はじめての手術

2020年07月28日 | Weblog

 幸いにしてわたしは、80歳になるまで大病とは縁遠かった。

それでも20代半ば、朝起きたら目が開けられないほど顔面がむくみ緊急入院、「治っても半人前しか動けなくなるおそれが」…医師の診断がくだり、2か月余ほぼ寝たきりで病院生活を過ごしたこともある。

安静を徹底し「亜急性腎炎」に留まり、なんの制約もない日常生活をおくれるようになった。

30代で交通事故での入院は二週間ほど。

大腸ポリープ切除の入院は40代で2回ほどあり、これは一泊ですんだ。

50代にはいってから、コルステロール値が高く薬を飲み始めた。

60代後半になってから、いわゆる「生活習慣病」といわれる病が確定、「病(やまい)持ち」となって、薬の数が増えていく。

そんなことはありながらも、元気に70代を経過したのである。

 

 昨年春、80歳になり7月末をもって介護職員としてお年寄りの面倒をみていた「デイサービス」を辞めた。

まだ働かなきゃ…市の「シルバー人材センター」の資料をみながら思案。

「年内は晴耕雨読の生活もよかろう、年が改まったら仕事を探そう」と日を送る。

毎年10月に市の「健康診査」を受けており、その結果「肺の精密検査を受けるよう」とのお達しがきた。

この通知は過去に2回ほどあり、精密検査の結果、「影はあるが、若年のころ軽い結核にかかり自然治癒したものだろう」とのことで大事には至らなかった。

しかし今回ばかりは、再度のレントゲン検査、ひきつづくCT検査・MRI検査へと進み、医師は「VIP検査」を指示、「肺がんは、脳などに転移しやすいので、最先端医療器具で検査する必要がある。この機器は市内の病院にはなく幕張まで行って受診せよ」。

やはり肺がんに罹ってしまったのか……。

思い当たる原因はタバコであり医師もそう言う。

わたしの吸い始めは28歳ごろだった。

わらび座での仕事が営業に変わり、「実行委員会」を立ち上げ公演を成立させるため、全国各地にとび、いろんな方々とお会いするようになり、「どうです一服」と勧められ、何気なしに一服・二服するうちに病みつきになったのだ。

わらび座を辞め、就職した会社ではタバコ吸いが大勢いて、それにまぎれて吸いつづけ、会社を定年で辞め2ほど経ってようやく禁煙できた。

この長い喫煙がガンを招いたにちがいない。

 

 年末・年始は検査に明け暮れ、すべてのデータが出そろったのであろう、「あなたは体力もあり手術に耐えられる」と1月中旬手術を勧められ同意。

「外科医として手術を決定しても、あなたの肺活量は弱く麻酔医が受けてくれない。気合を入れて肺活量検査を…」。

再度の肺活量検査にまわされ、何回も機器を相手に悪戦苦闘する羽目になった。長年のタバコがたたって、かっての長距離ランナーも形無しである。

なんとかクリアし、130日入院、26日手術と決まった。

 

 入院するや、理学療法士が訪れ「手術に備え腹式呼吸を会得しましょう」、訓練が始まる。

日に一回、リハビリ室に出向いて主には上半身を揉みほぐしてもらい・自転車こぎ・階段の上り下りなどでしごかれるのだ。かてて加えて、手術が決まった際に購入した、呼吸のリハビリ機器(親指大の球が3個並列に入った箱、そこへ空気を吹き入れ球を宙に浮かせる)での格闘もある。

 

 6日間身体を鍛え手術当日が来た。妻に見送られストレッチャーで手術室へ。

手術室は天井がバカ高く、ゴーと低い音が鳴り響いている。

「看護師の○○です」と声をかけストレッチャーを移動してくれる若い男性。この声掛けが頼もしく、気持ちがフット安らいだ。

「麻酔に入ります」と聞いたように思った瞬間、意識がなくなる。

なんの覚えのないまま手術は済んだ。

わたしは「肺の手術」と告げられたとき、肋骨を何本か切って患部を切除するものと思い込んでいた。

しかし脇下に穴を穿いて患部を取り除く手術であったから、負担はごく軽く済んだ。

 

 手術当夜は「集中治療室」で一泊。

翌日には部屋に戻され、再び理学療法士による訓練である。

術後7日目に退院。

退院に際しては、電車・バスに乗り継いで帰る気であった。なにしろわたしは「集中治療室」に泊まった日をのぞいて、毎日一万歩のウォーキングを院内で欠かさずやれていたのだ。

ウォーキング歴は10年以上になる。(それ以前は10キロ走のジョギングをやっていた)。

そんな自信があり自力で帰る気でいたが外はそぼ降る雨。なんとなく気怠く、友人に連絡し車で帰宅。

帰った日は、ずっと休まず続けていたウォーキングをカット。

翌日からウォーキングを始めてびっくり仰天した。

家の玄関を出て表通りまで20メートルほどなのに、息切れが激しく石垣に腰を下ろしてしばしの休息だ。

手術後、点滴瓶をぶら下げた器具を杖代わりに、病院内の廊下を毎日一万歩歩いていたのに思いもかけない事態ではないか。

お医者さんは「つとめて体を動かせ」といっていた。その言葉を励みにまた歩き始める。2、30メートル歩くと息切れがして、他所のお宅の花壇の縁に腰掛け息継ぎ、用水路の金網にすがり一息、ゴミ置き場の容器に胸を預け呼吸を整えていたら、自転車で通りかかった女性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。

そんな状態で4日間ほどが過ぎ、以後はよろけることなく、目標を達成できるようになった。

 

 術後1ヶ月目の診察。レントゲンをみた医師は「順調に回復しています。わたしからの薬の処方はありません」。抗がん剤を飲まなくて済んだのだ。

次は2ヶ月先に来なさい…となり、つい先だっての診察では「3ヶ月先に」となった。

医学の進歩のおかげで、大腸ポリープをガン化する前に切除でき、肺がんも早期発見・みごとなメスさばき患部を摘出、大事に至らずすみありがたいことだ。

 

 80歳の終わり際に手術がすんで、2ヶ月ほどで81歳になった。

一日の初めは五時半に起きる。内猫二匹、外猫二匹の食事の世話。それがすんだらわたしたちの朝食の支度でいっとき忙しい。

朝食後は新聞をゆっくり読み、ゴミ出しに出る。ゴミを置いてから20分ほど歩く。それで3,000歩ほどかせぎ家に帰る。

庭木の剪定をふくめ家の内外の片づけ、そして郵便局などへ出かけ畑にも寄ると、午前中での歩数は5,000歩をこえる。

午後は畑の草抜きなどに精出し、買い物に行く。なんとか5,000歩になる。

あわせて一日10,000歩をキープする生活で案外忙しく日を送っており、「シルバー人材センター」への申し込みはしていない。

仕事を辞めて1年を経過する。

やり繰りすれば身過ぎ世過ぎはなんとかできそうで、猫4匹の扶養家族をかかえる今の生活は、変化なくつづけていけるだろうとの見込みである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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