わたしと一才ちがいの 妹・祥乃の伴侶、(株)中條代表取締役会長の中條孝さんが85才で逝き、6月27日・28日「町屋斎場」で、「会社葬」が催された。
祭りの法被を羽織って、にこやかにほほ笑む遺影が花、花、花に囲まれている。
人をおだやかに包みこむ、この笑顔・ほほ笑みが中條孝さんの真骨頂で、生涯かわることはなかった。
午後6時、祭壇前に焼香台が3組ならび参列者6人づつが、係員の手際のいい誘導で焼香していく。
わたしは「親族席」で「あ、この人は仕事場の先輩だった、あ、同僚だった人もきた。町内、取引先の方」と、懐かしむ人も多かったが見知らぬ方が圧倒的に多い。
そしてびっくりしたのは、お別れの列が延々とつづくことだった。
通夜は午後6時から7時と案内されていたが、7時になっても列が途切れない。
お坊さんは鐘と木魚をときたま叩き、お経を諳んじる。冷房の利いた式場であるが予定時間を超す読経で汗にまみれておられた。
式がはじまる前、「親族の方には『焼香台』を別にまわします。席に座ったままご焼香ください」と説明された意味が分かった。
キャスター付きの焼香台が親族席を行き来し焼香する。普通の式次第では施主・親族そして参列者の順にやるが、それではなかなか収まりがつかない……と葬儀会社が判断したのであろう。
葬儀委員長N荒川区長が、「わたしは多くの場に参列してきました。しかしこんなに多くの方がお別れに臨まれるのは初めての経験です。故人の人柄がしのばれます」とご挨拶くださった。

中條孝さんは、新潟県の雪深い山里で6人きょうだいの2番目として生まれた。
いろりにくべた木の根っこが、朝になるまで煙って、燃えさしが崩れる音で目覚める生活であったそうだ。
まだ世に言う「集団就職」が始まっていない1947年3月18日中学卒業、23日には上野駅に着いた。
卒業生は43人、上の学校へ行ったのは、男一人、女一人、家に残るもの、知る辺を頼って都会に出るものそれぞれであったが、いちばん早く外へ飛び出したのが中條孝さんである。
一刻もはやく都会で稼ぎ、両親に仕送りをしてあげたい思いでいっぱいだった。
遠い親戚が出稼ぎしていた足立区の鳥問屋を紹介してくれていたので住み込み店員として働きはじめる。
この鳥問屋は手広く商売をしており、都内はもとより川崎・横浜・小田原などに得意があり、横浜までは自転車にリャカーをつけて運ぶ。
遠くのお得意は荷を運んでいくと「お小遣いだよ」と200円か300円くれた。その小遣い銭を貯めて作業服を買ったり、休みの日には3本立ての映画をみたりした。
鳥問屋からもらう給料は、手づかずのまま実家に送る。
4年間働き「自分に向いている仕事は他にあるのではないか」、自分が納得できる将来の仕事はなにか考えあぐねて、世話になった鳥問屋を辞めた。
19才で自分探しの旅に出、千住大橋のたもとにある「生花市場」に2年、台東区下車坂の内臓屋、台東区金杉にあるハム屋にもいった。
「自分が納得して出来る商売だろうか」……それぞれに長くはつづかない。
3年ほどあっちこっち放浪する時間がつづく。
鳥の配達をして親しくなった、上野市場で小売店を開くAさんの所で暇つぶしをしていたら、食肉業務用卸T社の社長が集金にやって来た。
「俺の所に来たらどうだ」と誘われ、御徒町の会社に住み込み店員として入る。
有楽町や日本橋のお得意回りをし、早朝から肉をさばいて配達に出る。帰って来ると明日の段取りをして、夜は「御用聞き」で駆けずりまわる毎日である。
5年が経ち仕事にも慣れてきた。
「孝が辞めるかも…」との誤りの風聞を信じた店主が「おまえ、うちを出るそうだな。自分のお得意をつくるため、今までいたのか」と云う。突然のことにびっくりし「そんなことはない」と説明しても聞き入れてもらえない。
この店を出るなんてことは考えていなかったが、「このままではつづかない」と、翌日の昼に店を後にした。
行く当てはない。不動産屋に駆けこむが話がまとまらず、配達の行き帰りに通って、見知っていたお茶の水・聖橋の下を寝泊まりの場とした。
7月で陽気がよかったから助かったが、蚊の大群に襲われ寝るのには苦労した。
5日間ほどねぐらにして、昼間は不動産屋や得意を求めて歩きまわる。ようやく下車坂のアパートに入れたが大雨が降ると雨漏りする建物だった。
26才になっていた。
夜寝るところができたので中古自転車を買い、得意を取るのに動き始め、ラーメン屋・洋食屋に飛び込みで営業に入った。
歩き歩いて目につくかぎりの店にはいるのだが、どこでも断られる。
T社にいた時、「孝、独立したらいつでも来いよ。品物をとってやるから」と云ってくれた得意先は何軒もあったが、それはT社の得意であるから、自前の得意をもつことにこだわった。
いくら廻っても取引できないと「あの店に行けば必ず取引してくれるのだがなぁ」と足が向きかける。しかし恩あるT社の得意をこちらの得意にするわけにはいかない。
「お前の顔はみたくもない。もう来るな」。それでも断られるところから商売が始まるのだと日参した。
「手持ちの金がなくなったら、独立しての商売はあきらめ、どこかに勤めよう」。ご飯は食べられず、うどんはたまにしか口にできない。もっぱらコッペパンを頬張り水を飲む。腹は膨れるがすぐに腹がへる。
人恋しくなって上野市場のAさん宅で、揚げ物を手伝いながら気分を変えていた。
文京区根津にある牛・豚卸問屋MのNさんが集金に来た。鳥を配達していた頃に得意先でよく顔を合わせていた人だ。
Nさんの口利きでM社から肉を仕入れ、まな板を借りて骨抜きをし、商品に仕立て、余ったら冷蔵庫に保管してもらう、「才取り商売」の本格的な船出ができた。
才取りの第一歩を踏み出したが、品物を運ぶ得意先がない。
「それでは品物を持ってきてみな」と、飛込みで日参した甲斐があって本郷のK、日暮里のAなど中華店で取引先を開拓できた。それぞれに支店を紹介してくれ、懇意な店に声をかけてくれ取引先がすこしまとまってきた。
独立したにはしたが、1日に豚バラ1枚、豚肩1本、骨だけの配達という日もある。
日本橋の洋食屋と取引できるようになった。その店の近くに「白木屋デパート」があり、朝早く行くと駐車場にたばこの吸い殻がたくさん落ちている。拾い集めてはそれをほぐして巻いて吸う。商売はすこし動きはじめたがまだ余裕はない。
だんだんと商売は軌道にのってきた。商売を始めたばかりには現金取引しかできなかった。貰った現金はすぐさま商品の仕入れに使い、生活費にしなくてはならない。
そのうち「掛け売り」する余裕ができたが、請求書を出すのに往生する。
大きなソロバンを買いパチン、パチンそろばん玉を弾くが、計算がなかなか合わない。請求書を出す得意先は数軒なのに明け方までかかっての請求書づくり。
得意先が20軒をこすようになって忙しくなる。
「100万円貯まったら所帯をもとう」と節約に励んだ甲斐があり、正月元旦に布団の中で預金通帳を確かめたら120万以上あった。
「おう、これだけあれば所帯がもてる」。おおいに勇気づいたものだ。
商売で乗り回していたヤマハのオートバイ(250CC)をピカピカに磨き上げ、千住のおじさんの家へ年始に行く。
千住のおじさんは喜んでくれ、「孝、よく来たよく来た、正月だからまずはいっぱい飲めや」と酒を注いでくれる。
そのとき、裏口からこの家の長女・祥乃がはいってきた。
東京に着いたばかりの時、寝泊まりさせてもらっていたから初対面ではないが、「ほんに子どもだ」と思っていたのが、このころには「運送屋」に勤めていて「こんちわ」と入って来た姿にびっくりした。
聞けば運送屋では「経理」を担当するソロバン2級の腕前だという。
「ソロバンを弾くのが苦手だし、洗濯ものもたまる。商売に専念したいのでぜひ娘さんを嫁にもらえないか」と、とっさに言うと、「おー、正月早々いい話じゃないか」とおじさんがすぐに賛成してくれた。おばさんはなにも言わないが「あれを食え、これを食え」と目をグリグリさせてすすめてくれていた。
1月末に千住の家に顔を出す。
「孝、正月あんなことを言ったがなぁ、祥乃はうちのため何年か働いて貰わなくてはならない。あの話は止めだ」と言う。おじさんは一刻者だったから言い出したら聞かない。
わたしは翌日、虎の子の預金通帳を持参して「身体一つできてもらえればよい」と頼むのだが「いや、ダメだダメだ」。
それから邪魔にならないように1日おきに通い通して、ようやく結婚の承諾を得た。
「田舎の親父が危篤で3日ばかり休む」と得意先に断って、湯島の小料理屋で10人ばかり集まっての結婚式をやった。
新婚旅行は伊東で一泊し、観光バスに乗って小田原に出て帰って来た。根津のアパートに帰りそのまま注文取りの御用聞きに出た。休んだのは実質1日だった。
1960年10月のことで28才になっていた。
根津のアパートで長男・勉が誕生する。子どもが生まれたのを弾みにし、人の家のまな板を借りてではなく、自前の店で商売をしたいと決心。
1962年5月2日に、荒川区東日暮里の中古物件を購入した。30才で荒川区民になったのだ。
坪数17.5坪、間口2間、奥行6間の家だった。家の改装に取りかかり9月に生後4ヶ月になる勉を抱っこして引っ越し、開店の準備にかかる。
店構えは道路に面して細長いつくりだ。店のショーウィンドーも横長で、お客さんが3人入ればいっぱいになる。ショーウィンドー横に揚げ物用の大きな鍋、それを背にして冷蔵庫の白いタイルが輝く。そして豚の解体をする作業台があって、住居にする2階への階段がある。狭いせまい店舗だったがこれがわたしの城である。
開店ではチンドン屋が町内をめぐってお客の呼び込みをする。せまい店内にはたくさんの人が来てくれた。
わたしは、開店の賑やかさをうれしく心さわいだが外回りにでかける。半長靴にかばんをぶらさげオートバイに跨りお得意回りだ。
店は祥乃とKさんに任せきりで安心して外回りをしていた。
Kさんは、わたしがまな板を借りて才取りをしていたM社で板前として小売りを切り盛りしていた。年も近くて親しかった。
M社を辞めていたKさんを探しだし、「店を始めるので力になってくれないか」と相談したら二つ返事できてくれるようになった。
店・小売りを知らないわたし、小売り専門で外を知らないKさん、ふたつの歯車がかみ合って幸先のよいスタートになった。
祥乃は帳簿を付け、注文をまとめ、会計を全部やって、ジャガイモを挽きコロッケの型抜き、野菜サラダをつくり総菜の準備、肉を計りお客との対面販売、子どもの面倒をみる、コマネズミのように働いた。
店のことは安心してKさんと祥乃に任せ、わたしは外回りだ。豚を仕入れ、骨を抜いて部位ごとにさばいてオートバイに跨って得意先をまわる。
神田小川町の洋食屋Fと取引があった。繁盛している店で仕事がはねた後をねらって、夜8時過ぎに集金に行く
店主はチビリチビリ晩酌をしている。「集金に来ました」。「なんだ貴様。いまごろきやがって」。理屈もなにもありはしない。天気が悪いのも口に含んだ湯が熱かったのも全部「おまえが悪い」ことになる。勘定をもらわなければ仕入れ先への支払いに苦労するので、ニコニコといつはてるか分からない話を聞く。
勘定がもらえないで帰ることが幾晩もかさなる。
おかみさん、娘さんが気の毒がってくれ、大手町でレストランを経営する友人を紹介してくれた。
「レストランKは大きな店で肉の仕入れも多いだろうし、支払いも安心できるから行ってごらん」。
東京駅丸の内口を出た所に大きなビルがあり、その地下一階全部が店になっているという話である。
さっそく訪ねた。店からは入るに入れない。駐車場から厨房のドア―をあけると、調理場がビェーとでかいのだ。「いや、これはちょっとではない」とおそれをなしてそのまま帰った。
その翌日、ビルの周りをクルクル回ってから、店の入り口から覗いてみた。いやー、客席が広いのなんの、またもおそれをなして、後も見ずにとっとと退散。
それでその翌日も行き、また行って4日ほどそんなことをくり返す。
気持ちを励まして店のドア―を開け、「紹介されてきました」。
事務所に料理長がいて、「中條って知らないなぁ」。「名もなし、のれんも金もなしで始まってまだ1年ちょっとです。しかし一人でやっているので、おなじ品物だったら安くできるし、もし値段的に同じものだったら、ランクが上の良いものをお届けできます。レストランのお得意さんがなかったのでがんばります」。
料理長の隣にいたのは事務員だと思っていたのだが、これが社長で女社長。「フンフン、じゃー、チーフもらってみたら」。
見積もりを出せということになり、取引が成立し商売のおおきな転機になった。
中華店・洋食屋は席数が限られている。都心にあるレストランとの取り引きがかなったのだ。
O料理長はわたしより1つ年下で、年がちかいからすぐに仲良くなり、あるとき「友だちに会わせてやる」とTさんを紹介してくれた。
Oさんは職人肌の料理人、Tさんははいずりまわってでも研究する料理人で、無二の親友である。
Tさんは、有名デパートに33店の料理サロンを展開していた総料理長だったので、デパートの中のレストランとの取り引きが広がっていく。
Oさんは、万博めあてに開業したホテルに引き抜かれ大阪に行き、万博が終わって帰り再び旧交をあたためる。
大阪万博やホテルの様子を新鮮な思いで聞けた。
東京オリンピック(1964年)以降、大阪万博(1970年)に至る期間に、ホテルがたくさん開業した。
庶民は、親戚や知人・友人宅を宿泊場所として頼り、宿にしているのが当時は当たり前だったが「中條、これからの時代はホテルを多くの人が使うようになる」というのがOさんの話の端々にみえる。
やがてOさんは赤坂にあるホテルに料理長として入った。
「中條、こういうところとの取り引きはむずかしいよ。昔からの古い業者がいるし、業者会をつくり、業者会を通してホテルの用度課が検討しての取引だから、品物を取ってあげたいけれどむずかしい」。
このホテルの真向かいのレストランに納品していた。品物を納めてオートバイに腰掛けながら一服つけホテルを見あげる。
「こういう所と取り引き出来たらいいがなぁ」……。
食肉業界で、ある商品の品不足がつづいた。Oさんから電話が入り「お前のところにあるか」。「おう、ありますよ」。「骨つきのまま持ってきてくれ」。行ったら喜んで引き取ってくれた。
ホテルのS用度課長に「とにかくがんばるから、取り引きをお願いします」。「ああ、いいよ。がんばってくれ」。
ホテル指定の納品伝票を一束買って意気揚々と帰った。帰るなり祥乃に怒られた。
「仕入れ値にちかい値段で売って、支払いがあるのだから考えてもらわなくちゃ困る。どうするのよ、こんなに伝票を買ってきて」。
「すぐというわけには、いかないけどそのうちに、必ずいい得意にするから」。このホテルは末長くよいお得意さんである。
人から人につながる人脈が財産だった。それになによりよき協力者の祥乃がいる。
当時は月に2回の休みはあったが、肉の解体や御用聞きで休みにはならなかった。
注文の品物を整理し、注文先ごとに仕訳て仕事の段取りをつけるのは、5人の子どもの面倒をみながら祥乃がやっていた。
がむしゃらに「今一歩、先ずはもう一歩」と歩む。今となってはかけがえのない思い出になったけれども.……。
人脈の話ではこんなこともあった。
大手町のレストランKは、虎ノ門に新しい店を構えた。
大阪のホテルが経営していたレストランを引き取ったのだ。肉屋は数軒はいっていたが長づづきしない。入れ替わりがはげしい。
なぜかというと、赤字で撤退した店を引き取ったのだから、資金繰りが順調にいくわけにはいかない。支払いは2から3ケ月の手形決済になっていく。
わたしは知らんぷりをして催促したこともない。苦しいときはお互いさまという気持ちがあった。
他の納入業者は、安い価格を提示して取り引きをはじめるのだが、手形決済となるとポーンと納入価格を上げてくる。わたしはそんなことはしない。支払いの延期があっても同じ値段で、同じ品質のものを届けていた。女社長は「中條、中條」と信用してくれていた。
虎ノ門店の料理長にHさんがなった。その頃になると「中條商店」は、得意回りの人数が4人ほどにふえていたが、「あの店に納品に行くのはいやだ。品物を納めて伝票にサインをお願いしても料理長がなかなかしてくれない」と云う。
わたしが出かけていったらH料理長は早番で帰るところだった。「中條か。お前と話してもしょうがない。社長のスパイなのだから」。
女社長が「中條、中條」と品物をうちから優先してとるものだから「中條は社長のスパイ」と思い込んで面白くなかったようだ。
「帰れ、帰れ」。「そんな事を云わないで話をきいてください」。「いや、おれはもう帰るのだ」。「どこまで帰るのですか」と聞くと中央線沿線の名をあげた。
「それでは、新宿までお送りします」。
そのときは、軽四輪だったからH料理長を乗せて送っていく間に、社長のスパイという誤解がとけた。
他の業者よりなぜ中條からおおくの品物を取ってくれているのかを説明したら、すぐに納得してくれたのだ。
H料理長は、このレストランを辞めてから、いくつかのレストランに勤めたけれど、移るさきごとにわたしの所から品物をとってくれた。
人間関係は「分からない奴」と思っても、事をわけて話していけば分かりあえるものだという事を知り、これは自分自身の力にもなった。
ホテルのお得意は広がっていく。
大規模ホテルがオープンをむかえ中條と取り引きがあるホテルからHさんが総料理長として移った。
古くからの馴染みのHさんは、「新しいホテルに行くが、お前のところはくるか」。「ぜひ、お願いします」。
オープンして取引業者に選定された。
わたしはホテルとの取り引きが始まってから、こんな事を思っていた。
ふつうにやっていたら、歴史ある老舗の肉屋に敵うはずはない。中條としての特徴をどうもつか。調理現場を預かるコックさんたちが何を求めているか。じっくり考えた。
一手間かけて納品しよう。
肉屋であるからには、牛ヒレや牛ロースを売り込みたい。ただ当時は老舗の肉屋と新興のわたしたちとの格差は激しいものがあった。
大量に仕入れ、支払いが早ければ安く仕入れることができる。大量仕入れのルートは大所が押さえている。輸入牛肉も大所が組合をつくって、新興のわたしたちが入る余地はない。
大所が輸入牛肉の割当を独占し、大所が放出したものを仕入れるしかないのだから、わたしたちの仕入れコストは高くなる。だから並みのことをしていては商売にならない。
調理現場の求めている事に沿うサービスを模索したのだ。
サービスの一例は牛ヒレ肉である。牛ヒレ肉の納品は脂をつけたまま、キロあたり幾らと売っていた。牛ヒレ肉についている脂は、調理場で取って捨てるだけなのを見ている。
これは調理場での余計な作業ではないだろうか。
それでわたしのところでは、値段は高くなるけれど脂をきれいに取って納品することを売り込んだ。
脂なんかは捨てるものだから、脂付きでキロ当たり100円で買うのだったら、130円出したって脂をとり掃除してあるものの方がはるかに安くつく。
この新しい大規模ホテルではそれが受けて、オープン以来「中條、中條」で突っ走って、月締めの売り上げがトップになってしまった。
抵抗もつよくなる。大所と新興の格差は激しかったから、大所から横槍を入れられ、売上がだんだん少なくなり十分の一に落ち込んだ時期もある。
現場コックから「中條でなければダメだ」との声が大きく、また徐徐に徐徐に売り上げがアップしていった。
よい品物だと、自信を持って納めても、「この野郎、いい加減なものをもってきやがって」と、理不尽なことを云われ、「今、勘定は払えないよ」とつっけんどんにされ、どんな嫌なときでもわたしはニコニコしていた。
ひとりでやっていたときから、いつもニコニコ。だからお得意さんからは「笑う営業マン」と呼ばれていたのだ。
身体が丈夫だからなんとかやって来られて、今日があるのじゃないかな。忘れていかんのは、協力者の祥乃がしっかりと支えてくれたことだ。
お得意をつくるときは「いま一軒、もう一軒」と、いろいろ無理をするわけだし、売るにしてもそうだし、入り込むまでは大変だった。
それを嫌な顔ひとつしないで、協力してくれた。
だからこれだけ得意を確立できたのだ。
2008年12月 聞き取り
2009年2月 録音テープ起こし、原稿化
後記
中條孝さん無かりせば、わたしの来し方はおおきく変わっていたことだろう。
自分の欲得をはなれ、いつも相手をおもんばかりその応援をしてくれる懐が深い人だった。
地域でも「町会会長」をはじめいろいろな役職を長年務めていた。
本年、(株)中條は社員70余名を擁し「開業60周年」をむかえる。取り引きは国内全域に亘り、海外にもつばさをひろげ、日本有数の食肉卸業社となった。
その礎を築いた中條孝さんは、いつもニコニコ、それは最晩年にお見舞いに行った時にもかわりなく、薬で意識が薄い中でもおだやかな表情であった。
ブログとしては異常に長くなったが、中條孝さんから聞きとった「中條孝 男一代記(青春篇)」(原稿用紙40枚分)を、短く纏めたものをもって追悼記にしたく編集した。