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車のへたりで運転免許証返納かを迷う

2020年08月30日 | Weblog

 

 わたしはこの春、「高齢者講習」を受講、認知・実車検査を受け運転免許証の更新ができた。

81歳であるから次の更新時には84歳となる。

高齢者の運転に危惧の目が注がれ、「免許証返納」を勧める世の中である。これからの3年間、乗り続けるのが憚れる事態であるのは承知している。

だが、「個人差があるだろう」というのが、わたしの立場だ。

昨年8月まで6年間、「送迎」を中心に都内のディサービスに勤務、車の行きかう都内の主要道路・脇道・路地を縦横無尽に走り回ってきた。

職場だけでなく、居住地においても自動二輪車・軽自動車を毎日のように駆り、無事故・無違反「ゴールド免許」保持者なのだ。

だから人にはとやかく言ってもらいたくない。

 

 しかしそんな強気な気持ちがぐらつく事態がきた。

免許を更新して3ケ月が経った7月、20095月から11年間おせわになった「ダイハツ・ムーブ」が突然へたり込み、レッカー移動。

走行距離は14万キロを超えていたが、「エンジンの調子はよい」と修理工場のおじさんは太鼓判を押していた。.

だが修理のたんびに、「年式が古く部品がなかなかみつからない」とこぼしてもいた。

それもそのはずこの軽自動車は、友人の娘さんが10年近く乗り、走行距離95000㌔、「廃車にする」というのを貰い受けたものだ。

娘さんとわたしに仕えて、あわせて20年以上働いたことになる。

「修理すれば費用は莫大なものになる」と、通告され廃車にすることを決めた。

 

 これからは「車なしの生活にしよう」とふと思う。

近年、足腰の不調が強まった妻の通院などをどうするか。これはタクシーなどを使うしかないだろう。

修理屋にすすめられる「中古車」を買い、購入費・車検・保険料・修理代などを考えれば、月に数回のタクシー代のほうが安上がりにちがいない。

なにしろ次の免許更新まで3年しかなく、それ以降は「免許証返納」しかないな、と思っていたのだから、それを早めてしまおうか。

だが動力源がないと、不便なこともある。

週に数回、ボランティアに等しい「新聞配達」がある。

息子の朗が田を耕し収穫した「阿智米」のファンが多く、月に何回も10㌔・20㌔と運ぶのには、自転車では遠すぎる。

 

 そうだ運転免許証はバイクだけを残して返納しよう。警察のホームページをみるとそういう方法もあるようだ。

気持ちは「中古バイク」購入に固まる。

それでインターネットで調べはじめた。バイクといっても移動用だけではない。荷物も運ばなければならない。

そういう機種に的を絞って調べる。

新車だと40万ほどする。中古はどうかと見ると安くなってはいるが、べらぼうに安くはなっていない。

これだったら新車にした方がよかろう。

20年来世話になっている修理屋に連絡する。「バイクのカタログをもってお伺いする」と即答、「バイクだと奥さんを乗せて通院することもできない。いっそのこと軽の中古車を探した方がよいのでは……」とわが家の事情を知るおじさんが云う。

 

 それもそうだ、同程度で軽自動車が入るなら、それに越したことはない。

バイクはやめにして、軽の中古の出物を待つことにした。

何回か引き合いがあったが、落札値が合わず日にちが経つ。

とうとう「ムーブ」がエンコして2ヶ月を迎えようする8月29日、「スズキ・ワゴンアール」を迎え入れた。

14年前の車だそうだが「走行距離」13500㌔余り、車体も傷はなくきれいだ。

車には「シルバーマーク」が貼られていたというから、お年寄りが大事に乗っていたにちがいない。

 

 この車がいま庭に鎮座している。

眺めやりながら「免許証返納」は遠のいた。

3年経ったら「高齢者講習」を受けて、免許証更新に挑まねばと密かに思っているところである。

 


はじめての手術

2020年07月28日 | Weblog

 幸いにしてわたしは、80歳になるまで大病とは縁遠かった。

それでも20代半ば、朝起きたら目が開けられないほど顔面がむくみ緊急入院、「治っても半人前しか動けなくなるおそれが」…医師の診断がくだり、2か月余ほぼ寝たきりで病院生活を過ごしたこともある。

安静を徹底し「亜急性腎炎」に留まり、なんの制約もない日常生活をおくれるようになった。

30代で交通事故での入院は二週間ほど。

大腸ポリープ切除の入院は40代で2回ほどあり、これは一泊ですんだ。

50代にはいってから、コルステロール値が高く薬を飲み始めた。

60代後半になってから、いわゆる「生活習慣病」といわれる病が確定、「病(やまい)持ち」となって、薬の数が増えていく。

そんなことはありながらも、元気に70代を経過したのである。

 

 昨年春、80歳になり7月末をもって介護職員としてお年寄りの面倒をみていた「デイサービス」を辞めた。

まだ働かなきゃ…市の「シルバー人材センター」の資料をみながら思案。

「年内は晴耕雨読の生活もよかろう、年が改まったら仕事を探そう」と日を送る。

毎年10月に市の「健康診査」を受けており、その結果「肺の精密検査を受けるよう」とのお達しがきた。

この通知は過去に2回ほどあり、精密検査の結果、「影はあるが、若年のころ軽い結核にかかり自然治癒したものだろう」とのことで大事には至らなかった。

しかし今回ばかりは、再度のレントゲン検査、ひきつづくCT検査・MRI検査へと進み、医師は「VIP検査」を指示、「肺がんは、脳などに転移しやすいので、最先端医療器具で検査する必要がある。この機器は市内の病院にはなく幕張まで行って受診せよ」。

やはり肺がんに罹ってしまったのか……。

思い当たる原因はタバコであり医師もそう言う。

わたしの吸い始めは28歳ごろだった。

わらび座での仕事が営業に変わり、「実行委員会」を立ち上げ公演を成立させるため、全国各地にとび、いろんな方々とお会いするようになり、「どうです一服」と勧められ、何気なしに一服・二服するうちに病みつきになったのだ。

わらび座を辞め、就職した会社ではタバコ吸いが大勢いて、それにまぎれて吸いつづけ、会社を定年で辞め2ほど経ってようやく禁煙できた。

この長い喫煙がガンを招いたにちがいない。

 

 年末・年始は検査に明け暮れ、すべてのデータが出そろったのであろう、「あなたは体力もあり手術に耐えられる」と1月中旬手術を勧められ同意。

「外科医として手術を決定しても、あなたの肺活量は弱く麻酔医が受けてくれない。気合を入れて肺活量検査を…」。

再度の肺活量検査にまわされ、何回も機器を相手に悪戦苦闘する羽目になった。長年のタバコがたたって、かっての長距離ランナーも形無しである。

なんとかクリアし、130日入院、26日手術と決まった。

 

 入院するや、理学療法士が訪れ「手術に備え腹式呼吸を会得しましょう」、訓練が始まる。

日に一回、リハビリ室に出向いて主には上半身を揉みほぐしてもらい・自転車こぎ・階段の上り下りなどでしごかれるのだ。かてて加えて、手術が決まった際に購入した、呼吸のリハビリ機器(親指大の球が3個並列に入った箱、そこへ空気を吹き入れ球を宙に浮かせる)での格闘もある。

 

 6日間身体を鍛え手術当日が来た。妻に見送られストレッチャーで手術室へ。

手術室は天井がバカ高く、ゴーと低い音が鳴り響いている。

「看護師の○○です」と声をかけストレッチャーを移動してくれる若い男性。この声掛けが頼もしく、気持ちがフット安らいだ。

「麻酔に入ります」と聞いたように思った瞬間、意識がなくなる。

なんの覚えのないまま手術は済んだ。

わたしは「肺の手術」と告げられたとき、肋骨を何本か切って患部を切除するものと思い込んでいた。

しかし脇下に穴を穿いて患部を取り除く手術であったから、負担はごく軽く済んだ。

 

 手術当夜は「集中治療室」で一泊。

翌日には部屋に戻され、再び理学療法士による訓練である。

術後7日目に退院。

退院に際しては、電車・バスに乗り継いで帰る気であった。なにしろわたしは「集中治療室」に泊まった日をのぞいて、毎日一万歩のウォーキングを院内で欠かさずやれていたのだ。

ウォーキング歴は10年以上になる。(それ以前は10キロ走のジョギングをやっていた)。

そんな自信があり自力で帰る気でいたが外はそぼ降る雨。なんとなく気怠く、友人に連絡し車で帰宅。

帰った日は、ずっと休まず続けていたウォーキングをカット。

翌日からウォーキングを始めてびっくり仰天した。

家の玄関を出て表通りまで20メートルほどなのに、息切れが激しく石垣に腰を下ろしてしばしの休息だ。

手術後、点滴瓶をぶら下げた器具を杖代わりに、病院内の廊下を毎日一万歩歩いていたのに思いもかけない事態ではないか。

お医者さんは「つとめて体を動かせ」といっていた。その言葉を励みにまた歩き始める。2、30メートル歩くと息切れがして、他所のお宅の花壇の縁に腰掛け息継ぎ、用水路の金網にすがり一息、ゴミ置き場の容器に胸を預け呼吸を整えていたら、自転車で通りかかった女性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。

そんな状態で4日間ほどが過ぎ、以後はよろけることなく、目標を達成できるようになった。

 

 術後1ヶ月目の診察。レントゲンをみた医師は「順調に回復しています。わたしからの薬の処方はありません」。抗がん剤を飲まなくて済んだのだ。

次は2ヶ月先に来なさい…となり、つい先だっての診察では「3ヶ月先に」となった。

医学の進歩のおかげで、大腸ポリープをガン化する前に切除でき、肺がんも早期発見・みごとなメスさばき患部を摘出、大事に至らずすみありがたいことだ。

 

 80歳の終わり際に手術がすんで、2ヶ月ほどで81歳になった。

一日の初めは五時半に起きる。内猫二匹、外猫二匹の食事の世話。それがすんだらわたしたちの朝食の支度でいっとき忙しい。

朝食後は新聞をゆっくり読み、ゴミ出しに出る。ゴミを置いてから20分ほど歩く。それで3,000歩ほどかせぎ家に帰る。

庭木の剪定をふくめ家の内外の片づけ、そして郵便局などへ出かけ畑にも寄ると、午前中での歩数は5,000歩をこえる。

午後は畑の草抜きなどに精出し、買い物に行く。なんとか5,000歩になる。

あわせて一日10,000歩をキープする生活で案外忙しく日を送っており、「シルバー人材センター」への申し込みはしていない。

仕事を辞めて1年を経過する。

やり繰りすれば身過ぎ世過ぎはなんとかできそうで、猫4匹の扶養家族をかかえる今の生活は、変化なくつづけていけるだろうとの見込みである。

 

 

 

 

 

 

 

 


創造者の自粛生活

2020年06月29日 | Weblog

 2020年が半ばを過ぎた。

庭のアジサイが色づき、梅の木の葉陰に青い実が見える。

家庭菜園ではトウモロコシが穂を出し、カボチャが蔓を伸ばし実が大きくなってきた。

例年より4日ほど遅いようだが、「関東甲信越地方が梅雨入りした」と、611日に発表された。

すこしのずれがあっても季節は移り、草花は時期を違えることなく咲きそして実をつけていく。

 

 人の営みも季節に順応し移り変わるのだが、今年はだいぶようすがちがった。

わが家は小学・中学校の通学路に面している。

朝夕はランドセルを背負う小学生、制服やスポーツ着姿の中学生でいっとき賑わうのだが、その賑わいが途絶えて久しかった。

新型コロナウィルス蔓延以前は、「下校時の中学生は横に広がってしゃべくり、交通の妨げになっている」…「学校に申し入れ注意してもらうか」、町会の役員会で話題になったりしていたものだ。

下校時間はほんのひと時のことである、なにもそこまで言うことはあるまい…とそれは沙汰止みになった。

放課後の解放感からか、下校の道行を仲間同士で大いに語り、分かれ道で「また、あした」と手を振り合う若ものたちは、野放図に明かるく活気あるものだ。

 

 わたしの散歩コースに側溝を隔て小学校の校庭がある。校庭はいつも賑やかで跳ねまわるこどもたちの歓声であふれていた。しかしこの3ヶ月ほど、無人の校庭・校舎にチャイムがうつろに鳴りひびくばかり。

校庭をめぐり咲き誇る桜も、そのあと芽吹いたイチョウの葉が日差しにきらめくようになっても、その下に歓声はなかった。

 

 この3ケ月ほど、子どもや若ものの姿は路上になく、朝夕の賑わいが失わわれていたが、ここにきてようやく登下校が始まった。

ただこの登下校もかっての賑わいはない。

なんとなれば、気密回避のためか、「午前の部」と「午後の部」などに分散しているらしいのだ。

だから登校も下校も三々五々マスク姿で、かってのような若さの勢いは感じられない。

しかし子たちや若ものがいっときでも道路を横切り、校庭でも歓声が響くようになり、町が生き返ったように感じる。

 

 少しばかり通常の生活が戻ってきたのかなぁ…、このまま順調にとねがうばかりだ。

年金暮らしのわたしたちには、「不要・不急の外出を控えよ」と、繰り返し言われなくても外出の機会は多くない。

しかしわたしがスタッフをつとめる、「知的障害者の余暇支援」の団体が、活動資金稼ぎのため月に一度やっている「フリーマーケット」・「歌声喫茶」も中止になり、会員になっている「松戸演劇鑑賞会」の例会は4例会、6月例会が中止になった。

わずかばかりの外出の機会はほとんどなくなってしまっている。

 

 全国のホール・劇場・寄席・ライブハウスなどが閉鎖され、営々と訓練を重ねている劇団員・音楽家・表現者の出番が閉ざされてしまった。

わたしは高校を卒業し新劇団に入り、以後秋田県に本部を置く「わらび座」に40代半ばまで在籍した。

それ以後、息子・朗が主宰する芸能ユニット「和力」の松戸事務局として、いまでも活動している。

60年余にわたる文化・創造に関係する中で、今回のような窮状は初めてだ。

 

 わたしは曲がりなりにも、年金でなんとか暮らしている。

しかし発表の場を失われた創造・表現者の生活はどうなっているのか。

身近な加藤木朗の動向を探ってみた。

加藤木朗は、2月中旬から二週間にわたり、信州昼神温泉卿のホールで「和来座」を昨年に引きつづいてプロデュース上演をした。

コロナ渦が深化して「後半になるほど客足が減った」そうだ。

3月にゲスト出演が予定されていた飯田市での「立川志の輔独演会」が5月へ延期、さらに11月に延期された。

6月に決まっていた学校公演、自治体主催の「音楽祭」も秋に移った。

3月・4月・5月・6月とゲスト出演の企画は軒並み「中止」となる。

かてて加えて、「踊り教室」・「太鼓教室」などもずべて閉じられ、本業での収入は皆無になってしまったそうだ。

 

 この期間をどのように凌いでいたのか、朗主宰「地力塾」生のFBなどで知ることができた。

一つには舞台で使う道具の制作である。「権現舞」の面打ちであったり、小道具・衣装箱、稽古場の整理整頓のための棚づくりなど、次には、伝統芸能の母である「農作業」・「狩猟」にかなりの時間を費やしたようだ。

田んぼの畦を補強・トラクターでの土起こし、そして田植え、石ころの多い畑の拡張、「狩猟」ではイノシシや鹿を捕まえ、害獣駆除に一役買い、自治体から「駆除報奨金」を受け取り、少しばかりこずかいを稼いでもいたという。

 

 69日、朗よりのメール。「昨日より、名古屋での教室がひとつ始まりました」。

これから休止していた教室は復活していくだろう。近いうちには公演・ライブの再開も可能になるだろう。

ひとまずの山を乗り越えつつあることに、すこしばかり安堵し、一年の半ばが過ぎていく。

 


孫の野詠と桜見物

2020年03月31日 | Weblog

 

 例年の桜開花の便りは、鹿児島・熊本・高知などからもたらされるそうだが、今年は東京がその先陣を切り3月14日に開花宣言された。

暖冬の影響で、九州など暖かい地方では「蕾の休眠打破」が遅れ、開花に影響したという。

暖かければ開花は早い…は素人考えで、寒いときには寒くなければ「蕾」が十分な休眠をとれず咲くのが遅くなるらしい。

 

私の住む松戸にもいくつか桜名所がある。

いち早く咲いた桜を、お彼岸の墓参りに行った帰りがけに見て通った。

新京成線八柱駅から常盤平駅沿いに「桜通り」があり、桜の巨木が道路をアーチ状におおっている。

例年は屋台が出て賑わうのだがその賑わいがない。

妻は「桜は精一杯咲いているのに、見る人がいなくてもったいないね」と呟く。

車はノロノロとしか進まなくなった。

歩く人は少ないが、どうやら車での花見を楽しむ向きが多いらしく前方の車列は動かない。

わたしたちは、横道を抜けて渋滞を脱した。

新型コロナウイルスが蔓延し、「花見は車中から」と安全策をとる人が多いのだろう。

 

 孫の野詠が長野からやって来た。

わが家には娘猫が2匹いる。7年前に「動物愛護センター」でもらい受け、姉猫は妻が「サラ」、妹猫には野詠が「ウリ」と名付けた。

名付け親の野詠は、今春高校を卒業し進学する。

親元から離れ新しい生活に入る前に「松戸の猫たちに会いたい」と3月23日にやってきた。

彼女がまだ小学生だったときに会ったきりだから7年ぶりとなる。

そのころは妻も達者だったから、野詠の手を引き、東京駅、丸の内界隈を散策し、日比谷公園で一休みした写真が残っている。

 

 猫たちと交流し、野詠も猫たちも満足したようだ。

一夜明け、午後には帰る野詠をどこへ案内しようか。

わが家から電車に乗って一番近い名所といえば、「上野公園」である。電車に乗ってしまえば20分ほどで上野駅に着く。

国立博物館・科学博物館・西洋美術館・動物園などがあり、生物大好きの野詠を動物園に連れて行こうか。

念のためインターネット検索、「休園中」とある。「新型コロナウイルス」のせいだ。

ほかの施設もすべて閉まっている。

ニュース映像によると、桜開花から10日ほどなので「今が満開」と報じる。。

野詠・妻とも相談がまとまり都内へ向かう。

 

 わたしが運転する軽自動車に乗り、先ずは「谷中霊園」に到着。桜並木はこぼれそうな花・花・花。

ただ人出は少ない。下町情緒を残す「谷中銀座」をふくめ、この辺りは外国の観光客がひしめいていた。その姿はほとんど見えない。

わたしがディサービスに勤めていた頃、利用者さんの送迎で通いなれた道である。

道の両側は散策する外国の人たちが多く、徐行しながらハンドルを握っていたものだ。

つづいて上野公園に入る。

休館中の「国立博物館」前で停車し、桜並木を見やる。

こんもりと花々をまとった桜の木々は見えるけど人影はない。

上野のお山の「花見」は、「宴会禁止」で解放されていたが、新型コロナウイルスの影響で、お山の出入り口が閉ざされ、そぞろ歩きも出来なくなっているのだ。

 

 野詠がインターネット検索で興味を持った「市ヶ谷・本神宮」に向かう。後楽園を右手に「白山通り」を飛ばす。

この通りもディサービス時代に通いなれた道だ。

目指した「本神宮」は、伊勢神宮の分院であるようだが敷地は狭い。

ここで参拝、昼食を摂って喫茶店で談笑、朗からの電話が入り待ち合わせ場所に移動。

強い風にあおられながら、待つこと数分で松本ナンバーが到着し、野詠が乗り込んだ。

みじかい会う瀬だったが、久方ぶりに孫と過ごせた時間をもてたのだ。

 

 さてその後の状況である。

新型コロナウイルスの感染者が増えつづけ、外出を控える呼びかけが強まっている。

わたしもかかわる「5月3日・松戸憲法集会」実行委員会は、毎年1200席の市民会館を満席にし、入りきれない人たちは、第二会場を設けてビデオ視聴で参加するほどの盛況だった。

中止にはしないが、「状況によっては近くの公園での開催になる」と、チケット代金を払い戻している。

わたしも会員である「松戸演劇鑑賞会」(4月4日)こまつ座公演も6月に延期された。

また、わたしが理事を務めるNPO法人の理事会が3月末に開かれたが、「密閉空間での会議になるから、なにかあったときの申し開きができない」との意見が出て、短時間で閉会した。

町内会の掲示板をみると、集まりという集まりは「中止になりました」との札が貼られている。

 

 加藤木朗がプロデュースした「昼神温泉郷・和来座」公演(2月15日から29日)は、後半になるほど客足が鈍ったそうだ。

加藤木朗がゲスト出演する「立川志の輔独演会」(飯田市・3月30日)は、5月末に延期になった。

また、「舞踊教室」・「太鼓教室」なども自粛せざるを得ず、催し物も壊滅。

5月以降に予定されている公演や、学校の芸術鑑賞会も、どうなることだろう。

 

 人間界の苦悩を他所に、桜はまだあでやかに咲き誇る。

川面には「花筏」が浮かび始めた。

 

 


加藤木朗の「とっぴんぱらりのぷう」が終結

2019年12月23日 | Weblog

 

 週刊「うたごえ新聞」に連載された、「和の芸能『和力』主宰加藤木朗の『とっぴんぱらりのぷう』」が、2019年12月2日号(第60回)で最終回をむかえた。

 

「うたごえ新聞」で連載が始まったのは、2015年1月5日号であった。

「郷土芸能連載。2011年、千葉での日本のうたごえ祭典に出演した和の芸能『和力』主宰・加藤木朗さん。郷土芸能の魅力を紹介していただく」と編集部が紹介。

この新連載の表題が「とっぴんぱらりのぷう」で、以後、月初めの号に掲載され60話までつづいた。

表題の「とっぴんぱらりのぷう」は、平仮名で堅苦しくなく、口ずさむと「とんとんとーん」と弾むようで心地よい響きがある。

表題として魅力があるが、はてこの表題には、どんな曰く因縁があるのだろうか、

わたしは浅学にしてその意味を知らなかった。

その謎は解けずに来てしまったが、最終回60話にしてついに分かったのである。

「とっぴんぱらりのぷう」最終回の見出しは、「とっぴんぱらりのぷう」だった。

内容は、筆者朗の幼いころの思い出話から始まる。

彼は秋田にある「わらび座」で誕生した。

今は知らないが、劇団は座員の子どもを養育する施設を完備して、乳児・保育園児・学童・中学生・高校生、それぞれに寮があり、保育者・教育担当者が常駐し面倒をみていた。

公演班は出発すると2ヶ月位、営業部員は4ヶ月ほど帰らないから、子どもたちは保母・保父さんたちに見守られて生活する。

保母さんを「おばちゃん」と呼んでいた。

「……豆電球をポツンと点けただけの寝床で、オバちゃんは子どもたちを寝かしつけようといろんな話をしてくれた。6人一部屋の子どもらが目をパッチリ開けて『それからどうしたの』と話のおねだりを延々とつづける。オバちゃんは中々寝ようとしない私たちに手を焼いて『とっぴんぱらりのぷう』といって話を終わらせようとするのだが…」。

「とっぴんぱらりのぷう」は、お話のさいご「これでおしまい」という意味だったのだ。

 

 わたしは本棚の「昔話12か月」(松谷みよ子編)を引き出して読んでみた。

すると岩手「どんとはれ」、山形「トンピンカラリンスッカラリン」、新潟「いきがポーンとさけた」、長野「それっきり」、岡山「昔こっぷりどじょうの目」など、そして秋田は「とっぴんぱらりのぷう」で昔話は終わる。

それぞれのお国柄で「めでたしめでたし」と物語を閉じているのだ。

 

 翻って第一回目の記事は、見出しを「睦月のむつけばなし」として、初もうででごった返す神社の参道で「獅子舞い」を披露する様子から始まり、間に自己紹介を次のように記している。

「舞台で芸能をいたしておる加藤木朗です。…芸能についての正しい知識や、歴史や時代背景は学者先生にお任せいたしまして、私は、地元の方から教えて頂きました芸能を、舞台でお客様にご覧になっていただいております者の立場から、見たり、聞いたり、感じたりしたことを、うたごえ新聞をご愛読下さっている皆様にお伝えしようと、鉛筆と消しゴムを握りしめ、チラシの裏面に向かっています」。

「獅子というものは、厄を祓い福を授ける聖獣です。江戸の獅子の一人立ちとは違い、腰や肩の上で逆立ちをしたり、二人でバック転をする曲芸は、岐阜県や京都にみられる二人立ちの獅子の芸(わざ)です。…二人で一つの生き物を表現するため、相手の動きの癖、身体の癖をお互いに理解することが必要です。…日頃の稽古の成果を出すのはここぞと、下っ腹に力を入れて、その勢いで自分を持ち上げてもらったその瞬間、私の下っ腹からプッと一発…正月早々のお粗末でした」で第一話は閉じられた。

 

 思うにわたしは第一話の落ち、「下っ腹からプッと一発」に幻惑されて、「とっぴんぱらりのぷう」を早とちりに理解してしまったのかも知れない。

 

 最終稿は子どもたちを寝かしつけようと昔話を紡ぐ「オバちゃん」の奮闘ぶりを語った後、次のように閉じられた。

「早く子どもらを寝かしつけてしまおうとの思惑が外れ、でまかせ話は熱を帯びる。『でまかせ』と印象がよくないが、言葉を『出る』に『任せる』と分けて書いてみると、見たこともないような景色や,行ったこともない海の底や空の上の国々にみんなを連れて出かけ、力を合わせ困難をのりこえ、知恵を絞って大きな力に立ち向かったりした夜の物語が、いまだに私の中できらきらと輝きつづけて、私の舞台づくりのもとになっているのだと気づく。舞踊は体をうごかしての、音楽は楽器を奏でて、歌や言葉は声の表現だ。日本の芸能で伝えられてきたこれらの表現は、特別な訓練から生み出されることよりも、暮らしや仕事など、日々の営みの中で培われたものが多いと思う。私はそんな芸能を愛していて、舞台で歌い踊れることに幸せを感じている。うたごえ新聞の読者の方々には、私のとりとめもない口から出まかせの拙い話にお付き合いいただき、本当に感謝しております。とっぴんぱらりのぷう」。

 

 わたしも妻も掲載される号を待ちわび楽しみながら読んだ。

妻は新たな物語を読むたびに、「クスリ」としたり、「アッハッハッハ」と笑いだすのが常であった。

実演者が語る、日本の芸能がもつおおらかさやユーモアは、60話の中で息づいている。。

 

 

※加藤木朗の「とっぴんぱらりのぷう」全話は、https://ameblo.jp/wariki-jp/ に収められています。

 

 


運転免許更新の知らせ

2019年11月30日 | Weblog

 

 

 わたしの誕生月は4月である。その半年前10月に、「運転免許更新のお知らせ」が届いた。

わたしには、75歳以上に課せられる「高齢者講習」が適用され、合格すれば免許証の有効期限は3年、いままでに2回講習を受け免許証の更新をしている。

今回の「お知らせ」では、今までと大きく変わったことがある。以前であれば「講習日」は午前中だけの1日で済んだ。

まず「認知機能検査」をやり、その後ゲーム機みたいなものに向き合い、加速したりブレーキを踏んだりのテスト、そして車に乗っての実車試験があって「修了書」が発行されて終わる。

しかし今回からは、それが二日間になったのだ。

第一日目は「認知機能検査」(30分)だけになった。検査の結果、「2時間講習組」と「3時間講習組」とにわけられ、講習日の予約をし、後日改めて受講することになる。

 

 11月にはいり「認知機能検査」の予約を自動車教習所に申し込む。

よほど受講希望者が多いのだろう、2ヶ月先しか予約が取れず来年1月末に決まった。

 

来年4月、わたしは81歳になる。

80歳を超えての運転免許更新には、多少のためらいがある。

高齢ドライバーへの視線が厳しく「免許証返納」を勧める声が高いからだ。

歌い手や俳優など世に知られる人が、「運転免許証を返納しました」と、やや得意げに語る姿を散見する。

わたしはその姿を拝見しながら、自らをふり返ってこんな呟きをもらす。「わたしには専用の運転手はいない、タクシーに乗る余裕もない……」。

足腰に痛みを抱えるようになった妻を「整体院」へ送り迎えするのは日常のことになり、病院通いもある。

わたしは更に週3日間「新聞配達」をバイクがなくなった今、手持ちの軽自動車でやっている。

昔みたいに、息子一家が暮らす信州へ飛ばすことはなくなったが、身近な範囲での車の使用は日常なのだ。

 

 わたしが幸いに思っているのは、30歳頃に普通免許、54歳で自動二輪中型免許を取得し、仕事でも私事においても事故なく過ごせたことにある。

74歳から80歳まで週2回ディサービスに勤め、車を駆っての送迎で都心を乗り回し、利用者さんの家によっては、込み入った車幅いっぱいの路地を縫い、あるいはバックで延々と玄関までいかねばならない処もあった6年間の送迎で事故はなかった。

かてて加えて、過去2回の「高齢者講習」では、認知・実車テストとも問題なく好成績であったし、毎日のように運転しているが無事故・無違反で免許証は「ゴールド」である。

人様を載せて運転することに責任と自信を持って過ごすことが出来ていたのだ。

 

 80歳を機に、送迎を主にする仕事から身を引いたが、わたしはバイクや車の運転が大好きである。

わたしは終戦時「国民学校1年生」で、母の実家がある新潟の疎開先から東京下町に帰った。

大通りに出れば、牛や馬が荷車を引いて行き交い、魚屋さんや八百屋さんは大八車で仕入に行き、小物商いの店主は頑丈な荷台の自転車を乗り回していた。

まれに通る自動車は、「かっこいい」と子どもたちの目にやきつく。自動車はあこがれの的であった。

〽足柄山の金太郎 熊にまたがり お馬のけいこ …

とうたわれるように、男の子は本能的に乗り物にあこがれるのではあるまいか。

 

都内を縦横無尽に走っていた路面電車が廃止され自動車に道を明け渡していく。車が世にあふれるようになってくる。

わたしは在籍していたわらび座で、20代後半から営業部に転じ全国各地を駆け巡ることになった。

公演予定地に降り立ち、個人・団体を訪問し実行委員会を組織、公演を成り立たせるために動く。

その移動手段は電車やバスそして現地でお借りした自転車であった。

わたしより年下の座員が増え、運転免許証を保持しているのは珍しくなく、彼らは現地で車を借りて動きまわる。

その効率の良さをみて、「希望する営業部員は免許を取ろう」と、順番を決めて教習所に通い始めた。

その折にわたしは運転免許証を取得したのである。

それから50年になる。

仕事柄、全国を駆け巡った。鹿児島・宮崎、大阪・和歌山などは、隈なく回りつくしたように思う。

 

 よもや手中に出来るとは思えなかった憧れだった自動車の運転である。

わたしが持つ唯一の国家資格で、仕事に生活におおいに役立ち、今も一心同体で行動を共にしている。

わたしのいまの状態は、運転には支障がないが「寄る年波」を感じたら、それを潮時とし未練を残さず運転を止めようとは思う。

それはいつになるだろう。来年の免許更新が無事に受かったら、次回の更新時には84歳となる。

気力・体力が今の状態で持続できたにしても、次回はたぶんないだろうなぁ……と、独り言ちているところである。

 

 

 


「同窓会」閉じる

2019年10月30日 | Weblog

 

 わたしが4年間学んだ、「都立戸山高校定時制課程」同窓会の解散総会が7月に行われ、10月にはいって同窓会最後の「金蘭会だより・最終号」が送られてきた。

この「金蘭会だより」に投稿を求められ、「なにを書くか」しばし迷い一文を寄せ、それが掲載されている。

この一文を書くのに少しばかり苦労した。なにせ字数の制限がある。

「なにを書こうかなぁ」……鮮烈に思い出したのは、始業時間に間に合うよう職場から路面電車に乗り、吊革に手を掛け居眠りでガクンと膝が折れ、つんのめりそうになったことが数度あったことだ。昼の労働を終え、学校へ通うのだから眠くもなる。

定時制は「学ぶ」場であったが、働いて収入を得ながら「学ぶ」二重生活でもあったのだ。

思い起こせばわたしは、小学6年生からその「二重生活」をしている。

 

 わたしは、小学6年生から新聞配達を始め、朝4時には肩から紐を掛け新聞を抱え、担当する地域を歩いて配ばり、朝食を食べ学校へ行く生活を中学終了までつづけた。そのうえ下校して夕刊も配達していた。

その収入で「給食費」を払い、学用品などを調えていたのだ。

もっと幼い頃は、道路に落ちている釘などの金属類、ガラスの破片などを拾い集めて屑屋さんに持ちこみ金に換え、駄菓子屋や紙芝居屋でせんべいや飴を買う資金にした。

その路上稼ぎにくらべ、新聞配達は安定した収入源だったから「新聞少年」は沢山いた。

 

 わたしの世代は、中学校を終えると就職する者が多く、高校へ進学する者は少なかった。

スーパーもコンビニもなく個人商店が賑わう時代だから、卒業すれば親が生業にしている仕事に就くか、あるいは町工場に弁当を持って通う生活にはいる。

その頃「記者もの」の本がはやりで、昼夜を分かたず悪を追う新聞記者がヒーローだった。

わたしは新聞少年として、新聞記者を身近に感じていたから、学業を修めてその道に進もうと、高校進学をめざしたのだ。

全日制都立高校を受け合格。新聞配達で貯めたお金で入学金を支払い、靴やかばんや制服などそろえる。

がしかし、高校入学を機に新聞配達を辞めたから手元は不如意だ。教材費もかかるし工場見学のバス代も要る。

わたしはこの工場見学のバス代がなくパスし、級友が乗ったバスをひとり見送った。

やはり稼ぎながら学ぼうと、全日制を1学期で辞め定時制に転校した。

 

 家からはかなり遠かったが、新宿にある戸山高校定時制の編入試験を受け合格。

入学に際して担任になったS先生は「他の学科はいざ知らず、数学で0点をだしたら、即退学だからな」と、脅しをかけた。

わたしは国語・社会などはまぁまぁなのだが、数学はちんぷんかんぷんなのである。

編入試験でもS先生の担当教科である数学は振るわなかったにちがいない。

中途入学であったが、働きながら学ぶ者同士、クラスにすぐさま溶けこみ、多分、数学や物理・化学などそして英語も振るわなかったが、「除籍処分」を受けず4年間を全うできた。

そして指折り数えてみると、卒業して63年になる。

 

「卒業して63年になる」と題して寄稿した文章は以下のものだ。

 

 7月6日(土)に「金蘭会総会」が高田馬場で開催された。

年毎に参加者が減るのは高齢化の故であろう。特に恩師の参加が目に見えて少なくなるのは「寄る年波に勝てず」、天然自然の理に添うことで寂しいが仕方ない。

今年の総会には、恩師が2名だけ参加された。

わたしはこのうちのお一人、武藤徹先生に授業を受けたことがある。先生は全日制課程で数学の教鞭をとっておられ、わたしたち定時制課程の授業を偶に応援することがあったようだ。

わたしが先生の授業を受けたのは2回ほどしかなかった。

卒業を目前にした時期、武藤先生の授業があった。「みなさんは間もなく社会人になる」、「社会に出たら知っていて欲しいことがある」と語りだした。

「保険」の話であった。「庶民から集めた『保険金』が、戦費としてどのように使われたか」をグラフで説明し、「わたしたちが拠出するものがどのように使われるのかを見守らなくてはならない」と強調された。

わたしは「金蘭会」の集まりで武藤徹先生にお会いしたとき、60数年前のこの授業内容を鮮烈に思い出したのだ。

「金蘭会」の集いには欠かさず参加され、社会の動きについて警句を発せられる。先生の近くに住む金蘭会役員によると、自らの主張を街頭に立って署名活動などもやられているようだ。

1925年生まれ、1959年から1967年「NHK教育テレビ・高校数学講座」初代講師を務め、著作多数のお人が、90才半ばのお年で社会に目を向け活躍されている。

わたしは今年で80才になった。高校で学んだ期間は4年間であるから、長い人生行路では一瞬の間であるかも知れない。

しかし高校を卒業して63年になる今、わが来し方をふりかえれば、この4年間があったればこそ滋味の多い人生を刻めたのではないかと思う。

月並みな言葉になるが、「良き師」、「佳き友」、「善き先輩・後輩」に恵まれた4年間ではあった。

 

 この「金蘭会だより」最終号に、武藤徹先生が一筆寄せておられる。

★94才になりました。毎週金曜夜の国会デモに参加しています。(数学教諭・武藤徹)

 

 

 


「東葛合唱団はるかぜ」30周年記念レセプション

2019年09月30日 | Weblog

 

「文化のシャワーを存分に浴び、爽やかな一日になった」と、帰りの車中妻がふと口ずさむ。車の前方を眺めやりながら、まだその余韻に浸っているようである。

9月15日(日)、松戸市森のホール・レセプションホールで「東葛合唱団はるかぜ」30周年記念レセプションが催された。

わたしたち夫婦は、ご案内の栄を賜り参加させていただいた。

 

 わたしは、昔から歌うことに面映ゆさを感じる性格の上、いざ歌うと高い音につられて、自分のパートが保てずあやふやになる。

人の迷惑になるとの思いがあるから、はるかぜの団員にはならなかった。

でもはるかぜの歩みと同じ軌跡を辿ってはいたのだ。

 

はるかぜの創立は1989年3月である。わたしはその誕生のいきさつは知らない。

ある日、ある集会の開幕に「景気づけの太鼓を叩いてほしい」と依頼され、「八丈島太鼓囃子」の下拍子を披露した。

叩き終わると、「はるかぜ合唱団の荒巻ですが」と、初代団長の荒巻忠男さんが駈けよって来た。

「どうでしょう。合唱団に郷土部をつくりたいのですが力を貸してくれませんか」との申し入れである。

わたしは、わらび座の営業活動で全国を行脚していた頃、各地のうたごえ合唱団の皆さんの厚い支援を受けていたから、ご恩返しの気持ちで即座にOKした。

「わたしはわらび座で演技者の訓練を受け、舞台に立っていたこともある。その期間は短く、お伝えできるのは少ない…」、「基本だけなら」と断りをいれ、講師として手ほどきをすることになった。わたしが50才、わらび座を辞し5年目のことである。

月に二回の[郷土部」レッスンをT小学校の体育館で始めたのは1989年9月であった。合唱団はるかぜの誕生から半年たっていた。

参加者は、はるかぜ団員そしてT小学校の在校生数人、父母など15人ほどが集まった。

 

 太鼓を叩くバチも肝心の太鼓もない。

バチはモップの柄をてきとうな長さに切り、太鼓の代わりは車の古タイヤを用意した。

古タイヤを叩くからバチはたちまち真っ黒に変色する。

黒く変色したバチを太鼓に見立てた古タイヤで叩きつづけて数ヶ月、見かねて当時の郷土部部長だった田中真一さん(現はるかぜ副団長)が、私費を立て替えて大胴太鼓一基を購入してくれ、みんなは大喜びした(数十万円もするこの太鼓代金は、1991年第一回はるかぜ合唱団のコンサート収益で補てんされた)。

「バチを左右交互に振り下ろす」、これがなかなか大変であった。

常日頃、リズムよく歌に慣れ親しんでいる合唱団の人たちであっても、右と左のリズムが狂うのだ。

なんとなれば、利き腕はきちんとリズムを刻めるのだが、そうでない手は速かったり仰け反ったりして均等に打つことができない。

「交互打ち」、「二拍子」、「右2回、左2回」、訓練をかさね、秋田の「西馬音内寄せ太鼓」の上拍子・下拍子で演目として完成したのは、どのくらい時間がかかっただろうか。

あわせて踊りでは「ソーラン節」、「秩父音頭」・「常磐炭坑節」・「壁塗り甚句」などを始めた。

基本が身に付くとみるみる上達し、田楽座などの「講習会」に参加、「豊年太鼓」・「銚子の早打ち」などを部員たちは会得していく。

月々の会費を積み立て、時おり入る「演奏依頼」の謝礼金で、締め太鼓、大胴・そして法被(ハッピ)などつぎつぎに揃えていったのだ。

 

 わたしが在籍したのは、7年ほどだったように思う。

思い出深いのは、岩手の「さんさ踊り」を仕上げたことである。

わたしは「わらび座」を初めて観て圧倒されたのは、この「さんさ踊り」だった。「日本にもこんなに躍動的な舞がある」とびっくりした。

わらび座に入って「さんさ踊り」を習い覚えて、舞台でも小集会でも踊る機会はたくさんあった。

郷土部の人たちに伝授したいと、太鼓の叩き方や所作、踊りの構成を少しづつ思い出し、何回目だったかの「はるかぜコンサート」で舞台に上げ、踊りきったときは万感胸にせまる心地がした。

次には、わたしが舞台で演じて大好きだった、福島県の「念仏じゃんがら踊り」を…と願ったが、会社勤めの繁忙が重なりレッスンから遠ざかってしまう。

 

 レッスンに通えなくなったが、郷土部との縁はつづく。

二年に一回開催される「はるかぜコンサート」の度ごとに、郷土部は演目の強化につとめ、その講師として、加藤木朗を呼んでくださるのだ。

わたしはその講習会に、「和力」の記録係としてカメラをもって常々参加している。

その上わたしは、「はるかぜコンサート」で、ここ何回か「表方」の責任者として指名を受け出張る。

なにせ二千名を超える座席をもつ「森のホール・大ホール」だ。開場前には長蛇の列が渦巻く。

「受付」、「精算」、「会場」などのスタッフは30名を超える人員だ。

それを支障なくさばくのに、わらび座や和力での経験がおおいに役立つ。

今年5月の森のホールでの「30周年記念コンサート」は、1500人以上の観客だった。

 

 そしてこの9月の「レセプション」には、ゲストとして「和力」をよんでくださっている。

わたしたち夫婦は勇躍して会場に向かったのである。

そうではあるが、わたしはひとつの懸念を抱える出席でもあった。

「乾杯の音頭をおねがいしますね」と、前もって太田幸子団長から仰せつかっていた。

わたしは、文章を書くのは好きだが、人前でしゃべるのは苦手なのだ。

話している内に辻褄が合わなくなる。文章だと消したり加えたりして直せるが、言葉に出すとそうはいかない。

乾杯の音頭などは、苦手中の最たるものである。

しかし指名された以上は、成し遂げねばなるまい。依頼されて開会まで一月以上、どのように乾杯の発声するか、いつも気持ちに突き刺さっていた。

原稿に書いて大筋を記憶しいよいよ当日がやって来た。

プログラムには、「団長挨拶」、「指揮者・ピアニスト」など講師のあいさつの後「乾杯」となる。

わたしは「郷に入れば郷に従え」と、みなさんのあいさつに身を浸す。それでずいぶんと気分が楽になったばかりか、お祝いの雰囲気が身の内から沸いてきた。

「合唱団はるかぜの誕生から半年ほど経って『郷土部』を設立しました。太鼓がないから古タイヤを叩いてバチはまっ黒け」……。

原稿になかった『郷土部』設立のいきさつを冒頭にはさんで、「合唱団はるかぜそして郷土部が、両輪の花としてこれからも地域に根ざして咲きつづけることを祝い乾杯」。

 

 会食・歓談をはさんでⅡ部にうつる。

「はるかぜの演奏」、「郷土部の演舞・太鼓演奏」、ゲストの「ダンス」・「バリトン独唱」、「ピアノ演奏」など座が盛り上がる。

そして「和力」の「獅子舞」・「三味線独奏」・「だんじり囃子」が披露された。

「和力の演奏をようやく観れたよ」と、お祝いに駆け付けた都内の合唱団が喜んでいたと、太田幸子団長が後に語ってくれた。加藤木朗が「うたごえ新聞」に連載している「とっぴんぱらりのぷう」を愛読してくれている方であろう。

いろんな出会いがあり、和・洋の文化が混然一体となり、多彩な文化の厚みを感じられ、「文化のシャワー」を浴びることができた、「東葛合唱団はるかぜ」30周年記念パーティであった。。


ディサービスを辞して

2019年08月30日 | Weblog

 

(勤務先の近く「谷中銀座」)

 週に2回、東京谷中にある「ディサービス」に勤務していた。

74才で勤めはじめ6年間お世話になり、7月末で辞めた。

まだまだ働く気力も体力もあるが、仕事の性質上80才で身を引いた方がよかろう…、人様を乗せて事故に遭ったら、「80才にもなる者を、送迎の運転手としてなぜ雇っていたのか」と、事業所に迷惑をかけるにちがいない。

4月に誕生月をむかえるので、かなり以前から「3月末をもって退職したい」と事業所に申し入れていたが、後任がなかなか見つからず、7月でようやくけりがついたのだ。

 

ディサービスでは、朝の「迎え」と夕方の「送り」が、わたしの主な仕事であった。

昨今「高齢者の交通事故」が急増しているとて、高齢ドラィバーに向ける目が年毎に険しくなっている。

わたしは、運転免許更新時に「高齢者講習」を3年に一度受け、運転技能も認知試験も高得点で通過してきている。

仕事だけでなく家にいても車を乗り回しておる。ほぼ毎日運転しているが無事故・無違反の「ゴールド免許」保持者でもある。

それが年齢だけに目を怒らせて、「免許返納」を大々的に促す世相なのだ。

わたしは「年齢は同じでも個人差があろう」と切歯扼腕、腹の立つことおびただしい。

しかし世の大勢には抗しがたく、無念のおもいで職を辞する申し出をしたのだ。

 

(味のある命名「夕焼けだんだん」)

 ディサービスでの仕事は面白かった。

迎えと送りのあいだの時間は、介護職員としてゲーム・お話・歯磨きの介助などにあたる。

ディサービスの利用者さんたちは、70代、80代が多く、稀には100才を超える人も通う。

みなさんの過ごしてきた時代とわたしが生きてきた時代はほぼ重なる。

わたしは送り迎えの車の運転もだいすきだが、わたしと同世代のこの方々との触れ合いも楽しかった。

わたしは戦前のことは知らないが、戦中の『空襲』や戦後の『食糧難』は知っている。

昼食後、歯磨きが終わって「カルタ組」、「トランプ組」に分かれてゲームに興じる。

わたしは「カルタ組」の読み手となってみなさんをリードする。中には居眠ったり集中出来ない人もいるから気苦労は多い。

2ゲームほどしてから「すこし休みましょうか」と、みなさんの気分を変える。

「わたしの子どもの頃、玉子は貴重品で運動会や遠足、病気で寝込んだ時にしか食べられなかったよ」。

すると「そうそう、あの頃には玉子は手が出なかった」、「家は農家で鶏を飼っていたけど、産んだ玉子は自転車で買い出しに来るおじさんに渡して、自分たちの口には入らなかったなぁ…」と話は尽きることなくつづく。

お正月の凧上げ・羽子板・竹馬などの遊び、お手玉、綾とり・メンコ・おはじき・ビー玉などの話しになると、みんなが我先に話しはじめ、居眠る人も目をぱっちりと開けて参加するのだ。

わたしは介護職員として高齢であったかも知れないが、みなさんの記憶を呼び起こし活性化するのには適任だったのではないかと自負する次第である。

 

その上、わたしは「わらび座」の営業で全国を駆けめぐっていたからこれも役だった。

ディサービスに通う方は、もちろん都内の人もいるが、集団就職であったり、嫁入りであったりそれは様々であるが、多くは他地方からやってきている。

千葉・埼玉・群馬・長野・福島・新潟、遠くは宮崎・鹿児島・大分などさまざまな出身だ。

「いまカルタをしたみなさんは、いろんな所から来ています。このAさんは遠く九州の宮崎県からです。宮崎は南国ですから宮崎市の中心の街路樹は背の高いヤシの木でした。そうでしたねAさん」、「そうそう、日南海岸には鬼の洗濯板という岩がたくさんあって…」とお国自慢を始める。

「Tさんは雪の深い新潟県ですね。雪が屋根に届くまで降りつもったところへ行ったことがあります」。

「カンジキを履いて毎朝道づくりをしたもんですよ」。

「だども、おらんとこは東北の福島だったけんど、雪は積もらなかったなぁ」…福島県浜通りのSさんが加わる。

「わたしんとこは、雪はさほど降らなかったが『からっ風』が吹いてそれが冷たいんだよ」と群馬のTさん。

わたしは、鹿児島市出身のOさんに「鹿児島市はどうですか、雪は降らないが桜島の灰がふりますね」、「そうそう洗濯物は部屋で干すしかないね」。

「鹿児島や宮崎の街路樹は、ハイビスカスが植わっていて真っ赤な花や、黄色いのも目いっぱい咲いている。でも九州は台風の通り道だから、台風のあとは道路が吹き飛ばされたハイビスカスの花でいっぱいになります」。

わたしはわらび座の営業で出かけて、その土地土地で見聞きしたことを思い出しお伝えする。

土地の言葉も喜ばれた。「鹿児島弁で、そうだ、そうだは『じゃっどう、じゃっどう』と云い、秋田では『んだ、んだ』でした」。

その地元出身の人は懐かしげな笑顔になり、他地域の人は「へぇー」と感心する。

「それでは、みなさんのところではなんと云いますか」。

こうなるとよそ見をする人はいなくなり、みんなが話しの輪に入ってくる。

ディサービスに来て、大いに考えて発言して楽しく笑いあう。

わたしは介護資格をなにも持たずにみなさんと接してきたが、そのような利用者さん主体の場を曲がりなりにも創れてきたかな…とふり返っている。

 

 そうしていつの間にやら、バイトなしの1ケ月間、8月が過ぎたのである。

もう少ししたら、市の「シルバーセンター」に登録して、なんかの仕事を探そうとは思っている。

 


高校の同窓会

2019年07月24日 | Weblog

 

 

 七夕を翌日に控えた7月6日、わたしが卒業した高校の同窓会が高田馬場で催された。

同窓会は毎年一回この時期に開かれる。

わたしの同級生M君が同窓会の幹事長をやっているので、わたしは欠かさず出ていくようにしている。

同窓会終了後、出席した同級生と居酒屋に流れ一献傾けるのが楽しみなのだ。

ただ年を経るにつれ、同窓会の参加者も同級生の参加も減ってきている。主には高齢化の影響だろうと思われる。

わたしの同級生も、最盛期には10人を下らない人が参加していた。

常連だったH君は大手企業の役員として腕をふるっていたが亡くなり、女性の束ね役だったTさんは老人施設に入っている。

そんなこんなで、今年の同級生の参加は4人に留まった。

 

 生涯の親友である幹事長のM君は、昨年自らの幹事長名で同窓会開催の呼びかけをしたが、参加できなかった。

「こんどの同窓会には、参加できそうもない」と事前にM君から電話がはいった。

からだの調子が悪く、杖を頼りに歩いているのだ。だから電車に乗って行く自信がない…と云う。

わたしは驚いた。彼が大病を患ったのは5年ほど前になる。回復して「障がい者福祉所」の所長として縦横無尽に活躍していたではないか。「福祉所」の基盤を盤石なものにして、後輩たちにそこを託し、悠々自適の生活にはいったばかりだ。

「それじゃ、家まで迎えに行き、俺が杖代わりになるから出ようよ」と誘ったが、「足元がふらつきだめだ」と、昨年の同窓会は幹事長抜きでやられた。

 

 今年は、M君が開会あいさつを述べ懇親会が始まった。

杖をついている様子はなく、声にも張りがあり元気そうだ。よかったなぁ…回復したようだと見守る。

参加者の自己紹介・近況報告など和やかに座はすすんでいく。

同窓会がはねてM君は、しばし役員との打ち合わせ。

「お待たせ、お待たせ」と待っていたわたしたちのもとへ「ゆっくり飲めるところへ行きたいね」と歩きだす。

「おや、もう杖なしで大丈夫になったんだ」、「いやいや、こういう場だから見栄を張って杖なしで来たけど、ちょいと足元はふらつくんだ」。

それでも階段を上り、横断歩道を遅れることなく渡るので安心はできた。

 

 高校を卒料して63年になる。

当時は畏れるものは何もないという勢いで、若さを謳歌していたものだ。

授業の点呼で「ハイ」と返事をし、そのまま座席に屈んで教室を脱出。近くにあった早稲田大学の構内に。その頃の早稲田大学は門はあっただろうけど塀はなく、「開かれた大学」として街と渾然一体となっていた。

大隅重信像の前に池があり鯉が泳いでいる。われら悪童は「鯉を捕まえよう」と真剣に鯉を追い回したりした。

また夏休みや冬休みには、男女10人ほどのグループで山に出かけキャンプ生活を楽しんだ。

このグループは、「夜灯虫」と名づけた大学ノートをいろいろ書き込んで回覧していた。

M君はそれぞれの人の文章を、編集しガリ版で印刷、文集を何冊か作ってくれ小まめにみんなのまとめ役になってくれていたものだ。

 

 卒業後もM君には数えきれないほど世話になっている。

高校を卒業してわたしは新劇の「稲の会」に入った。劇団の公演があると、団員にチケットの割り当てがあり、それを販売するのがおおごとであった。

彼は常にまとまった枚数を引き受けてくれ、販売してくれた。

わたしが妹夫婦の創業した「中條肉店」を手伝った折、伝票に押すゴム印をつくることになった。

絵をよく描いていた彼にデザインを頼むと、子豚が浮き彫りになる可愛らしいゴム印ができ、中條肉店の顔になった。

そして、わたしがわらび座に入って数年、彼は結婚しわらび座を新婚旅行の目的地のひとつに選んで数泊した。当時のわらび座は、お客さん用の宿泊施設がなく、公演に出かけている座員の空き部屋を提供していたから不便をかけたかと思う。

その折奥さん共々に田んぼのあぜ道で撮った写真が、わが家のアルバムにあるはずだ。

 

 わたしは23年間わらび座に在籍していたから、秋田と東京、この間ほとんど交流はなかった。

交流はなかったが、わたしの妻が担当した彼の勤務地でのわらび座公演では、チケットの販売はもちろん、宣伝機材を調達してくれたり、なにくれとなくお世話になった。

わたしがわらび座を辞め、妹夫婦が経営する(株)中條で働きはじめた。

(株)中條は、創業者妹夫婦が打ち固めた土台を、後継者中條勉現社長がさらに発展させる時代に入った。

「会社のロゴマークが必要だ」との社長の意向がでた。

わたしはM君にデザインを依頼、やや長い時間をかけて10通りほどのロゴデザインが届いた。その内の一点が選ばれ、社屋に配送車にパンフレットに活用され全国展開している。

 

 わたしが、息子朗の主宰する「和力」の首都圏での事務所を立ち上げ、公演実施に奔放するようになった際、ここでまたM君の多大な尽力をうけた。

M君が所長として活躍する「福祉作業所」は、区内の労働組合などが理事を送り出し、民主的に運営されている。

その理事会で「法人化・設立1周年事業」として、区内有数の800人ほどを収容するホールで主催公演をしてくれることになった。2007年のことである。

その翌年2008年にも「日本の伝統芸能を障害者のみなさんと楽しむ夕べ」として、3ステージ連続公演の1ステージを主催公演してくれた。

「福祉作業所」を介して、労働組合などにも「和力」の宣伝が行き届き、和力を観てくれた保育士グループなど、強力な和力ファンが根付いたのだ。

 

 それのみか、わたしの姪かとうぎ桜子がなんのゆかりもないこの区で、区議選に立候補し、2007年4月に6位で当選した。

前年、「福祉作業所」のバーベキュー大会に桜子さんは参加し、わたしがM君に引き合わせ、桜子さんは「福祉作業所」の理事(労働組合の役員)と懇談していた。それらの方々の多くが、「福祉」を旨とする桜子さんの応援を4期目をむかえた今年春の選挙でも下支え下さっている。

 

 高校に入学し同級生として知りあって、70年にちかい付き合いだ。

この長い長い期間、ほんとうにお世話になった。

M君は長身で高校時代からすこし猫背気味であった。その後ろ姿をみながら、「いつまでも元気にいてくれろ」と念じたものである。