宴の後

2008年01月25日 | Weblog
1月18日(金)、「和力」がアメリカ公演から帰った。空港から最終高速バスでさいたま市の木村俊介さん宅に泊まる。
 19日は柏市のライブ、以後、24日(木)まで柏・松戸・船橋などで小公演・ライブを連続して行った。
 ニューヨーク・ロサンゼルスの公演を間に挟んで、かなり長丁場のスケジュールになった。
 帰国してから休みもとらずによくぞやるものだ。わたしが以前、劇団の営業をしていた頃は、都市から都市への移動公演が主だったが、目安として3日間公演し、1日空けることが求められていた。
 休養と移動日をこうして確保していたのだ。

 和力メンバーは、1月8日に集まり、9日にさいたま市で3回のライブ、10日に渡航しニューヨーク・ロサンゼルスで公演、帰ってからの公演を含めると、17日間のツアーということになる。
 時差もある厳しい条件のもとで、「よくぞやる」と思うのだ。

 19日からは、開催する場所に近い松戸のわが家が、朗・越郎の定宿となった。柏市のライブが終わって、夜の10時過ぎに2人は到着した。
 夕食を食べてから来ると言っていたが、「鍋物」の用意して待つ。
 グラグラ煮え立つ野菜を美味しそうに食べながら、アメリカ公演での土産話を楽しく聞くことができた。

 ニューヨークではリハーサルの時間がたっぷりとれて、会心の舞台をやる準備を整えられた。
 照明・音響スタッフのみなさんともずいぶん語り合えた。小野越郎君が「スタッフが日本の方であったから、和力の舞台は余韻あるものになった。アメリカの現地スタッフだったら、照明では原色をたくさん使うだろうし、音響も大きくなって、和力がねらうものと、違っていたかも知れない」と言う。
 やはり文化の違いがあるのだろう。舞台は総合芸術だから、演じるものと支えるものが息を合わせることによって、観客との同化作業が成り立つのだと思う。

「和力としての舞台を思う存分できた。そしてそれがはっきりお客さんに伝わったことが嬉しかったことの第一だ」と朗が言う。
「言葉は充分に伝わらないにしても、日本における舞台の反応と外国での反応は、同じだった」。「そうそう、そうだった。どこでも変わりはないと思った」とふたりの会話が弾む。


ロサンゼルス事前パフォーマンス 提供 国際交流基金

 20日には松戸市二十世紀が丘でのライブ、昼夜2回の出演である。この日も帰りは遅かった。
 21日は、わたしの所属する「は~いビスカス」(知的障害者のボランティア支援の会)での「和力と一緒に新年会」だ。
 わたしも参加して前日から会場作り、おでんの仕込みなど、21日当日は会場の飾り付けなどに大勢の人が参加して、和力の到着を待つ。

 ニューヨーク公演に参加した千田優子さん、太田幸子さんの報告を交えながら、わが親族のような雰囲気の中で、新年会は進んでいった。

「は~いビスカス」スタッフの菅沼ミオさんが、感想をファクスで送ってくれた。
…「ほんとうにありがとうございました。こんなにも素敵な舞台がは~いビスカスで開催されたなんて、まだ夢をみている気持ちです。
 一人ひとりの個性、才能が惜しみなく発揮され、お互いがお互いを尊重し、周りで包み込むように引き立て合い相乗し合うチームワークを、感動しながら見ることができました。
 三味線・笛・太鼓は個々の体で感じ、その音の中に自分自身が入り込むことができますが、朗さんの鶏舞は、目を心を釘付けにする迫力が感じられ、毎回、毎回感動しております。
 誠心誠意、鶏舞そのものに成りきって舞う、あれだけの長い時間「無」の世界に入り込む事ができる、継続力の強さはすごいです。
 長年の積み重ねがあっての技でしょうが、誰でもが持つことができない特殊な才能があって、それに驕ることなく日々の精進と努力の賜物だと思いました。
 ニューヨーク・ロスでの反応は本物です。
 これからも健康に留意され、沢山の人々に感動を与えて欲しいと思います。
 同じ音楽を繰り返し聴くように、鶏舞の世界を広められるといいですね。感動をありがとうございました」…。

 22日は船橋市・葛飾公民館と西部公民館主催の小公演であった。「寿大学」というからお年寄りが多いと思っていたが、若い人たちもずいぶんいた。
「NNNドキュメント`07で見たという人が、和力のHPで開催を知ったと電話をかけてきた。本物がくるのですか。ほんとですか。こんな近場でみれるなんて思いもしなかった。千葉市に在住しているが参加したいと申し込んできたり、前人気が高くて200名で留めようとしたのですが、超過しているのです」と、和力を招致してくださったKさんが言う。
 船橋市では初めての和力公演であったが、みなさん満足して帰られた様子であった。

 23日は、松戸市・恩田第二病院である。わたしの妻が勤務する精神を病んだ方が入院している。
 外に出てこういうことに触れてることのない患者さんに、ぜひ見てもらいたいとの妻の発意が病院長をはじめ、職場の同僚・上司に理解されてホールで開催された。

「みんながこんなに嬉しそうな顔をしているのは、見たことがない」と、看護士さんたちは患者さんの反応に涙しながら語ってくれたという。
 院内に貼ってあった和力のチラシを貰って、大事にビニール袋に入れて会う人毎に、舞台の説明をする患者さんもいる。

 わたしが随伴した3日間の公演でも、多くのドラマが展開され語り継がれていく。

 長丁場のスケジュールであったが、稔り多い新年の幕開けとなった。

 23日、恩田病院での公演が終わり、全員が埼玉へ移動していった。今まで、賑わっていたわが家もまた、夫婦だけの生活になる。

「宴の後」の寂しさを噛みしめている、昨日・今日である。

 
 

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一専多能

2008年01月21日 | Weblog
「いちばん嬉しかったのは、和力の舞台を思う存分に出来たこと、それがはっきりとお客さまに受け止められたことにある。
併せて和力をAPAP(エイプアップ)に推薦してくださった方や、主催事業として取り組んだ国際交流基金の方々が、喜んでくださったこと」…だったと、朗は話し始めた。
…和力の舞台を直接ごらんになっている方も、ニューヨークの会場でリハーサルを見た方々も、この舞台だったらきっと満足してくれるという確信はあったと思うけれど、「目の肥えたニューヨークのお客さんたちはどう見てくれるだろうか」と一抹の不安はもっておられたに違いない。
舞台が終盤にいくにつれて、お客さまの集中が高まり、最後の「東風」(こち)が終わると、客席ほとんどの人が立ちあがり、長くつづく拍手の嵐だった。出演者の紹介を終えて舞台袖に引っ込むまでつづく。
舞台が終わると、出演者の労をねぎらうアメリカ式のマナーであるのかな、と一瞬思った。
「アジアソサエティホール」の総支配人は、「客席の一部が立ちあがって拍手を贈ることはしばしば見受けるが、この熱気でほとんどの人が立ち上がり、長く続く拍手はニューヨークにおいてもあまり例がない。あなた方は十分に見た人の心をとらえたのだ」と、喜んでくれた。
ロサンゼルス公演でも同じ事態になった。
「和力」が演じた日本の伝統芸能は、十分にアメリカの人々に受け入れられたのだろう。


 ロサンゼルス公演「東風」(国際交流基金 提供)

照明・音響スタッフの方々は、日本から同行して下さった。日本の中心的な劇場・ホールを担当する熟練の方たちである。

ニューヨークでは、たっぷりしたリハーサルの時間がとれた。一緒に食事をする機会もあり、うちとけてお話する機会に恵まれた。この方たちは、和力メンバーの多能ぶりにびっくりされたようだ。「踊り手」が太鼓・曲芸・口上をやり、「篠笛奏者」が三味線・踊り・太鼓を、「三味線奏者」が太鼓・踊り・鳴り物でその才を花開かせてくる。
日本においては、演劇・音楽・歌舞伎・能狂言・文楽など多岐にわたるステージに携わってきておられる。その方々が「和力のメンバーは、一つの専門を究めている。その専門芸はおそらく他の追随を許さないものだ。驚いたことに他の分野を演じそれも奥深い。新鮮な出逢いだった」と、語られていた。

和力が爆発的な共感を得られたのは、和力メンバーの専門分野での奥深い芸への賞賛と同時に、芸の多様さも共感されたのにちがいない。


 ニューヨークへ飛んでいった、「和力松戸実行委員」の千田優子さんと太田幸子さんの話にも共通性がある。
…「私たちは公演が終わって、和力が国籍のちがうみなさんの心を圧倒的につかんだ興奮で、いろいろな方と会場で語り合う機会に恵まれた」。
ステージでご挨拶をされた「国際交流基金」のKさんに、ご挨拶申し上げた。「この度は和力を呼んでくださりありがとうございました」。
「とんでもない。感謝したいのは私たちの方です。和力の芸はすばらしい。わたしたちは、和力を通して日本の文化がこのように多数の心をつかんだことを誇りに思いました。和力に出会えたことに感謝したいのはこちらの方です」。
「ニューヨークをご案内したいのですが、都合はいかがですか」と、お誘いくださった。以後、ニューヨークのジャズライブや様々な所を、ご案内してくださり一週間はまたたく間に経ってしまったそうだ。

 アフリカ系の青年や国際交流基金などの若い方々とも親交を深め、それらの何人かは、松戸に訪ねてくる約束なったと言う。
 英語教室に通っていた千田さんも、行く前には「言葉が通じなかったら、手話やパフォーマンスでやればなんとかなる」と少し自信なげだったが、「和力」公演を通して知り合った方々のガイドで、不便を感じることはなくニューヨークでの生活を楽しんだようだ。

 文化を通しての信頼関係は、このような交流をも深めたのだと、聞いているわたしもびっくりしている面がある。

 切磋琢磨して築き上げた芸が、言葉は通じないにしても、心と心を繋ぐものとして大きな力を発揮するのを垣間見た思いがするのだ。


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和力メンバーが帰国した

2008年01月19日 | Weblog
 18日、午後10時前に電話が鳴った。
「ただいま。いま帰った。飛行機が遅れこれから木村さんのところへ行く」と、元気そうな朗の声だった。
 木村俊介さんのお宅に泊めていただく算段なのである。木村さんの家はさいたま市にあるのだ。
空港からタクシーとは考えられないからどんな風にして帰って行くのだろうか。
 電車に乗り継いで行くとすると、真夜中になってしまうことになる。

 翌日がゆっくり出来れば少しは休まるだろうが、明日、19日には柏市でのライブがある。
始まるのが午後7時だけれど、木村さんの所で帰国後の荷物の整理をして、太鼓などを積み込み6日間連続する、ライブの用意もたいへんだろうに……。
時差ぼけもあるに違いない。

19日はわたしの住む松戸市の隣、柏市でのライブである。この日からわが家での泊まりが続くので、暖房・寝具類の用意を万全にして、風邪を引かないよう、疲れがたまらないように準備をする。



 ロサンゼルス公演 提供 国際交流基金
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ニューヨークからの第一報

2008年01月14日 | Weblog
 秋に開催される、「わらび座元座員の懇親会」をどう進めようかとの実行委員会が、12日に伊豆の民宿でやられた。

 12日といえば、「和力」がニューヨーク公演を実施する日である。

 ニューヨークで12日/20時開演となっている。日本にいるわたしは夕食をとって、話が盛り上がっているころだった。
 懐かしいメンバーが11人「楽しい企画をどうつくっていこうか」を討論していた。
「同じ釜の飯を食った」仲間同士である。話は尽きずに夜遅くまでの交歓会になっていく。

 わたしは、「和力」がアメリカ公演から帰って実施する「ライブ」の打ち合わせを翌日に控えていたから、夕食後は早めに寝てしまった。
 朝食をみなと一緒に頂き、8時半には「踊り子号」に乗って、船橋市に向かう。

 車中、「13日になったから、ニューヨークでの和力公演はおわっただろう」と考えていた。
 ニューヨークの緯度は秋田県と同じ位だと聞いているから、寒さも厳しいだろうと、雲のたれ込めた街の様子を見ながら想像する。

 12時50分頃、船橋市の「葛飾公民館」に着いた。「西船橋駅」から歩いたが、冷たい風が吹きつのり、首をすくめながら公民館に着いた。壁に貼ってある催し物のポスターを眺めていたら携帯電話がなる。

 なんとニューヨークから太田幸子さんがかけてくれたものだ。
「和力の公演がたった今、終わったところ。舞台はもちろんのことだが、客席の反応がとてもよかった。和力のステージをみんなが喜んでくれて、拍手が鳴りやまない。最後には客席が総立ちとなった。アンコールの東風(こち…木村俊介作曲)を心地よく聞いた。
 朗さんの舞いは、何回も見ている私だけれど、磨きがかかったというか、深化して圧倒されてしまった。
 自然に涙が溢れてくる。
 よい公演だった。はるばるニューヨークに来た甲斐があった。和力を初めて見た満席のお客さんも同じ気持ちだと思う」。

 松戸市の和力実行委員、太田幸子さんと千田優子さんがニューヨークへ行って下さった。(名古屋市からも親子連れで参加してくださった方がいる…会場で行き会えただろうか)。
「わたしたちは方向音痴で、言葉も自由にできない。お互いにはぐれたり道に迷ったりしたときの用心に、携帯電話のレンタルを借りていくことにした」と言っていたから、その携帯で早々と連絡してくれたのに違いない。
 ありがたいことである。

 世界30カ国の芸能家が集まり、1,400ステージが繰り広げられる世界最大の「伝統芸能祭」(APAP…エイプアップ)に「和力」がノミネートされたのは、8月の事であった。
 国際交流基金(外務省の独立行政法人)が送り出しす国際的な催しである。日本の代表としていくつかの団体が選考対象になったそうだが、幸いに「和力」が選ばれた。

 朗は`02年パリでクリスチャン・ディオール会場において「パリコレ」出演。
 和力の仲間と`05年「愛知万博」の「日本館」(政府出展事業)で「日本伝統芸能18撰」に選出され出演。
`06年、ロンドン・フィレンツェ公演など、国際的な場での経験を豊富につんできた。
 この度はミュージカルの本場、多様な文化が溢れかえるニューヨークで、「和の芸」がどのように受け止められるのか、興味が尽きない。
 16日にはロサンゼルスの公演もある、

 

 朗たちは18日に帰国して、翌日から連続して6日間の小公演・ライブを行う。
 
 ニューヨーク・ロサンゼルスでの模様を、出演者や訪問した方々に聞ける楽しみが、この期間に集中する。


ロサンゼルス客席 提供 国際交流基金


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芸の伝承について

2008年01月10日 | Weblog
 3才になったら「日本舞踊」を習い始め、小学校に入ったら併せてピアノのレッスンが始まる。
 わたしがわらび座に在籍していた当時の、これがわらび座で生まれ育った「わらびっ子」の教育課程だった。後になって「バレー」や「体操」など、習う分野も広がってきた。
 そうなると、習う科目も選択制になったのだろう。「バレー」、「体操」に移行する子どもも多くなる。
 わたしの息子、朗は「日本舞踊」を継続して高校2年までやっていた。

 わたしが朗の「日本舞踊」の稽古を初めて見たのは、長い営業の旅から帰った夕暮れどきであった。
「これから日舞の稽古がある。ちょうどよかった」と朗担当の保母さんから言われて、部屋に荷物を置くのももどかしく、稽古場に向かった。
 お稽古は、「幼児・保育園児」・「学童」・「中学生・高校生」そして「演技者」の順番で行われていたように記憶する。
 稽古の一番はじめに朗は入っていた。「3才から」というのは、厳密なものではなく、わらび座保育部の大体の目安であったのだろう。
「朗は2才になる前から日舞をやっていた」と、わらび座保育の保母をしていた妻が言っている。

 幼児のお兄ちゃん、お姉ちゃんに混ざって、小さな朗が「生保内節」(おぼねだし)を踊っていた姿が、いまでもわたしの瞼に焼き付いている。
 お兄ちゃん、お姉ちゃんたちは着物姿であった。朗たち幼児の端くれは着物がなくて、浴衣のようなものを着ていた。
 わたしも演技者の修業時代に日本舞踊を学んだ。初心者が手はじめにやるのは、「生保内節」だった。

 朗は同世代の中では体は大きいが、学童前の子どもに混ざるとやはり小さい。手の振りは前後左右に元気はよいのだが、ぶっきらぼうであった。
「まぁ俺も同じようであっただろうから」と、その元気のよさを楽しみながら見ていたのが、昨日のように思い出される。

 朗は小学時代には野球をやり、中学では水泳、スキーの選手になり、柔道でも活躍していた。
 高校には17キロの距離を自転車で往復しており、体力をつかう生活を送っていた。日舞を一貫してやってきたのは、よほど自分の気質に合っていたからだろうか。

「朗君の踊りは大きくしなやかでとてもよくなっている」と、わらび座のエレベーターに乗り合わせたときに、鳥羽市子先生が言ってくださった。朗が中学生の頃だっただろうか。
 わたしも演技者修行時代に手ほどきを受け、朗も10数年に亘って師事したのだから父子共通の恩師になる。

 日本舞踊のお稽古は、週に一度ほどであったが、着物に着替えて扇子を前に置き先生へのご挨拶から始まる。
 お稽古場は、ぴんと張り詰めた空気に包まれる。

 先生は、座布団に正座し背筋を立てて稽古を見詰める。「ああせい、こうせい」など、指示することは、いっさいない。手を取り、足を取ってのお稽古ではなかった。
 先生は静かにみんなの舞をご覧になる。「ここぞ」と思われるときにだろう、ときたまスッと立って一差し舞う。舞って席に戻り、みなの舞うのをまたご覧になる。
 厳しいがあたたかい眼差しが今でも思い起こせる。

 幼児の部が終わり、子どもたちが扇子を前に正座して「ありがとうございました」と作法に則った礼をする。先生も「はい、ごくろうさまでした」と、形のよい礼を返してくださる。
 口ではくどくど注意はしないけれども、稽古の初めに舞ってくださる形や、作法としての礼などが、目に心に焼き付いて自分自身のものになっていったにちがいない。


さんさ踊り 撮影 小島靖雄


 先生は東京で修行を積まれて、戦争の最中に秋田に移って来られた。東北の「小京都」と称されている角館町や、大曲市などにお弟子さんがたくさんいた。
 わらび座をご覧になって「元気はいいけれど、踊りはまるで器械体操のよう」とお弟子さんに話したという。
 わらび座の先輩たちが「教えを受けたい」とお願いして、来ていただけることになった。
 まだ世情の混沌期であったから、村の人たちにとってのわらび座は、よそ者として警戒すべきものであったようだ。
「なぜ、あそこに行くのか、行くのは止めてもらいたい」と、たくさんのお弟子さんが先生に頼んだそうだ。
 先生は、「芸の向上を真剣に目指す人に、真っ当な芸を伝えたい」とわらび座へのお稽古を続けてくださり、結果としてお弟子さんをたくさん失ったという。
 
 信念に基づき硬骨の方ではあったが、日常の立ち居振る舞いはたおやかで、穏やかな方であった。
 お稽古の休み時間には、座の先輩たちと歌舞伎俳優の踊りの形を話題にしていらした。常に新しい芸を磨いておられたのだろう。

 わたしは、ほんの短い期間での弟子であったが、朗は幼少から高校2年生になって座を離れるまで、先生に師事していたのである。
 朗の勇壮な踊り、優美な女舞い、そして舞台での何気ない所作の隅々まで、この間の修練が詰まっているのではないかと、わたしには思えてならない。


 本日、10日、朗たち「和力」メンバー4人は、アメリカに向けて出発していく。 空港からであろうか、騒々しい賑わいの中で朗からの電話を受けた。帰ってからのスケジュール調整であった。
「では、行ってきます」と言って数時間たつから、すでに飛行機の旅に移っているかも知れない。

 日本の伝統芸を、「篠笛・津軽三味線」の木村俊介さん、「津軽三味線・鳴り物」の小野越郎さん、「箏」の池上眞吾さんと共に、世界30カ国、1,400ステージの中でアピールしてくる。

 ここに集う世界の伝統芸能者たちは、やはり厳しい訓練と先達からの芸の継承を糧に、「世界芸能祭典・APAP…エイプアップ」(ニューヨーク)に臨むのだろう。
 それぞれに受けつぐべき文化があり、師とする人たちがいる。

 朗に限って言えば、日本各地で教わった多数の伝統芸の師匠の芸と、その伝統芸を新たに構築し、時代の生命を吹き込む基礎を、鳥羽市子先生から多く学んだと思える。
 
 先生が故人になられてから久しい。

「芸と精神がこのように受け継がれています」と、いつかは先生の墓前でご報告したいと、密かに思っているのだ。
 
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名古屋公演「雪女」のこと

2008年01月03日 | Weblog
 年の瀬が迫った12月26日、名古屋へ向かった。

「千種文化小劇場」で「和力 暮打逃~くれのうちにげ~」第五弾!「天籠(てんこもり)」公演があるのだ。

 例年だったら弟の雅義がビデオを担いで参加するのだが、今回は職場の休みが取れずに、わたしがビデオ撮影を代わった。

 わたしはメカに弱くてビデオ撮影に自信がなかったから、早めに会場に行ってセッティングをし、万全を期そうと昼過ぎに会場に着いた。
 
 ホールでは実行委員の方々が、飾り付けを賑やかにやっている。
 客席へのドアを開けて入るとリハーサルの最中である。声を掛けるのも邪魔になろうかと、朗だけには手をあげて合図してさっそくビデオの準備にとりかかる。

 苦労の末カメラの据え付けが終わって一息ついたので、ホールに出てプログラムをいただく。
 小ぶりな作りで、懐かしい字体・色合いが和力にふさわしく、実行委員の方が「手作り」したものだ。手作りの暖かさが伝わってくる。

 第一部は「おこし」~「鶏舞」まで七つの演目が紹介されている。

 第二部は「雪女」とあるだけだ。

 どんな内容なのだろうと興味を惹かれた。内容は分からないけれど、「雪女」一つだけの演目で「第二部」をどう通していくのだろうか。


 第一部が始まった。

 わたしはビデオ撮影があるが、開演ベルの初めからステージを見ることが出来た。このような機会はほとんどない。だいたいは受付にいて、ステージの様子をほのかに感じているだけなのだ。

 客席と一体になる舞台を共に楽しんで第一部が終わった。



 第二部はわたしにとって衝撃的な舞台だった。

 休憩の後、ふれ太鼓として「だんじり囃子」が勇壮に囃された。
「だんじり」の衣装を「野良着」に着替えながら、「みなさん、雪女をご存じですね」、「雪女が次の冬まで命を永らえるには、自分のことを好きになった男の生命を吸い取らなければなりません」。
「雪女はこんな風に息を吐きかけ、息を吸い尽くすのです」。息を吸い込み・「ハァー」と吐く動作は大きい。大きいけれども「伝統の様式美」をもった動きであり、日本舞踊の形にあったように思う。もうすでに忘却の彼方にあるけれど、わたしもかって踊ったことのある「黒田節」で大きな酒杯を仰ぐ、それも一気飲みではなく、ゆったり杯を傾ける動作に通じるものがある。
「吸う、吐く」その動きだけでも舞踊的で「絵」になると私は感じた。


「雪女」は、わたしたちに身近な民話である。
 演者は「野良着」を着終えて村人となって雪道を行く。村人は吹きすさぶ雪嵐を菅笠(すげがさ)で防ぎながら進む。富山の「麦や節」が生かされているのだろう。
 雪煙りの向こうに楚々とした若い女性が目に留まる。「これこれ、娘ご、この雪の中でいかがいたした」と問いかけ、わが家へと誘(いざな)って行く道行きは、「狂言」の所作・朗詠がふくまれていると思われる。

 落語もそうだけれど、一人の演者が癖があり特徴のある、大勢の人物を引きだしてくる。
「横町の隠居」も「与太郎」や「熊さん」、「八五郎」もその演者の語りによって、観客が自分自身で形象化するのである。実際には見えてはいない。
 自分の想像力をフル回転させイメージをどんどん膨らませて、自分自身が作り手となっていくのが、伝統芸の凄さなのではないだろうか。

 道行きの場面は、ドラマであれば「村人役」・「娘役」が居て、手に手を取って雪吹雪の中を行くのだろうが、狂言の所作では「娘役」は居ない。居ないけれども観る者が「雪女」の姿をまざまざと思い描いているのだ。


「おーい、みんな聞いてくれ」と瓦版売りが登場。その話によると…「与助の家の前で行き倒れていたきれいな娘は、ゆきと名乗って与助と所帯をもった。与助もゆきを大事にして幸せに暮らしている。ところがゆきさんは春の兆しと共に衰弱が激しくなってきている」…との噂話。

 音もなく雪が降る夜、「ゆき」は寝ている夫の与助を慈しみながら舞う。「さんさ踊り」(岩手)である。一冬、夫婦として睦まじく暮らした幸せを、静かに偲んでいるのだろうか。
「じゃんがら」(福島)の踊りでは、与助の寝息を窺いなにやらためらう様子がある。もしかしたら、愛する夫の息を吸い取り、自分の命を永らえたい思いが交錯するのだろうか。
 ためらい、又ためらう気持ちが、腰を屈め背を伸ばし、太鼓もそれにつれて強くなり、弱くなりしながら鳴り響く。
 ついには地面にひれ伏し崩れ落ちる。

 夫への思いのたけを「母燈路(ははとうろう)」(作曲小野越郎)で舞い、雪が降りしだく中で物語が終結していく。

「雪女はどうしたのでしょう」と瓦版売りが出てきて客席に問いかけ、終わる。

 答えはこの場に居る一人一人の胸に委ねられる。


 永く伝承されてきた民話を縦軸に、狂言・日本舞踊・民謡・語り・口上が横軸として紡がれ、統合されていく。
 篠笛・三味線・箏がその土台を支え一大叙情詩が静かに展開されていく。もちろん、照明・音響のスタッフの力も合わさる。
 

 和力はホール公演を控えると阿智村に集まって「合宿」をする。メンバーの合議で作品づくりをするのだ。「雪女」も今度の合宿で生み出されたという。

 
 
 わたしにとって衝撃だというのは次の点にある。

 わたしがわらび座に在籍していた当時、「日本の伝統に基づく歌舞劇の創造」が大きな目標として掲げられていた。
 それは様々に試行錯誤を繰り返しながら「炎の島」・「東北の鬼」などに結実していく。
 わたしは営業の一員として、実行委員会を各地域に組織しながら観客を集めていった。
 歴史を経て、わらび座のミュージカルは現在に発展しているのだろう。

 
 一方、わたしたちが若いころに望み、夢見た「伝統に基づく総合された芸術」がこの「雪女」で具現されている、と感じ、わたしは強い衝撃を受けるのである。
 演奏者の高い技術と深い洞察、演者の幅の広い熟練の芸が合わさり、又、その発表の機会をつくる「観る会」の力が総合されて、日本の新しい伝統文化が羽ばたく予兆を感じたのである。

 現状に甘んじることなく深化を求め、日常の鍛錬に励む姿には、伝統をさらに現代に生かしていく新鮮な息吹きに溢れているように思える。

 名古屋からの帰り、新幹線から望む富士山は白雪に輝いていた。和力の舞台を思い起こしながら「富士山にはやはり雪女が似合う。雪男はエベレストだろう」と思いながら、師走に賑わっているだろう東京へと向かった。




2006/10/29「武蔵野公会堂」 母燈路 撮影 黒木啓

 本日(08.01.04)の朝日新聞に伝統についての興味深い記事が「文化欄」に載っていた。
「芸の覚悟問われる襲名」と題するコラムで、作家・詩人の辻井喬(堤清二)さんの文章を次のように紹介している。


…辻井さんが最近実感するのは、かっては自身が封建的と遠ざけてきた「伝統」の重みだという。国粋主義と伝統を結びつける動きに抗して、「真の伝統は未来の創造行為に射程が向けられている」、

「幼少時から道を定められ、厳しい身体訓練を積む伝統芸能の演者はそのことが分かっている。ところが伝統という言葉を都合よく振り回すだけの人にとっては、伝統とは美の実質を欠いた郷愁にすぎない」(伝統の想像力)…。


わたしは、「雪女」の感想を書くにあたり、朗の身体表現の豊かさがどこからもたされたのか辿りたくて、朗が2才前から師事していた日本舞踊師匠・鳥羽市子先生の事を調べていた。
主に「月刊わらび」でいろいろ知ることができた。

このことについて書き出すと長くなるので、次の機会に譲らなくてはならない。

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