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酷暑

2018年08月31日 | Weblog


 この夏の暑さは半端じゃなかった。
わが家にはクーラーが一台ある。
妻が大病を患い自宅療養の暑さをしのぐのに、2階の一室に設置したものだ。
療養時には大活躍したが、それ以降はよほど寝苦しい夏場に、年間3晩か4晩しか使わず20年ほど経過した。
いまでは寝室にしているこの六畳間は、一方は庭に面し、一方はベランダに接している。
網戸にして外気を取り入れ扇風機をまわせば難なく眠れたものだ。
しかしことしは、網戸にして扇風機を2台まわしても寝つかれない暑さで、本意ではないのだが6月末からクーラーを使うようになった。

 関東地方の梅雨明けが、「統計開始史上、最も早く去年より7日、平年よりは22日も早い6月29日」と騒がれた。
梅雨明け直前6月25日の気温は35℃を超え、平年の平均26℃台を大幅に上回りその勢いがとまらず7月になだれこむ。
7月1日32℃、7月15日35℃と、平年平均値の27℃台を上回って7月が推移する。
ニュースの時間になると「水分をこまめに補給し塩分も適度にとり、冷房をためらわず活用し熱中症を予防しましょう」と毎度呼びかけている。

 わたしたちが家で過ごすのは階下である。二人とも地域の「あれこれ」で、いつも家にいるわけではない。
しかし食事をし、家計簿をつけ、新聞を読み、テレビをみるのは、この部屋である。
ここにはクーラーがないから扇風機で暑さをしのぎ、格別クーラーの必要性を感じずに過ごしてきた。
しかし尋常でないことしの暑さに、とうとう二人とも音を上げる破目になる。
それぞれ一台の扇風機を独占し、しがみつくようにして過ごしていたが、耐えられず2階の寝室に避難しクーラーを入れること数回に及ぶ。
部屋にはなにもない。ひたすら本を読んで過ごすのだが、いくら本好きでもそう長くはつづかず、また下の部屋に戻って2台の扇風機をフル回転させる。
噴き出る汗がとまらない、疲れが溜まっていくような気がしてしょうがない。

「扇風機2台フル回転する電気代と、クーラーの電気代は同じくらいかも知れないね」と、大型電気店に出かけた。
型番が古くなったクーラーが値下げして展示されている。
「型番が古いといっても新規発売されたものに比べ、性能に大きな変化があるという訳ではありませんよ」と、年配の店員がすすめてくれる。
価格も目を剥くような額ではなかったので、14畳用を購入した。
「いつ取りつけてもらえますか」。
「今はたいへん混みあっていますから、2週間先の8月2日になります」。
7月20日に電気屋に行って8月2日まで待つ。
8月2日、工事の人がようやくやってきたが、取り付け作業をすべて終えブレーカーに接続しようとしてなにやら考えている。
「ブレーカーの部品が合わないので、部品を取り寄せなくてはならない」…と云うではないか。
クーラーが入ったら取りかかろうと意気込んでいた仕事が先延ばしになる。

 3日目にようやく通電、ひやっこい空気が部屋に行きわたる。
これでようやくパソコン作業を根をつめてできる。
気にかかっていた「和力・ザムザ阿佐ヶ谷公演」の案内文を作成、推敲・印刷・封筒入れ・切手貼りの作業を一気にやれた。
8月も35℃を超える猛暑日が連日つづく。
「懐に痛かったけどクーラーをいれてよかったね」と、過ごす毎日である。
特に週に二回行っているバイトからの帰り、駅からの2キロの道のりは、アスファルトの熱気が足元から押し寄せ、正面からギンギラギンの日射しが降り注ぐので、喘ぐようにして家に帰り着く。
居間に入ると冷涼な空気に満たされているので、一日の疲れも吹っ飛ぶ心地だ。

 その安心・喜びも束の間、29日にクーラーのスイッチが入らなくなり、修理にくるのは9月3日になるそうだ。

 20年ほど前に設置したクーラーは、なんの故障もなく安眠を保ってくれているのに、今回の買い物はどうなるのだろうか、一生お付き合いできるのだろうか、心配しながら8月最後の日が終わる。
本日の最高気温は34℃であった。


 










スマホデビューしてから1年

2018年07月27日 | Weblog
 

 スマホデビューしてから1年が経つ。
長年使ってきた携帯電話が、いつの頃からか「ガラ系」と称されるようになり、意味は分からないものの、雰囲気から推して「時代遅れ」と云われているように思われた。
スマホ全盛の時代になったからといって、携帯電話は16年にわたって愛用していたので、変えるつもりはさらさらなかったが、「この機器では接続がままならない状態になり得る」との携帯電話会社から案内状がとどいた。
妻も同じ会社の携帯電話をつかっている。「どうしたものだろう」と二人して気にし始めた矢先、和力ライブが松戸市であり、わが家に朗が前泊したので、携帯会社の案内をみせ相談したら、「スマホは便利だよ」と即座に云う。
「写真は鮮明だし、ラインも使えるし」…その他いろいろな効能を教えてくれる。

「ライン」とはなにか分からないが、「便利だよ」に惹かれ、それではスマホに乗り替えてみるか…妻と営業店に行き、長年にわたって愛用した携帯電話をスマートホーンに変えたのが昨年の7月だった。
最初のころは、携帯電話にくらべ画面が大きい分、かさばるし重い。
携帯ではメールを打つのに片手だけで操作していたのに、スマホは本体を片手で持ち、もう一方の手で打ちこまねばならない。
そんな戸惑いはありながら、すこしずつ慣れ、思いがけない新発見もあった。
画面を開いて指先でスライドすると、画面が前後・左右にスルスルと移動する。
携帯電話のときには、ボタンを押して一つひとつ移動させ目的項目へたどり着いていたのに、スィーと動く。これだけて近代人になったような気がして喜んだ。
また、マイクのマークをタップし、音声で指示をあたえるといくつもの答えがでるのにもびっくりした。
例えば、「グーグル画面」のマイクをタップし音声で検索すると、いくつもの答えというかヒントが例示される。

 わが家での炊事担当はわたしがやっている。炊事をやることに抵抗はないものの、調理のセンスがないらしく、いつまで経っても自分の十八番が取得できない。
わたしがレシピを見ないで作れるのは「野菜炒め」くらいである。野菜炒めは野菜を切ってフライパンで炒めて「塩コショウ」を振るだけでいい。
「野菜炒め」以外のわが家の定番は、「ブリ大根」と「タイの兜煮」である。どちらも刺身の部分を取った「アラ」である。150円とか250円で購える。価格が安いうえに味がいいのでよく作っている。
しょっちゅう作っているのに、醤油、料理酒、砂糖、味醂、水などの案配が覚えきれない。なにが大匙一杯でなにが小匙半分だったか、いつもこんがらかる。
亡くなった母は、料理の本など見ていないのに煮魚、野菜料理、炒めご飯、なんでもいい味を出していた。
いちいちレシピを見なくても、なにとなにを絡めるとどのような味になるのかを見越してつくっていたのだろう。
母の用意してくれた食事を食べながら、「あー、うまかった」とか「ごちそうさま」など感謝の言葉をなぜ云えなかったのか、仏頂面で当たり前のように食べ、労いの言葉をかけることがなかったことを今では悔んでいる。
たまには煮魚に挑戦し、レシピどおりにつくっても「おふくろの味」には及びもつかないのだ。

 畑地を借り野菜づくりをしている。
春先には「絹サヤ」や「エンドウ豆」がたくさんできた。
以前はパソコンで調理方法を調べていたが、調理をしながら調味料の数値をいちいち覗きにいく。
その覗きに行く手間がスマホを使いはじめて省けた。手元に置いてそれを見ながら調理ができるので便利になった。
また、知らない場所に行く時、「マップ」画面のマイクをタップし指示を与えると目的地まで、音声と地図で案内してくれる。
「カーナビ」を無理に買わずにすんだのだ。
いろんな使い方はあるのだろうが、携帯電話とおおきく違ったのはこの二つである。

 わたしは電機や機械に疎い。
いまもって電話機が文字を送り、受けるのか理解できない世代である。
スマホがこちらの話すことを理解し、適正にその例示や案内をするのも不思議なことのひとつになった。


 




中條 孝さん逝く

2018年06月30日 | Weblog


 わたしと一才ちがいの 妹・祥乃の伴侶、(株)中條代表取締役会長の中條孝さんが85才で逝き、6月27日・28日「町屋斎場」で、「会社葬」が催された。
祭りの法被を羽織って、にこやかにほほ笑む遺影が花、花、花に囲まれている。
人をおだやかに包みこむ、この笑顔・ほほ笑みが中條孝さんの真骨頂で、生涯かわることはなかった。
午後6時、祭壇前に焼香台が3組ならび参列者6人づつが、係員の手際のいい誘導で焼香していく。 
わたしは「親族席」で「あ、この人は仕事場の先輩だった、あ、同僚だった人もきた。町内、取引先の方」と、懐かしむ人も多かったが見知らぬ方が圧倒的に多い。
そしてびっくりしたのは、お別れの列が延々とつづくことだった。
通夜は午後6時から7時と案内されていたが、7時になっても列が途切れない。
お坊さんは鐘と木魚をときたま叩き、お経を諳んじる。冷房の利いた式場であるが予定時間を超す読経で汗にまみれておられた。
式がはじまる前、「親族の方には『焼香台』を別にまわします。席に座ったままご焼香ください」と説明された意味が分かった。
キャスター付きの焼香台が親族席を行き来し焼香する。普通の式次第では施主・親族そして参列者の順にやるが、それではなかなか収まりがつかない……と葬儀会社が判断したのであろう。
葬儀委員長N荒川区長が、「わたしは多くの場に参列してきました。しかしこんなに多くの方がお別れに臨まれるのは初めての経験です。故人の人柄がしのばれます」とご挨拶くださった。



 中條孝さんは、新潟県の雪深い山里で6人きょうだいの2番目として生まれた。
いろりにくべた木の根っこが、朝になるまで煙って、燃えさしが崩れる音で目覚める生活であったそうだ。
まだ世に言う「集団就職」が始まっていない1947年3月18日中学卒業、23日には上野駅に着いた。
卒業生は43人、上の学校へ行ったのは、男一人、女一人、家に残るもの、知る辺を頼って都会に出るものそれぞれであったが、いちばん早く外へ飛び出したのが中條孝さんである。
一刻もはやく都会で稼ぎ、両親に仕送りをしてあげたい思いでいっぱいだった。

 遠い親戚が出稼ぎしていた足立区の鳥問屋を紹介してくれていたので住み込み店員として働きはじめる。
この鳥問屋は手広く商売をしており、都内はもとより川崎・横浜・小田原などに得意があり、横浜までは自転車にリャカーをつけて運ぶ。
遠くのお得意は荷を運んでいくと「お小遣いだよ」と200円か300円くれた。その小遣い銭を貯めて作業服を買ったり、休みの日には3本立ての映画をみたりした。
鳥問屋からもらう給料は、手づかずのまま実家に送る。
4年間働き「自分に向いている仕事は他にあるのではないか」、自分が納得できる将来の仕事はなにか考えあぐねて、世話になった鳥問屋を辞めた。

 19才で自分探しの旅に出、千住大橋のたもとにある「生花市場」に2年、台東区下車坂の内臓屋、台東区金杉にあるハム屋にもいった。
「自分が納得して出来る商売だろうか」……それぞれに長くはつづかない。
3年ほどあっちこっち放浪する時間がつづく。
鳥の配達をして親しくなった、上野市場で小売店を開くAさんの所で暇つぶしをしていたら、食肉業務用卸T社の社長が集金にやって来た。
「俺の所に来たらどうだ」と誘われ、御徒町の会社に住み込み店員として入る。
有楽町や日本橋のお得意回りをし、早朝から肉をさばいて配達に出る。帰って来ると明日の段取りをして、夜は「御用聞き」で駆けずりまわる毎日である。
5年が経ち仕事にも慣れてきた。
「孝が辞めるかも…」との誤りの風聞を信じた店主が「おまえ、うちを出るそうだな。自分のお得意をつくるため、今までいたのか」と云う。突然のことにびっくりし「そんなことはない」と説明しても聞き入れてもらえない。
この店を出るなんてことは考えていなかったが、「このままではつづかない」と、翌日の昼に店を後にした。
行く当てはない。不動産屋に駆けこむが話がまとまらず、配達の行き帰りに通って、見知っていたお茶の水・聖橋の下を寝泊まりの場とした。
7月で陽気がよかったから助かったが、蚊の大群に襲われ寝るのには苦労した。
5日間ほどねぐらにして、昼間は不動産屋や得意を求めて歩きまわる。ようやく下車坂のアパートに入れたが大雨が降ると雨漏りする建物だった。

 26才になっていた。
夜寝るところができたので中古自転車を買い、得意を取るのに動き始め、ラーメン屋・洋食屋に飛び込みで営業に入った。
歩き歩いて目につくかぎりの店にはいるのだが、どこでも断られる。
T社にいた時、「孝、独立したらいつでも来いよ。品物をとってやるから」と云ってくれた得意先は何軒もあったが、それはT社の得意であるから、自前の得意をもつことにこだわった。
いくら廻っても取引できないと「あの店に行けば必ず取引してくれるのだがなぁ」と足が向きかける。しかし恩あるT社の得意をこちらの得意にするわけにはいかない。
「お前の顔はみたくもない。もう来るな」。それでも断られるところから商売が始まるのだと日参した。
「手持ちの金がなくなったら、独立しての商売はあきらめ、どこかに勤めよう」。ご飯は食べられず、うどんはたまにしか口にできない。もっぱらコッペパンを頬張り水を飲む。腹は膨れるがすぐに腹がへる。
人恋しくなって上野市場のAさん宅で、揚げ物を手伝いながら気分を変えていた。
文京区根津にある牛・豚卸問屋MのNさんが集金に来た。鳥を配達していた頃に得意先でよく顔を合わせていた人だ。
Nさんの口利きでM社から肉を仕入れ、まな板を借りて骨抜きをし、商品に仕立て、余ったら冷蔵庫に保管してもらう、「才取り商売」の本格的な船出ができた。
才取りの第一歩を踏み出したが、品物を運ぶ得意先がない。
「それでは品物を持ってきてみな」と、飛込みで日参した甲斐があって本郷のK、日暮里のAなど中華店で取引先を開拓できた。それぞれに支店を紹介してくれ、懇意な店に声をかけてくれ取引先がすこしまとまってきた。
独立したにはしたが、1日に豚バラ1枚、豚肩1本、骨だけの配達という日もある。
日本橋の洋食屋と取引できるようになった。その店の近くに「白木屋デパート」があり、朝早く行くと駐車場にたばこの吸い殻がたくさん落ちている。拾い集めてはそれをほぐして巻いて吸う。商売はすこし動きはじめたがまだ余裕はない。

 だんだんと商売は軌道にのってきた。商売を始めたばかりには現金取引しかできなかった。貰った現金はすぐさま商品の仕入れに使い、生活費にしなくてはならない。
そのうち「掛け売り」する余裕ができたが、請求書を出すのに往生する。
大きなソロバンを買いパチン、パチンそろばん玉を弾くが、計算がなかなか合わない。請求書を出す得意先は数軒なのに明け方までかかっての請求書づくり。

 得意先が20軒をこすようになって忙しくなる。
「100万円貯まったら所帯をもとう」と節約に励んだ甲斐があり、正月元旦に布団の中で預金通帳を確かめたら120万以上あった。
「おう、これだけあれば所帯がもてる」。おおいに勇気づいたものだ。
商売で乗り回していたヤマハのオートバイ(250CC)をピカピカに磨き上げ、千住のおじさんの家へ年始に行く。
千住のおじさんは喜んでくれ、「孝、よく来たよく来た、正月だからまずはいっぱい飲めや」と酒を注いでくれる。
そのとき、裏口からこの家の長女・祥乃がはいってきた。
東京に着いたばかりの時、寝泊まりさせてもらっていたから初対面ではないが、「ほんに子どもだ」と思っていたのが、このころには「運送屋」に勤めていて「こんちわ」と入って来た姿にびっくりした。
聞けば運送屋では「経理」を担当するソロバン2級の腕前だという。
「ソロバンを弾くのが苦手だし、洗濯ものもたまる。商売に専念したいのでぜひ娘さんを嫁にもらえないか」と、とっさに言うと、「おー、正月早々いい話じゃないか」とおじさんがすぐに賛成してくれた。おばさんはなにも言わないが「あれを食え、これを食え」と目をグリグリさせてすすめてくれていた。
1月末に千住の家に顔を出す。
「孝、正月あんなことを言ったがなぁ、祥乃はうちのため何年か働いて貰わなくてはならない。あの話は止めだ」と言う。おじさんは一刻者だったから言い出したら聞かない。
わたしは翌日、虎の子の預金通帳を持参して「身体一つできてもらえればよい」と頼むのだが「いや、ダメだダメだ」。
それから邪魔にならないように1日おきに通い通して、ようやく結婚の承諾を得た。
「田舎の親父が危篤で3日ばかり休む」と得意先に断って、湯島の小料理屋で10人ばかり集まっての結婚式をやった。
新婚旅行は伊東で一泊し、観光バスに乗って小田原に出て帰って来た。根津のアパートに帰りそのまま注文取りの御用聞きに出た。休んだのは実質1日だった。
1960年10月のことで28才になっていた。

 根津のアパートで長男・勉が誕生する。子どもが生まれたのを弾みにし、人の家のまな板を借りてではなく、自前の店で商売をしたいと決心。
1962年5月2日に、荒川区東日暮里の中古物件を購入した。30才で荒川区民になったのだ。
坪数17.5坪、間口2間、奥行6間の家だった。家の改装に取りかかり9月に生後4ヶ月になる勉を抱っこして引っ越し、開店の準備にかかる。
店構えは道路に面して細長いつくりだ。店のショーウィンドーも横長で、お客さんが3人入ればいっぱいになる。ショーウィンドー横に揚げ物用の大きな鍋、それを背にして冷蔵庫の白いタイルが輝く。そして豚の解体をする作業台があって、住居にする2階への階段がある。狭いせまい店舗だったがこれがわたしの城である。
開店ではチンドン屋が町内をめぐってお客の呼び込みをする。せまい店内にはたくさんの人が来てくれた。
わたしは、開店の賑やかさをうれしく心さわいだが外回りにでかける。半長靴にかばんをぶらさげオートバイに跨りお得意回りだ。
店は祥乃とKさんに任せきりで安心して外回りをしていた。
Kさんは、わたしがまな板を借りて才取りをしていたM社で板前として小売りを切り盛りしていた。年も近くて親しかった。
M社を辞めていたKさんを探しだし、「店を始めるので力になってくれないか」と相談したら二つ返事できてくれるようになった。
店・小売りを知らないわたし、小売り専門で外を知らないKさん、ふたつの歯車がかみ合って幸先のよいスタートになった。
祥乃は帳簿を付け、注文をまとめ、会計を全部やって、ジャガイモを挽きコロッケの型抜き、野菜サラダをつくり総菜の準備、肉を計りお客との対面販売、子どもの面倒をみる、コマネズミのように働いた。

 店のことは安心してKさんと祥乃に任せ、わたしは外回りだ。豚を仕入れ、骨を抜いて部位ごとにさばいてオートバイに跨って得意先をまわる。
神田小川町の洋食屋Fと取引があった。繁盛している店で仕事がはねた後をねらって、夜8時過ぎに集金に行く
店主はチビリチビリ晩酌をしている。「集金に来ました」。「なんだ貴様。いまごろきやがって」。理屈もなにもありはしない。天気が悪いのも口に含んだ湯が熱かったのも全部「おまえが悪い」ことになる。勘定をもらわなければ仕入れ先への支払いに苦労するので、ニコニコといつはてるか分からない話を聞く。
勘定がもらえないで帰ることが幾晩もかさなる。
おかみさん、娘さんが気の毒がってくれ、大手町でレストランを経営する友人を紹介してくれた。
「レストランKは大きな店で肉の仕入れも多いだろうし、支払いも安心できるから行ってごらん」。
東京駅丸の内口を出た所に大きなビルがあり、その地下一階全部が店になっているという話である。
さっそく訪ねた。店からは入るに入れない。駐車場から厨房のドア―をあけると、調理場がビェーとでかいのだ。「いや、これはちょっとではない」とおそれをなしてそのまま帰った。
その翌日、ビルの周りをクルクル回ってから、店の入り口から覗いてみた。いやー、客席が広いのなんの、またもおそれをなして、後も見ずにとっとと退散。
それでその翌日も行き、また行って4日ほどそんなことをくり返す。
気持ちを励まして店のドア―を開け、「紹介されてきました」。
事務所に料理長がいて、「中條って知らないなぁ」。「名もなし、のれんも金もなしで始まってまだ1年ちょっとです。しかし一人でやっているので、おなじ品物だったら安くできるし、もし値段的に同じものだったら、ランクが上の良いものをお届けできます。レストランのお得意さんがなかったのでがんばります」。
料理長の隣にいたのは事務員だと思っていたのだが、これが社長で女社長。「フンフン、じゃー、チーフもらってみたら」。
見積もりを出せということになり、取引が成立し商売のおおきな転機になった。
中華店・洋食屋は席数が限られている。都心にあるレストランとの取り引きがかなったのだ。

 O料理長はわたしより1つ年下で、年がちかいからすぐに仲良くなり、あるとき「友だちに会わせてやる」とTさんを紹介してくれた。
Oさんは職人肌の料理人、Tさんははいずりまわってでも研究する料理人で、無二の親友である。
Tさんは、有名デパートに33店の料理サロンを展開していた総料理長だったので、デパートの中のレストランとの取り引きが広がっていく。

 Oさんは、万博めあてに開業したホテルに引き抜かれ大阪に行き、万博が終わって帰り再び旧交をあたためる。
大阪万博やホテルの様子を新鮮な思いで聞けた。
東京オリンピック(1964年)以降、大阪万博(1970年)に至る期間に、ホテルがたくさん開業した。
庶民は、親戚や知人・友人宅を宿泊場所として頼り、宿にしているのが当時は当たり前だったが「中條、これからの時代はホテルを多くの人が使うようになる」というのがOさんの話の端々にみえる。
やがてOさんは赤坂にあるホテルに料理長として入った。
「中條、こういうところとの取り引きはむずかしいよ。昔からの古い業者がいるし、業者会をつくり、業者会を通してホテルの用度課が検討しての取引だから、品物を取ってあげたいけれどむずかしい」。
このホテルの真向かいのレストランに納品していた。品物を納めてオートバイに腰掛けながら一服つけホテルを見あげる。
「こういう所と取り引き出来たらいいがなぁ」……。
食肉業界で、ある商品の品不足がつづいた。Oさんから電話が入り「お前のところにあるか」。「おう、ありますよ」。「骨つきのまま持ってきてくれ」。行ったら喜んで引き取ってくれた。
ホテルのS用度課長に「とにかくがんばるから、取り引きをお願いします」。「ああ、いいよ。がんばってくれ」。
ホテル指定の納品伝票を一束買って意気揚々と帰った。帰るなり祥乃に怒られた。
「仕入れ値にちかい値段で売って、支払いがあるのだから考えてもらわなくちゃ困る。どうするのよ、こんなに伝票を買ってきて」。
「すぐというわけには、いかないけどそのうちに、必ずいい得意にするから」。このホテルは末長くよいお得意さんである。

 人から人につながる人脈が財産だった。それになによりよき協力者の祥乃がいる。
当時は月に2回の休みはあったが、肉の解体や御用聞きで休みにはならなかった。
注文の品物を整理し、注文先ごとに仕訳て仕事の段取りをつけるのは、5人の子どもの面倒をみながら祥乃がやっていた。
がむしゃらに「今一歩、先ずはもう一歩」と歩む。今となってはかけがえのない思い出になったけれども.……。

 人脈の話ではこんなこともあった。
大手町のレストランKは、虎ノ門に新しい店を構えた。
大阪のホテルが経営していたレストランを引き取ったのだ。肉屋は数軒はいっていたが長づづきしない。入れ替わりがはげしい。
なぜかというと、赤字で撤退した店を引き取ったのだから、資金繰りが順調にいくわけにはいかない。支払いは2から3ケ月の手形決済になっていく。
わたしは知らんぷりをして催促したこともない。苦しいときはお互いさまという気持ちがあった。
他の納入業者は、安い価格を提示して取り引きをはじめるのだが、手形決済となるとポーンと納入価格を上げてくる。わたしはそんなことはしない。支払いの延期があっても同じ値段で、同じ品質のものを届けていた。女社長は「中條、中條」と信用してくれていた。
虎ノ門店の料理長にHさんがなった。その頃になると「中條商店」は、得意回りの人数が4人ほどにふえていたが、「あの店に納品に行くのはいやだ。品物を納めて伝票にサインをお願いしても料理長がなかなかしてくれない」と云う。
わたしが出かけていったらH料理長は早番で帰るところだった。「中條か。お前と話してもしょうがない。社長のスパイなのだから」。
女社長が「中條、中條」と品物をうちから優先してとるものだから「中條は社長のスパイ」と思い込んで面白くなかったようだ。
「帰れ、帰れ」。「そんな事を云わないで話をきいてください」。「いや、おれはもう帰るのだ」。「どこまで帰るのですか」と聞くと中央線沿線の名をあげた。
「それでは、新宿までお送りします」。
そのときは、軽四輪だったからH料理長を乗せて送っていく間に、社長のスパイという誤解がとけた。
他の業者よりなぜ中條からおおくの品物を取ってくれているのかを説明したら、すぐに納得してくれたのだ。
H料理長は、このレストランを辞めてから、いくつかのレストランに勤めたけれど、移るさきごとにわたしの所から品物をとってくれた。
人間関係は「分からない奴」と思っても、事をわけて話していけば分かりあえるものだという事を知り、これは自分自身の力にもなった。

 ホテルのお得意は広がっていく。
大規模ホテルがオープンをむかえ中條と取り引きがあるホテルからHさんが総料理長として移った。
古くからの馴染みのHさんは、「新しいホテルに行くが、お前のところはくるか」。「ぜひ、お願いします」。
オープンして取引業者に選定された。
わたしはホテルとの取り引きが始まってから、こんな事を思っていた。
ふつうにやっていたら、歴史ある老舗の肉屋に敵うはずはない。中條としての特徴をどうもつか。調理現場を預かるコックさんたちが何を求めているか。じっくり考えた。
一手間かけて納品しよう。
肉屋であるからには、牛ヒレや牛ロースを売り込みたい。ただ当時は老舗の肉屋と新興のわたしたちとの格差は激しいものがあった。
大量に仕入れ、支払いが早ければ安く仕入れることができる。大量仕入れのルートは大所が押さえている。輸入牛肉も大所が組合をつくって、新興のわたしたちが入る余地はない。
大所が輸入牛肉の割当を独占し、大所が放出したものを仕入れるしかないのだから、わたしたちの仕入れコストは高くなる。だから並みのことをしていては商売にならない。
調理現場の求めている事に沿うサービスを模索したのだ。
サービスの一例は牛ヒレ肉である。牛ヒレ肉の納品は脂をつけたまま、キロあたり幾らと売っていた。牛ヒレ肉についている脂は、調理場で取って捨てるだけなのを見ている。
これは調理場での余計な作業ではないだろうか。
それでわたしのところでは、値段は高くなるけれど脂をきれいに取って納品することを売り込んだ。
脂なんかは捨てるものだから、脂付きでキロ当たり100円で買うのだったら、130円出したって脂をとり掃除してあるものの方がはるかに安くつく。
この新しい大規模ホテルではそれが受けて、オープン以来「中條、中條」で突っ走って、月締めの売り上げがトップになってしまった。
抵抗もつよくなる。大所と新興の格差は激しかったから、大所から横槍を入れられ、売上がだんだん少なくなり十分の一に落ち込んだ時期もある。
現場コックから「中條でなければダメだ」との声が大きく、また徐徐に徐徐に売り上げがアップしていった。

 よい品物だと、自信を持って納めても、「この野郎、いい加減なものをもってきやがって」と、理不尽なことを云われ、「今、勘定は払えないよ」とつっけんどんにされ、どんな嫌なときでもわたしはニコニコしていた。
ひとりでやっていたときから、いつもニコニコ。だからお得意さんからは「笑う営業マン」と呼ばれていたのだ。
身体が丈夫だからなんとかやって来られて、今日があるのじゃないかな。忘れていかんのは、協力者の祥乃がしっかりと支えてくれたことだ。
お得意をつくるときは「いま一軒、もう一軒」と、いろいろ無理をするわけだし、売るにしてもそうだし、入り込むまでは大変だった。
それを嫌な顔ひとつしないで、協力してくれた。
だからこれだけ得意を確立できたのだ。


2008年12月   聞き取り
2009年2月   録音テープ起こし、原稿化

後記
 中條孝さん無かりせば、わたしの来し方はおおきく変わっていたことだろう。
自分の欲得をはなれ、いつも相手をおもんばかりその応援をしてくれる懐が深い人だった。
地域でも「町会会長」をはじめいろいろな役職を長年務めていた。
本年、(株)中條は社員70余名を擁し「開業60周年」をむかえる。取り引きは国内全域に亘り、海外にもつばさをひろげ、日本有数の食肉卸業社となった。
その礎を築いた中條孝さんは、いつもニコニコ、それは最晩年にお見舞いに行った時にもかわりなく、薬で意識が薄い中でもおだやかな表情であった。
ブログとしては異常に長くなったが、中條孝さんから聞きとった「中條孝 男一代記(青春篇)」(原稿用紙40枚分)を、短く纏めたものをもって追悼記にしたく編集した。

薬の飲み忘れ

2018年05月30日 | Weblog


 わたしの健康状態は、学校時代の「通信簿」にたとえることができる。
45才までは小学時代の「通信簿」だ。5段階評価の「3」がずらり……。年に一度の健康診断表は、「異常なし」がきれいに並んでいた。
45才を過ぎると中学校の「通信簿」に似通ってくる。「3」が基調だが英語や数学が「2」や「1」になり、体育が「5」、評価点が凸凹になる。健康診断表もすこし変化があった。「コレステロール値が高い」となり、「異常なし」の列が乱れた。
この時以来、コレステロールを下げる薬を飲むことになった。
65才になると高校時代の「通信簿」となる。英語・数学に加えて、幾何、物理、化学などが「2」や「1」に加わる。国語や社会科関係はなんとか平均以上を保っているが、その評価点は凸凹、凸凹が激しい。健康診断表も「要注意」だったものが、正式に病名がつき薬が二つ増えた。
以後、朝3錠、寝る前3錠の薬は79才を迎えたいま飲みつづけている。

 1ケ月半毎に通院して薬をもらう。
薬局では薬を出すたびに「飲み忘れはありませんか」と尋ねられるが、わたしは服薬を忘れず過ごしてきた。
ところが昨年の5月、約10日間も薬を飲むのを忘れてしまったことがある。風邪をひいたのが原因である。
夜中に咳きこみ痰がからむ。からだを横たえるとはげしくなるものだから、夜になるのがこわい日々を過ごした。
病院で処方してもらった、炎症止め薬1錠、咳止め薬2錠、痰切り薬2錠を毎食後のむ。
朝は長年にわたって飲んでいる薬が3錠あった。
風邪の症状がきついものだから、風邪薬を呑むことに気が逸ってしまい、呑んだら安心し常々呑んでいた薬を忘れてしまったのだ。
風邪で処方された薬を呑み終わり、ふと薬袋をみると常々の薬が大量に残っている。
「なんとしたことか」……とふり返ると上記のような次第であったのだ。

 今年5月の下旬のことである。
朝5時半に起きて、バイクに跨り新聞配達にでかけた。週に3回、「早朝配達」と称する新聞配りを他のメンバーと分担して受け持っている。
寒さも収まったから、すこしばかり軽装で走った。
家に帰り朝食を摂った後あたりから、寒さを感じそれのみか「胴震い」までしてきて、堪らず横になり震えをこらえる。
体温計は38度8分をしめした。
「どうしたの、熱あり過ぎだよ」と妻が取りあえずの薬を探しはじめる。
わたしは自分自身の常温を知らないものだから、38度を越していることにあまり驚かなかったが妻は看護師だから「普通じゃないよ」と応急の薬を探しだし、「お医者さんに行きなさい」と命令する。
咳は出ず痰もからまないので「休んでいればじきに良くなるよ」と、病院行きは渋ったが、妻の剣幕に抗えず病院に行った。
この時の体温は37度6分で、「マスクをしてください」と云われ差しだされたマスクをして診察をまった。
病名は明かされず3日分の「解熱剤」を受けとって帰る。
夕方になり体温を測ると35度2分であったので「たいへんだ、低体温症になったみたいだ」と妻にいったら「それが基礎体温じゃないの」と、こともなげに言われた。
わたしはここで自分の体温が35度台だということを覚えたのだ。

 そして翌日も35度台を維持して、大事をとって家でゴロゴロしたのは2日間で済んだのだが、「あの熱はなんだったのだろう」と、与えられた「解熱剤」を呑みながら考えるが心当たりがない。
妻は「知恵熱だったかもしれないね」と云っているが、大事に至らなくてよかった。
短時間で体調が回復したから、新たに処方された薬に頼る気持ちがうすく、通常の薬の呑み忘れは今回なかった。


稼げる生活ものこりわずかに……

2018年04月28日 | Weblog


 わたしの誕生月は4月である。この4月で79才となり、80才が目前になってきた。
80才になったら決断しなければならないことがある。
わたしは、東京・谷中にある「ディサービス」に通い、介護職員として働いて5年をこえた。
週に2回出勤しての給与は、少ない年金生活に潤いを与えてくれている。
まだ体力に自信もあり、身体がつづくかぎり働きたいのだが、「稼げる」期間は80才までだろうなぁ。
わたしは無芸・無才で持っている「資格」は、「運転免許」のみである。
「ディサービス」では、リハビリ体操・ゲーム・お話・買い物・散歩など、お年寄りと楽しく一日を過ごす。
だがディサービスでのわたしの主要なしごとは「送迎」にあるのだ。
自動車を駆って、朝と夕方に利用者さんをお宅へ送り迎えする。幸いなことに運転上のトラブルはない。
昨年受講した運転免許更新時の「高齢者講習」においては、なんの問題もなくむしろ自信を深める結果だった。
だが、世間では高齢者の交通事故が多発しているとして、「免許返納」が奨励されている。
わたしがまだまだ「稼げる」日々を送りたいと願っても、「運転免許」だけが頼りなので、万一のことがあれば事業所に迷惑をかけるおそれがある。
「人様を乗せての運転は80才までとしたい」と事業所に申し入れた。
だから、長くても来年の4月には「稼ぐ」生活とおさらばせざるを得ないのだ。

 思い起こせば「稼ぐ」生活は多様で長きにわたった。
わたしは小学6年で「新聞配達」をはじめ、朝4時に起きて徒歩で2時間ほど配達をして学校に行く。
学校から帰って夕刊も配った。
その頃の新聞配達は「新聞少年」と称され主に中学生が担っていたものだ。
高校に入り一時「稼ぐ」生活を中断したが、3ヶ月ほどで定時制高校へ転校した。やはり自分で稼がないと成り立たない。
お茶の水にあった文具会社の「定時制高校生募集」の新聞広告で試験会場に行く。なんと20人ほどが集まっていた。
筆記試験・面接を経て3人の定時制高校生が採用され、わたしも残った。
学校の始業時間に間に合うよう仕事は切り上げてくれるし、健康保険なども保証されていたので、学びながら働くにはよい会社ではあった。
ただ採用された3人の内のひとりが、わたしたちからみて「おべっか使い」で、調子がいい奴だった。
上司は、このおべっか使いに首ったけであったので、わたしともう一人は早々と退職したのだ。

 次の「稼ぎ先」を見つけるのに「学徒援護会」へ通う。
学生を対象に「職業安定所」の役割を果たす公的機関である。
九段坂下から千鳥ヶ淵のお堀を上り、今では「武道館」がある「北の丸公園」の奥にあった「学徒援護会」へどのくらい足を運んだことだろう。
大学生は「家庭教師」の口が多く、高校生は短期の仕事が多かったように思う。
就いた仕事の全部は思い出せないが、ずいぶん多くの仕事に出会った。
いちばん初めは「氷店」で、自転車にリヤカーを連結して大きな氷柱を数本乗せ、汗にまみれて自転車を漕ぐ。
当時はまだ電気冷蔵庫はなく、頑丈な木製の箱が冷蔵庫で、蓋を手前に開けると上段に氷を載せる空間があり、下段に食品を置き、氷で庫内を冷ます方式であった。夏の期間、1ケ月ほど通っただろうか。
次に行ったのは建設業、初日は風のつよい日で現場はビルの屋上だった。脚立にのりなにやら仕事をしたが中身は覚えていない。「また明日もこいよ」と威勢のいい兄貴分のお声がかりがあったが、ビルの上で脚立に乗っての仕事は怖くて、一日ぎりで終え「稼ぎ」は受け取れずおわった。
数枚の地図をもち、家々の地番・表札をたしかめ、変更があったら地図上に訂正していく仕事や電話局の太いケーブルを巻く作業などもやった。
いちばん長続きがしたのは東銀座にオフィスがあった「業界新聞」の配達である。朝5時ごろに家を出る。事務所に行くとコース毎に分けられた新聞の束があり、自転車で配達に出かけるのだ。
わたしは、上野のアメ横と深川方面の担当であった。穀物の市況を取り扱う新聞だったから、問屋街に定期読者がいた。
3時間ほどの配達が終わると、後は学校へ行くまで自由な時間が確保できる。高校を卒業するまで業界新聞配達の「稼ぎ」で学費などをまかなえた。

 定時制高校を卒業し、劇団「稲の会」に所属。
30人ばかりいた劇団員は、稽古場の借り賃、次の公演へそなえるための「劇団維持費」を月々支払う。
女性団員の多くは、「バー」や「スナック」、男性は「サンドイッチマン」や「ビルの窓ふき」などのバイトで稼ぐ。
わたしも退社後の「ビル清掃」や喫茶店のボーイなどやったが長つづきはしない。
劇団の男性の多くは、「ガリ切り」で稼いでいた。
いまではお目にかかることはないが、「ヤスリ版」に「蝋の原紙」をおき「鉄筆」でガリガリ文字を書いていく。蝋の原紙に細かい穴が開いて、インクをたっぷりつけたローラーで印刷する「謄写版印刷」が全盛だった。
わたしは謄写版学校に通って技術を取得した。しかし「ガリガリ」わき目も振らず机にへばりつくのは苦痛でしかない。
伝手があり、奥さんがタイプライターで文字を打ち、その原紙を輪転機で印刷、それを製本して店主が納品する小さな印刷屋で、わらび座に入るまでここで「稼いだ」のだ。


 わらび座に入ってびっくりしたのは、バイトをする必要はなく、小額ではあるが現金支給があることである。
23年間わらび座に在籍した。しかし親が高齢になってもなんの手助けもできない。幸いわたしのきょうだい4人が親の面倒をみてくれていたので座生活をつづけてこれたが、長男としての責務を果たせないのが心苦しく45才で退座、母親と暮らし始める。
一才違いの妹夫婦が会社を興し、20人ほどの会社に発展していたのでそこに拾ってもらい会社員として20年ほど勤めた。
65才で退職、ぎりぎり「厚生年金」の受給資格を得た。
以後、息子の朗が主宰する「和力」の営業活動にはいる。わらび座で営業畑に多年いたから、「実行委員会」を組織しようと試みるがわたしの居住する松戸市以外実を結ばない。
「吉祥寺シアター」、「武蔵野公会堂」、「練馬」公演など、からくも成功したが、「実行委員会」は組織できず、自主公演であった。
わらび座をはなれ25年の間に、文化状況は一変していたのだ。
その論証はこのブログで以前触れたので避けるが、要するにどんな小さな町にも「文化施設」が完備することにより、数多くの「興行会社」が企画する催しものが充実。それを「選んで観る」時代になった。
「実行委員会」を立ち上げ、学校の体育館などを借り受け、チケットを広める苦労をしなくても、自分の好みのものを選んで観る。
学校公演の営業もわらび座時代に経験があるから、「すわこそ」と意気込んで取りくんだが、かって「視聴覚担当」の先生が、「今年は演劇・次は音楽……」と情熱をもやしておられたが、この分野も業界が押さえ食い入る術がなくなっていた。

 74才になった。
妻が、パートで行っている「ディサービス」で、送迎職員が居なくて困っている、「働いてみるか」との打診があり、「稼ぎ」生活に復帰。
なにせ「厚生年金」へ入ったのが遅かったので受給金額は少ない。「渡りに船」と稼ぎだして5年余となった。
「寄る年波には勝てず」来年の4月には80才になり、「稼ぐ」生活も終結間近くなった今日この頃である。




野の鳥・野の花

2018年03月28日 | Weblog


 朝晩は「寒い……」と感じることもあるが、お日さまの輝きがつよくなり、昼はあたたかく袖をめくって歩く季節になった。
ホームセンターへ行くと色とりどりの季節の花が、鉢やポットからはみ出るように咲き誇っている。
子連れのおかぁさんが幼子に「これはなぁんだ」と、チューリップを指さし幼子の答えを待つ。
幼子は「お花ぁ」と元気いっぱいこたえる。
おかぁさんは一瞬声が出ない。「そうねぇ、お花だね」……。
おかぁさんは「チューリップ」とこたえて欲しかったらしく、ちょいと当てが外れたふうなのだ。
わたしはこのやり取りを見て、わたしもこの幼児さんとそんなに変わらないのではないかとふと思った。
ホームセンターの花の棚には、チューリップの他にさまざまな花が春の日を浴びている。これらの花々の名をわたしはほとんど知らない。
付けられている名札をみると「ラベンダー」とか「ベチゥニア」などとある。舌を噛みそうでとても覚えられるものではない。
わたしも幼児と同じく「花」としか答えられないだろう。

 わが家の庭には梅の花が散ってヤマブキとボケが花開いている。
路傍にはスミレの他に白や紫の小さな花の群落が所どころ見うけるがこれらの名も知らない。
草花だけではなく鳥の名も不案内である。

 まだ寒さがきびしかった2月の初め頃だった。畑に白菜と大根が残ってその間に雑草が茂っている。
乾いた地面に屈んで草抜きをしていると、スズメよりすこし大きめな鳥がチィチィと囀りわたしの手元をとびまわる。わたしが立ちあがると畑に突き立てた棒の先に留まってチィチィとわたしを見ながら鳴く。
ウグイス色を身にまとう可愛らしい小鳥である。
わたしは「地べたの中の虫を食べたいのだろう」と、帰り際、鍬で畑地をすこし掘り起こして帰った。
次に行った時にもその小鳥がやってきた。100区画ほどの貸農園は寒さのせいか人の姿はない。
わたしは屈んで草を抜きはじめた。ウグイス色の小鳥がわたしの手元をチョンチョン跳びはねて離れない。
草を抜くとどこに隠れていたか、ちいさな黒クモが素早く走り去る。白菜を抜いて台所で洗うとこの黒クモによく出くわす。
家では「猫にみつかるなょ」と、黒クモをスプーンに誘いこんで庭に逃がすのがいつものパターンである。
その黒クモが乾いた地面を素早く移動する。すると件の小鳥がヒョイと黒クモを啄むではないか。その速さったらない。
草を抜きつづける。黒クモが走り出る。小鳥はそれを見逃さず啄む。それをわたしは目撃した。
わたしはその色からしてこの小鳥は「ウグイス」であろうと思い込んだ。

 家に帰ってインターネットで調べると、わたしの予測はおおきく外れ「メジロ」だった。
「ウグイスは警戒心が強く人目につきにくい。メジロは人慣れしており子育て中は昆虫類を捕食する」、「目の周りが白いのでメジロと呼ばれる」とある。
インターネットの写真をみるとまさに畑で出会った小鳥であった。
新たに身元が知れ、つぎに出会うのを楽しみにカメラを持っていったが、暖かくなり花々が咲き始め「花蜜」を存分に吸えるせいか、再び出会えてはいない。



 わたしは路傍の花々の名も、小鳥の名前にも疎い。
鳥をみれば「鳥」、花をみても「花」と、総体でしか呼べないで年を重ねてきた無粋の者だが、また来年、畑をやる体力が残っていたならば、あのメジロにぜひ会いたいものだと願っている。


柳家さん若が真打ちに昇進2 -1声、2振り、3男-

2018年02月23日 | Weblog
 加藤木雅義が「柳家さん若が真打ちに昇進」第二弾を寄稿してくれました。第一弾とともにご愛読ください。




古来より、歌舞伎役者が大成する要素に、1「声」、2「振り」、3「男」という言葉がある。
3の「男」というのは容姿、顔のことらしい。「顔」と直接的に言わず「男」と置く、そういう言葉の選び方に江戸っ子の繊細さを感じる。この序列によれば売れっ子になるには声が顔立ちより上位になるようだ。書物によれば口跡の良さ、ともある。
この格言にそって柳家さん若の今後を占ってみたい。

さん若には持って生まれた声の良さがある。これが高座に接したときの第一印象だ。彼のする噺は声の響きが心地いい。
かつてわらび座の営業職にいた私の兄に聞くと、お母様が座で歌手をされていたのだという。
その子がこれを受け継いだ。

私的なことで申し訳ないが、私にはどうしても忘れられない落語がある。幼いときにその噺を聞いて惚れこんだ。ただ、そのタイトルが何だと聞かれてもわからないし、演じた噺家の名前も知らないのだ。あまりに雲をつかむような話で申し訳ない。
確か戦前から戦後の歌謡史を題材にして、それをおもしろおかしく高座にかけた。それだけは鮮明におぼえている。
戦前の音楽がどうだったのか、そして戦中の日本が元気だった頃の軍隊歌謡はこうだったと、誰も知らないような歌を高座で自身が唄ってみせるのだ。それが実にみごとで聞き惚れるほどの美声だった。私は噺の中に出てくる高木東六作曲の「空の神兵」の歌詞を探し出し、それをそらで唄えるように練習したくらいだった。
歌がテーマだけに噺の最後は、60年代の大学生が流行のジャズで腰をくねらせる様子をみせる。その時代の最先端の音楽だ。一方、その親は息子を大学にやってしまって機械式の脱穀機が買えないでいる。それで昔ながらの足踏み脱穀機で息子と同じように腰をくねらせている、というオチだった。
1970年代、どうやらその噺家は売れっ子らしかったのだが、ある時を境にラジオ、テレビから突然、姿を消したのだ。だからよけいに私の心に残る。あれは誰だったのだろう? そしてどこに行ってしまったのか? と。
私の乏しい記憶では「さん」がつく名前だということだけが残っている。つまり「○○亭(?)さん○」という名前だったのは、かろうじておぼえていた。
だから、さん若が柳家さん喬師匠に弟子入りしたと聞いたときは、私は小躍りして喜んだものだった。高座名に「さん」がついている。もしかすると私が探し求めていた噺家は、さん若の師匠なのかもしれないと思ったのだ。
それからパソコンでさん喬師匠の演目を調べた。しかし、戦中戦後の歌謡史を扱った噺をやった形跡がない。私の思い違いだった。
ところが、去年(17年)の暮れにYouTubeを見ていたら偶然にも発見したのだ。私が40年近く探し求めていた噺家は、「三遊亭さん生」師で今は川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)師と名前をかえていたのである。噺のタイトルは「ガーコン」だったこともわかった。
ウィキペディアで検索すると前の演題名は「世は歌につれ」とある。そうだ、たしかにこれだ。それが今では「ガーコン」とタイトルが変わっていた。しかも高座名も違っているのだから、私が見つけ出せないはずだ。
オチが田舎に残った父親が足踏み機で「ガーコン、ガーコン」と脱穀していたので、そちらの名前にしてしまったようなのだ。きわめていい加減だと思う。
今では足踏み脱穀機など知ることもないが、日本が高度成長期になる前まではこれが農家の一般的なものだった。
私はこの発見に嬉しくなり、今年の正月は、YouTubeでこの「ガーコン」だけをくり返しみた。
なぜ、そんなにさん生師と「ガ-コン」にこだわったのか。それはさん生(川柳川柳)師の声に惚れたからである。40年ぶりに見る師匠は頭も白髪になり今年85歳になるという。よけいなことだが、このままで行けば「ガーコン」という名作が誰も受け継ぐ者がなく消え去ってしまう、という心配が私の脳裏によぎるようになった。
そこで名案が浮かんだ。「さん」つながりで、さん若に「ガーコン」を継いでもらえたら良いのにと、私は秘かに願うようになったのだ。さん生師の美声に肩を並べることが出来るのは、私の少ない見聞では、柳家さん若しかあり得ないと思っている。

今年(18年)に入って私は有楽町のマリオンに落語を聞きに行った。さん若が出演すると聞いたからである。マリオンといえば昔の日劇の跡地に出来た建物だ。そんなメジャーな場所での高座が、真打ち昇進直前のご褒美としてさん若に用意されたのかもしれない。柳家一門の大師匠3人が出演する中で、さん若がかけたのは「棒鱈(ぼうだら)」という滑稽噺だった。ここでも、さん若は地方の下級武士を演じて良い喉を聞かせる。あらすじは省くが、きっとこの噺はさん若の代表作になると思わせるほどの受け方だったことを、お知らせしたい。
私が声で惚れた噺家は、三遊亭さん生師、柳家さん若のふたりを置いて他にない。

さん若は噺家としての第一関門である「声」は合格として良いかもしれない。

さて、2の「振り」はどうか、である。これは演技力のことを言っているのだと思う。
神田神保町の落語カフェというところで、さん若は3ヶ月に一度くらいの割合で独演会を開いている。お客さまが30人も入れば満員になる小さな会場だ。神田神保町という会場が良い。落語でくり広げられる江戸下町のメッカである。この会が彼の新ネタを披露する機会になるのだという。以前、私は足繁く通ったことがある。
小さな前座噺をやり、中くらいの噺をして休憩に入る。そして最後に大ネタをかける。その間、2時間。大きなホールで名人がやる独演会そのままのプログラムだった。
中で強く印象に残ったのは「お菊の皿」だった。

神保町の独演会場を出て靖国通りを少し歩くと九段坂にぶつかる。5分ほどの距離だ。坂下から見上げれば靖国神社の鳥居がそびえている。左手に千鳥ヶ淵をのぞみながら坂をあがり靖国に至ると、社の真向かいに番町という地域が広がっている。昔の大名屋敷が建ち並んだ場所だ。番町の東側には江戸城が鎮座し、至近に半蔵門がある。大名が登城するには好立地だ。
お菊は番町にある屋敷のお女中だった。殿様が大切にしている皿を割ったために責められて屋敷の井戸に飛び込んで自害したといういわれがあった。そのお菊が夜ふけになると、皿の枚数を数えながら井戸から姿を現すというのが「番町皿屋敷」の物語だ。
噂を聞いた神田の職人が真夜中にお菊を見に行く。やがてそれが江戸の評判を呼び、見物客が押し寄せてしまうという噺だった。おどろおどろしく井戸から姿を現すと、「よっ、待ってました、お菊ちゃん!」と大向こうから声がかかるようになる。
観客が増えていくことに困惑しながら、毎夜、井戸から姿を現すお菊。そのお菊の困った表情が秀逸なのだ。
さん若はわらびっ子として、生活の中で芝居や楽曲に囲まれて育った。それが今の演技力の財産になっているのかもしれない。
テレビがまだなかった時代、ラジオの名人寄席で育った私は、落語とは「聴く」ものだと思う傾向がある。だが、さん若の「お菊の皿」に接すると、落語とは「見る」ものだと考えを改めてしまう。彼は落語を「演じて」独特な力を発揮する。
後に「お菊の皿」が北トピア(北区)で大賞をとった。(2014年)

さん若がふたつ目のとき、最後に私が彼の高座を見たのは2年前のことだった。私の住む近所の商店街が毎年、落語フェアを開いており、加盟する飲食店に芸人を呼んで噺を聴かせる催しをする。さん若が出演したのは町会事務所の2階だった。
40席ほどのパイプ椅子がしつらえられた会場の隅に、私は腰を下ろした。
その日、さん若が演じたのは「八五郎出世」という噺だった。
大工の八五郎の妹(お鶴)が、ふとしたことからお殿様に見そめられお抱えになる。やがて子どもを宿した。お殿様に子がなかったので、お世取りをお産みになったとお屋敷は騒ぎになる。
兄の八五郎がお殿様に呼ばれお目通りとなるのが、ことのあらすじだ。
お菊の皿で触れたが、距離が近くても坂下の神田と、坂上のお屋敷町とでは九段坂をはさんで別の世界になる。
大家に呼ばれて、「お鶴がお世トリを産んだ」と聞かされると、八五郎は「お鶴が子を産んだって? あいつも変なやつだと思っていたがとうとうトリを産みやがったか」と勘違いをする。やがてお殿様の屋敷に行き、家老に案内されて大広間に通される。産まれて初めて見るその畳の広さに、裏長屋で育った八五郎は肝をつぶす。
お殿様が登場し、平伏する八五郎と家老。お殿様が「苦しゆうない、おもてをあげい」と言うのだが、八五郎は「おもて」が何のことだかわからない。「畳表? これだけの畳を上げるには、おいら、ひとりではどうにもならない。助っ人を呼んでこなくては」とつっぷしたまま考え込んでいる。
隣の家老に意味を知らされてようやく顔をあげる八五郎。その間、家老と殿様と珍妙なやりとりがあって笑わせる。ふと八五郎が真顔になって、「お殿様の横でにこにこ笑っているのは、お鶴ではないか」と気づく。「すこし見ないうちにそんなに立派になって」と、本当に妹を思う慈愛に満ちた兄の顔になって、さん若が向こうにいるお鶴に語りかけるのだ。今までの珍妙なやり取りから、妹を見出したときの表情の落差に感動して、会場の片隅で私は不意に涙ぐんでしまった。
今度の涙は、方言の使い方ではなく、さん若の演技力によってもたらされた。

噺が終わり、さん若が退場して客は次々と出口に向かう。会場にひとり残った私は椅子の片付けする若者に「今の噺家さん、とても良かった。感動して涙が出てしまった」と通りすがりのおじさんになって話しかけた。
手を止めた彼は「さん若さん、私もファンなンですよ。今、ふたつ目のトップを走っている芸人さんらしいですよ」と教えてくれたのだ。真打ちに一番近い噺家だと伝えたかったのだろう。
だが、さん若も最初から演技力があった訳ではない。彼がふたつ目になった直後の08年、もう10年前になるのだが、松戸の「蔵のギャラリー結花」で高座をつとめたことがあった。会を主催した私の兄に様子を聞いたところ、兄は「声を張り上げることに気を持って行かれて、まだまだ」と、高座の印象を語った。だからその頃はまだ、さん若はどちらに伸びるか誰にもわからない状態だったのかもしれない。いったい、何がきっかけでこんな味のある噺家になったのだろうか。滑稽を演し物にして、人を泣かすなどは並大抵の力ではない。

役者が大成する3つの要素に戻ってみたい。
2「振り」。
さん若には演技者としての才能がある。だから「振り」は良しとしたい。



さて、1「声」、2「振り」、3「男」のうち、最後の「男ぶり」についてである。顔の好みは人それぞれだから、これはむつかしい判断だ。
ただ、私はさん若の愛嬌のある気性と面立ちを好ましく思っていることはある。これは噺家としては大切な財産になる。
さん若が34歳で前座修行に入ったとき、周囲は18歳から20歳前後の年齢だったのだろう。つまり、さん若は同僚よりひと回りもふた回りも年上で、若い者の中におじさんがひとり紛れていたようなものだ。だが、さん若は年齢の垣根をこえて修行に明け暮れ、周囲から愛された、のだと思う。
彼の公式ブログに「ばっきゃの会」というのがある。「ばっきゃ」とは秋田県でふきのとうを指すらしい。それを覗くと折々に、さん若がつぶやく言葉に同業らしき人からのコメントが寄せられている。「さんちゃん」と呼ばれて愛されていことに気がつく。身近で接してわかるのだが、さん若はその人となりに嫌みがないのが周囲から親しまれる理由なのかもしれない。業界の周囲から愛されるということは、彼が充分「男前」であることを証明していると思わずにいられない。
口跡の良さと小気味良い語り口で落語ファンを魅了した古今亭志ん朝師は、入門5年目で異例の真打ち昇進を果たしたという。昇進披露の舞台で、後見人の大師匠は「明るく嫌みのない芸風」と志ん朝師を紹介している。
当人が聞いたらびっくりするかもしれないが、私は、さん若の高座と人となりにも「明るく嫌みのない」ものがあると感じている。

さて結論を出したい。
柳家さん若は、私の独断では1「声」、2「振り」、3「男」をすべて兼ね備えていることが理解することができた。この遅咲きの噺家がこの秋に真打ちとして飛び立とうとしている。
私はこれからの人生をかけても、柳家さん若の行く末を、この目で見届けたいと思っているのだった。

18年1月25日





柳家さん若が真打ちに昇進1 -しじゅうさん-

2018年01月31日 | Weblog
 和力記録スタッフの加藤木雅義の寄稿です。12月にこのブログで掲出しましたが、補筆があるため掲出を一旦取り消しました。推敲を経たので再掲出をしました。今回は「さん若が真打ちに昇進1」です。ひきつづいて「昇進2」も近いうちに掲載いたします。


 さん若が真打ちになる。
落語協会が柳家さん若の今秋(2018年)における真打ち昇進を告知した。
さん若は和力の「花咲騒子(はなさかぞうし)」で加藤木朗とユニットを組んでいる相手でもある。生まれは秋田県で、加藤木朗と同じわらび座(現・芸術村)で育った。
朗の1歳年下だが落語家への道に進むと決めるにはずいぶん時間を要した。
そもそも噺家になるには高校を出てすぐとか、大学の落研を卒業してからということが多いようだ。芸は早いうちに習えというのがあるためだ。和力がお世話になっている立川志の輔師匠が、大学を出て社会人を経てからの入門だったことが話題になるほど、入門というのは早いものらしい。
その中で、さん若が柳家さん喬師匠の門を叩いたのが34歳という年齢だった。入門が34歳というのは、「ふきのとう」なら薹(とう)がたって食べることが出来ないくらいの年齢である。教える師匠もやりにくかっただろうし、教わる側の、さん若も苦労しただろう。
真打ちになるまで苦節15年である。今秋、さん若と同時に昇進する噺家はみな三十代だが、さん若は異例ともいえる49歳の真打ち誕生だった。

 和力の時系列に沿って、さん若の足跡をたどってみたい。
加藤木朗が芸人になるきっかけは家出にあったと、和力パンフレットのインタビューに記されている。当時、高校生だった朗は秋田のわらび座を出ると東京にある親戚の家業を手伝いながら卒業にこぎ着ける。19歳の卒業だった。そこまで来たときに「目標を失い家出をした」とパンフレットで語っている。
家出の先は横浜にある幼なじみのアパートだった。そこで1年を過ごした。
横浜沿線の街に住む、後のさん若が休みのたびにやってきては一緒に遊んでいたという。朗が20歳、さん若19歳の青春時代だった。
やがて朗は横浜を出て長崎の鬼太鼓座を見学に行き、そこで木村さんに出会い、そのあと長野県の田楽座に居を定めて芸の修行を始めるのである。その10年後に朗は座を出てフリーになっている。横浜で一緒に遊んださん若は、その時はまだ一般人だった。

01年 木村さんと和力を結成。朗33歳。さん若32歳。このときまださん若は落語家になっていない。
03年 さん若が柳家さん喬師匠に入門する。さん若34歳。
05年 和力に小野さんが合流。 和力が愛知万博出演。
07年 ふたつ目に昇進。さん若38歳。
という流れになる。

 ふたつ目になると和力で「花咲騒子」というユニットを組み加藤木朗と共演のライブが催された。
朗の出が終わり、舞台にしつらえられた高座に、さん若があがる。そのとき枕で、さん若は年齢のことをふった。前の舞台で鹿踊りを舞ったのは「幼なじみで」と語りはじめた。自分の頭髪が後退していることを自虐したのち、頭をなでながら「こう見えてもアタシの方が1歳年下で、今年、しじゅうさん(43歳)になるンですよ」と自己紹介したのだ。
私はスタッフとして後方でビデオカメラを回していたのだが、そのさん若の「しじゅうさん」という言葉にふれて不覚にも涙してしまったのである。
そんなに歳を取っていたのか? ということに泣いたのではない。「しじゅうさん」という言葉を遣ったことに涙が出たのだった。読者のみなさん、すいません。変なところで取り乱してしまって・・・。しかし、これには訳がある。

 さん若が選んだのは江戸落語である。
江戸の落語では職人の言葉や裏長屋の言い回しが飛び交う世界だ。そうした言葉は今、使われている標準語よりもっと特殊だと断言ができる。江戸における方言なのである。
実は、それを体現しているのが、この私だった。
私ごとで申し訳ないが、私は加藤木5人兄姉の末っ子として生まれた。私の長兄が加藤木朗の父親である。
育ったのは遊郭が隣接する裏長屋だった。落語に出てくる「郭噺」や「長屋噺」の世界にいたのだ。だから江戸落語の職人の口調のままで大きくなった。学校に入るとその「し」と「ひ」の使い方の混乱ぶりを級友に笑われた。それが長屋から社会に出た最初のショックだった。
「百円」を「しゃくえん」と発音してしまう。江戸っ子のままだ。周囲は、私の発音に対し想像をめぐらせて「百円」と言っているのだなと理解をしてくれたので、それは助かった。
校門の前でござを敷いたおじさんがペットとして「にわとりの雛」を売りに来たことがある。それを見た私は物珍しさに、「門の外でヒヨコを売っている」と教室にふれ回った。これには居合わせた級友の誰もが理解ができない。「いったい、何が売られているんだ?」と互いに顔を見合わせる。後でわかったことだが、奴らの耳には私の発する言葉が「しよこが売られている」と聞こえていたらしいのだった。これでは何のことだかわからない。
「ひよこ」や「雛(ひな)」の言い方の違いならまだ軽いほうだった。「し」と「ひ」が混ざり合っている単語はさらにひどいものになる。「朝日新聞」を「あさしひんぶん」と発音してしまう。周囲は「その方がもっと言いにくいだろうに」と笑うが、江戸の匂いが残る場所で育った私は、混乱するばかりだった。

「し」の使い方だけではない。数の発音も違った。
ある時、算数の時間で担任に答えを求められたことがある。答えは「48」だった。立ち上がった私はこれを「しじゅうはち」と答えた。それを聞いてクラスはどっと沸いた。なぜ笑われているのかわからず私がキョトンとしていると、気の毒に思った担任が「そういう時は『よんじゅうはち』と言ったほうが良いかもしれない」と助け船を出してくれた。
自分の言葉を使うと周囲から笑われるのだと、そのとき知った。

「70」にも苦い思い出がある。私は「ななじゅう」と読まずに「しちじゅう」と発音していたのである。周りの生徒たちは笑い、ソロバンの先生は「『ななじゅう』にした方が良いよ」と言った。
以来、私は人前で「しじゅう(40)」と「しちじゅう(70)」は二度と口に出すことはなかったのだ。
だが待てよ、と私は立ち止まる。
赤穂浪士はどうなっているのだ、と。あれは「赤穂47(しじゅうしち)士」と呼んで、決して「よんじゅうなな士」とはいわない。私の発音で良いのではないか。ただ一方では、播州人が江戸弁で「しじゅうしち(47)」と発音したとも思えないのも確かだ。
赤穂浪士の物語は江戸でのお芝居なので、だからああいう発音になったのかもしれないとも思う。

「今年、しじゅうさんになるンです」。
あの枕で、私の胸に封印していた遠い言葉を、さん若が呼び戻したのだ。
紹介したとおり、さん若は秋田で生まれ土地の言葉で青春時代を過ごした。その後、横浜に出て標準語をおぼえたのだろう。そして落語の世界に入って職人言葉を習った。落語家になるためには師匠から噺を聞いておぼえるだけでなく、江戸言葉という異国語もマスターしなければならなかった。若ければ順応も早いのだろうが、さん若の場合はどうだったのか。
噺を受け継ぐだけなら、師匠の教えをそのまま模写すれば間に合うかもしれない。しかし枕は世間話に近いものがある。世間話でさりげなく「しじゅう」と出てきたのは、職人言葉が板についている証しなのではないかと、私は驚いたのだ。見逃しがちだが、その前で自分を「アタシ」と表現している。
これほど自然に職人言葉が身につくようになるためには、年齢が行っての入門だっただけに生半可な努力ではなかっただろう。
そういう思いが一気に押しよせて、さん若の発した「しじゅうさん」という言葉に、思わず私は反応してしまったのだ。


訪問猫「サン」を看取った

2017年12月27日 | Weblog

訪問猫サン(尻尾の先が曲がっている)

 訪問猫サンが旅立ったのは12月1日(金)、朝からうす曇りで肌寒い一日だった真夜中である。
サンが生まれたのは、2015年5月享年2才7ヶ月、あまりにも短い一生だった。
なぜ「サン」と名づけたかの由来はあとで触れるとして、誕生から旅立つまでを記してサンへの鎮魂歌とする。

 サンの母親は2015年1月にわが家を訪れるようになった幼い感じのキジトラ猫である。
小柄で目の大きい美形、妻は「映画『男はつらいよ』のリリー役の浅丘ルリコさんに似ている」とリリーと名づけた。
リリーは毎朝5時半にはやってきて、わが家の縁側に座り食事を待つ。
5月20日になって3日間、リリーが顔をみせない。
「新しい餌場ができたのかも知れない」と思ったが、さにあらずリリーは出産していたのだ。



 わが家の縁側に置いた「訪問猫シェルター」に、黒2匹、キジトラ2匹がモコモコとうごめいていた。リリーが出産場所から咥えてきて一晩過ごしたのだろう。
この場所で子育てすればいい…とわたしたちは願ったが、夕方にはどこかに引っ越していってしまった。
しばらくは母乳で育ててもらい、時期を見て保護しようとその機会を待つ。
誕生して5週目に黒子猫1匹、6週目に黒子猫1匹を保護できた。共にリリーが子猫の首をくわえ移動し一休みしているところで捕えた。
保護した黒猫2匹を動物病院に連れて行く。
2匹とも雄猫、「生育が悪い」との診断がくだり、ノミ駆除・目薬の処方を受け、大きめのケージを購入しわが家の1階で暮らしはじめた。
はじめの頃は、母猫リリーと子猫たちは鳴き交わし落ちつかなかったが、二日も経ったら子猫たちはお互いに追いかけっこをし、じゃれあい、部屋の中での生活に慣れていった。
夜間はケージに入れ、昼はケージから出して遊ばせていたが、驚いたことに家猫のサラとウリは二階へ行ったきりの生活になってしまった。
階段を降りてきて1階の様子をうかがい、部屋にはいることがない。相手は手のひらに乗るほどの小さな子猫なのにである。
これでは保護した子猫たちをわが家の一員として迎えるのは難しい、家猫サラとウリのストレスがたまってしまう。

 7週目、キジトラ子猫がリリーの足元でじゃれている。今までどおり静かに近づき手を伸ばしたが、母猫リリーより素早く塀の上を走り去る。1週間のあいだに「こんなにも敏捷になったのか」と舌を巻く。
もう1匹キジトラがいる筈なのだが姿がない。迷ってどこかへ行き誰かに保護されたのかも知れない。
黒子猫の里親探しにはげんだが、思っていたほど簡単に里親はみつからない。
3週間が過ぎ動物病院で「発達は順調になった」とのお墨付きをもらえ、ちょうどよいタイミングで知人が里親をみつけてくれた。

 里親探しがこんなにも大変であるとは思わなかった。リリーが次に出産したらまさかその子猫たちを保健所に持ち込むわけにはいかない。引き取り手がいなければ「殺処分」になってしまう。
リリーの避妊手術を急ごうと気は焦るが、他の訪問猫シン(雄)、ボス(隣家の雄)は、抱き上げても平気なのにリリーは身体を触らせないのだ。
動物病院で「捕獲器」を借りて仕掛けたら、リリーではなくキジトラ子猫がかかり病院へ行って「雄」だと分かった。
里親に引きとってもらった黒子猫たちが「雄」であったので、この雄のキジトラ子猫を「三男坊」として「サン」と名づけた。
動物病院で処置をうけケージにいれるが、大声で泣きさけぶ。その声に応じ母猫リリーもガラス戸から離れない。
翌朝もリリーとサンは鳴き交わす。「放してやろうか」、妻と相談してケージを開放する。リリーとサンはもつれ合うようにして走り去っていった。
翌朝からサンも食事時になると縁側に来るようになった。

 リリーの避妊手術をしようと6ヶ月をこえる捕物騒ぎをしたが、12月になってしまった。
FBでその苦労を知った朗が「苦労しているね」と力を貸してくれ、罠を作成しその罠でも2回ほど失敗し、1月12日にサンを保護、動物病院で去勢手術をうけた。
その際、サンは精密検査をやってもらい、全ての項目で「異常なし」の好成績であった。
2月にリリーを捕えてようやく避妊手術をうけることができたのだ。(この詳しいいきさつは「猫の取物騒ぎ」として2016年5月ブログに掲載している)。
 
 朝、いつもとおり5時30分に縁側の障子戸を開ける。これもいつものとおりであるが、訪問猫3匹が室内をむいて行儀よく並んでいる。
訪問猫たち、茶虎の雄「シン」とキジトラの雌「リリー」、リリーの息子「サン」は待ちかねたようにポリポリと食べはじめる。
暖かい季節にはこの他、お向かいの雄猫「ボス」が加わって4匹と賑やかなのだが、寒くなったらボスは家から出ないので、3匹がなかよく食事をしている。


シンは食事が終わり、リリーとサンが食事中

 夏ごろからわたしと妻はサンがきちんと食べるのか気にかけはじめていた。
他の猫たちは身体がふっくらと毛並み艶もよいのだが、サンがやせ細っているからだ。
サンに与えるカリカリ餌の皿は、ほぼ空になるほど食べているようにみえる。しかしやせ細ったままなのだ。
「サンにもっと栄養をつけよう」と、2ヶ月ほど前から「サン」にだけゼリー状の特別食を与えはじめた。
この食事は他の猫たちにも魅力あるものとみえて、「サン」にだけ…と与えていると、「シン」はどこからともなく跳んできて「サン」の皿に首を突っこむ。
1ヶ月ほど経って「毛並みはすこしよくなったみたい…」ですこし安心する。
サンは牛乳が大好きだった。毎日与えていたが新聞記事に「猫にとって牛乳は消化器系に負担がかかり与えるのはよくない」との記事に接した。以後、牛乳はやめたが、長年飲んでいた牛乳がよくなかったのだろうか。なかなか肥えないのだ。

 旅立った日の朝は、いつも通り食事をして、ゼリー状の袋を皿にかざして中身を引きだすと、待ちきれずつよい力で袋に噛みついてきた。
わたしたちは所用があり午後から出かけた。
夕方に帰宅すると、「猫シェルター」にサンがうずくまっている。寒くなってからはこのシェルターが訪問猫のねぐらになっている。
サンもここが好きで昼寝をよくしていた。妻がのぞき込みサンを抱きかかえてきた。
サンは訪問猫のだれよりも用心深く、触られることを嫌っていたのに、妻に抱かれてかすかな息をしているではないか。
あわててゼリー状の食事を口に運ぶ。食べない。ストローで水を飲ませるがかすかに飲んだ兆しはあるが「ゴックン」しない。
妻は2時間ほど抱っこして見守る。サンは目を開けて見つめているが身体は伸びきったままだ。
夜11時を過ぎ、段ボール箱に毛布を敷きつめ横たわらせる。いびきのような荒い息を吐いている。
翌朝、サンは息絶えていた。

 リリーといっしょに路地をかけまわり、日向ぼっこをし、自分の皿をみわけて食事をしていた姿がよみがえる。
人慣れはしなかったが、他の訪問猫からは可愛がられていた。
菊の花を敷きつめ庭に埋葬したが、たまたまであろうがリリーが遠くにいて、チラとではあるが目撃したので、サンにとっては寂しくない野辺の送りになったのではなかろうか。


リリーとサン親子
 




機器にも心があるのか

2017年11月23日 | Weblog


 先のブログで「25年間連れ添った愛車・ホンダレブル」のことを記載した。
「フットブレーキが利かなくなって、修理屋に電話したら『年式が古いので部品がない』と云われた。いよいよレブルとお別れの日が来たのか」と記している。
修理屋さんの手が空いた日に来てもらい、「修理不能」ということになれば、廃車手続きに入る決心をした。
その決心をした日に雨降りの予報がでた。廃車にすると決めてはいるが愛車を雨ざらしにするわけにはいかない。
防水シートを掛け始めた。250ccとはいえ車体が大きいので手間がかかる。いつも3分とか4分の時間を要している。
尻の方から掛け、前輪方面にシートを伸ばしていたら「コトン」となにかが外れ、地べたに落ちた。
「なんだろう」と拾い上げる。バイクのネームプレートであった。「HONDA」と輝いている。
わたしが「廃車にするしかないか」と決心したその時、わが愛車が身を削ってお別れにこのネームプレートをわたしに贈ってくれたのではないか…。

 わたしは落語や芝居で、因縁話や怪談など面白くは聞くけれど、それをそのまま信じはしていない。
わたしが子どもの頃、まいにち定例の時間「紙芝居」のおじさんが自転車でやってきた。
肥担桶(こえたご)を満載した荷車をのんびり牛が曳き、自動車の往来はほとんどない時代だったから紙芝居は道路の辻でやられる。
拍子木を打ち、あるいは太鼓で紙芝居屋が来たこと知らせる。方々に散って遊んでいた子どもたちが、遊びを中断して集まってくる。
小遣い銭で「せんべい」や「水あめ」を買うのが観客としてのルールで、「黄金バット」や怪談「猫娘」などを紙芝居のおじさんが名調子で語る。
ドキドキハラハラ子どもたちは画面に見入る。主人公が「あっ危ない」画面や、化け猫が行灯(あんどん)の油をなめ、爪を立てて障子の向こうを窺う場面などで、「今日はここまで、つづきはあしたのお楽しみ」と、紙芝居のおじさんは自転車でつぎの場所に去っていく。
テレビがない時代だったから、子どもたちはおじさんが明日来るのを胸とどろかせて待っていたものだ。

 化け猫も幽霊も話としては面白く聞くけれど、しかし「そんなことありはしない」と幼い時から割り切ってきたわたしだが、「レブル」の事では「もしかしたら、分身として長年連れ添った機器にも『心』があるのかも知れない」などとプレートを手にして思うのだ。

 そして昨日、レブルを搬送して状況を点検した修理屋さんが、「○○を分解して修理の目途が立ちそうだ。費用はかなりかかるがどうしますが」と連絡があったので、わたしは「直してください」と即座にお願いした。

 レブルは○○(聞いたのだが思い出せない)を、分解という大手術を受けて蘇る見通しになった。
わたしの体力がつづくかぎり、軽やかなエンジン音で付き合ってもらえる。
お別れの標として、レブルが身を削って贈ってくれたプレートは、「大事に取っておくからね」と、いまは病室(修理屋)にいるレブルに遠くから語りかけている。