わたしの誕生月は4月である。その半年前10月に、「運転免許更新のお知らせ」が届いた。
わたしには、75歳以上に課せられる「高齢者講習」が適用され、合格すれば免許証の有効期限は3年、いままでに2回講習を受け免許証の更新をしている。
今回の「お知らせ」では、今までと大きく変わったことがある。以前であれば「講習日」は午前中だけの1日で済んだ。
まず「認知機能検査」をやり、その後ゲーム機みたいなものに向き合い、加速したりブレーキを踏んだりのテスト、そして車に乗っての実車試験があって「修了書」が発行されて終わる。
しかし今回からは、それが二日間になったのだ。
第一日目は「認知機能検査」(30分)だけになった。検査の結果、「2時間講習組」と「3時間講習組」とにわけられ、講習日の予約をし、後日改めて受講することになる。
11月にはいり「認知機能検査」の予約を自動車教習所に申し込む。
よほど受講希望者が多いのだろう、2ヶ月先しか予約が取れず来年1月末に決まった。
来年4月、わたしは81歳になる。
80歳を超えての運転免許更新には、多少のためらいがある。
高齢ドライバーへの視線が厳しく「免許証返納」を勧める声が高いからだ。
歌い手や俳優など世に知られる人が、「運転免許証を返納しました」と、やや得意げに語る姿を散見する。
わたしはその姿を拝見しながら、自らをふり返ってこんな呟きをもらす。「わたしには専用の運転手はいない、タクシーに乗る余裕もない……」。
足腰に痛みを抱えるようになった妻を「整体院」へ送り迎えするのは日常のことになり、病院通いもある。
わたしは更に週3日間「新聞配達」をバイクがなくなった今、手持ちの軽自動車でやっている。
昔みたいに、息子一家が暮らす信州へ飛ばすことはなくなったが、身近な範囲での車の使用は日常なのだ。
わたしが幸いに思っているのは、30歳頃に普通免許、54歳で自動二輪中型免許を取得し、仕事でも私事においても事故なく過ごせたことにある。
74歳から80歳まで週2回ディサービスに勤め、車を駆っての送迎で都心を乗り回し、利用者さんの家によっては、込み入った車幅いっぱいの路地を縫い、あるいはバックで延々と玄関までいかねばならない処もあった6年間の送迎で事故はなかった。
かてて加えて、過去2回の「高齢者講習」では、認知・実車テストとも問題なく好成績であったし、毎日のように運転しているが無事故・無違反で免許証は「ゴールド」である。
人様を載せて運転することに責任と自信を持って過ごすことが出来ていたのだ。
80歳を機に、送迎を主にする仕事から身を引いたが、わたしはバイクや車の運転が大好きである。
わたしは終戦時「国民学校1年生」で、母の実家がある新潟の疎開先から東京下町に帰った。
大通りに出れば、牛や馬が荷車を引いて行き交い、魚屋さんや八百屋さんは大八車で仕入に行き、小物商いの店主は頑丈な荷台の自転車を乗り回していた。
まれに通る自動車は、「かっこいい」と子どもたちの目にやきつく。自動車はあこがれの的であった。
〽足柄山の金太郎 熊にまたがり お馬のけいこ …
とうたわれるように、男の子は本能的に乗り物にあこがれるのではあるまいか。
都内を縦横無尽に走っていた路面電車が廃止され自動車に道を明け渡していく。車が世にあふれるようになってくる。
わたしは在籍していたわらび座で、20代後半から営業部に転じ全国各地を駆け巡ることになった。
公演予定地に降り立ち、個人・団体を訪問し実行委員会を組織、公演を成り立たせるために動く。
その移動手段は電車やバスそして現地でお借りした自転車であった。
わたしより年下の座員が増え、運転免許証を保持しているのは珍しくなく、彼らは現地で車を借りて動きまわる。
その効率の良さをみて、「希望する営業部員は免許を取ろう」と、順番を決めて教習所に通い始めた。
その折にわたしは運転免許証を取得したのである。
それから50年になる。
仕事柄、全国を駆け巡った。鹿児島・宮崎、大阪・和歌山などは、隈なく回りつくしたように思う。
よもや手中に出来るとは思えなかった憧れだった自動車の運転である。
わたしが持つ唯一の国家資格で、仕事に生活におおいに役立ち、今も一心同体で行動を共にしている。
わたしのいまの状態は、運転には支障がないが「寄る年波」を感じたら、それを潮時とし未練を残さず運転を止めようとは思う。
それはいつになるだろう。来年の免許更新が無事に受かったら、次回の更新時には84歳となる。
気力・体力が今の状態で持続できたにしても、次回はたぶんないだろうなぁ……と、独り言ちているところである。