磊也の「元服の儀」

2007年05月24日 | Weblog
4月28日(土)、孫の磊也(らいや)が「元服の儀」を執り行ったようだ。
長野県阿智村に園原という集落がある。園原には、源義経が奥州に下るとき、馬の手綱を結わえて休んだといわれる、樹齢800年の大きな桜の木があり「駒つなぎの桜」と呼ばれている。

…「長野県阿智村は、源義経を鞍馬から奥州に連れ出した、金(きん)の買付商人「吉次」の故郷。この桜は、義経が16才で奥州に下ったあと、京都の内情を探るため、奥州から京都に上る途中、「吉次」の故郷に立ち寄り、休憩のために馬をつなげた桜の木といわれている」(ねこちゅーさんのブログより)…。

 この桜の袂(たもと)での「元服の儀」の写真が、神戸在住の「ねこちゅー」さんのホームページに公開された。
 ねこちゅーさんは写真歴25年、30代の女性だとプロフィールにはある。「駒つなぎの桜」を撮影にきて、偶然に出くわしたという。

「鶏舞い」を奉納する磊也と朗が、あでやかな衣装をまとって舞う写真が数葉。水が張られただけの田は静まりかえっている。
 幹の周囲が5メートル余、高さは30メートルを越える「駒つなぎの桜」は、8分咲きくらいだろうか。
 桜・踊り手・太鼓で伴奏する慧(中1)が、色鮮やかに澄みきった田面に写る。まるで「合わせ鏡」のように…。
 夢か幻のような映像は、一瞬、刻(とき)が止まったような静寂さをたたえている。
  
 ねこちゅーさんは、次のように語る。
…「加藤木さんの息子さんの、一生に一度の元服(15才)の儀を偶然にも拝見させていただきました。まさに幽玄という文字がふさわしいものでした。素晴らしかったです。観ている間、義経がこの世に舞い戻ってきたのかと、錯覚してしまいました。
 まるで、あの時代…短くもはかなく散っていってしまった義経を、守り愛し抜いた人たちが、桜の木に宿って優しく見守っているような、そんな気分を味わいました」…。

 わたしと妻は4月20日から3日間、阿智村の朗一家のもとに行っていた。「元服の儀」は21日(土)に予定されていたようだ。21日は朝から雨が降り、延期になってしまって、わたしたちは参加できずに帰った。
 
 ねこちゅーさんは、「テレビの放映はおわったのですか。こちらで見られないのが残念です」…。このコメントで想像すれば、「テレビ信州」(TSB)の取材陣の方たちも21日は棒に振ったけれど、無事にこの28日で収録できたのだろう。

 TSB「テレビ信州」では、「レグルスの鼓動」と題して、月に1回、土曜日にドキュメンタリー番組を放映しているそうである。
「桜の下で~祝舞いが結ぶ親子の絆~」として、5月の分が、19日(土)10時30分から放映されたと聞いた。
 長野県の番組は、わたしたちの地域でも受信できないのが残念であった。

 思えばTSBの取材は数年にわたった。かなり長い期間の取材であった。
 2005年4月、わたしは職場を辞めて「和力事務所」を開設した。事務所として受けた初めての電話が、4月末に行われる「阿智村はな桃まつり」に出演する、朗たち親子を撮影したいとの取材申しこみだった。
 TSBディレクターのOさん(女性)からである。
 わたしは長野から遠隔地にいるし、朗たちのスケジュールを細かくつかんでいるわけではない。朗に引き継いでもらうことにした。

 TSBのOさんは、なぜ朗たちを知ったのであろうか。

 2005年2月26日から8日間にわたって、「2005年スペシャルオリンピックス冬季世界大会」が長野で開催された。知的発達障害をもつ人たちのスポーツ大会だ。
 文化イベントへの参加募集が新聞紙上にのり、「ボランティアとしての参加で報酬はなし」とのことである。
 朗は「ノーギャラであれば、プロの応募はないだろう。だが世界各地から長野へやってくる方々のために、日本の文化の粋をみてもら必要がある」と思ったそうである。それで朗・木村俊介・磊也(当時小6)・慧(当時小4)で演目を組み、文化イベントへ出演したのである。
  これをご覧になっていたのが、やはりボランティアで参加していたTSBディレクターのOさんであった。
 
 この年(2005年)、阿智村「はな桃まつり」の取材を手始めに、7月に行われた「万博出演記念・阿智村壮行公演」・愛知万博「愛・地球博」での「日本伝統芸能18撰」への出演などに、TSBの大きなカメラが持ちこまれていた。
 8月には、朗一家が初めての家族旅行をした。朗が生まれ育った秋田の「わらび座」での交歓会、青森での「鶏舞い」の取材などに、3人のTSBのスタッフが同行された。
 磊也は中学1年生になっており、舞台では太鼓の演奏を主に受け持っていた。

 昨年(2006年)10月に東京「武蔵野公会堂」公演では、磊也が「鶏舞い」を朗とデュエットで踊った。
 磊也の「舞」での初舞台である。それを企画・運営できたわたしは、望外の喜びで舞台を観たのだった。
 武蔵野公演のようすを名古屋のKさんは、次のように綴っている。
…「鶏舞で磊也が出てきた途端、心臓が高鳴りました。ドキドキしてしまいました。とても存在感があったのです。そこには青い若竹がすっくと立っていた。ついこの間までは、確かに「たけのこ」だったのに…。まだまだ細いけれど、若い青竹がそこにいた。磊也はときどき、一緒に踊るお父さんの方をチラッと見たりして、まだまだ不安そうな表情がちょっと出るときもあったのですが、でも口をきゅっと結んで舞うその顔は、とても素敵でした。磊也の鶏舞はすごく真剣で、そして真っ直ぐで、素直で…透明なガラスみたいでした」…。

 12月には愛知県半田市、名古屋市でも出演して、2007年1月には松戸市で磊也の舞う姿をみることができた。
 磊也は中学2年生になっていた。

 4月22日、「そのはら山の花神楽」でもTSBのスタッフの方をお見かけした。急な山道を大きなカメラであちらこちらと移動しておられた。和力のメンバーと共に磊也も「鶏舞い」などに出演していた。
 28日の「元服の儀」はその大団円だったのだろう。「芸能の道で15才は大人の仲間入りをする元服の年、2年間をみつめました」と、「レグルスの鼓動」でTSBは案内しており「駒つなぎの桜」のもとで舞う、朗・磊也の写真を掲載している。

 小学6年生だった磊也が、どう父と共に歩み中学3年生になったか、その成長の記録がいっぱい詰まっている、TSBの番組ビデオが届くのを今かいまかと、楽しみにしているところである。

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松川晴次さんのこと

2007年05月16日 | Weblog
 松川晴次(こうじ)さんが亡くなった。

 わたしがわらび座へ「入座応募」の手紙を送ったら、暫くして松川さんがわが家を訪れ、「面接」みたいな事をしていった。
 わたしがわらび座員と直接話したのは、松川さんが初めての人だった。わたしが22才の1962年のことである。

 翌1963年4月に、わたしは96番目の座員として秋田県神代のわらび座に入った。

 今のわらび座ではお互いをどう呼びあっているか知らないけれど、わたしがいた頃は、座員同士は愛称で呼び合っており、松川さんは「こうちゃん」と呼ばれていた。
 こうちゃんは、横山茂さんたちと共に1953年、わらび座を創設した9人のメンバーの一人である。

 本名は「橋本幸一」であったが、芸名として「松川晴次」を名乗っていた。設立メンバーもふくめて、わらび座員でペンネームを持つ人は少なかった。

「どうして松川晴次を名乗るのか…」をわたしは風呂場で彼に聞いたことがある。

 5人も入ればいっぱいだった、昔むかしのわらび座の風呂場は、田んぼに突きでるようなかたちで食堂の横に増設されていた。
 窓を開け放し田の青い稲が風にそよぐのを見ながら、聞いた記憶がある。
 
「松川事件を知っているでしょう」。
狭い湯船に浸かりながら「松川事件の無実を晴らすことを願っての名前だ」と、にこやかに話していた風景をはるかに思い出す。
 
 1949年、7月から8月にかけて「下山事件」・「三鷹事件」・「松川事件」と、3件の鉄道に関連する暴走・転覆事件がたてつづけにひき起こされた。
 松本清張「日本の黒い霧」などに記されている、日本のアメリカ占領下での怪事件がある。

「松川事件の被告は冤罪(えんざい)である。5人の死刑囚を無実の罪で殺すな」と、運動が大きく広がっていた。
 こうちゃんは「松川事件を晴らす」ことを念じて、わが名にしていたのだ。それで「松川晴次」。

 こうちゃんは、創作演出班に所属し、東北各地に伝承されている芸能の取材に飛びまわり、取材した素材をもとにステージ用に再創造して、舞台の構成・振付・演出者として活躍していた。
 わたしも演技者として、福島の「じゃんがら念仏踊り」、岩手県の「さんさ踊り」などをしごかれて習い、全国の公演活動に参加させてもらっていた時期もある。

「民謡風土記」秋田編を1959年に舞台に上せ、1962年には「民謡風土記」岩手編を編んだ。
 こうちゃんには、「津軽」・「山形」・「宮城」など東北各県の「風土記」の構想もあったようだ。

 でもわたしたちより、早い時期に座を離れて東京で暮らし始めた。座を辞めたのはどんな理由であるかは、わたしは知らない。

 東京・大阪などの歌舞団に請われて、振付などの協力をしていたようだが、わたしが再会した10年ほど前には「糖尿病」を患っていると言っていた。

 最後に逢ったのは、2003年1月に東京「高円寺会館」での「横山茂コンサート」であった。この頃、こうちゃんは豊橋に移り住んでいた。遠いところをわざわざ出かけてきたのだ。
「高円寺会館」は少し急な階段を昇ってホールに辿りつくつくりになっている。戦前からの建物らしいから、古めかしいのだ。
 この階段の「昇り降りがきつい」と足を撫でていた。
「あんなに達者に民舞や日舞を踊っていたこうちゃんが、どうして…」と思ったものだが、わたしより10才以上も年は離れていただろうから、「さもありなん」とさびしく納得したものだ。

 その後、会う機会がないまま年月が経った。

「4月29日お通夜、30日告別式」というファクスが28日に届いた。斎場はこうちゃんが住んでいた岐阜県可児市である。

 急な事で伺うことはできなかった。

 わらび座を9人の若者でつくりあげ、伝統芸能のエネルギーを舞台いっぱいに表現し、当時のわらび座の骨格を築いた先達が亡くなったことに、限りない寂しさをおぼえた。

 この人たちがあったればこそ、わたしたちの青春を燃やす場ができ、多くの方々と文化を通して結びあえた。そして今のわたしがあり、わたしたちがあるのだ。
 

 

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「東京大空襲・戦災資料センター」へ行って

2007年05月10日 | Weblog
 わたしは臆病な人間だから、むかしは暗闇が怖かった。わらび座に入ったばかりの頃には、稽古場と独身寮はかなり離れていた。山の裾をめぐって人家も外灯もない、曲がりくねった道を帰らなければならない。
 道連れがいればよいのだが、一人で帰らなければならないときには、息を詰めうつむきながら、なるべく木々の間を見ないようにして歩いた。木の向こうになにやら潜んでいるような気配を感じてしまう。目をあげてもしや「その物と目が合ったらどうしよう」と怖れたのだ。
 風のいたずらなのか草木が少しざわめくだけでも、なにやら「物の怪」ではないかと、びくついていた。
 
 闇夜に跋扈(ばっこ)する物の怪に対する怖れは、いまでも薄れてはいない…ように思うのだが、今は都会地に住みそのような気分になることはなくなった。

 悲しみの大きな記憶は、わたしがまだ未就学児だったとき、戦火を逃れて母の実家がある新潟に疎開していたときにある。
 わたし、妹、そして歩き始めたばかりの弟・誠が囲炉裏(いろり)を囲んで、母が用意する朝食を待っているときに起きた。
 誠が囲炉裏に転落して、煮えたぎる味噌汁をもろに浴びてしまったのだ。大火傷を負い夏の盛り、母は片道3時間余もかかる医者まで通った。バスもなにもない炎天の道を、時にはぐずり、痛さに泣く弟を背に負ってどんな思いで、乾いた道を踏みしめて歩いたのだろうか。

 医者通いの苦労も甲斐なく、弟の誠は助からなかった。

 戦火を逃れ疎開しなかったなら、東京下町に住んでいたわたしたちは、どうなっていただろう。約10万人の命を奪った東京大空襲の犠牲にならなかったとはいえない。
 戦火にほど遠い草深い田舎に避難し、直接の爆撃には合わなかった。でも弟は事故とはいえ死んでしまった。
「戦争さえなかったら」…。身を裂くつらい、悲しい出来事は起きなかっただろう。

 臆病なわたしは暗闇を怖れる。直接の体験はないけれど戦争を怖れる。

 暗闇に潜む「物の怪」は、見ないように遣り過ごせばなんの害も降りかかることはない。「怖い戦場」は自分の意思に関係なく、人を殺めるように強要される。また、自分の命がどの方向から狙われているか、知る由もない。
 そのような恐怖の時代を、孫たちに引き継いでたまるものかと思う。

 豊かな自然の中で、虫と戯れ野山草にまみれて遊ぶ楽しさをいつまでも…と心に刻んでささやかながら、平和への行動を仲間と共に築いている。

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