1月18日(金)、「和力」がアメリカ公演から帰った。空港から最終高速バスでさいたま市の木村俊介さん宅に泊まる。
19日は柏市のライブ、以後、24日(木)まで柏・松戸・船橋などで小公演・ライブを連続して行った。
ニューヨーク・ロサンゼルスの公演を間に挟んで、かなり長丁場のスケジュールになった。
帰国してから休みもとらずによくぞやるものだ。わたしが以前、劇団の営業をしていた頃は、都市から都市への移動公演が主だったが、目安として3日間公演し、1日空けることが求められていた。
休養と移動日をこうして確保していたのだ。
和力メンバーは、1月8日に集まり、9日にさいたま市で3回のライブ、10日に渡航しニューヨーク・ロサンゼルスで公演、帰ってからの公演を含めると、17日間のツアーということになる。
時差もある厳しい条件のもとで、「よくぞやる」と思うのだ。
19日からは、開催する場所に近い松戸のわが家が、朗・越郎の定宿となった。柏市のライブが終わって、夜の10時過ぎに2人は到着した。
夕食を食べてから来ると言っていたが、「鍋物」の用意して待つ。
グラグラ煮え立つ野菜を美味しそうに食べながら、アメリカ公演での土産話を楽しく聞くことができた。
ニューヨークではリハーサルの時間がたっぷりとれて、会心の舞台をやる準備を整えられた。
照明・音響スタッフのみなさんともずいぶん語り合えた。小野越郎君が「スタッフが日本の方であったから、和力の舞台は余韻あるものになった。アメリカの現地スタッフだったら、照明では原色をたくさん使うだろうし、音響も大きくなって、和力がねらうものと、違っていたかも知れない」と言う。
やはり文化の違いがあるのだろう。舞台は総合芸術だから、演じるものと支えるものが息を合わせることによって、観客との同化作業が成り立つのだと思う。
「和力としての舞台を思う存分できた。そしてそれがはっきりお客さんに伝わったことが嬉しかったことの第一だ」と朗が言う。
「言葉は充分に伝わらないにしても、日本における舞台の反応と外国での反応は、同じだった」。「そうそう、そうだった。どこでも変わりはないと思った」とふたりの会話が弾む。
ロサンゼルス事前パフォーマンス 提供 国際交流基金
20日には松戸市二十世紀が丘でのライブ、昼夜2回の出演である。この日も帰りは遅かった。
21日は、わたしの所属する「は~いビスカス」(知的障害者のボランティア支援の会)での「和力と一緒に新年会」だ。
わたしも参加して前日から会場作り、おでんの仕込みなど、21日当日は会場の飾り付けなどに大勢の人が参加して、和力の到着を待つ。
ニューヨーク公演に参加した千田優子さん、太田幸子さんの報告を交えながら、わが親族のような雰囲気の中で、新年会は進んでいった。
「は~いビスカス」スタッフの菅沼ミオさんが、感想をファクスで送ってくれた。
…「ほんとうにありがとうございました。こんなにも素敵な舞台がは~いビスカスで開催されたなんて、まだ夢をみている気持ちです。
一人ひとりの個性、才能が惜しみなく発揮され、お互いがお互いを尊重し、周りで包み込むように引き立て合い相乗し合うチームワークを、感動しながら見ることができました。
三味線・笛・太鼓は個々の体で感じ、その音の中に自分自身が入り込むことができますが、朗さんの鶏舞は、目を心を釘付けにする迫力が感じられ、毎回、毎回感動しております。
誠心誠意、鶏舞そのものに成りきって舞う、あれだけの長い時間「無」の世界に入り込む事ができる、継続力の強さはすごいです。
長年の積み重ねがあっての技でしょうが、誰でもが持つことができない特殊な才能があって、それに驕ることなく日々の精進と努力の賜物だと思いました。
ニューヨーク・ロスでの反応は本物です。
これからも健康に留意され、沢山の人々に感動を与えて欲しいと思います。
同じ音楽を繰り返し聴くように、鶏舞の世界を広められるといいですね。感動をありがとうございました」…。
22日は船橋市・葛飾公民館と西部公民館主催の小公演であった。「寿大学」というからお年寄りが多いと思っていたが、若い人たちもずいぶんいた。
「NNNドキュメント`07で見たという人が、和力のHPで開催を知ったと電話をかけてきた。本物がくるのですか。ほんとですか。こんな近場でみれるなんて思いもしなかった。千葉市に在住しているが参加したいと申し込んできたり、前人気が高くて200名で留めようとしたのですが、超過しているのです」と、和力を招致してくださったKさんが言う。
船橋市では初めての和力公演であったが、みなさん満足して帰られた様子であった。
23日は、松戸市・恩田第二病院である。わたしの妻が勤務する精神を病んだ方が入院している。
外に出てこういうことに触れてることのない患者さんに、ぜひ見てもらいたいとの妻の発意が病院長をはじめ、職場の同僚・上司に理解されてホールで開催された。
「みんながこんなに嬉しそうな顔をしているのは、見たことがない」と、看護士さんたちは患者さんの反応に涙しながら語ってくれたという。
院内に貼ってあった和力のチラシを貰って、大事にビニール袋に入れて会う人毎に、舞台の説明をする患者さんもいる。
わたしが随伴した3日間の公演でも、多くのドラマが展開され語り継がれていく。
長丁場のスケジュールであったが、稔り多い新年の幕開けとなった。
23日、恩田病院での公演が終わり、全員が埼玉へ移動していった。今まで、賑わっていたわが家もまた、夫婦だけの生活になる。
「宴の後」の寂しさを噛みしめている、昨日・今日である。
19日は柏市のライブ、以後、24日(木)まで柏・松戸・船橋などで小公演・ライブを連続して行った。
ニューヨーク・ロサンゼルスの公演を間に挟んで、かなり長丁場のスケジュールになった。
帰国してから休みもとらずによくぞやるものだ。わたしが以前、劇団の営業をしていた頃は、都市から都市への移動公演が主だったが、目安として3日間公演し、1日空けることが求められていた。
休養と移動日をこうして確保していたのだ。
和力メンバーは、1月8日に集まり、9日にさいたま市で3回のライブ、10日に渡航しニューヨーク・ロサンゼルスで公演、帰ってからの公演を含めると、17日間のツアーということになる。
時差もある厳しい条件のもとで、「よくぞやる」と思うのだ。
19日からは、開催する場所に近い松戸のわが家が、朗・越郎の定宿となった。柏市のライブが終わって、夜の10時過ぎに2人は到着した。
夕食を食べてから来ると言っていたが、「鍋物」の用意して待つ。
グラグラ煮え立つ野菜を美味しそうに食べながら、アメリカ公演での土産話を楽しく聞くことができた。
ニューヨークではリハーサルの時間がたっぷりとれて、会心の舞台をやる準備を整えられた。
照明・音響スタッフのみなさんともずいぶん語り合えた。小野越郎君が「スタッフが日本の方であったから、和力の舞台は余韻あるものになった。アメリカの現地スタッフだったら、照明では原色をたくさん使うだろうし、音響も大きくなって、和力がねらうものと、違っていたかも知れない」と言う。
やはり文化の違いがあるのだろう。舞台は総合芸術だから、演じるものと支えるものが息を合わせることによって、観客との同化作業が成り立つのだと思う。
「和力としての舞台を思う存分できた。そしてそれがはっきりお客さんに伝わったことが嬉しかったことの第一だ」と朗が言う。
「言葉は充分に伝わらないにしても、日本における舞台の反応と外国での反応は、同じだった」。「そうそう、そうだった。どこでも変わりはないと思った」とふたりの会話が弾む。
ロサンゼルス事前パフォーマンス 提供 国際交流基金
20日には松戸市二十世紀が丘でのライブ、昼夜2回の出演である。この日も帰りは遅かった。
21日は、わたしの所属する「は~いビスカス」(知的障害者のボランティア支援の会)での「和力と一緒に新年会」だ。
わたしも参加して前日から会場作り、おでんの仕込みなど、21日当日は会場の飾り付けなどに大勢の人が参加して、和力の到着を待つ。
ニューヨーク公演に参加した千田優子さん、太田幸子さんの報告を交えながら、わが親族のような雰囲気の中で、新年会は進んでいった。
「は~いビスカス」スタッフの菅沼ミオさんが、感想をファクスで送ってくれた。
…「ほんとうにありがとうございました。こんなにも素敵な舞台がは~いビスカスで開催されたなんて、まだ夢をみている気持ちです。
一人ひとりの個性、才能が惜しみなく発揮され、お互いがお互いを尊重し、周りで包み込むように引き立て合い相乗し合うチームワークを、感動しながら見ることができました。
三味線・笛・太鼓は個々の体で感じ、その音の中に自分自身が入り込むことができますが、朗さんの鶏舞は、目を心を釘付けにする迫力が感じられ、毎回、毎回感動しております。
誠心誠意、鶏舞そのものに成りきって舞う、あれだけの長い時間「無」の世界に入り込む事ができる、継続力の強さはすごいです。
長年の積み重ねがあっての技でしょうが、誰でもが持つことができない特殊な才能があって、それに驕ることなく日々の精進と努力の賜物だと思いました。
ニューヨーク・ロスでの反応は本物です。
これからも健康に留意され、沢山の人々に感動を与えて欲しいと思います。
同じ音楽を繰り返し聴くように、鶏舞の世界を広められるといいですね。感動をありがとうございました」…。
22日は船橋市・葛飾公民館と西部公民館主催の小公演であった。「寿大学」というからお年寄りが多いと思っていたが、若い人たちもずいぶんいた。
「NNNドキュメント`07で見たという人が、和力のHPで開催を知ったと電話をかけてきた。本物がくるのですか。ほんとですか。こんな近場でみれるなんて思いもしなかった。千葉市に在住しているが参加したいと申し込んできたり、前人気が高くて200名で留めようとしたのですが、超過しているのです」と、和力を招致してくださったKさんが言う。
船橋市では初めての和力公演であったが、みなさん満足して帰られた様子であった。
23日は、松戸市・恩田第二病院である。わたしの妻が勤務する精神を病んだ方が入院している。
外に出てこういうことに触れてることのない患者さんに、ぜひ見てもらいたいとの妻の発意が病院長をはじめ、職場の同僚・上司に理解されてホールで開催された。
「みんながこんなに嬉しそうな顔をしているのは、見たことがない」と、看護士さんたちは患者さんの反応に涙しながら語ってくれたという。
院内に貼ってあった和力のチラシを貰って、大事にビニール袋に入れて会う人毎に、舞台の説明をする患者さんもいる。
わたしが随伴した3日間の公演でも、多くのドラマが展開され語り継がれていく。
長丁場のスケジュールであったが、稔り多い新年の幕開けとなった。
23日、恩田病院での公演が終わり、全員が埼玉へ移動していった。今まで、賑わっていたわが家もまた、夫婦だけの生活になる。
「宴の後」の寂しさを噛みしめている、昨日・今日である。