信州の雨

2009年04月30日 | Weblog

 阿智村・朗宅から…

 わたしの子どもの頃には、履いている下駄を高く放り上げて、裏返しに落ちると「あしたは雨になる」、表だと「晴れる」と天気を予報した。
 遠足の日が近づいてくると、テルテル坊主をつくって軒下につるし、「あした、天気になぁれ」と呪文を唱え、それでも心配だと、野良猫を見つめて「顔を撫でているからあしたはきっと晴れるよ」と友だちどうしで喜び合っていたものだ。

 いまは「天気予報士」がいて、下駄やテルテル坊主、猫の出番はまったくなくなってしまった。
 すべてあなた任せで、自分が予想して「当たった、外れた」の興奮と喜び、そしてがっかりの感情がうせてしまったのは、果たしてよいことなのだろうか。

 そんなことを云っても「天気予報士」の予報が当たるのだ。

 わたしの年代の者は、全部がそうだとは言わないが、「予報では雨が降ると言っているが、おれの勘では降らないね。だから傘は要らない」と出かけて、昔は勘の方が当たる確率も高かった。

 いまでは「お出かけは傘が必要になるでしょう」などと言われて、それに逆らって出かけると必ず予報どおりになる。

 今回もそうだった。予報が寸分の狂いもなく当たったのだ。

 わらび座を離れて社会に散って、さまざまな仕事をしている「わらび座OB」が交流する集いがある。昨年は伊豆で19回目のつどいが開かれ、四十数名があつまった。
 そのときの申し合わせで、今年の20回目のつどいは「南信州」でやろうと、相談がまとまり、わたしが事務局を引き受けた。

 第一回目の世話人会は、「4月25日(土)、下見をかねて南信州・昼神温泉郷でやる」との連絡を出し、ありがたいことに14名から「参加する」との返事がきた。
 昨年は「松戸市和力実行委員会」のメンバーが、この時期に訪れ「駒つなぎの桜」や「花桃」が咲き乱れる風景を楽しんだ。

 去年の経験をいかして、南信州の自然を楽しんでもらおうと、12時に到着しちょっと離れた山中で信州蕎麦を食べ、「駒つなぎの桜」、「花桃祭り」に行こう、夕方は温泉に入った後、食事をしながら「つどい」の相談をしようと、心弾ませながら計画をたてていた。

 集まる日の天候が気になったので、天気予報を熱心に見始めたが、あまり芳しくない予報だ。
 世話人会を開く日は雨との予報である。地元長野をはじめ大阪・東京・埼玉・神奈川から参加してくれるのだから「天気になってほしい」と切に願う。

 つれないことに、NHKのヒライさんもナカライさんも確信ありげに、散策予定の24日(土)が雨…その前後は快晴の予報だと云うのだ。まるで示し合わせたように云っているのが憎らしい。

「予報はあくまで予報であって外れることもある」と期待して、23日(金)朝に高速バスに乗って信州に向かう。雨は降っていない。


 朗宅の花

 加藤木朗宅に泊めてもらった。翌日は軽自動車を借りて10分ほどはなれた昼神温泉・鶴巻荘に向かうことにしている。

 午後5時過ぎに、晟弥(小4)と野詠(小2)が帰ってきた。未だ日差しがあるから、坂道を登って15分ほど歩いて買い物に行く。
「あしたはほんとうに降るのだろうか」。朗宅にはテレビがない。天気予報を見ることが出来ない。天気予報の頼りになるのは4匹いる猫である。猫たちは人の膝にのりたがるが一向に顔をなぜる気配はない。

 晟弥と野詠が宿題をやり始める。慧(中3)はパソコンで調べ物をしている様子、磊也(高2)は部活で8時半ごろ帰ってきた。朗は名古屋の教室に出かけ帰りは夜半過ぎになるという。
 陽子さんは洗濯物の片付けをしながら、宿題の面倒をみている。

 朗の帰りを待とうと思ったが夜半まで持ちそうもない。寝床に入って明日に備える。

 寝床に入って考えた。「天気なんて気まぐれなものさ。あしたは降らないだろう」といつしか寝入った。

 夜半、雨音がする。朝になるとみごとに降っている。

 やはり、ヒライさんとナカライさんの云うとおりになってきた。

 この日は強い雨が降りつづいた。雨の中であったが、阿智村園原の「花桃」はあでやかに咲き誇っていた。
 車に分乗して花桃の群落をゆっくり進む。

 駒つなぎの桜は、今年、開花がはやくてすでに散っているとのことなので、行くのをやめた。
花桃を楽しんだだけで十分だよ、信州の春に出逢えて明日から気分を一新して生活できるよ、参加者が喜んでくれた。
 予報通り雨の一日になったが、谷川のせせらぎを眼下に、木々が芽吹く山あいをしっとり過ごせた。
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徒然なるままに…

2009年04月23日 | Weblog

 朗宅のマル

「年老いた猫は人語がわかる」と、落語の枕で聞いた覚えがある。古今亭志ん朝が「親父の志ん生がそんなことを言っていましたが、いい加減なところのある人でしたから、ほんとうのところはわかりません」と噺の枕で振っていた。

 ほんとうだろうか。そうかも知れない…とふと思うときがある。

 わたしの家に向かい合って2軒の家がある。1軒の家には飼い猫が6匹いる。勤めに出ている娘さんが面倒をみていて、猫の食費だけで「給料の大半が吹っ飛ぶようだ」と、おばぁちゃんがこぼしていた。

 もう1軒の家には、一人住まいのおばぁさんがいて、ごはんの残りやパンくずを門柱の上に置いて、小鳥にあげている。
 小鳥が来て電線にとまってさえずるのだが、猫が日向ぼっこや、じゃれあっている、あるいは薄目を開けて寝ているので門柱に近づけない。
 その内にカラスが大きく羽ばたいて、持って行ってしまう。そうでなければ、猫がヒョイと門柱に駆け上って食べてしまう。おばぁさんの小鳥への好意は果たされないまま時間が過ぎる。

 食料の残りがでる。子持ちの野良猫が居着いてしまった。そうこうする内にどこから集まったのか、6匹から7匹の野良猫が定住するようになった。


 雨戸が開くのを待つ

 飼い猫も含めて、12匹ほどの猫がわたしの住む路地で暮らす。

 飼い猫もふくめて躾(しつけ)がされていないから、手当たり次第に排泄していくのが困る。
 路地の住人は、家の周り・庭・軒下・花壇に被害を受けるようになった。
「弱りましたな」、「お宅は大丈夫ですか」と愚痴をこぼし合っているのだが、向こう三軒両隣りのつきあい、表だって抗議ができない。

 わが家でも糞尿被害を防ごうと、砂利を敷き詰め、トゲトゲのプラッスチック板、カラシの匂いがする粉末、猫が嫌がる方法をずいぶんと考えた。費用も捻出して自衛策に頭をしぼった。
 金の掛からない一番いい方法は、夏みかんの枝を払って、猫がトイレにしようと狙っているところへ敷き詰めることだ。手で地面を掻こうにもトゲトゲがある。これは金も掛からないよい方法だった。

 家の南側に縁側がある。ここは日当たりがよく風通しもいいから、猫の安息所になっていた。
 わたしは仕事をしながら、のんびりした猫の様子を見ていれば気が紛れることもある。困るのは、猫は土足でずかずか上がるから、縁側の上は泥だらけになってしまう。

 縁側には新建材の板を敷いてある。荷物の受け渡し場所として、人の出入りが毎日あるのだ。
 留守であっても置いていく人、持っていく人の中継点になっている。

 猫が昼寝に来るのは構わないが、板を泥まみれにされるのは困る。荷物に土がこびりついてザラザラになる。

 それで、貼り紙をすることにした。



猫どん
土足で上がらないでください
上がるときは足をふいてから…
マナーを守って、楽しいくつろぎを…

 それ以後、猫は縁側に上がらなくなった。

 わたしは敬愛する古今亭志ん生師匠が言うのは、本当のことだと思う。猫たちは、お向かいの庭で丸くなってなにやら話でもしているような時がある。きっと情報交換をしているのかも知れない。
「コラッ」といえば人の顔をみながら逃げていくのは、人の言葉が分かるなによりの証拠である。
 平かなを読むのもそんなに苦労はないだろう。「年を経た猫は人の言葉が分かる」だけではなく、「平仮名も読めました」と、古今亭志ん生師匠に報告してあげたい。
 
 猫が上がってこないのは、貼り紙も少しは効果があったかも知れないが、CDの廃盤をぶら下げているからだろう…、などと妻は呟いている。



 
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お灸のはなし

2009年04月14日 | Weblog

 かっては「松戸の灸」と墨書きの看板があった 


 落語に「強情灸」という演題がある。

 江戸時代は灸屋がたくさんあったのだろう。長屋の住人が、熱いが身体に効くと評判が高い「峰の灸」に出向く。
 背中の片側16、両側で32の灸をすえるのだが、「一つづつすえるのはめんどうだ。全部いっぺんにすえてくれ」と啖呵(たんか)を切る。
「大丈夫ですか」と灸師は危ぶむのだが、いったん言い出したら後に引けないのが、江戸ッ子の面子(めんつ)である。
 歯を食いしばって我慢をした。

「一つづつすえても熱いのに、32カ所いっぺんにすえた」と、帰って長屋の友人に自慢する。

 友人も負けず嫌いである。
「熱いといってもたかが灸だろう」、「もぐさ持ってこい」と、腕にてんこ盛りしたもぐさに火を点ける。

「俺の方ががまん強い」と張り合うのだが、あまりの熱さに往生し悲鳴が思わず知らずに出る。それでも負け惜しみを言う滑稽話が「強情灸」の中身だ。

 江戸時代は、鍼灸の店がたくさんあったのだろう。身体の具合がわるいと通い、それだけでなく、家にもお灸の道具が置いてあったのにちがいない。
「もぐさ持ってこい」と言えばすぐさま用意できるわけだ。


 旧家(松戸市・元日光街道沿い)

 そんな遠くさかのぼらなくても、わたしの子どもの頃にも、お灸は身近なものとして存在していた。
 悪さをすると「言うことを聞かないならお灸をすえるよ」と、幼い子を母親たちがおどかしていた。

 わたしの母は、肩こりの性分でよく肩を揉まされた。揉んでもこりが直らないともぐさを持ち出す。
 丸めたもぐさを肩に置いたところに、線香で火を点けるのがわたしたち子どもの役割であった。

 身近にみていたから鍼灸についての拒否感はあまりない。でもそれをやって効くのだろうかという疑念はあった。気休めなのではないのか。

 ところがびっくりする事態が持ち上がったのだ。

 わたしの弟、雅義が35年ほど前、鍼灸師の勉強をして国家資格を取ったことは知っていた。

 彼は、一昨年の6月に大腸ガンが発見されて、長時間の切除手術の末に病巣を取り除き、以後の経過は順調であった。
 ところが、1年半検診で「肺に影があり転移が疑われる」との診断がくだった。今年1月のことである(その経過は「加藤木朗のHP・楽屋裏から」に詳しい)。

 ショックを受けた雅義は、再検査の1ヶ月半を受け身で過ごすのではなく、「自分には学んだ東洋医学がある」と、大腸と肺をつなぐツボに灸を始めたのである。
 3月2日の再検査結果は、なんと肺の影が消失していた。

「灸が効いたかどうかは分からない。効いたかも知れないし、影は風邪を引いていたものがCTスキャンに写っただけだったのかも知れない」、雅義は結論を出さなかった。

「だが座骨神経痛にはすごい効果がある。車の運転をしているとき、車から降りると足もつけないような痛みに襲われた。そのときツボに灸をすえてみた。すると座骨神経痛の痛みは完全におさまった」。
「自分の治療結果に自信をもったから、6年間、痛みに耐えながら仕事をしている同僚に『やってみようか』と尋ねたら『ぜひ試してくれ』と言われて、施術したらこの同僚も治った」。

 
 その話を聞いてから数日後、一番上の妹宅を用事で訪ねた。
 妹の亭主は仕事を息子さんに託した後も、人望を慕われて町会長など多忙な生活を送っている。

「困るのは腰が痛くて朝、起き上がるのに難儀することだ。あちこち転がり回ってようよう起き上がる。犬の散歩も足が痛くておちおち出来ない」とふと漏らした。

 日替わりで整骨院と外科病院に通っているとも言う。

「雅義が、自分と職場の人の座骨神経痛をお灸で治したらしいですよ」、「お灸ねぇ、灸はやったことがないなぁ」、「雅義君の都合のいいときに来てもらおうかな」。

 それからしばらくして、妹から突然の電話が入った。
「雅義が昨日きてくれた。朝、おとうさんはいつもだと、何回もかけ声を掛けてようやく起き上がっていたのに、今朝は一発で起き上がったよ。わたしは見ていてびっくりした」、「お灸のこと教えてくれてありがとう」。

 わたしもお灸がそんなに効くなんてびっくりした。

 それからしばらくして、再び妹からの電話があった。
「犬の散歩をしていておとうさんが『雅義君に感謝・感謝』とつぶやきながら歩いているよ。それをみてわたしも嬉しくなって」…。一週間に一回ほど、勤め帰りに雅義は寄って、灸をしていくそうだ。座骨神経痛の痛みはほとんどなくなったから、犬の散歩も楽しくやっている。

 花粉症のツボもあるらしい。そのツボへ灸をすると「鼻の通りが良くなって一日はもつが、どう効果を持続させるかはもっと勉強しなければならない」と雅義は言っていた。

 わたしはお灸も鍼(はり)もやったことはないが、その治療の歴史は何千年にわたるのだそうだ。
 取捨選択そして蓄積された治療法は、もっと知らされ活用されなくてはならないのではないかと思う。

 鍼灸医学の根本的な考え方の一つに「心身一如(しんしんいちにょ)」があるという。
 心と体は一つだという意味だと広辞苑にある。

 素人なりに考えると、悪いところは切って貼り付け、放射線でやっつける等、徹底した対症療法に対して、東洋医学ではよってきたる原因を、心の在り方から、他の臓器との関連も、総合化しての治療法とでもいうのだろうか。

 翻って文化・芸術においての洋の東西のちがいも、考えてみれば面白い。

 舞踊においては、西方の所作は腰を伸ばし縦に動く。日本の伝統芸能は腰を落とす。能・狂言においてもそうだ。

 しかし同じアジアであっても、インドネシア・バリ島へ行った、加藤木朗の体験によると、日本の踊りは肩の力を抜くが、バリでは肩をいからせるちがいがあるそうだ。

 みんなちがって、みんないい と金子みすずが詠っていたが、それぞれの地域で発展したものは、気候・風土・労働などを反映して独自に発展してきているのだろう。

 そんな中で、鍼灸が身近でなくなったのは残念なことのように思う。



現在の鍼灸院(松戸市)

 

 

 
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ディズニーシーに行く

2009年04月05日 | Weblog
 あかいくち くわのみたべたの ばれちゃった(阿智第二小一かとうぎ のえ)

 4人きょうだいの末っ子、いつもおかあちゃんにまとわりついていた野詠は、昨年の春、一年生になった。
 
 野詠の俳句が「下伊那教育会」発行、「くわの実」(61号)に掲載された。
生活文・日記・詩・読書感想文など多彩なジャンルで、応募作品数1598点、採用作品数548点の中に選ばれたのだ。

「のえの、はいくのったよ。150ページにのってるからね。(わたしの)小学校の1年生のなかで、はいくがのってるの、のえとあらしくんだけだよ。いろんなはいくのってるよ。またあそびにいくよ」と野詠の添え書きが入っていた。

 学校に入ってすぐ手紙をくれたことがある。字が鏡文字だったり重なり合ったりして、読みにくかったが「でずにーらんどにいきたい」と判読した。
 その野詠が、学校の指導で俳句をひねり、漢字交じりの手紙を書くようになったのだ。

 暮れも迫った昨年、「ディズニーランドのチケットちゃんととっておいてください。ディズニーランドへ行くときはおじゃまします」と、晟弥(小三)が手紙をくれた。

 ディズニーランドへは、晟弥がまだ料金を取られない年令のとき、磊也と慧と共に行ったのが始まりだ。


 ディズニーシーの入り口付近

 わたしの勤めていた会社が、食肉をディズニーランドのいくつかの厨房へ卸していたから、納品で何回か訪れたことはあった。
 場内には入れなかったが園内のにぎやかな声は聞こえてくる。「陽気で良いな」と気分が明るくなったが、入場料を払ってまで来ようとは思わなかった。
 動物園は大好きでいつでも行きたいが、ネズミやガチョウのぬいぐるみを追いかけて、どこが面白いのだろう、そんな食わず嫌いがあったのかも知れない。

 初回のディズニーランド行は、妻が職場の旅行会で2回ほど行っていたから、その案内でなんとか回ることができた。
 パレードの人混みに晟弥が紛れてあわてて探し回ったことを覚えている。野詠は幼なすぎて来なかった。

 次に訪れたのは2年半前だ。磊也・慧・晟弥・野詠と孫が全員そろって行った。この時は、強力な助っ人に守られて、ディズニーランドを存分に楽しむことができたのだ。

 和力を応援してくれている名古屋市のKさんが母娘してガイドしてくれたのだ。Kさんは和力の公演があれば、いつも名古屋から駆けつけてくれる。
 ディズニーランドのリピーターでもあり、年間パスポートを持ち、娘のM子さんはディズニーランドがある舞浜駅近くに住み、やはりパスポート所持者である。

 この二人が連携して、不慣れなわたしたち夫婦をサポートしてくれた。人気の高い乗り物へ次々と予約を入れて、待ち時間は、手近な乗り物や催しもので楽しむ。 だから無駄なくたくさんの乗り物に乗ることができた。

「仕事の段取りをつけたから、子どもたちの春休み中、4月1日にディズニーランドへ連れていってもらえないか」と朗から連絡が入った。
 磊也は春休みとはいえ、柔道部の合宿があって来られないというのが残念だった。

「ガイドをM子さんにお願いしたい。チケットの購入もよろしく」と、メールでKさんにお願いした。
「春休みは、年間を通していちばん混む季節です。乗り物などは前のように乗れないのを覚悟してください」。「わたしも行きたいが年度末なので都合がつかないかも知れない。M子はバイトをやりくりして、案内できると返事があった」。

 M子さんが付いてくれれば鬼に金棒である。安心して孫たちの来るのを待った。

 3月31日の午後5時に朗の車で全員が元気に到着した。孫が来るのは2年に1回ていどであろうか、いつもは二人きりの家がたちまち賑わう。
 明日は7時半に舞浜駅に行こうと早寝をした。

 天気予報で4月1日は雨降りの予報だった。その前後は天気がよいのに残念なことだ。

 やはり起きたら小雨が降っている。

 Kさんは仕事をやり繰りしてくれて、東京駅5時着の列車で来てくれた。今晩11時過ぎの列車で名古屋へ帰るという。疲れるだろうにほんとうにありがたい。

 KさんとM子さんが携帯で連絡をとりあい、人気スポットの予約を入れていってくれる。ショーなどの場所取りもムダがない。


 船のパレード

 不思議なことに雨は降るには降ったが、ショーや船のパレードなど屋外での催しのときには上がっていた。
 
 傘が無用の長物となったのはありがたかった。

 初めてのディズニーシーでは、恐怖のエレベータで野詠は泣いた。大人でも急降下で身体が浮き上がるのは、やはり怖かった。

 待ちに待ったディズニーランドの一日は、興奮と楽しさで過ぎていった。帰りの電車では野詠がぐっすり眠りこんでいた。

 一寝入りしたらどんな一句をひねりだすのであろうか。


 ディズニーシーの象徴 火山
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