吉祥寺公演実現までの苦悩

2006年04月30日 | Weblog
定員オーバーで良いなどと想像もしないで欲しい


 今回の吉祥寺シアター公演の準備を始めたのは、1月22日の松戸公演が終わってからであった。

 松戸公演の初回は、昨年の1月21日「松戸市民劇場」で7人の実行委員が取り組んだことに始まる。332席しかないホールで410名を越えるお客様が足を運んでくれた。

 実行委員会で「チケットの動きは定員を越えそうだ」との報告が入った。お客様の動きが悪ければそれはそれで悩みである。多すぎると「立ち見」などのご迷惑をかけるので、これまたぜい沢な悩みになる。興行の専門業者のように指定席制度がとれないのでそういう誤差が生まれる。
 網の目のように、人から人にチケットが流れていくのが実行委員会方式の良いところだ。しかし、それが時として予測のつかないことになる。

「座布団を用意して通路に座ってもらおう」と定員超過の対策が練られた。100円ショップで座布団を50枚、買いこんで公演当日を迎えた。
 100円とはいえ立派な座布団だった。全部、配り終わっても結局、足りなくて後からきた方は立ち見になってしまった。

 主宰する朗から異論が出た。「消防法は法律なのだからぜったい守って欲しい。定員オーバーで成功などと思わないでほしい」。

 実行委員会でも反省材料として話し合われた。2回目の今年は「松戸市民会館大ホール」を借りての公演となった。客席数は前回の「松戸市民劇場」の4倍、1,212名の収容定員である。
 観客と舞台との程よい空間をつくるには、全席を埋めるのではなく800名にとどめようと実行委員会で申し合わせた。結果は予想した800名のお客様に集まっていただき、次回公演の準備金も生み出せるほどの盛況をみた。

 そして今年の松戸公演の総括実行委員会は2月におわった。

 いよいよ、前もって会場を押さえておいた「吉祥寺シアター」の準備に取りかかる。

流れることなど、こういう世界では良くあることだった

 吉祥寺シアターは昨年の5月にオープンした劇場だ。「演劇と舞踊に適した画期的な空間」として話題になった。しかし、197席というスペースがキャストやスタッフのギャラを生み出せるかどうかの問題はある。

 以前より朗から「東京公演をしたい」という要望はそれとなくあった。

 和力事務局を構成している広報担当の雅義とわたしはときおり話を交わしていた。「下北沢あたりで公演をやりたいね」と、まだ夢ではあるがそう話していた。しかし、話題の吉祥寺シアター(下北沢の隣の駅)は5日連続での使用が、優先しての申し込みなのだ。自分たちの営業力ではまだそんな力はないとあきらめていたのだった。

 そんな折に、新宿で「和力」を取り組もうとの話が持ち上がった。和力の千種公演(ちくさこうえん・名古屋)のビデオを見てビックリした、福祉の仕事をしている朗の従兄妹(いとこ)である桜子ちゃんが動き出したのだった。
 
 彼女の尽力で新宿の「箪笥町ホール」を借りる事ができた。桜子ちゃんを事務局長に実行委員会の体制が整い3回の会議をもつまでに至った。ホームページへの広報も打った。
 いよいよチラシ・チケットの印刷にかかる段階に入った。
「とうとう和力も東京進出が実現するのですね」という明るい声が和力の合宿から聞こえてきた。

 しかし、チラシ・チケットを印刷所に発注する間際になって、実行委員会の推進役であったGさんから待ったがかかった。

 2月に開かれる福祉関係の大きなイベントにこの舞台をセットし、それを支えるべく実行委員会が発足して実現に向けて動きだし、Gさんも会議には毎回参加していたのだ。
 Gさんによれば、イベントを取り仕切る運営委員会の責任者から異論がでたというのである。

 料金が高い(設定は3500円)・上演時間が長い(2時間)などを理由にしての待ったである。こちらとしては当たり前である設定がいけないという。

 実行委員会の上にイベント運営委員会があったのだ。そこから異論が出たというわけである。
 
 わたしたちはイベント運営委員会ヘ出席して説明もしたいし、内容も話したいと申し入れたが実現しなかった。
 Gさんの態度がうやむやのままに結局、実行委員会は解散する破目になった。

 公演実現の話がでてきてそれが流れることは、この世界ではままあることだとわたしは思っていた。

そうやって吉祥寺公演が実現した

 しかし、弟の雅義にはそれが通らなかった。「東京公演を楽しみにしていた和力のメンバーはがっかりしているだろう」と雅義の奮戦が始まる。

「吉祥寺シアターの空き日を調べたら、休日では5月4日が空いている。これを押さえようか」と云ってきたのだ。5日連続公演というのはシアター側の原則で、日程に「空き」があれば、1日でも公演が出来るという規則があったのだ。調べていたら、5月4日の空き日が見つかったという。

 弟の厚意だが、弟は興行についてまるっきりの素人(しろうと)だ。その日程で公演することについて、わたしは気が進まなかった。

 わたしは長年わらび座の営業をやってきて、ゴールデンウィーク・お盆の時期・運動会シーズンなどは、公演を組みにくい事を経験として知っていた。

 5月4日は、3、4、5日のゴールデンウイークの中日である。「会場が空いているのも無理からぬことなのだ」とこの業界の常識に照らして納得していた。

「シアターの空き日の中で、休日が空いているのはここしかないですよ。和力にとってチャンスです。思いきってやりましょう。会場はわたしが取りに行きます。和力メンバーの日程を押さえてください」と雅義は強くわたしを説得してきた。
 新宿公演がなくなってがっかりしているメンバーの士気を心配していたのだった。

 後で、期待していた新宿公演がなくなったら、それより良いものを提示するのが自分たちスタッフの使命だろうという彼の流儀を聞かされた。
「新宿が流れたからこそ、こういうことが出来た」というように持って行きたいと、言うのだ。「だったらもう、吉祥寺シアターでの公演しかないじゃないですか」。

 弟の意気はよしとしても、いかんせん、日程に危険が伴った。

 わらび座で営業の経験があるわたしの連れ合いも「連休の中日はお客さんが集まらない」から危険だと云う。
「営業の素人にはそんな事わからないからなぁ」とため息が思わずでる。

「5月4日を押さえてきました。やはりすてきな空間で、この会場で和力を見てみたいと思いました。やるほうも見る方も満足する会場です」。とうとう雅義が実力行動に出たのだ。

 こうして吉祥寺公演が実現した。

若い清新な提案を聞いて決心をした

 松戸の公演が終わって、一息いれる間もなく、吉祥寺で実行委員会をつくりたいと模索するけれども全然しらない土地である。足がかりがなかなか見つからない。

 雅義から次の矢がまたまた飛んでくる。「調べてみたら連休明けの月曜日8日が空いていますよ。なんなら次の9日も押さえて連続公演したらどうだろうか」と恐ろしげな事をいい始める。素人だから、なぜその日が空いているのか理由がわからない。
 連休中日の4日だけでもどうしようかと考えているのに、連休明けの初日のウイークデーとは何を考えているのだ。閑古鳥の鳴く会場を想像するわたしに震えが走る。
 まして、4日から8日といえば連続ではなくその間に空き日がある。こんな効率の悪い日程設定を迫られてわたしは頭を抱えた。

 一方で、公演する吉祥寺の地元に根づくためには、平日の上演も必要なのかなと心がゆれる。

「4日は祝日の公演でしょう。この日には遠方の和力ファンに来てもらうことにして、吉祥寺周辺の方のために平日にもやるべきですよ。お勤めを持つ地元や近辺の方は仕事が終わってからそのついでに足を運ぶのじゃないかしら」と、こんどは若い桜子ちゃんから平日公演を提起された。
 彼女は彼女で新宿公演が流れたために、責任を感じてくれたのだろう、「わたしもお手伝いをしますから」という思いもかけない提案で、それでわたしはようやく8日(月)の追加公演を決心したのだった。

 とはいえ、「とうとう2日間の取組みになった。どう手を付けていこうか」元・営業のプロは心細くなっていた。

 チラシ・チケットの印刷を依頼してその完成を待つ間、吉祥寺で実行委員会が発足できないものかいろいろに探しまわった。
 その見こみが立たないままに3月を迎えた。シアター公演は5月なのだからなにしろ一歩前に踏み出さなければ時間切れになってしまう。

またも眠れない日々が訪れた

「果たして197の席が埋まるのだろうか」、「ゴールデンウィークの時期だしわらび座の営業時代にはこの期間を避けていた」、「それも飛んでいる日程での2日間公演だ」。
 とても無理なことだ。30人も集められるだろうか。それさえ自信がもてない。会場費・宿泊代・印刷費・ギャラをどう生み出せばいいのだろう。
 3年すれば満期をむかえる生命保険を解約して赤字を埋めるしかない。それを使い切ってしまったら我が家に経済的余裕はなくなる。パートの口を探して生活を守ろう。現実的な問題がわたしの頭を支配し始める。
 
 このように初めは「客席がガラ空きになるのではないか」との懼(おそ)れで眠れない日がつづいた。

 そのうちに営業の苦境を知ってか知らずか和力本部から朗報が届いた。「4日の公演が終わったら、空いた期間で小合宿を持って8日の演目を少し変える稽古をする。そのための仕込みに入った」というものだった。
 普通にはとても考えられない提案がされたのだった。
 いままでいろいろな劇団の制作過程をみると、ひとつのプログラムを決めたら1年間以上はそれを変えずに演ずる。同じものをやって全国を巡って、それが一巡したあとに演目の一部手直しがあるというのが、この業界の通常だと思える。

 和力側の新しい提案は、それを197席の会場のために、たった2日間の公演のために、一部分といえども演目を変えるという。
 
 これは営業にとってはとてつもない朗報だった。なにより自分たちの作品を常に新鮮に作り直す意欲にうたれる。更には4日に観たお客様を、通しで8日にお誘いできることにもなる。
 たとえ同じ演目であったにしても、和力の舞台は2日みても飽きないステージだというのは十分にわかっている。古典落語を何回きいてもいつも新鮮に笑えるのと同じ味わいがあるのだ。

 桜子ちゃんや雅義の進言に始まり朗からの提言は、既成のものを乗り越える新鮮さがあふれている。これに気づいてシアター公演取り組みの気持ちをわたしは切り替えることができた。

慌ててHPで4日分のソールドアウトの告知を依頼した

 公演日を5日後にひかえた4月30日、取組みの最終段階にはいって今度は別の意味で、またも眠れない日々が訪れたのだ。こんどはお客様が多すぎてしまう事態に入り始めたのだ。

 2~3日前から電話・ファクスでのチケット申しこみが急に多くなってきた。連日3件ないし4件はある。
「チラシをみた」、「出演者のHPを見て」、「いつもの広報を読んで」(弟・雅義が定期的に300通をこえる通信をだしている)などの効果が行き届き始めたのだ。そして、連休真ん中の4日(祝)の座席が埋まっていく。
 4月30日の集計では184席が決まった。座席数は197であるからこれは大ごとだ。受付などのスタッフの数はカウントしていないから、すでに満席の状態にある。

 帯名久仁子さん(出演者)から届いたメールでは「東京人は予約なしに当日フラッとあらわれる」と云っている。それが切迫感をもってわたしの気持ちに入り込む。
 そんなことになったら会場に人があふれて収拾がつかなくなってしまう。

 朗の「定員オーバーでよいなどと想像もしないでください」という言葉が再びよみがえって来て、わたしに重くのしかかってくるのだった。

 慌てて和力HP担当の雅義にメールをした。「HP上で4日は完売、8日へのお誘いを出してくれ」と頼んだ。
 ステージ両サイドの座席と最後部の座席をミキサーなどに使わなければ、239人までは大丈夫とシアター側から説明を受けている。そうすると、約40席ぐらいの余裕はまだあるが、これは取っておこう。なにがあるか分からない。

 杉並区在住の元わらび座員のU君は、独自のチラシをつくったり、いままで培ってきた人脈を総あたりして、和力を取り組んでくれている。「預かったチケットが足りなくなったので整理券を発行した」と云っていた。その話があった当時は「閑古鳥」の予想を立てて不安があったから、ついつい「そういう事もありとするか」と止めもしないでむしろ「頼もしく」思っていたのだ。

「整理券」だからこれを持参してくれれば前売り料金で入場できる。しかし正式のチケットでないから「お預けした中でどのくらい出ていますか」と電話などで伺う訳にもいかない。不特定多数の方々にその整理券が大量に出まわっている。
 当日券は15枚ほどはでることは通常だし、その当日券とU君の整理券のために残っている座席を確保しておくのだが、これ以上に超過したらどうしょう。それを思うと心配になって夜中に目覚めてしまうのだ。

営業のプロだった者が脱帽した

「今回ばかりは営業の素人に負けた」と感じている。連休は集客に向かないとの思いは、もしかすると専門家の勝手な思い込みだったのかもしれないと考えるようになっている。

 日程は飛んでいるにしても2日間の上演日を組まなかったら、大変な事態を引き起こす所であった。
 いや、キャパシティを思い切って大きくした(4日だけの設定を8日も追加した)ことで相乗効果が生まれた可能性もある。

 そういえば朗は別の話で「素人の方は大胆な発想でハッとするようなことをやることがある。それで一歩進む。あるいは切り拓ける。専門家の既成概念を打ち壊すこともある」と云っていた。

 興行を組む営業のプロだったわたしは、今回ばかりは営業の素人に目を見開かされたと脱帽するばかりである。

 それにつけてもマネージャー稼業は因果なものである。取組みの前でも寝られない日々を送り、最終盤においてもそうなのだから。

 ちなみに4月30日現在のチケット状況。
 
 4日公演  →186人
 8日追加公演→ 78人

 



夜灯虫の中で最初に旅立った

2006年04月29日 | Weblog
グループでは異色な存在だった

 高校時代の友人M君の一周忌が、神楽坂の料理店で催された。

在学中に「夜灯虫」というグループがあってハイキングに行ったり、自分たちの書いた日記を廻しあって喜んでいた。
 M君をふくめて男性が6人、女性も同じくらいの数がいた。みんな昼は働きながら夜に学んでいた。
「夜に灯火を求めて集う虫」。即ち「夜灯虫」とグループを名づけた。

 夏休みには裏磐梯の五色沼や、長野の高原へ出かけていった。男女混合でのキャンプは飯盒炊飯(はんごうすいはん)も楽しく、日頃の勤務と勉学の疲れを忘れさせるものであった。

 M君はそこにいつも参加していた。
 彼はこのグループでは異色な存在であった。メンバーのみんなは学校の授業にはそこそこについていくくらいの勉学レベル。女性たちはいざ知らず男性の一部は、授業の初めに出席の返事をしたら、机と椅子の間を這って教室を抜け出したりする事もあった。
 抜け出しては学校の近辺の住宅街で、熟れた柿を探しまわったりする。早稲田大学が近くにあり大隈講堂の前に池があった。「鯉をつかまえて食おう」とつまらないことに胸をどきどきさせたりしていた。

 M君はそのような行動には加わらない。
 わたしたちの学年は2クラスあったがその中でも彼の学力は抜きん出ていた。抜きん出ていた者は優等生としてのグループがあった。
 彼はそこには入らないで、人を驚かせるのを喜び、いたずら好きなわたしたちの仲間になっていた。
 あまりに度のすぎたいたずらには、「おまえなぁ…」とやんわりと注意をする、大人の雰囲気があった。
 両親を早くに亡くしてお姉さんと二人の生活だった。
 
 わたしたちは卒業してそれぞれに進路は分かれた。
 彼は現役で公立大学に進んだ。わたしは演劇青年になり、5年ほどしてわらび座に入る。

大会社の役員とはとても見えない物腰であった

 さらに年月は経って30才を目前にする頃、わたしはわらび座の営業で沼津市を担当することになった。
 M君は大手デパートの衣料課長でそのころ偶然に沼津市に住んでいた。わたしにとって初めての営業で右も左もわからないころ、「泊りに来い」とすすめられて一晩お世話になった。彼の結婚相手とも初めて会った。
 もうすでに40年ちかくも前の記憶だから、住まいは海辺に近かったような気もするし奥さんの顔も定かには思い出せない。
 ただ、くつろいで飲み明かしたことだけは鮮明に思い出す。

 そして更に年月が通りすぎる。彼が大手不動産会社の役員となったと聞いた。だれでも聞けばすぐに名前が分かる会社だ。

 年に1回ほど元「夜灯虫」の連中が集まり、会社役員のM君も気軽に参加していた。泊りがけの旅行にも来ていた。泊った翌日には「ゴルフの約束がある」と、早く退出してはいたが朝早く起きて、夕べやったバーベキューの片付け・掃除などを丹念にやっていた。
 大会社の役員とはとても見えない物腰であった。

「Mの体調が優れないようだ」と聞いたのは1昨年の夏頃であった。「下半身が痛いと云って会社を休んで自宅療養しているようだ」とその友人は云う。足腰が痛いのはゴルフのやり過ぎじゃないのか…ということでわたしとの話はおわった。

 昨年の春先に「どうもMは重い病いのようだ。見舞いに行きたいのだが、やつれた姿をさらすのはいやだと会社の人にも見舞いを断っている」。
 それでも養生すれば治るだろうとその友人は話していた。

 突然の訃報が届いた。

 上野にある大きなお寺で葬儀が営まれ、それは会社葬でありたくさんの参列者に、列席したわたしは驚かされた。
 四十九日忌はこれまた築地の名のある寺院であった。
 M君のお姉さんによると、M君は体調が万全であったなら、春に経営のトップに就くことが決まっていて、会社も病いの回復を待っていたのだと云う。

 わたしの小学生時代・高校時代のつき合う友人の中で、M君がいちばん早く旅だってしまった。
 
 一周忌の当日、屏風の前にしつらえられた台の上にM君の写真があった。お線香はない。参列者は押し出されて一輪の白菊をそこに手向ける。

 壇にある穏やかな笑顔の写真を見つめると、「おまえなぁ……」と今にも云いそうなM君の顔が間近にあった。


吉祥寺公演10日前のアピール

2006年04月20日 | Weblog
日本芸能 和力wariki 吉祥寺公演
  
                 サポーター・協力者のみなさまへ


 ときおり寒さがぶり返しますが、若葉が萌え出る澄明な季節となってまいりました。いよいよ和力の公演まで2週間余となっております。

 現状を報告いたします。

 4月19日現在での状況をご報告します(吉祥寺シアターの座席は197席です)。
     5月4日(木・祝)の参加確定 → 149名
       8日(月)        →  91名
 
 武蔵野市吉祥寺は、わたしたちにとって初めて取り組む地域でした。どこからお願いに行ったらよいか戸惑いながら出発しました。
 公演2週間前で4日が100名を超え、8日が100名に近づく事ができるとは当初、予想もできませんでした。

 昨年の「愛・地球博(愛知万博)」で政府出展事業「日本伝統芸能十八撰」に、全国192団体の内から25団体が選ばれ、「にっぽん華座」で出演したとはいえ「和力」はメジャーな団体ではありません。
 
 和力は、ご覧いただけている方は関東地方において、そう多くはおりません。

 松戸・名古屋・長野・神奈川・山梨・金沢などで和力公演を取組み、あるいはご覧になった方々が予約をされて席数が積みあがってきました。
 地元の武蔵野市をはじめ、中央線沿線の地域の方々で動いくださる方がいて、ここまで達することができました。ありがとうございます。

「和力」はご覧になったすべてのお客様にご満足いただけますように、4月末には3日間の合宿を本拠地の長野で行います。
 8日は演目の1部を差し替えて上演しますから、4日が終わりましたら2日間の稽古期間をとっております。
 きっと満足いただけるステージになることでしょう。ご期待ください。

 席はまだ残っております。みなさまお持ちのチケットを更にご家族・友人・知人の方々にお勧めいただければ幸いです。
「4日、2名確定」などとファクスなり電話でお知らせ願えれば、現状を把握するのに助かります。お手数ですがこの事もよろしくお願いいたします。

            特報


10月の横山コンサートを目指して

     10月29日(日) 会場  武蔵野公会堂(吉祥寺駅より2分)
               時間  15時30分 開場  16時 開演
               料金  一般 3,500円(当日 4,000円)

 
     出演者
           歌       横山 茂
           ピアノ     安達 元彦
           アコーディオン 岡田 京子
                   横山 孝子

           舞・太鼓    加藤木 朗
           三味線・太鼓  小野 越郎
           舞・太鼓    加藤木 磊也

           
「吉祥寺シアター」での和力公演は5月に終わります。
 次の企画は、わらび座を創設した横山茂さんのコンサートを主軸に、わらび座で生まれ育った朗と小野越郎、そして朗の長男・磊也(中学2年生)が賛助出演をしての公演を企画しました。
 横山茂さんが種を播き育てた伝統芸能が、3代に亘って受け継がれていることを横山さんと同じステージに立って披露いたします。
 80才の横山さん、30代の朗・越郎そして磊也は10代の3世代となります。

 磊也は1昨年の「長野スペシャルオリンピックス」、昨年の阿智村公演、愛知万博公演などに出演しました。父親の朗と共にいろいろなイベントでも活躍しています。神楽などの太鼓演奏を受け持っているのです。
 磊也が青森・田子の「鶏舞い」をマスターしたと今年の初めに聞きました。朗の鶏舞いは舞台の白眉として何度みても飽きません。重厚さを秘めながらも軽々と踊っているが、かなり難しい舞いであることはよく分かります。
 その舞いを受け継いだということを聞き、磊也の初舞台はぜひ横山さんと一緒のステージでやりたいと念願したのです。
 「日本の庶民が育んだ伝統芸能を世に先駆けて押しだし、全国で多くの共感をかちえたヨコちゃんの播いた種は、こうして受け継がれている」と横山さんに見てもらいたい。
 
 日本の民謡が「酒の席で唄われるものだ」、「退屈きわまるものだ」と普通に思われていた時期、昭和20年代に横山さんは東京から民謡の宝庫・東北の秋田に定着しました。
 農作業を手伝いながら田の畔で、いろり端で、生活を語り合いながら農民からじかに民謡を教わっていったのです。
「わらび座」の学校公演・青年団などの地域公演が旺盛に展開されて、公演を担う主体はさまざまに変わりながらも、全国に広がっていきました。
 今、数知れずある和太鼓グループのルーツを辿れば、わらび座を秋田に定着させその初代座長だった横山茂さんに行きつくのではなかろうか。そんな事をわたしは思ったりもしています。
 横山さんの病いの進行は予断を許さないものであるけれど、歌えるかぎりいつまでも歌いつづけてほしい。10月もむろんの事その先いつまでも…と願っているところです。

 みなさまの引き続くご支援をよろしくお願いいたします。

                                 06、4、19

                           和力事務所 加藤木 照公

いちばん避けたかった仕事に舞い戻った

2006年04月14日 | Weblog
布団の持ち主はもっと迷惑だったのだろう

昨年の4月に和力事務所を立ち上げたのだから、この時期になるとわたしのマネージャー生活も1年を経過したことになる。

 わたしがわらび座に在籍していたのは、23才から45才までの間である。最初の数年間は舞台に立つ演技者として過ごしていた。
 長男の朗が誕生する直前に普及部(営業)へ転部となった。陣痛が始まった妻を町立病院へ送り部屋にとってかえす。すんでのところで「静岡営業団」の出発に間に合った。汽車に乗りこみ静岡へと向かった。そんな慌しい中でわたしの初めての営業への旅立ちが始まったのだった。

 ほどなく「母子とも元気」と座の総務部より朗誕生の電報を受け取った。最速の通信手段は電報の時代だった。

 電報を受け取ったのは三島市でであった。富士山が雪を抱いて青空に輝く日であり、清涼な涌き水が溜まり、そこに萌え出た若葉が映し出されていた。。
 朗が生まれた5月、わたしは沼津市・三島市・伊東市の3ヶ所を担当して、わらび座公演実行委員会を立ち上げようと多くの人の間を動き廻っていたのだ。

 わたしが営業に転じたのは28才、1967年のことである。
 どこになにがあるやら皆目わからない土地であっても、労働組合・文化団体・サークルなどに行って、実行委員会結成の呼びかけをすると、執行委員会などで話し合ってくれた。
 労働組合が、文化部なり青年部を紹介し実行委員会に参加させてくれた。広範な人が集う実行委員会に青年を参加させて、地域の実情をつかみ視野を広げられるよう、青年を育てるとの願いが執行部にはあったにちがいない。
 まだ労働組合が社会的に力を持っている時代だった。

 実行委員会での役割分担、組織・宣伝・財政・渉外などは集まったメンバーが手分けして担当する。それぞれの得意分野を担って、みんなで作り上げる公演形態だった。その中心として実行委員長と事務局長を選んでいただいた。

 わたしたち営業部は担当する地域を駆け巡って、実行委員会事務局長と連絡をとりあい、定期的に開く実行委員会で次の会合までになにを用意するか、新たにどういう所に呼びかけるかなどを相談しあった。
 こういうことは座の営業担当者がひとりで担うから他に代わりはいない。長子が生まれたからと言っておいそれと仕事の手を離すわけにはいかなかったのだ。
 公演の実現まで3ヶ月の期間を要する。そのくらいの期間がなければ会場にお客さんを集められない。

合間をぬって、ばたつく朗を行水させる

 だからわたしが誕生した朗と対面できたのは、静岡での3ヶ所公演が成功した後、生まれてから3ヶ月後のことになった。

 暑さが厳しくなった7月、秋田のわらび座本部に帰り初めて抱っこをした。あお向けにそったり、手足をばたつかせる赤ん坊をどう抱いたらよいのか戸惑った覚えがある。すべり落としたらどうしようかと懼(おそ)れたのだ。

 だが、新しい父親が子どもとの交流に与えられた時間は、休養もふくめて2週間ぐらいしかなかった。
 三島市・沼津市・伊東市での公演結果の整理をすませると、次に担当する宮崎県の地図を買いこみ、今まで支援していただいている方、団体の名簿などを作成する作業が待っていた。
 新しい地域に降り立ったら先ずどこを訪ねるか、経験豊かな営業の先輩たちに聞きまわるのも仕事のひとつだった。
 新たな営業団の会議は連日のように開かれる。

 会議や仕込み調査の合間をぬって、ばたつく朗を行水させるのがわたしには楽しみだった。

 東北の秋田とはいえ7月の太陽は強烈に照りつける。大きく育った向日葵(ひまわり)など草花は、昼日中ぐったりと葉っぱがしおれる。田んぼの稲はそよとも動かない。セミの鳴く声だけが晴れ渡った青空の下に響き渡る。
 午前中から盥(たらい)に水を張っておくと、昼休みのころには水でうすめなくてはならないほどの熱さになる。湯沸かし器など、まだ存在がしていない。

 新米の父親は、張って温めた湯の中に赤ちゃんを落とさないように緊張しながら行水をさせるのだった。

 終了した公演地の整理・決算と、次の公演地の仕込み・調査を終えた2週間後、宮崎県に向かう。宮崎市・延岡市・日南市がわたしに与えられた次の担当地だった。

甘ったれていたのではないかと、冷静になっては考える

 この頃わらび座の営業は定まった住居を持たなかった。財政が困窮していて予算が組めないのだ。

 それぞれの地域に行っては、わらび座員の親類宅に泊めてもらったり、団体事務所の宿直室や公演を取り組んでくれる組合青年部員の寮、下宿先などにお世話になっていた。
 下宿先に行っても布団は1枚しかない。狭い布団で二人して寝るのは常で、窮屈で閉口したものだ。お邪魔する側がそうだったのだから、布団の持ち主はもっと迷惑だっただろう。

 会社の寮に連れていってくれる青年部員もいた。ここでは、空いている部屋を寝泊りに使わせてくれるので気が楽だった。
 夜、実行委員会が終わって遅く帰っても、寮の食堂には残り物があり気がねなく食べることができた。翌朝、寮の住人と食堂に行くと賄(まかな)いのおばさんが分けへだてなくご飯をよそってくれた。何回か泊るうちに顔見知りになって、残り物を保存してくれるようになった。

 あの当時、たくさんの方々のご厚意でお世話になったが、今にして思えばきちんとお礼をしていただろうかと振り返り、冷や汗が出る思いがする。

 座員の生活は当時月々3,000円の現金支給だったし、「わらび座員の生活は厳しい」と世間には知れ渡っていた。
 それで宿泊や食事などの面倒を沢山の方々に受けていたのだが、公演が終わった後にお礼状を出したにせよ、それで事足れりとしていたのではないかと、いまとなっては汗顔するのだ。
「自分たちは経済的に厳しい、家族とも離れて活動している」というのが錦の御旗となっていたのではなかったか……と自分自身を振り返ってみると、「正義はわれにあり」みたいに甘ったれていたのではないかと、冷静になっては考える。

翌日のスケジュールを手帳で確かめるのは夜中になる。

 宮崎の公演は台風の来る頃に終わった。
 
 延岡市での公演には、山あいを縫って高千穂町から、教員を中心にした実行委員会がバスを仕立ててやってきてくれた。
 延岡公演のあった翌日には台風が襲来して、街路樹として咲き誇っていたハイビスカスの花びらと、葉っぱがたくさん歩道に散った。雨上がりのしっとりした道路に散乱していたハイビスカスの鮮やかな色は、今でもわたしの目に焼き付いている。

 多くの方々の善意に支えられわたしは営業生活を15年間やってきた。
 息子の朗は高校生になった。

 わたしの末の妹が結婚することになり母は独居老人になってしまう。わたしは今まで母親を支えてきてくれた4人のきょうだいに感謝し、長男として母の老後を看(み)るためにわらび座を離れることにした。22年間の座員生活だった。

 そうしてサラリーマン生活を送ることになった。毎日おなじ時間に起き、電車に乗り、帰って来るという決まりきった日常生活だ。
 高校生活の終わりにわたしは、決まりきった生活ではなく変化のある生活、たとえば社会の正義のため、悪を追って昼も夜もない生活をする新聞記者、ジャーナリストになりたいなんて夢想していた。
 若い頃、いちばんやりたくなかったサラリーマンの生活に45才にして初めてなったのだ。
 だが、しばらくすると、夜も昼もなく休日なども取れなかったわらび座の営業時代をふり返る余裕が生まれるようになった。

 わたしのサラリーマン生活は、朝7時に職場に入り夜は7時、8時までの長い勤務時間であった。でも、仕事の終わった残りの時間はもちろんの事、休日も自分の時間としてもつことができる。このことがわたしには新鮮な驚きだった。世間では当たり前のことなのだろうけれど、なんという贅沢なことなのかとわが身を持て余したのだった。

 手帳いっぱいにスケジュールを書きこみ、忙しさに明け暮れしていた頃とは違う。予定でぎっしり詰まったスケジュールに左右されない時間を過ごすことがこんなに幸せなのかと感じたのである。

サラリーマン生活は、朝、会社に行くと自分がやるべき仕事が決まっていることもわたしの気持ちを楽にさせた。決められた作業をこなしていけば1日が過ぎて、人並みのお給料がいただける。

 座での営業ではいちにち一日の仕事を自分で築かなければ始まらなかった。電話で約束を取り、相手と会う日時を決める。相手のあることだから先方の都合だってある。こちらは頼む立場なので相手に合わせるしかない。書いたスケジュールが消され、その上に新しい予定が書き足されるのは常であった。

会議があると聞きつければ行って公演のアピールの時間をもらう。おまけに夜には実行委員会や事務局会議がある。翌日のスケジュールを手帳で確かめるのは夜中になる。
 同時に3ヶ所の担当地をもてば手帳が真っ黒に埋め尽される。

そんな、座の営業の過酷なスケジュールに馴れた身には、会社勤めが大きな安息をもたらしてくれた。

営業部員の小さな肩に座の運命がかかっているのだった

 わらび座の営業は、担当する公演地の集客に責任をもっている。決められた公演日までにたとえば800名の会場を埋めるべく動き廻るのだ。
 公演を成功させなければ、一時は300名を越えるまで膨れ上がった座員の生活を支えることはできない。営業部員の小さな肩に座の運命がかかっているのだった。
 朝から晩まで駆け回り3ヶ所を全部、均等に成功させることはとても過酷な作業となった。実行委員会が勢いよく活動をしている個所があっても、3ヶ所のうちのどこかは担当者が全ての作業をやらなくては進まないところも出てくる。
 こういう所は、座を離れて23年も経つのに、夢にでてきてうなされ、寝汗いっぱいで目覚めることが、年に数回はあるのだ。「公演班を迎えるのにチケットもチラシもできていない…」。「空白の座席をどうするのだ……」。
 すでにサラリーマンになったわたしの心に襲いかかる…。
 そのうえ、営業部員にとって公演予定地は、右も左もわからない見知らぬ土地がほとんどだった。部員はそこでの人間関係を最初からつくり始めて、実行委員会を組織してようやく営業を成功させる。
 するとまた見知らぬ土地で次の営業が待っている。

 行けども終わりのない過酷なレースともいえる。もう再びスケジュールに追いまくられる生活は懲(こ)り懲りだと、サラリーマン生活をわたしはのんびりとを満喫していた。

 70才まで働けば住宅ローンの目途はつく。
 厚生年金はサラリーマンになってからの加入だ。加入期間が短いので受け取る額は少ないがローンさえ返し終われば、わたしと妻と2人分の年金を合せてなんとか食べてはいけるだろうと思っていた。
 だから70歳までは働いて、その後に朗のやっている和力の手伝いをやろう、などとわたしはのんびり構えていたのだ。

 一昨年の夏頃「佐倉市の幼稚園で公演をやるからその前後に、父さんの住んでいる松戸市で公演ができないだろうか」と朗から打診があった。
 名古屋など和力公演は何度か見ていたから、それなら住んでいる松戸でやってみようかと思いたった。
 
 わたしはサラリーマン生活をつづけながら実行委員会の呼びかけをした。
 松戸市を本拠とする「東葛合唱団はるかぜ」団長の荒巻忠男さんが実行委員長を引きうけてくださり、7名の実行委員で05年1月21日「松戸市民劇場」での公演は、立ち見がでる大盛況のうちに終わった。

「やれやれひと仕事おわった」と思う間もなく、朗から「事務所を立ち上げて応援してくれないか」と追い打ちをくらう破目になる。

 また再び、スケジュールに追われ不安定な日常に戻るのは、いくらまだ体力に余力があるにしてもご免こうむるとのわたしの思いは強かった。
 でも、わたしが関わった松戸公演で、朗の芸や、木村さんたちの芸を身近かに触れてしまい「このままにしておくにはもったいない」と思ってしまった。これが運のつきだった。
 
 今では和力の広報をしてくれているわたしの弟の雅義に相談を持ちかけると、「今までの営業の経験を、こんどは座のためでなく息子のために使えるのだから幸せなことじゃないか。自分も応援するからやるべきだ」と背中を押された。
 朗の母親であるわたしの連れ合いも「わたしは65才で退職したいと思っていた。少しのんびりしたいと65才になるのを楽しみにしていた。でも仕事をつづけていく。経済的に少しは支えていけるから手伝ってあげたらいい」と看護師を続けていくという。

 わたしがいちばん避けたかった仕事に舞い戻ったのは、こんな次第なのだ。

この4枚がスタートとなり動きだしたのだ


 4月も半ばになって、事務所開設からはすでに1年過ぎてしまった。

 この間、和力の学校公演をやりたいとかなりの学校へ働きかけた。数百校に案内をだしたが問い合わせすらこない。わたしはかつて学校の営業もやっていたから、この事態を意外に思っている。
 一般公演の組織もまだ手探りの状態だ。
 わらび座での営業生活を離れて22年の年月の間に、取組みの様相はすさまじく変わっているように思える。
 かつては団体から派遣される人と、個人が混在しての推進母胎としての実行委員会があった。
 そしてそれは地域を網羅するものであった。団体でのチケット販売が仕事の大部分を占めていたものだ。

 今は団体で実行委員を選定し送り出す機能はなくなったのではないだろうか。趣旨に共鳴した個人が寄り集まっての波及力が、圧倒的になっているように思える。
 もしかするとこれが本来の文化の取組みなのかもしれない。

 和力初の東京公演を、今年の5月4日と8日に「吉祥寺シアター」で開催する。わたしにとっては初めての実行委員会ではない公演形態となる。
 興行界での符丁でいえばこれを「手打ち公演」ないしは「自主公演」と呼ぶ。
 公演すべき地域に実行母胎ができないとき、やむなく自らの力だけで公演を実施する形態をいう。
 連休の狭間と連休明けの飛んでいる日程の公演であり、「手打ち」とくれば悪条件が重なり合い、とても観客動員の自信がもてない。
 座席数は197であっても50人もきてくれるだろうかと、心配のあまり夜中に目覚めて寝つけないことが何度もあった。

 取り組み始めてすぐに「2枚のチケットが売れた」と馬場守弘さんから弾んだ声での電話があった。馬場さんは松戸の実行委員をやってくださった方だ。職場が「吉祥寺シアター」のあるJR中央線沿いにあったし、ある劇団の後援会長として活躍されて20代の頃よりこの地域には馴染みがあった。
 そして名古屋の和力ファンから「4日も8日も観に行きたい」と連絡があった。
 この4枚がスタートとなり動きだしたのだ。

 たくさんの個人の方がチケットを預かってくださりとチケットが動き始める。

 4月14日現在の状況。
 5月4日の参加確定は133名となり、8日は76名となった。不確かな数字も少しふくまれているが、一人ひとりのちからが集まって座席を塞ぎつつある。



チョキを出すのは次の機会にとっておく

2006年04月06日 | Weblog
「宵(よい)のうちから関東地方は雨になり、明日の午前中いっぱいは降りつづくでしょう」との天気予報を昨晩聞いた。「明日は雨の中での行動になる」と覚悟して寝たのだった。

「武蔵野公会堂」10月のホール使用申しこみ抽選が、翌日の第1水曜日に行なわれるのだった。

「吉祥寺シアター」での和力の公演は5月に終える。

 次の企画は、わらび座を創設した横山茂さんのコンサートを軸に、わらび座で生まれ育った朗と小野越郎、そして朗の長男・磊也(らいや・中学2年生)が賛助出演をしての公演を構想していた。
 80才の横山さん、30代の朗・越郎、そして磊也は10代である。わらび座ゆかりの3世代が同じステージに立っての共演は、会場を確保できてこそ実現されるのだ。

 磊也は1昨年の「長野スペシャルオリンピックス」、昨年の阿智村公演、愛知万博公演などに出演した。父親の朗と共にいろいろなイベントでも活動している。お神楽などの太鼓演奏を受け持っている。

 その磊也が青森・田子の「鶏舞い」をマスターしたと今年の初めに聞いた。
 朗の鶏舞いは舞台の白眉(はくび)として何度みても飽きることがない。重厚さを秘めながらも軽々と踊っているが、かなり難しい舞いであることは、少しだけだが舞台経験のあるわたしにはよく分かる。

 その舞いを磊也が受け継いだということを聞いたのだった。その時、磊也の初舞台はぜひ横山さんと一緒のステージでやりたいとわたしは念願したのだ。
「日本の庶民が育んだ伝統芸能を世に先駆けて押しだし、全国で多くの共感をかちえたヨコちゃんの播いた種は、こうして受け継がれている」。横山さんにぜひ見てもらいたいと思ったのだった。
 もしかしたら間に合わないかもしれない。しかし、横山さんが歌手活動が出来る間にせめて3代の共演を実現したいと考えるのはわたしだけの独りよがりではないという思いはあった。

 日本の民謡が「酒の席で唄われるものだ」、「退屈きわまるものだ」と一般的に思われていた時期、昭和20年代に横山さんは8人の若者と共に東京から、民謡の宝庫といわれる東北の秋田に定着し、わらび座を創設して初代の座長となった。

 当初は住む家もなく心ある農家に分宿させてもらい、農作業を手伝いながら田の畔で、いろり端で、生活を語り合いながら農民のみなさんからじかに民謡を教わっていったのだった。
 手伝いが終わって夜になってから、みんなが集まり稽古をする明け暮れが長い期間つづいた。
「わらび座」の学校公演・青年団などの地域公演が旺盛に展開されていくようになり、公演を担う主体はさまざまに変わりながらも、秋田から東北一円にそして全国に公演が広がっていったのだ。

 今、全国に数知れずある和太鼓グループのルーツを辿れば、わらび座を秋田に定着させその初代座長だった横山茂さんに行きつくのではなかろうか。そんな事をわたしは思ったりもする。
 横山さんの病いの進行は予断を許さないものであるけれど、歌えるかぎりいつまでも歌いつづけてほしい。10月もむろんの事その先いつまでも…と願って、先ずは会場押さえに行くのだった。

 朝5時に目覚めた。
 てっきり雨が降っているだろうと思った。雲は低く垂れこめているがまだ降ってはいない。9時半までに吉祥寺にある武蔵野公会堂に着かなければならず、7時半に家を出る。

「おれはくじ運がないからなぁ」と曇り空を見上げて駅にむかう。
「使用したい日が他の人とダブっていたら抽選になるのだろうな。くじを引くのかあるいはジャンケンできまるのか、どちらだろう」。電車に乗っても気が気ではない。

 ジャンケンだったら…まずチョキをだそう。そう決めたらなんとなく落ち着いて電車の窓からの景色も目に入る。
 今を盛りと咲く桜の木は、曇り空の元でこんもり柔らかい花の山を築いている。吹く風で花びらが舞い上がり、舞い落ちる。一瞬の突風で地吹雪のように空中で渦をまく。まるで東北の雪景色を見るようだ。雪も穏やかな風のときには、風のまにまに漂い空中でひらめきながら舞い落ちていた。花吹雪が舞うように豪華な地吹雪となって辺り一面に立ちこめる。

 吉祥寺駅に着いた。
 
 雨が少し降り始めている。申し込み受付の9時半までにはまだ40分もある。
「これから勝負に行くのだ」と気がはやる。「まずは落ち着こう」。駅前の喫茶店で180円のコーヒーを飲みながら、イメージトレーニングをする。グー・チョキ・パーと指を開きにぎりしめる。希望する日が複数での抽選になったら…ジャンケンになったらチョキにする。再度、自分で確認して9時15分に会場に入った。

 部屋の入り口に長机があり受付順に名前を書き込むようになっている。
「会議室」と「ホール」と「集会所」の3つが今日の抽選の対象だった。わたしの希望する「ホール」の記入者はすでに5名ほどいる。

 10月の使用状況が前の黒板に表示してある。
 わたしの目指すのは磊也が学校を休まずに来る事ができる、土曜か日曜日あるいは祝日だ。
 武蔵野市の行政としての使用が優先されるから、すでに大半の休日と土曜日は埋まってしまっている。わたしの狙える日は9日(祝)と29日(日)の2日間しか空いていない。

 9時半の受付終了まで長机での記入を注視していたら、「ホール」の記入者は10人を越しているように見える。こちらの思い過ごしかもしれないが、ホールの申しこみ者は曰く因縁ありげなつわものが多い気がする。
 その点、会議室の方に記入する人たちは、みんな人柄がよいと思えてしまう。

 このつわものたちに対等な闘いが挑めるだろうか。チョキではなく握りこぶしのグーがよいのではないかと、瞬時まよってしまう。

「チョキにしようか、グーにしようか」思考が一点に集中する。市の職員の説明が始まっているのだがそれは耳に入らない。15分ほども長い説明がつづいている。他の会場申しこみ者を含めると40人ほどが説明に聞き入っている。

 うまく当らなければ11月に延ばそう、でも横山さんはそれまで大丈夫だろうかと説明を聞くのはそっちのけで不安な気持ちを引きずりながら勝負のときを待つ。

「自分はくじ運が弱くて福引きでも、昔はマッチばっかしだったし、最近ではティシュペーパーしかもらったことがない」。「ジャンボ宝くじで1等に当ったと喜んだら組違いで、5,000万円もらいそこなった」と弱気が頭をもたげる。

 最初の抽選は、ガラガラポンを回すと番号がついた玉が落ちるもので、福引と同じ機械だった。でも福引では組違いが最高でしかない。

 この機械で順番を決めて使用したい日がかちあったら本抽選になるのかもしれない。

 そう思いながらわたしは30番目くらいにガラガラポンをした。手元には「②」がでた。②が出てもこれからが勝負だと思っているから感動はない。
 待機している人たちは順番に番号を呼ばれる。とりあえず①の人は「X日、会議室の午後・夜間」と答えた。
 施設の使用は、「午前」、「午後」、「夜間」と3分割されている。そのほかは和力のように朝の合わせ稽古から本番まで1日中、使用する者に「全日」という使用方法が用意されている。

 前の人は、「午後、夜間」の「会議室」だから、何かのサークルのために申し込んでいるのかもしれない。

 次は②のわたしの番だ。

 立ち会っている市の職員は「ご希望の施設と日にちは」というから「ホールで29日(日)の全日使用です」と答えた。すると日付を書き入れと「ホール」という字を赤く囲って用紙を手渡してくれた。
 席に戻って住所など必要事項を記入しながら、これからの指示を待つ。後に残った人たちもガラガラポンをやっている。

 人の番号など気にしてはいられない。
 
 これからが本勝負だ…やはりチョキにしよう。磊也たち孫たちの写真を見ると「ピース」をして写っているのが多い。スポーツ選手などでも勝負に勝ったときよくやっているではないか。勝利を勝ち取るにはやはりチョキに限るのだとグーは放棄することにしよう。

 あとの番号を呼ばれた人ほど、「キャンセルです」という声が多くなる。折角、抽選にきたのに権利放棄とはもったいないことをするものだとわたしは思っていた。

 キャンセルした人たちが退席して熱気のあった部屋は静かになっていく。「本勝負はいつくるか」とわたしはわたしで握りこぶしを固めて待っている。

 でも、どうも様子が変だ。
 
 本勝負の立会人たるべき市の職員4人が片付けを始めている。

 それで「このもらった用紙に書き込めば手続きは済むのですか?」とわたしがあらためて訊くと、市の職員は「そうです」と言って、記入を手伝ってくれる。

 ガラガラポンが本勝負だったのだ。

 わたしが②番で、29日を押さえたから、それを当てこんできた人たちは「キャンセル」をしたのだと今になって気がついた。

 そういえば「②番の方どうぞ」と受け付けていた職員が「29日、大ホール全日です」とマイクを使って復唱していた。ここですでに勝負が決まっていたのだ。

 わたしが②を当てたことは大した事なのだ。

 昼飯は駅の構内で立ち食いそばを食べようと思っていたが、蕎麦屋で鍋焼きうどんを頼んだ。少し汗にまみれて外に出たら雨は本格的に降っていた。

 勝負でチョキを出すのは、次の機会にとっておこうと折りたたみ傘を広げて駅に向かった。

傍を通り抜けた車が突然、姿を消した

2006年04月04日 | Weblog
 わらび座の営業を35年間やり通して60才で退職したHさんには面白い話がある。私の妻と和歌山で営業をしていた頃の話で30年以上も昔のことだ。
 わらび座の営業は当時、和歌山だったら和歌山、奈良だったら奈良の営業グループとして数人が組みになって、公演を打つための活動をしていた。公演を組む対象県の広さによって人数は変わるが、5人から7人くらいの「営業団」が大体の規模であった。

 1人が3ヶ所の地域を担当するのが普通だったから、5人であれば県内15ヶ所での上演活動になる。公演班は3日連続して上演をして、1日の空き日・移動日をとるのが基本だった。
 営業団の責任者はだいたいが県庁所在地を担当している。週に1回、土曜の晩から日曜日いっぱいかけて「団会議」が団の責任者の下宿で行なわれる。
 各地域の取組みの状況を報告しあって、みんなで分析し方向性を出し合う。詰まっている問題はなにか、どう打開していったらよいのかを討議する。活発に動いている地域からはエネルギーをもらう。

 真剣に張り詰めた会議が終わると、「1,000円食い放題」の焼肉屋などに行って大いに食べる。そんなときにそれぞれの失敗談やエピソードが語られるのだ。

「龍神村は山の奥のそのまた奥にある」とHさんは語り出したそうだ。「村に行くには山ひだを切り開いた狭い道をいくつもいくつも曲がりながら行くの」
…車が交叉出来ないほどの崖道をだんだんに登りながら進んでいく。向こうの山陰から自動車が来る。龍神村から来た車だろう。また山に隠れて見えなくなる。私は「こまったなぁ、すれ違えるかしら」と思いながら軽自動車をゆっくり走らせる。一旦見えなくなった対向車が現われた。私は山側ギリギリいっぱいに自動車を寄せて待った。相手の車は徐行して私の車の脇を通過した。「やれやれ」とバックミラーを見たら車の陰も形もない。「これは変だ」と思い車から出て谷を見下ろすと、木立でよく分からないがどうも車が落ちているようだ。「大丈夫ですかー」と叫んだら「おーう」と答える。「あー命に別状なかったようだ」と安心したけど後が大変だった。
落ちた人が「お前が悪い」と警察でごねてなかなか埒があかない。それで1週間くらいして結論がでた。
「Hさんは県外の人で運転も初心者マークがついている。落ちた方はいつもあの山道を通っていて慣れた道だ。このまま進めばどこで交叉できるか、できないか判断できる筈だ。それを一方的に進んで谷に落ちたのは、落ちた方が悪い」との名判決が下って1件落着した。

「確かに横をスーゥと通りすぎたと思った車が、後ろを見るとなにもない。大きな音もしなかったし、まさか谷に転落しているなんて思わなかったから、幻覚だったかしらとゾーと背筋が寒くなった。誰も通らない山道だしここに居るのは私だけだもの。でも念の為に…どなたか下にいますか-と叫んで…おー…といわれたときには安心したの。この山の中に人がいるって懐かしくなった。」
 そんな話を聞いてからすでに30年を経過した。彼女はその後も営業の足として車で走りまわっていた。
 初心者マークの頃のような思わぬ出来事があったかどうかは聞きそびれてしまった。

35年間は長い道のりだっただろう…

2006年04月02日 | Weblog
 わらび座時代に普及・経営の仕事を共にしていたHさんの「ご苦労さん会」が、松戸駅近くの会場で開かれた。
 彼女が60才を機にして、わらび座を退職するという事は前から聞いていた。「体力のあるうちに仕事を見つけて雪のない所で過ごしたい」と千葉市に住む準備をしてもいた。
 それにしてもわたしがびっくりしたのは、34年8ヶ月に亘って普及・経営すなわち営業の仕事をよくぞ続けてきたということである。

 わたしは23才から45才まで22年間、わらび座に在籍していた。一番末の妹の結婚により、独居老人になってしまう母親をひとりぽっちにさせないために、座を離れてサラリーマン生活を始めた。
 サラリーマン生活になっていちばんホッとしたのは、1日のスケジュールが決まっていることであった。
 伝票を書いて電話を受け、近くのお得意に商品を届け、金銭の出入りを記帳して1日が暮れて行く。次の日もきちんとそれを繰り返していく。

 わらび座の営業はお客さんの集客だ。知らない土地を駆け巡って動きをつくる。スケジュールは相手に合わせて組みたてていく。
 自分で仕事をつくりだしていかなくては、公演会場をいっぱいにして公演班を迎えられないのだ。スケジュールは365日同じということはない。朝から晩遅くまで手帳いっぱいに埋め尽くした予定に沿って動き回っていた。

 営業の仕事であればどの会社であろうと、同じような不規則な生活にならざるを得ないとは思うが、やはり知らない土地に行って3~4ヶ月の期間に、数ヶ所の公演地で一定以上の観客を組織する仕事は、たいへんな緊張を伴うものだった。
 わたしは、わらび座を離れて22年以上になるが時たま営業時代の夢をみる。実行委員会を呼びかけてもなかなか人が集まってこない。公演日は迫ってくる。担当している後の2ヶ所は活発に動いているのに、この1ヶ所が持ちあがらない。「チケットもチラシも印刷できない状態なのに公演班がもうじき来る。宿も決めていない」と焦り、気が付いたら寝汗びっしょりになって目覚める。
 こんなことが1年の内に数回はある。これはわたしだけの事かと思っていたら、わらび座で営業の経験がある妻もよく夢でうなされるという。また、わらび座を離れて手広く事業を経営しているO氏もそんな話をしている。

 わたしは22年間わらび座にいたけれど、営業での仕事はたかだか15年ほどやったに過ぎない。
 Hさんはその仕事を35年近くもしてきたのだ。「チケット売りの呪縛から解放され、少しばかりのんびりして…もう少し働こうと思っています」と挨拶していた。
 明るくひたむきに20代から営業の道一筋に歩んで来たHさん、ほんとうにご苦労さまでした…と松戸市のわらび座ファンが20人余が集ったのは、3月26日(日)であった。