くわす。
家では「猫にみつかるなょ」と、黒クモをスプーンに誘いこんで庭に逃がすのがいつものパターンである。
その黒クモが乾いた地面を素早く移動する。すると件の小鳥がヒョイと黒クモを啄むではないか。その速さったらない。
草を抜きつづける。黒クモが走り出る。小鳥はそれを見逃さず啄む。それをわたしは目撃した。
わたしはその色からしてこの小鳥は「ウグイス」であろうと思い込んだ。

 家に帰ってインターネットで調べると、わたしの予測はおおきく外れ「メジロ」だった。
「ウグイスは警戒心が強く人目につきにくい。メジロは人慣れしており子育て中は昆虫類を捕食する」、「目の周りが白いのでメジロと呼ばれる」とある。
インターネットの写真をみるとまさに畑で出会った小鳥であった。
新たに身元が知れ、つぎに出会うのを楽しみにカメラを持っていったが、暖かくなり花々が咲き始め「花蜜」を存分に吸えるせいか、再び出会えてはいない。



 わたしは路傍の花々の名も、小鳥の名前にも疎い。
鳥をみれば「鳥」、花をみても「花」と、総体でしか呼べないで年を重ねてきた無粋の者だが、また来年、畑をやる体力が残っていたならば、あのメジロにぜひ会いたいものだと願っている。

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柳家さん若が真打ちに昇進2 -1声、2振り、3男-

2018年02月23日 | Weblog
 加藤木雅義が「柳家さん若が真打ちに昇進」第二弾を寄稿してくれました。第一弾とともにご愛読ください。




古来より、歌舞伎役者が大成する要素に、1「声」、2「振り」、3「男」という言葉がある。
3の「男」というのは容姿、顔のことらしい。「顔」と直接的に言わず「男」と置く、そういう言葉の選び方に江戸っ子の繊細さを感じる。この序列によれば売れっ子になるには声が顔立ちより上位になるようだ。書物によれば口跡の良さ、ともある。
この格言にそって柳家さん若の今後を占ってみたい。

さん若には持って生まれた声の良さがある。これが高座に接したときの第一印象だ。彼のする噺は声の響きが心地いい。
かつてわらび座の営業職にいた私の兄に聞くと、お母様が座で歌手をされていたのだという。
その子がこれを受け継いだ。

私的なことで申し訳ないが、私にはどうしても忘れられない落語がある。幼いときにその噺を聞いて惚れこんだ。ただ、そのタイトルが何だと聞かれてもわからないし、演じた噺家の名前も知らないのだ。あまりに雲をつかむような話で申し訳ない。
確か戦前から戦後の歌謡史を題材にして、それをおもしろおかしく高座にかけた。それだけは鮮明におぼえている。
戦前の音楽がどうだったのか、そして戦中の日本が元気だった頃の軍隊歌謡はこうだったと、誰も知らないような歌を高座で自身が唄ってみせるのだ。それが実にみごとで聞き惚れるほどの美声だった。私は噺の中に出てくる高木東六作曲の「空の神兵」の歌詞を探し出し、それをそらで唄えるように練習したくらいだった。
歌がテーマだけに噺の最後は、60年代の大学生が流行のジャズで腰をくねらせる様子をみせる。その時代の最先端の音楽だ。一方、その親は息子を大学にやってしまって機械式の脱穀機が買えないでいる。それで昔ながらの足踏み脱穀機で息子と同じように腰をくねらせている、というオチだった。
1970年代、どうやらその噺家は売れっ子らしかったのだが、ある時を境にラジオ、テレビから突然、姿を消したのだ。だからよけいに私の心に残る。あれは誰だったのだろう? そしてどこに行ってしまったのか? と。
私の乏しい記憶では「さん」がつく名前だということだけが残っている。つまり「○○亭(?)さん○」という名前だったのは、かろうじておぼえていた。
だから、さん若が柳家さん喬師匠に弟子入りしたと聞いたときは、私は小躍りして喜んだものだった。高座名に「さん」がついている。もしかすると私が探し求めていた噺家は、さん若の師匠なのかもしれないと思ったのだ。
それからパソコンでさん喬師匠の演目を調べた。しかし、戦中戦後の歌謡史を扱った噺をやった形跡がない。私の思い違いだった。
ところが、去年(17年)の暮れにYouTubeを見ていたら偶然にも発見したのだ。私が40年近く探し求めていた噺家は、「三遊亭さん生」師で今は川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)師と名前をかえていたのである。噺のタイトルは「ガーコン」だったこともわかった。
ウィキペディアで検索すると前の演題名は「世は歌につれ」とある。そうだ、たしかにこれだ。それが今では「ガーコン」とタイトルが変わっていた。しかも高座名も違っているのだから、私が見つけ出せないはずだ。
オチが田舎に残った父親が足踏み機で「ガーコン、ガーコン」と脱穀していたので、そちらの名前にしてしまったようなのだ。きわめていい加減だと思う。
今では足踏み脱穀機など知ることもないが、日本が高度成長期になる前まではこれが農家の一般的なものだった。
私はこの発見に嬉しくなり、今年の正月は、YouTubeでこの「ガーコン」だけをくり返しみた。
なぜ、そんなにさん生師と「ガ-コン」にこだわったのか。それはさん生(川柳川柳)師の声に惚れたからである。40年ぶりに見る師匠は頭も白髪になり今年85歳になるという。よけいなことだが、このままで行けば「ガーコン」という名作が誰も受け継ぐ者がなく消え去ってしまう、という心配が私の脳裏によぎるようになった。
そこで名案が浮かんだ。「さん」つながりで、さん若に「ガーコン」を継いでもらえたら良いのにと、私は秘かに願うようになったのだ。さん生師の美声に肩を並べることが出来るのは、私の少ない見聞では、柳家さん若しかあり得ないと思っている。

今年(18年)に入って私は有楽町のマリオンに落語を聞きに行った。さん若が出演すると聞いたからである。マリオンといえば昔の日劇の跡地に出来た建物だ。そんなメジャーな場所での高座が、真打ち昇進直前のご褒美としてさん若に用意されたのかもしれない。柳家一門の大師匠3人が出演する中で、さん若がかけたのは「棒鱈(ぼうだら)」という滑稽噺だった。ここでも、さん若は地方の下級武士を演じて良い喉を聞かせる。あらすじは省くが、きっとこの噺はさん若の代表作になると思わせるほどの受け方だったことを、お知らせしたい。
私が声で惚れた噺家は、三遊亭さん生師、柳家さん若のふたりを置いて他にない。

さん若は噺家としての第一関門である「声」は合格として良いかもしれない。

さて、2の「振り」はどうか、である。これは演技力のことを言っているのだと思う。
神田神保町の落語カフェというところで、さん若は3ヶ月に一度くらいの割合で独演会を開いている。お客さまが30人も入れば満員になる小さな会場だ。神田神保町という会場が良い。落語でくり広げられる江戸下町のメッカである。この会が彼の新ネタを披露する機会になるのだという。以前、私は足繁く通ったことがある。
小さな前座噺をやり、中くらいの噺をして休憩に入る。そして最後に大ネタをかける。その間、2時間。大きなホールで名人がやる独演会そのままのプログラムだった。
中で強く印象に残ったのは「お菊の皿」だった。

神保町の独演会場を出て靖国通りを少し歩くと九段坂にぶつかる。5分ほどの距離だ。坂下から見上げれば靖国神社の鳥居がそびえている。左手に千鳥ヶ淵をのぞみながら坂をあがり靖国に至ると、社の真向かいに番町という地域が広がっている。昔の大名屋敷が建ち並んだ場所だ。番町の東側には江戸城が鎮座し、至近に半蔵門がある。大名が登城するには好立地だ。
お菊は番町にある屋敷のお女中だった。殿様が大切にしている皿を割ったために責められて屋敷の井戸に飛び込んで自害したといういわれがあった。そのお菊が夜ふけになると、皿の枚数を数えながら井戸から姿を現すというのが「番町皿屋敷」の物語だ。
噂を聞いた神田の職人が真夜中にお菊を見に行く。やがてそれが江戸の評判を呼び、見物客が押し寄せてしまうという噺だった。おどろおどろしく井戸から姿を現すと、「よっ、待ってました、お菊ちゃん!」と大向こうから声がかかるようになる。
観客が増えていくことに困惑しながら、毎夜、井戸から姿を現すお菊。そのお菊の困った表情が秀逸なのだ。
さん若はわらびっ子として、生活の中で芝居や楽曲に囲まれて育った。それが今の演技力の財産になっているのかもしれない。
テレビがまだなかった時代、ラジオの名人寄席で育った私は、落語とは「聴く」ものだと思う傾向がある。だが、さん若の「お菊の皿」に接すると、落語とは「見る」ものだと考えを改めてしまう。彼は落語を「演じて」独特な力を発揮する。
後に「お菊の皿」が北トピア(北区)で大賞をとった。(2014年)

さん若がふたつ目のとき、最後に私が彼の高座を見たのは2年前のことだった。私の住む近所の商店街が毎年、落語フェアを開いており、加盟する飲食店に芸人を呼んで噺を聴かせる催しをする。さん若が出演したのは町会事務所の2階だった。
40席ほどのパイプ椅子がしつらえられた会場の隅に、私は腰を下ろした。
その日、さん若が演じたのは「八五郎出世」という噺だった。
大工の八五郎の妹(お鶴)が、ふとしたことからお殿様に見そめられお抱えになる。やがて子どもを宿した。お殿様に子がなかったので、お世取りをお産みになったとお屋敷は騒ぎになる。
兄の八五郎がお殿様に呼ばれお目通りとなるのが、ことのあらすじだ。
お菊の皿で触れたが、距離が近くても坂下の神田と、坂上のお屋敷町とでは九段坂をはさんで別の世界になる。
大家に呼ばれて、「お鶴がお世トリを産んだ」と聞かされると、八五郎は「お鶴が子を産んだって? あいつも変なやつだと思っていたがとうとうトリを産みやがったか」と勘違いをする。やがてお殿様の屋敷に行き、家老に案内されて大広間に通される。産まれて初めて見るその畳の広さに、裏長屋で育った八五郎は肝をつぶす。
お殿様が登場し、平伏する八五郎と家老。お殿様が「苦しゆうない、おもてをあげい」と言うのだが、八五郎は「おもて」が何のことだかわからない。「畳表? これだけの畳を上げるには、おいら、ひとりではどうにもならない。助っ人を呼んでこなくては」とつっぷしたまま考え込んでいる。
隣の家老に意味を知らされてようやく顔をあげる八五郎。その間、家老と殿様と珍妙なやりとりがあって笑わせる。ふと八五郎が真顔になって、「お殿様の横でにこにこ笑っているのは、お鶴ではないか」と気づく。「すこし見ないうちにそんなに立派になって」と、本当に妹を思う慈愛に満ちた兄の顔になって、さん若が向こうにいるお鶴に語りかけるのだ。今までの珍妙なやり取りから、妹を見出したときの表情の落差に感動して、会場の片隅で私は不意に涙ぐんでしまった。
今度の涙は、方言の使い方ではなく、さん若の演技力によってもたらされた。

噺が終わり、さん若が退場して客は次々と出口に向かう。会場にひとり残った私は椅子の片付けする若者に「今の噺家さん、とても良かった。感動して涙が出てしまった」と通りすがりのおじさんになって話しかけた。
手を止めた彼は「さん若さん、私もファンなンですよ。今、ふたつ目のトップを走っている芸人さんらしいですよ」と教えてくれたのだ。真打ちに一番近い噺家だと伝えたかったのだろう。
だが、さん若も最初から演技力があった訳ではない。彼がふたつ目になった直後の08年、もう10年前になるのだが、松戸の「蔵のギャラリー結花」で高座をつとめたことがあった。会を主催した私の兄に様子を聞いたところ、兄は「声を張り上げることに気を持って行かれて、まだまだ」と、高座の印象を語った。だからその頃はまだ、さん若はどちらに伸びるか誰にもわからない状態だったのかもしれない。いったい、何がきっかけでこんな味のある噺家になったのだろうか。滑稽を演し物にして、人を泣かすなどは並大抵の力ではない。

役者が大成する3つの要素に戻ってみたい。
2「振り」。
さん若には演技者としての才能がある。だから「振り」は良しとしたい。



さて、1「声」、2「振り」、3「男」のうち、最後の「男ぶり」についてである。顔の好みは人それぞれだから、これはむつかしい判断だ。
ただ、私はさん若の愛嬌のある気性と面立ちを好ましく思っていることはある。これは噺家としては大切な財産になる。
さん若が34歳で前座修行に入ったとき、周囲は18歳から20歳前後の年齢だったのだろう。つまり、さん若は同僚よりひと回りもふた回りも年上で、若い者の中におじさんがひとり紛れていたようなものだ。だが、さん若は年齢の垣根をこえて修行に明け暮れ、周囲から愛された、のだと思う。
彼の公式ブログに「ばっきゃの会」というのがある。「ばっきゃ」とは秋田県でふきのとうを指すらしい。それを覗くと折々に、さん若がつぶやく言葉に同業らしき人からのコメントが寄せられている。「さんちゃん」と呼ばれて愛されていことに気がつく。身近で接してわかるのだが、さん若はその人となりに嫌みがないのが周囲から親しまれる理由なのかもしれない。業界の周囲から愛されるということは、彼が充分「男前」であることを証明していると思わずにいられない。
口跡の良さと小気味良い語り口で落語ファンを魅了した古今亭志ん朝師は、入門5年目で異例の真打ち昇進を果たしたという。昇進披露の舞台で、後見人の大師匠は「明るく嫌みのない芸風」と志ん朝師を紹介している。
当人が聞いたらびっくりするかもしれないが、私は、さん若の高座と人となりにも「明るく嫌みのない」ものがあると感じている。

さて結論を出したい。
柳家さん若は、私の独断では1「声」、2「振り」、3「男」をすべて兼ね備えていることが理解することができた。この遅咲きの噺家がこの秋に真打ちとして飛び立とうとしている。
私はこれからの人生をかけても、柳家さん若の行く末を、この目で見届けたいと思っているのだった。

18年1月25日




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柳家さん若が真打ちに昇進1 -しじゅうさん-

2018年01月31日 | Weblog
 和力記録スタッフの加藤木雅義の寄稿です。12月にこのブログで掲出しましたが、補筆があるため掲出を一旦取り消しました。推敲を経たので再掲出をしました。今回は「さん若が真打ちに昇進1」です。ひきつづいて「昇進2」も近いうちに掲載いたします。


 さん若が真打ちになる。
落語協会が柳家さん若の今秋(2018年)における真打ち昇進を告知した。
さん若は和力の「花咲騒子(はなさかぞうし)」で加藤木朗とユニットを組んでいる相手でもある。生まれは秋田県で、加藤木朗と同じわらび座(現・芸術村)で育った。
朗の1歳年下だが落語家への道に進むと決めるにはずいぶん時間を要した。
そもそも噺家になるには高校を出てすぐとか、大学の落研を卒業してからということが多いようだ。芸は早いうちに習えというのがあるためだ。和力がお世話になっている立川志の輔師匠が、大学を出て社会人を経てからの入門だったことが話題になるほど、入門というのは早いものらしい。
その中で、さん若が柳家さん喬師匠の門を叩いたのが34歳という年齢だった。入門が34歳というのは、「ふきのとう」なら薹(とう)がたって食べることが出来ないくらいの年齢である。教える師匠もやりにくかっただろうし、教わる側の、さん若も苦労しただろう。
真打ちになるまで苦節15年である。今秋、さん若と同時に昇進する噺家はみな三十代だが、さん若は異例ともいえる49歳の真打ち誕生だった。

 和力の時系列に沿って、さん若の足跡をたどってみたい。
加藤木朗が芸人になるきっかけは家出にあったと、和力パンフレットのインタビューに記されている。当時、高校生だった朗は秋田のわらび座を出ると東京にある親戚の家業を手伝いながら卒業にこぎ着ける。19歳の卒業だった。そこまで来たときに「目標を失い家出をした」とパンフレットで語っている。
家出の先は横浜にある幼なじみのアパートだった。そこで1年を過ごした。
横浜沿線の街に住む、後のさん若が休みのたびにやってきては一緒に遊んでいたという。朗が20歳、さん若19歳の青春時代だった。
やがて朗は横浜を出て長崎の鬼太鼓座を見学に行き、そこで木村さんに出会い、そのあと長野県の田楽座に居を定めて芸の修行を始めるのである。その10年後に朗は座を出てフリーになっている。横浜で一緒に遊んださん若は、その時はまだ一般人だった。

01年 木村さんと和力を結成。朗33歳。さん若32歳。このときまださん若は落語家になっていない。
03年 さん若が柳家さん喬師匠に入門する。さん若34歳。
05年 和力に小野さんが合流。 和力が愛知万博出演。
07年 ふたつ目に昇進。さん若38歳。
という流れになる。

 ふたつ目になると和力で「花咲騒子」というユニットを組み加藤木朗と共演のライブが催された。
朗の出が終わり、舞台にしつらえられた高座に、さん若があがる。そのとき枕で、さん若は年齢のことをふった。前の舞台で鹿踊りを舞ったのは「幼なじみで」と語りはじめた。自分の頭髪が後退していることを自虐したのち、頭をなでながら「こう見えてもアタシの方が1歳年下で、今年、しじゅうさん(43歳)になるンですよ」と自己紹介したのだ。
私はスタッフとして後方でビデオカメラを回していたのだが、そのさん若の「しじゅうさん」という言葉にふれて不覚にも涙してしまったのである。
そんなに歳を取っていたのか? ということに泣いたのではない。「しじゅうさん」という言葉を遣ったことに涙が出たのだった。読者のみなさん、すいません。変なところで取り乱してしまって・・・。しかし、これには訳がある。

 さん若が選んだのは江戸落語である。
江戸の落語では職人の言葉や裏長屋の言い回しが飛び交う世界だ。そうした言葉は今、使われている標準語よりもっと特殊だと断言ができる。江戸における方言なのである。
実は、それを体現しているのが、この私だった。
私ごとで申し訳ないが、私は加藤木5人兄姉の末っ子として生まれた。私の長兄が加藤木朗の父親である。
育ったのは遊郭が隣接する裏長屋だった。落語に出てくる「郭噺」や「長屋噺」の世界にいたのだ。だから江戸落語の職人の口調のままで大きくなった。学校に入るとその「し」と「ひ」の使い方の混乱ぶりを級友に笑われた。それが長屋から社会に出た最初のショックだった。
「百円」を「しゃくえん」と発音してしまう。江戸っ子のままだ。周囲は、私の発音に対し想像をめぐらせて「百円」と言っているのだなと理解をしてくれたので、それは助かった。
校門の前でござを敷いたおじさんがペットとして「にわとりの雛」を売りに来たことがある。それを見た私は物珍しさに、「門の外でヒヨコを売っている」と教室にふれ回った。これには居合わせた級友の誰もが理解ができない。「いったい、何が売られているんだ?」と互いに顔を見合わせる。後でわかったことだが、奴らの耳には私の発する言葉が「しよこが売られている」と聞こえていたらしいのだった。これでは何のことだかわからない。
「ひよこ」や「雛(ひな)」の言い方の違いならまだ軽いほうだった。「し」と「ひ」が混ざり合っている単語はさらにひどいものになる。「朝日新聞」を「あさしひんぶん」と発音してしまう。周囲は「その方がもっと言いにくいだろうに」と笑うが、江戸の匂いが残る場所で育った私は、混乱するばかりだった。

「し」の使い方だけではない。数の発音も違った。
ある時、算数の時間で担任に答えを求められたことがある。答えは「48」だった。立ち上がった私はこれを「しじゅうはち」と答えた。それを聞いてクラスはどっと沸いた。なぜ笑われているのかわからず私がキョトンとしていると、気の毒に思った担任が「そういう時は『よんじゅうはち』と言ったほうが良いかもしれない」と助け船を出してくれた。
自分の言葉を使うと周囲から笑われるのだと、そのとき知った。

「70」にも苦い思い出がある。私は「ななじゅう」と読まずに「しちじゅう」と発音していたのである。周りの生徒たちは笑い、ソロバンの先生は「『ななじゅう』にした方が良いよ」と言った。
以来、私は人前で「しじゅう(40)」と「しちじゅう(70)」は二度と口に出すことはなかったのだ。
だが待てよ、と私は立ち止まる。
赤穂浪士はどうなっているのだ、と。あれは「赤穂47(しじゅうしち)士」と呼んで、決して「よんじゅうなな士」とはいわない。私の発音で良いのではないか。ただ一方では、播州人が江戸弁で「しじゅうしち(47)」と発音したとも思えないのも確かだ。
赤穂浪士の物語は江戸でのお芝居なので、だからああいう発音になったのかもしれないとも思う。

「今年、しじゅうさんになるンです」。
あの枕で、私の胸に封印していた遠い言葉を、さん若が呼び戻したのだ。
紹介したとおり、さん若は秋田で生まれ土地の言葉で青春時代を過ごした。その後、横浜に出て標準語をおぼえたのだろう。そして落語の世界に入って職人言葉を習った。落語家になるためには師匠から噺を聞いておぼえるだけでなく、江戸言葉という異国語もマスターしなければならなかった。若ければ順応も早いのだろうが、さん若の場合はどうだったのか。
噺を受け継ぐだけなら、師匠の教えをそのまま模写すれば間に合うかもしれない。しかし枕は世間話に近いものがある。世間話でさりげなく「しじゅう」と出てきたのは、職人言葉が板についている証しなのではないかと、私は驚いたのだ。見逃しがちだが、その前で自分を「アタシ」と表現している。
これほど自然に職人言葉が身につくようになるためには、年齢が行っての入門だっただけに生半可な努力ではなかっただろう。
そういう思いが一気に押しよせて、さん若の発した「しじゅうさん」という言葉に、思わず私は反応してしまったのだ。

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訪問猫「サン」を看取った

2017年12月27日 | Weblog

訪問猫サン(尻尾の先が曲がっている)

 訪問猫サンが旅立ったのは12月1日(金)、朝からうす曇りで肌寒い一日だった真夜中である。
サンが生まれたのは、2015年5月享年2才7ヶ月、あまりにも短い一生だった。
なぜ「サン」と名づけたかの由来はあとで触れるとして、誕生から旅立つまでを記してサンへの鎮魂歌とする。

 サンの母親は2015年1月にわが家を訪れるようになった幼い感じのキジトラ猫である。
小柄で目の大きい美形、妻は「映画『男はつらいよ』のリリー役の浅丘ルリコさんに似ている」とリリーと名づけた。
リリーは毎朝5時半にはやってきて、わが家の縁側に座り食事を待つ。
5月20日になって3日間、リリーが顔をみせない。
「新しい餌場ができたのかも知れない」と思ったが、さにあらずリリーは出産していたのだ。



 わが家の縁側に置いた「訪問猫シェルター」に、黒2匹、キジトラ2匹がモコモコとうごめいていた。リリーが出産場所から咥えてきて一晩過ごしたのだろう。
この場所で子育てすればいい…とわたしたちは願ったが、夕方にはどこかに引っ越していってしまった。
しばらくは母乳で育ててもらい、時期を見て保護しようとその機会を待つ。
誕生して5週目に黒子猫1匹、6週目に黒子猫1匹を保護できた。共にリリーが子猫の首をくわえ移動し一休みしているところで捕えた。
保護した黒猫2匹を動物病院に連れて行く。
2匹とも雄猫、「生育が悪い」との診断がくだり、ノミ駆除・目薬の処方を受け、大きめのケージを購入しわが家の1階で暮らしはじめた。
はじめの頃は、母猫リリーと子猫たちは鳴き交わし落ちつかなかったが、二日も経ったら子猫たちはお互いに追いかけっこをし、じゃれあい、部屋の中での生活に慣れていった。
夜間はケージに入れ、昼はケージから出して遊ばせていたが、驚いたことに家猫のサラとウリは二階へ行ったきりの生活になってしまった。
階段を降りてきて1階の様子をうかがい、部屋にはいることがない。相手は手のひらに乗るほどの小さな子猫なのにである。
これでは保護した子猫たちをわが家の一員として迎えるのは難しい、家猫サラとウリのストレスがたまってしまう。

 7週目、キジトラ子猫がリリーの足元でじゃれている。今までどおり静かに近づき手を伸ばしたが、母猫リリーより素早く塀の上を走り去る。1週間のあいだに「こんなにも敏捷になったのか」と舌を巻く。
もう1匹キジトラがいる筈なのだが姿がない。迷ってどこかへ行き誰かに保護されたのかも知れない。
黒子猫の里親探しにはげんだが、思っていたほど簡単に里親はみつからない。
3週間が過ぎ動物病院で「発達は順調になった」とのお墨付きをもらえ、ちょうどよいタイミングで知人が里親をみつけてくれた。

 里親探しがこんなにも大変であるとは思わなかった。リリーが次に出産したらまさかその子猫たちを保健所に持ち込むわけにはいかない。引き取り手がいなければ「殺処分」になってしまう。
リリーの避妊手術を急ごうと気は焦るが、他の訪問猫シン(雄)、ボス(隣家の雄)は、抱き上げても平気なのにリリーは身体を触らせないのだ。
動物病院で「捕獲器」を借りて仕掛けたら、リリーではなくキジトラ子猫がかかり病院へ行って「雄」だと分かった。
里親に引きとってもらった黒子猫たちが「雄」であったので、この雄のキジトラ子猫を「三男坊」として「サン」と名づけた。
動物病院で処置をうけケージにいれるが、大声で泣きさけぶ。その声に応じ母猫リリーもガラス戸から離れない。
翌朝もリリーとサンは鳴き交わす。「放してやろうか」、妻と相談してケージを開放する。リリーとサンはもつれ合うようにして走り去っていった。
翌朝からサンも食事時になると縁側に来るようになった。

 リリーの避妊手術をしようと6ヶ月をこえる捕物騒ぎをしたが、12月になってしまった。
FBでその苦労を知った朗が「苦労しているね」と力を貸してくれ、罠を作成しその罠でも2回ほど失敗し、1月12日にサンを保護、動物病院で去勢手術をうけた。
その際、サンは精密検査をやってもらい、全ての項目で「異常なし」の好成績であった。
2月にリリーを捕えてようやく避妊手術をうけることができたのだ。(この詳しいいきさつは「猫の取物騒ぎ」として2016年5月ブログに掲載している)。
 
 朝、いつもとおり5時30分に縁側の障子戸を開ける。これもいつものとおりであるが、訪問猫3匹が室内をむいて行儀よく並んでいる。
訪問猫たち、茶虎の雄「シン」とキジトラの雌「リリー」、リリーの息子「サン」は待ちかねたようにポリポリと食べはじめる。
暖かい季節にはこの他、お向かいの雄猫「ボス」が加わって4匹と賑やかなのだが、寒くなったらボスは家から出ないので、3匹がなかよく食事をしている。


シンは食事が終わり、リリーとサンが食事中

 夏ごろからわたしと妻はサンがきちんと食べるのか気にかけはじめていた。
他の猫たちは身体がふっくらと毛並み艶もよいのだが、サンがやせ細っているからだ。
サンに与えるカリカリ餌の皿は、ほぼ空になるほど食べているようにみえる。しかしやせ細ったままなのだ。
「サンにもっと栄養をつけよう」と、2ヶ月ほど前から「サン」にだけゼリー状の特別食を与えはじめた。
この食事は他の猫たちにも魅力あるものとみえて、「サン」にだけ…と与えていると、「シン」はどこからともなく跳んできて「サン」の皿に首を突っこむ。
1ヶ月ほど経って「毛並みはすこしよくなったみたい…」ですこし安心する。
サンは牛乳が大好きだった。毎日与えていたが新聞記事に「猫にとって牛乳は消化器系に負担がかかり与えるのはよくない」との記事に接した。以後、牛乳はやめたが、長年飲んでいた牛乳がよくなかったのだろうか。なかなか肥えないのだ。

 旅立った日の朝は、いつも通り食事をして、ゼリー状の袋を皿にかざして中身を引きだすと、待ちきれずつよい力で袋に噛みついてきた。
わたしたちは所用があり午後から出かけた。
夕方に帰宅すると、「猫シェルター」にサンがうずくまっている。寒くなってからはこのシェルターが訪問猫のねぐらになっている。
サンもここが好きで昼寝をよくしていた。妻がのぞき込みサンを抱きかかえてきた。
サンは訪問猫のだれよりも用心深く、触られることを嫌っていたのに、妻に抱かれてかすかな息をしているではないか。
あわててゼリー状の食事を口に運ぶ。食べない。ストローで水を飲ませるがかすかに飲んだ兆しはあるが「ゴックン」しない。
妻は2時間ほど抱っこして見守る。サンは目を開けて見つめているが身体は伸びきったままだ。
夜11時を過ぎ、段ボール箱に毛布を敷きつめ横たわらせる。いびきのような荒い息を吐いている。
翌朝、サンは息絶えていた。

 リリーといっしょに路地をかけまわり、日向ぼっこをし、自分の皿をみわけて食事をしていた姿がよみがえる。
人慣れはしなかったが、他の訪問猫からは可愛がられていた。
菊の花を敷きつめ庭に埋葬したが、たまたまであろうがリリーが遠くにいて、チラとではあるが目撃したので、サンにとっては寂しくない野辺の送りになったのではなかろうか。


リリーとサン親子
 



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機器にも心があるのか

2017年11月23日 | Weblog


 先のブログで「25年間連れ添った愛車・ホンダレブル」のことを記載した。
「フットブレーキが利かなくなって、修理屋に電話したら『年式が古いので部品がない』と云われた。いよいよレブルとお別れの日が来たのか」と記している。
修理屋さんの手が空いた日に来てもらい、「修理不能」ということになれば、廃車手続きに入る決心をした。
その決心をした日に雨降りの予報がでた。廃車にすると決めてはいるが愛車を雨ざらしにするわけにはいかない。
防水シートを掛け始めた。250ccとはいえ車体が大きいので手間がかかる。いつも3分とか4分の時間を要している。
尻の方から掛け、前輪方面にシートを伸ばしていたら「コトン」となにかが外れ、地べたに落ちた。
「なんだろう」と拾い上げる。バイクのネームプレートであった。「HONDA」と輝いている。
わたしが「廃車にするしかないか」と決心したその時、わが愛車が身を削ってお別れにこのネームプレートをわたしに贈ってくれたのではないか…。

 わたしは落語や芝居で、因縁話や怪談など面白くは聞くけれど、それをそのまま信じはしていない。
わたしが子どもの頃、まいにち定例の時間「紙芝居」のおじさんが自転車でやってきた。
肥担桶(こえたご)を満載した荷車をのんびり牛が曳き、自動車の往来はほとんどない時代だったから紙芝居は道路の辻でやられる。
拍子木を打ち、あるいは太鼓で紙芝居屋が来たこと知らせる。方々に散って遊んでいた子どもたちが、遊びを中断して集まってくる。
小遣い銭で「せんべい」や「水あめ」を買うのが観客としてのルールで、「黄金バット」や怪談「猫娘」などを紙芝居のおじさんが名調子で語る。
ドキドキハラハラ子どもたちは画面に見入る。主人公が「あっ危ない」画面や、化け猫が行灯(あんどん)の油をなめ、爪を立てて障子の向こうを窺う場面などで、「今日はここまで、つづきはあしたのお楽しみ」と、紙芝居のおじさんは自転車でつぎの場所に去っていく。
テレビがない時代だったから、子どもたちはおじさんが明日来るのを胸とどろかせて待っていたものだ。

 化け猫も幽霊も話としては面白く聞くけれど、しかし「そんなことありはしない」と幼い時から割り切ってきたわたしだが、「レブル」の事では「もしかしたら、分身として長年連れ添った機器にも『心』があるのかも知れない」などとプレートを手にして思うのだ。

 そして昨日、レブルを搬送して状況を点検した修理屋さんが、「○○を分解して修理の目途が立ちそうだ。費用はかなりかかるがどうしますが」と連絡があったので、わたしは「直してください」と即座にお願いした。

 レブルは○○(聞いたのだが思い出せない)を、分解という大手術を受けて蘇る見通しになった。
わたしの体力がつづくかぎり、軽やかなエンジン音で付き合ってもらえる。
お別れの標として、レブルが身を削って贈ってくれたプレートは、「大事に取っておくからね」と、いまは病室(修理屋)にいるレブルに遠くから語りかけている。



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