4月28日(土)、孫の磊也(らいや)が「元服の儀」を執り行ったようだ。
長野県阿智村に園原という集落がある。園原には、源義経が奥州に下るとき、馬の手綱を結わえて休んだといわれる、樹齢800年の大きな桜の木があり「駒つなぎの桜」と呼ばれている。
…「長野県阿智村は、源義経を鞍馬から奥州に連れ出した、金(きん)の買付商人「吉次」の故郷。この桜は、義経が16才で奥州に下ったあと、京都の内情を探るため、奥州から京都に上る途中、「吉次」の故郷に立ち寄り、休憩のために馬をつなげた桜の木といわれている」(ねこちゅーさんのブログより)…。
この桜の袂(たもと)での「元服の儀」の写真が、神戸在住の「ねこちゅー」さんのホームページに公開された。
ねこちゅーさんは写真歴25年、30代の女性だとプロフィールにはある。「駒つなぎの桜」を撮影にきて、偶然に出くわしたという。
「鶏舞い」を奉納する磊也と朗が、あでやかな衣装をまとって舞う写真が数葉。水が張られただけの田は静まりかえっている。
幹の周囲が5メートル余、高さは30メートルを越える「駒つなぎの桜」は、8分咲きくらいだろうか。
桜・踊り手・太鼓で伴奏する慧(中1)が、色鮮やかに澄みきった田面に写る。まるで「合わせ鏡」のように…。
夢か幻のような映像は、一瞬、刻(とき)が止まったような静寂さをたたえている。
ねこちゅーさんは、次のように語る。
…「加藤木さんの息子さんの、一生に一度の元服(15才)の儀を偶然にも拝見させていただきました。まさに幽玄という文字がふさわしいものでした。素晴らしかったです。観ている間、義経がこの世に舞い戻ってきたのかと、錯覚してしまいました。
まるで、あの時代…短くもはかなく散っていってしまった義経を、守り愛し抜いた人たちが、桜の木に宿って優しく見守っているような、そんな気分を味わいました」…。
わたしと妻は4月20日から3日間、阿智村の朗一家のもとに行っていた。「元服の儀」は21日(土)に予定されていたようだ。21日は朝から雨が降り、延期になってしまって、わたしたちは参加できずに帰った。
ねこちゅーさんは、「テレビの放映はおわったのですか。こちらで見られないのが残念です」…。このコメントで想像すれば、「テレビ信州」(TSB)の取材陣の方たちも21日は棒に振ったけれど、無事にこの28日で収録できたのだろう。
TSB「テレビ信州」では、「レグルスの鼓動」と題して、月に1回、土曜日にドキュメンタリー番組を放映しているそうである。
「桜の下で~祝舞いが結ぶ親子の絆~」として、5月の分が、19日(土)10時30分から放映されたと聞いた。
長野県の番組は、わたしたちの地域でも受信できないのが残念であった。
思えばTSBの取材は数年にわたった。かなり長い期間の取材であった。
2005年4月、わたしは職場を辞めて「和力事務所」を開設した。事務所として受けた初めての電話が、4月末に行われる「阿智村はな桃まつり」に出演する、朗たち親子を撮影したいとの取材申しこみだった。
TSBディレクターのOさん(女性)からである。
わたしは長野から遠隔地にいるし、朗たちのスケジュールを細かくつかんでいるわけではない。朗に引き継いでもらうことにした。
TSBのOさんは、なぜ朗たちを知ったのであろうか。
2005年2月26日から8日間にわたって、「2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会」が長野で開催された。知的発達障害をもつ人たちのスポーツ大会だ。
文化イベントへの参加募集が新聞紙上にのり、「ボランティアとしての参加で報酬はなし」とのことである。
朗は「ノーギャラであれば、プロの応募はないだろう。だが世界各地から長野へやってくる方々のために、日本の文化の粋をみてもら必要がある」と思ったそうである。それで朗・木村俊介・磊也(当時小6)・慧(当時小4)で演目を組み、文化イベントへ出演したのである。
これをご覧になっていたのが、やはりボランティアで参加していたTSBディレクターのOさんであった。
この年(2005年)、阿智村「はな桃まつり」の取材を手始めに、7月に行われた「万博出演記念・阿智村壮行公演」・愛知万博「愛・地球博」での「日本伝統芸能18撰」への出演などに、TSBの大きなカメラが持ちこまれていた。
8月には、朗一家が初めての家族旅行をした。朗が生まれ育った秋田の「わらび座」での交歓会、青森での「鶏舞い」の取材などに、3人のTSBのスタッフが同行された。
磊也は中学1年生になっており、舞台では太鼓の演奏を主に受け持っていた。
昨年(2006年)10月に東京「武蔵野公会堂」公演では、磊也が「鶏舞い」を朗とデュエットで踊った。
磊也の「舞」での初舞台である。それを企画・運営できたわたしは、望外の喜びで舞台を観たのだった。
武蔵野公演のようすを名古屋のKさんは、次のように綴っている。
…「鶏舞で磊也が出てきた途端、心臓が高鳴りました。ドキドキしてしまいました。とても存在感があったのです。そこには青い若竹がすっくと立っていた。ついこの間までは、確かに「たけのこ」だったのに…。まだまだ細いけれど、若い青竹がそこにいた。磊也はときどき、一緒に踊るお父さんの方をチラッと見たりして、まだまだ不安そうな表情がちょっと出るときもあったのですが、でも口をきゅっと結んで舞うその顔は、とても素敵でした。磊也の鶏舞はすごく真剣で、そして真っ直ぐで、素直で…透明なガラスみたいでした」…。
12月には愛知県半田市、名古屋市でも出演して、2007年1月には松戸市で磊也の舞う姿をみることができた。
磊也は中学2年生になっていた。
4月22日、「そのはら山の花神楽」でもTSBのスタッフの方をお見かけした。急な山道を大きなカメラであちらこちらと移動しておられた。和力のメンバーと共に磊也も「鶏舞い」などに出演していた。
28日の「元服の儀」はその大団円だったのだろう。「芸能の道で15才は大人の仲間入りをする元服の年、2年間をみつめました」と、「レグルスの鼓動」でTSBは案内しており「駒つなぎの桜」のもとで舞う、朗・磊也の写真を掲載している。
小学6年生だった磊也が、どう父と共に歩み中学3年生になったか、その成長の記録がいっぱい詰まっている、TSBの番組ビデオが届くのを今かいまかと、楽しみにしているところである。
長野県阿智村に園原という集落がある。園原には、源義経が奥州に下るとき、馬の手綱を結わえて休んだといわれる、樹齢800年の大きな桜の木があり「駒つなぎの桜」と呼ばれている。
…「長野県阿智村は、源義経を鞍馬から奥州に連れ出した、金(きん)の買付商人「吉次」の故郷。この桜は、義経が16才で奥州に下ったあと、京都の内情を探るため、奥州から京都に上る途中、「吉次」の故郷に立ち寄り、休憩のために馬をつなげた桜の木といわれている」(ねこちゅーさんのブログより)…。
この桜の袂(たもと)での「元服の儀」の写真が、神戸在住の「ねこちゅー」さんのホームページに公開された。
ねこちゅーさんは写真歴25年、30代の女性だとプロフィールにはある。「駒つなぎの桜」を撮影にきて、偶然に出くわしたという。
「鶏舞い」を奉納する磊也と朗が、あでやかな衣装をまとって舞う写真が数葉。水が張られただけの田は静まりかえっている。
幹の周囲が5メートル余、高さは30メートルを越える「駒つなぎの桜」は、8分咲きくらいだろうか。
桜・踊り手・太鼓で伴奏する慧(中1)が、色鮮やかに澄みきった田面に写る。まるで「合わせ鏡」のように…。
夢か幻のような映像は、一瞬、刻(とき)が止まったような静寂さをたたえている。
ねこちゅーさんは、次のように語る。
…「加藤木さんの息子さんの、一生に一度の元服(15才)の儀を偶然にも拝見させていただきました。まさに幽玄という文字がふさわしいものでした。素晴らしかったです。観ている間、義経がこの世に舞い戻ってきたのかと、錯覚してしまいました。
まるで、あの時代…短くもはかなく散っていってしまった義経を、守り愛し抜いた人たちが、桜の木に宿って優しく見守っているような、そんな気分を味わいました」…。
わたしと妻は4月20日から3日間、阿智村の朗一家のもとに行っていた。「元服の儀」は21日(土)に予定されていたようだ。21日は朝から雨が降り、延期になってしまって、わたしたちは参加できずに帰った。
ねこちゅーさんは、「テレビの放映はおわったのですか。こちらで見られないのが残念です」…。このコメントで想像すれば、「テレビ信州」(TSB)の取材陣の方たちも21日は棒に振ったけれど、無事にこの28日で収録できたのだろう。
TSB「テレビ信州」では、「レグルスの鼓動」と題して、月に1回、土曜日にドキュメンタリー番組を放映しているそうである。
「桜の下で~祝舞いが結ぶ親子の絆~」として、5月の分が、19日(土)10時30分から放映されたと聞いた。
長野県の番組は、わたしたちの地域でも受信できないのが残念であった。
思えばTSBの取材は数年にわたった。かなり長い期間の取材であった。
2005年4月、わたしは職場を辞めて「和力事務所」を開設した。事務所として受けた初めての電話が、4月末に行われる「阿智村はな桃まつり」に出演する、朗たち親子を撮影したいとの取材申しこみだった。
TSBディレクターのOさん(女性)からである。
わたしは長野から遠隔地にいるし、朗たちのスケジュールを細かくつかんでいるわけではない。朗に引き継いでもらうことにした。
TSBのOさんは、なぜ朗たちを知ったのであろうか。
2005年2月26日から8日間にわたって、「2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会」が長野で開催された。知的発達障害をもつ人たちのスポーツ大会だ。
文化イベントへの参加募集が新聞紙上にのり、「ボランティアとしての参加で報酬はなし」とのことである。
朗は「ノーギャラであれば、プロの応募はないだろう。だが世界各地から長野へやってくる方々のために、日本の文化の粋をみてもら必要がある」と思ったそうである。それで朗・木村俊介・磊也(当時小6)・慧(当時小4)で演目を組み、文化イベントへ出演したのである。
これをご覧になっていたのが、やはりボランティアで参加していたTSBディレクターのOさんであった。
この年(2005年)、阿智村「はな桃まつり」の取材を手始めに、7月に行われた「万博出演記念・阿智村壮行公演」・愛知万博「愛・地球博」での「日本伝統芸能18撰」への出演などに、TSBの大きなカメラが持ちこまれていた。
8月には、朗一家が初めての家族旅行をした。朗が生まれ育った秋田の「わらび座」での交歓会、青森での「鶏舞い」の取材などに、3人のTSBのスタッフが同行された。
磊也は中学1年生になっており、舞台では太鼓の演奏を主に受け持っていた。
昨年(2006年)10月に東京「武蔵野公会堂」公演では、磊也が「鶏舞い」を朗とデュエットで踊った。
磊也の「舞」での初舞台である。それを企画・運営できたわたしは、望外の喜びで舞台を観たのだった。
武蔵野公演のようすを名古屋のKさんは、次のように綴っている。
…「鶏舞で磊也が出てきた途端、心臓が高鳴りました。ドキドキしてしまいました。とても存在感があったのです。そこには青い若竹がすっくと立っていた。ついこの間までは、確かに「たけのこ」だったのに…。まだまだ細いけれど、若い青竹がそこにいた。磊也はときどき、一緒に踊るお父さんの方をチラッと見たりして、まだまだ不安そうな表情がちょっと出るときもあったのですが、でも口をきゅっと結んで舞うその顔は、とても素敵でした。磊也の鶏舞はすごく真剣で、そして真っ直ぐで、素直で…透明なガラスみたいでした」…。
12月には愛知県半田市、名古屋市でも出演して、2007年1月には松戸市で磊也の舞う姿をみることができた。
磊也は中学2年生になっていた。
4月22日、「そのはら山の花神楽」でもTSBのスタッフの方をお見かけした。急な山道を大きなカメラであちらこちらと移動しておられた。和力のメンバーと共に磊也も「鶏舞い」などに出演していた。
28日の「元服の儀」はその大団円だったのだろう。「芸能の道で15才は大人の仲間入りをする元服の年、2年間をみつめました」と、「レグルスの鼓動」でTSBは案内しており「駒つなぎの桜」のもとで舞う、朗・磊也の写真を掲載している。
小学6年生だった磊也が、どう父と共に歩み中学3年生になったか、その成長の記録がいっぱい詰まっている、TSBの番組ビデオが届くのを今かいまかと、楽しみにしているところである。