元旦は、週二回やっている新聞配達の日にあたり、早々と起き配達区域を一巡りするうち空が白んできた。
配り終え車を庭先に入れ、ふと仰ぐと南天のたわわな実が、新春の朝日をはじき返している。新年をよい天気のもとでむかえられた。
冷蔵庫を開け、生協が宅配した「おせち料理」を皿に盛りテーブルへ……いつもの朝食とは一味ちがう華やぎに彩られ、雑煮を添えての新年の宴がはじまる。
「数の子」や「栗きんとん」それに「ニシンの昆布巻き」などを味わい、「ことしも無事に過ごせるよう…」、年改まった朝に願う。
元旦のもう一つの楽しみは、束ねられて届いた年賀状を、一枚一枚はぐって目を通すことにある。
「明けましておめでとう」の一筆書きもあるが、ことしはやはり寅のデザインが多い。思い思いの意匠で新年を寿いでいる。
一枚めくる毎に、姿、人柄などを束の間だが思い起こしつつ次々にはぐっていく。
「賀状はこれを最後にします」との断りが数通、年々増えていくように思う。
実はわたしたちも80才を越える折、「賀状をどうしよう…」と頭をしぼった。「年に一度のあいさつぐらいはしていこうよ」とつづけることにした。
ことしのわたしたちの賀状は、「誕生日を迎えると、照公83才・和枝82才となり、『共に白髪の生えるまで』の域に達しました。年を重ねても『悟り』に達するにはほど遠く、先ずは達者に過ごせています」との書き出しで90通余を差し出した。いっときは二人合わせて250通ほど出していたが、半分以下に減っている。
勤めを辞め儀礼的な賀状を止めたことが大きいのだが、しかしわたしたちが年を経るごとに相手も年を重ねるから、鬼籍に入る人も多くなる。
目の前に大きく聳えていた山が少しづつ崩れ、周りを見渡すといつの間にやら、わたしたちは「長老」の位置にいるのだ。
還暦・古希を過ぎるころまで、周りには人生の先達者が多く、「まだまだ若輩ものだから」と紛れているうちに、行く先々で最年長の座を占めるようになってしまった。
先達たちはまぶしくみえたものだが、わたしにはそんな光り輝くものはなく、平々凡々と暮らしている。
「世のため人のため」に微力をささげつつ、今年も身の丈に合った暮らしを送れるよう足腰を鍛えよう……。
年金生活者の老齢夫婦の二人暮らしは、社会と途絶せずに過ごせていけているのはありがたいことだ。
だが社会的な繋がりを阻むのが、感染症の流行・拡大である。
妻が通う「ヨガの会」や「絵手紙教室」などはしばしば中止になる。わたしが関わる「知的障碍者の余暇支援」の会合や行事も欠けて久しい。
「不要不急の外出は控えよ」、「マスクをせよ」、「手をしっかり洗え」と云われつづけ2年にもなる。
2020年1月6日、「中国武漢で原因不明の肺炎が発生」との報道。またたく間に世界中に「新型コロナウィルス」が広がりはじめた。
2年経つ今年2022年1月6日、一日当たりの感染者が111人となり、「全国的に第6波に突入」と医師会長が警告。正月早々縁起でもない事態になる。
昨年2021年8月に「感染第5波」が到来、20日に25,992人が全国で感染した。ただこの山場を過ぎると8月末から減少に転じ12月15日には174人になり、素人目では「やれやれ、もうじきマスクなしの生活に戻れる」と思っていた。
しかしウィルスが「オミクロン株」に置き換わったとの報道、またまた感染者が増えはじめ12月31日には506人に、年を越し先ほど触れた1月6日に111人、翌7日には6,203人にまで急激に増えていく。
わたしたちは勤めをリタイアしているから、医院の予約・食料品の買い物に出かけるくらいで「不要不急の外出」は控えることができる。
しかし出かけなければ仕事にならないのが世の大勢である。
息子の加藤木朗は、伝統芸能継承・表現者として世を渡っている。「三密を避ける」ということで、人が集まることが厳しく制限され、公演活動もままならないのがこの2年間であった。
1月中旬に関東・東北にかけてのツアーが組まれ、出動の準備でわが家に一泊した。急激な感染拡大により、ツアーの一部が中止・延期に追い込まれ、結局わが家で足止めになり連泊することになってしまった。
1月25日には、全国で65,579人の人が発病している。日々発病者が伸びつづけ「近いうちに10万人をこえるだろう」と専門家が云っているのだ。
おそれをなし苦渋した主催者が、ライブの中止・延期を選択する気持ちも分からなくはないが、事態の出口が見通せない。
わたしは80年余を生きてきて、2年にもわたる社会の閉塞をはじめて経験している。
かっての天然痘・コレラ・スペイン風邪などの流行は、こたびのように2年、3年と猛威をふるったのだろうか。
3年目にはいった「コロナウィルス感染症」は世をさまざまに分断している。
この分断の世がなんとか収まるよう願う年の初めである。