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朗が舞い、晩餐会でのメインディッシュは・・・ --G20サミットのレセプションに出演--

2019年06月19日 | Weblog

(牡丹灯籠より・07年初演 お露を演じる加藤木朗)


 
このスペースにときどき顔を出す
和力広報担当の加藤木雅義が寄稿してくれました。以下、全文を掲載いたします。(加藤木照公)



大阪G20サミット前の「持続可能な成長のためのエネルギー転換と地球環境に関する関係閣僚会合」が、令和元年6月15日と16日に行われました。
会場となる軽井沢プリンスホテルでの歓迎レセプション(14日)に和力が呼ばれたことは、加藤木の親族に驚きをもって伝達されました。もちろんそれは、

「和力も世間に認められて主要国の代表にその芸を披露することが出来るまでになったのか」

という思いでした。その一方で、和力が出演する会場にも注目されたのが今回の特徴でした。
加藤木朗の従兄弟が経営する(株)中條がそうだったのです。中條とは東京の食肉商社で、ホテル、レストランにお肉を卸している会社です。
今回のレセプション招待の報に接した中條社長(57歳)は
「それはすごい。(軽井沢プリンスホテルは)お得意先なので先方に従兄弟がお世話になることを連絡しておきます。和力の出演を誇りに思います」
というメールをわたしに返してきた。

田楽座の前は?

ここで、わたしが加藤木朗ファンのみなさまにお伝えしたいのは、(株)中條と加藤木朗の関わり、そして中條の会社としての成長の軌跡なのです。
わたしの兄・加藤木照公が中條さんのことをここのブログで何度か記述していますが、朗との関わりがないのでファンのみなさまには縁の遠い話だったのではないかと思われます。
加藤木朗は、田楽座で10年修行し、それから和力を結成して現在に至っているのは、コアなファンでしたらご存知だと思います。しかし、その田楽座の前に朗が何をしていたのかは、あまり知られていません。ここが本日のブログの見どころとなります。
結論から申しあげますが、生まれ育った秋田県を出た朗は上京し、この(株)中條に就職して初めて社会に出たのです。17歳の時でした。それから20歳の年に田楽座に行ったのがことのあらましとなります。

(中條直営レストラン JR三河島駅そば)


 
「どうやら中條さんは今や東京で1、2位を争うほどの規模を持つお肉屋さんになっているようですよ」と朗の口から聞いたのは、わたしが朗の住む阿智村に遊びに行った4年前(2015年)のことでした。最初は3人で出発した中條さんは、すでに70人従業員を抱える大きな企業になっていたのです。HPを調べると、取引先として都内の有名ホテルグループ、全国の調理師学校、各国の大使館があがっています。すでに小売りはやめてしまっていたようです。

中條さんとは
 

 
中條さんの出発はJR三河島駅(荒川区)から歩いて10分ほどのさびれた商店街の一角に構えた10坪ほどの精肉店でした。たぶんつぶれたお店の跡地を買ったものだったと思います。開店はチンドン屋さんをくり出す賑やかなものでしたが「今度、いつつぶれるのかしら」という声がご近所でもれたほどの、前途多難な出発だったのです。
少し、歴史をふり返りますので、わたしの兄姉構成を申しあげます。
わたし(雅義)は5人兄姉の末っ子として生まれました。まるで江戸落語に出てくるような遊郭に隣接した長屋でわたしたち兄姉は育ったのです。

長兄→朗の父
長姉→中條の創業者夫婦
次姉
末姉
わたし(雅義)

戦後の集団就職で上京した義兄がこつこつと蓄財して、三河島にお店を持てるようになったのは、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの年でした。現社長はその時1歳。
親族内に産業が興ったのですから、わたしの兄姉は学校を出るともれなく中條さんに就職して社会に出るのが習わしになっていました。長兄も秋田県にある劇団に就職が決まっていたのですが、開店後、半年はお店を手伝い、それから秋田に旅立っていったのです。朗はまだこの世にいません。
次姉、末姉につづき、わたしも学校を出るとすぐに中條さんのお世話になります。大阪万博(1970年)の年でした。そのころ秋田で朗が生まれて1年がたっています。
わたしが勤め始めた時、中條さんの従業員はまだ6名ほどでした。小売りに2名、卸しに4名の布陣。
社長の義兄には外商の才能があり、小売りは人に任せて、卸しのお客さまを次々に開拓していました。しかしそこは新参者の肉屋です。町の小さなレストランや中華そば屋さんが主な得意先でしかありません。
義兄が「これからは有名なホテルやレストランと取り引きしないと、社会の信用ができない」という大きな夢を新入社員のわたしに語ったことがあります。しかしそれには高い壁があったのです。有名どころには戦前からの肉屋が取り引きしていて、新参者がいくら値引きをしても跳ね返されてしまう。
値段や肉の品質なのではなく、信用がなければ有名なところに食い込めないのが現実だったようです。

なぜ 奇跡がおこった


しかし、そこに奇跡がおこった。
わたしが勤めるころになると赤坂プリンスホテルと取り引きするようになっていたのです。
時は高度成長の真っ最中でした。プリンスグループといえばリゾート開発をかかげて破竹の勢いで成長していた企業だったのです。そこになぜ新参者の中條が入ることができたのか? それは誰もが思う疑問です。

これにお応えするためには、少し寄り道をしなくてはいけません。
それは、料理人というある意味、特殊な世界について知っていただきたいのです。
わたしが中條さんに就職してお肉を配達するようになって、一番、最初に驚かされたのは、調理人=コックさんの権力の強さでした。どんな大きなレストラン、ホテルでも支配人と同じくらいにコックさんの発言力があったのです。
学校で公式なことしか学んでこなかったわたしには、これが大きなカルチャーショックでした。普通、現場の人間よりネクタイを締めた事務方が上だと思いがちですが、調理の世界では現場が圧倒的に力を持っていたのです。
後年、わたしが勝手に解釈したのは、
「いくら立派なホテルやレストランでもただの箱ではないか。その胃袋をつかんでいるのはわれわれだ」
というのが調理人さんたちの自負だったということでした。そういうふうに考えれば、いくら立派なホテルを造っても料理が美味しくなければお客さんは来てくれません。
ここでもうひとつ知っておいていただきたいのは、出入り業者はその建物(ホテル)に付いているお肉屋さんと、それとは別にコックさんが連れてくるお肉屋さんの2種類があるということです。コックさんは権力が強いので、「この業者でないと俺の味は出せない」と言えば、そういうことも通ってしまったのかもしれません。

後年、秋田から上京した朗は、中條さんで数年間お世話になりますが、やはり同じ思いをしたらしい。
「力を持っているのはコックさんだとわかったので、その方と仲良くなるようにしました。そうしたら注文が増えてくるのです」と朗はわたしに語っています。彼の方はわたしと違って賢いので、すぐに対応ができたのでしょう。
 

生涯、親友のちぎり ――見えないピラミッドーー
 


 
そうやって現場で権勢を誇っているコックさんですが、頭の上がらない存在もあるのです。それは調理というのは徒弟制度、技術伝承の世界ですから、教えてくれる師匠、先輩には逆らえない。なので、われわれには見えないピラミッドがコックさんの世界にはあるようなのです。
それが帝国ホテルグループ、プリンスホテルグループといろいろあるのでしょうが、外部の者にはなかなか見えない世界なのです。
ただこのグループの絆は強く、上下関係は厳しいと、聞いたことがあります。

 

(和力HP スケジュール欄より レセプションの告知)


 そして中條さんに話を戻していきます。
義兄は外商の才能があると前に申しあげました。それは誰からも好かれる気性と誠実な生き方があったからだと、身近に接したわたしは推測するのです。
その義兄が駆け出しのとき、配達先のコックさんと意気投合してしまった。調理場の片隅でふたりは
「俺とおまえは一生、親友だぞ」
と誓い合ったのだと言います。まるでドラマのワンシーンのようです。

堅いちぎりをしたその相手のコックさんが、後年になって、あれよあれよと出世して赤坂プリンスホテルの総コック長になってしまった。
赤坂プリンスといえば、数あるプリンスホテルグループの総本山です。
つまり、義兄の親友はプリンスホテルグループの総大将になっていたのでした。
先ほど、取引業者にはコックさんが連れてくる肉屋さんがいると申しましたが、プリンスくらいの大きなところでは、いくら親友といえどもすぐに取り引きできるものではありません。ただ、総料理長としては「こういう料理をしたいのにどこの肉屋にも置いてない」という食材を中條さんに相談して、それを持ってきてもらったことはあったらしい。
最初は小さな取り扱いだったのですが、徐々に信用を得て赤坂での取引量が増えてくる。
やがて、「プリンスと取り引きしているなら、うちにも」と声がかかるようになり、次々と商機が広がっていったのだと思われます。
「思われます」と他人事のように書いていますが、その頃、わたしは中條さんを退職して職場を替えていたのです。
1983年東京ディズニーランドが開園する時にも中條さんが園内のレストランと契約したと、風の便りで聞いていました。中條さんが開店して19年目。このとき朗、14歳。まだ田沢湖町神代中学の生徒です。

朗も上京


兄夫婦が秋田の劇団を辞める決心をして東京へ出て来たのは、朗が16歳の時でした。まだ高校1年生在学中を気遣って、「卒業するまでは秋田で」と朗を残しての上京でした。
40歳過ぎの兄夫婦の就職を正社員として受け入れたのは社業が拡大する中條さんだったから出来たのかもしれません。その1年後に朗も秋田を出て東京へ。朗は中條さんで仕事をしながら、残りの勉学を修めるに至りました。

※ここで朗ファンにエピソード1
 

朗が田楽座から独立して和力を結成したころ、わたしは、その時はもう現役を退いていた秋田の劇団幹部だった人にお話をうかがったことがあります。
元幹部氏は「あの時(朗の上京時)、どうして劇団は朗を手放してしまったのか」という後悔をわたしに語ったのです。
注釈すれば、そのとき朗はまだ学生で舞台に立ったことはありません。
「栴檀は双葉より芳(かんば)し」という言葉があります。これは銘木というのは大きくなって急に銘木になるのではなく、芽が出たときからすでに銘木の片鱗をうかがわせているーーというような意味だと思われます。わたしはこの言葉を知るにつけて、幼いときの朗に思いをはせるのです。
朗は年少のころより、芳しい香りを周囲に漂わせていたと聞きます。わたしにとっては歳の離れた甥っ子であり、そして東京と秋田という遠隔地でもあって朗と接する機会はめったにありませんでした。そうであるにかかわらず、小さな朗のエピソードの数々はわたしの耳にも入ってきたのです。
幼い朗の立ち居振る舞いをみて、「将来、この劇団を背負って立つのはこの子だろう」と周囲の大人は見ていた節があった。それが朗の舞台人としての素養を見出してのものなのか、人を率いるリーダーの才覚を感じ取ったのか、わたしにはわかりません。
その多くの証言をわたしは知っていますが、ここでのテーマではないので今回はふれません。

 冒頭に登場する中條の2代目がいます。彼は朗より7歳上の従兄弟なのですが、この男も年少より大物ぶりを発揮してた逸材だったのです。「将来、この子は荒川(居住地)一番の大親分になるのではないか」と小学生のころより噂されていました。こちらがあまりに強烈だったので、遠く朗の噂を聞いても、「そうなんだ」くらいにしか思えなかったのは事実です。

 しかし、幼いころのことを知っている秋田の劇団関係者には朗の退団はショックだったのではないかと想像はできます。
そういういきさつの中で、この元幹部氏が「どうして朗を手放したのか」と嘆いたのは、それは彼が劇団員の気持ちを代表して吐露したものではないかとわたしには受けとめられたのです。
あの時、元幹部氏は「(朗が)劇団に残っていれば、今ごろは劇団のトップになっていた」とわたしに断言したのです。
ちなみに、彼がそう確信したのは、和力の名作「牡丹燈籠」をご覧になった後のことでした。幽霊に取り憑かれてやせ細る店子を心配した大家が、新三郎を訪ねる道行きのシーン。
「あの大家扮する朗の立ち姿、面構えが良い」と、あれはスターになる顔だ、とおっしゃっていたのが、この方のわたしへの遺言となったのです。(その3年後にご逝去されました)
しかし、あの時、仮に秋田に残ったとすれば、朗は中條さんとも田楽座とも出会うことなく、今もなかったことにもなります。人生の選択というのは不思議というしかありません。

 ※エピソード2

中條に就職した朗は新米(しんまい)ですから、仕事の合間にまかないに使う食材の買い出しを命ぜられたといいます。
その頃になると中條さんでは従業員が増えて、その人たちの食べるものを用意しなくてはならなくなっていたのでしょう。
ある時、いつも朗とコンビを組んで買い物に行く新人が、「朗と一緒に行くのはイヤだ!」と急に言い出した。
朗ファンとしては聞き捨てならない言葉ですね。
「どうして朗サンと一緒だとイヤなのさ」という声が聞こえてきそうです。
驚いた周囲が、朗と何があったのかその新人クンに聞き出したところ・・・
買い物を終えて支払いを済ますと、朗が目の前にある物をひょいと手に取って、「これ、おまけに良いですか」と言うのだそうだ。
その取り方のあまりに自然なことと、そのときの朗の愛らしいにっこり顔に負けて、お店の人は「え? い、いいですよ」と折れてしまう。それが店は違っても毎回、やるのだというのです。
新人クンは、そのときの朗はとても良い笑顔なんだと証言する。「だったら良いではないか」と思いますよね。でも相棒は違った。
「だから、それがイヤだ」というのです
何だかイヤがり方が複雑ですね。
わたしも東京人ですからこの新人クンの気持ちはとてもわかるような気がします。東京の人は自分から「おまけして」というのを本能的に恥ずかしいと思ってしまう傾向があるのです。彼はそばにいて恥ずかしかったのですね。
しかし、朗はいったいどんな極上な表情で「これ、いい?」とお店の人におねだりしたのでしょう。

(中條の社屋)

 


 中條さんがかつては跳ね返された戦前からの肉屋さんはどうなったのか? 
「どうやら、昔からのお肉屋さんはバブルの時に土地取引に手を出して失敗し、あらかた店を畳んでしまったようです」
中條さんは新興勢力ですから転がす土地もなかったし、投機するにもそれにあてる財力もなかったはずです。それがかえって幸いしたのかもしれません。
「結果、本業重視の中條さんが生き残って、気がつくと業界の上の方に押し出されてしまったらしい」
と、4年前の阿智村での立ち話。

身内のこととはいえ、10坪のお店から現在の中條さんまでになるのは昭和のサクセスストーリーに類することだと思われます。
さて、みなさんに注目していただきたいのは、中條さんの今があるのはプリンスホテルグループが出発点だということなのです。
中條さんにとってプリンスは恩義のある会社なのだということを頭に置いていただきたい。
もちろん今、現在は、全国各地のプリンスホテルと取り引きがあります。取り引きがあるということは、ただ品物を送って済ましているのではなく社長がすべてに訪問してご挨拶しているのです。それが恩義のあるグループへの礼だとは思うのです。
現社長は、かつて人としての魅力で事業を拡大してきた義兄の、その血をわけた子でもあります。しかも彼は噂通り荒川一の大親分になっていますから、お得意様のことはただ知っているだけの間柄ではなく、もっと色濃くお付き合いをしているにちがいありません。
 そうなると、冒頭に持ち出した
「(軽井沢プリンスホテルは)お得意先なので連絡しておきます」
という中條社長の言葉は、あらためて重みを持ってわれわれに迫ってくるのです。

さて、ようやく本題に戻って来ることができました。
 

軽井沢プリンスは国際会議を開催するほどの著名なホテルです。したがって調理場の取引業者も中條1社ということはあり得ません。複数の業者さんが入っているはずです。でも、赤坂プリンスから50年以上のお付き合いしていることを考えれば、中條が主取り引きの業者である可能性は大いにあることです。

6月14日(金)、G20の閣僚級のレセプションで朗が舞い、
その後の晩餐会で供されるメインデッシュが中條さんのお肉だとしたら、こんな素敵な巡り合わせはないと思うのです。

(令和元年6月16日)加藤木 雅義

中條さんの直営レストランのご案内
 http://vingt-neuf-29.com/
 
 
(株)中條HP
 http://www.nakajyo-meat.co.jp/
 
 


妻のひとり旅

2019年05月22日 | Weblog

 

 5月初めは「10連休」のさなかで、その上「改元」さわぎが重なり落ちつかない日々がつづいていた。

そんな喧騒が過ぎての翌々7日に、妻が大阪に行くこととなった。

妻は三人きょうだいの真ん中で、姉が熊本、弟が大阪に住んでいる。その弟の許にきょうだい三人が久しぶりに集まろうと相談がまとまったようなのだ。

大阪の弟宅に寝泊まりして、きょうだい水入らずの日々を何日か過ごすことが前にもしばしばあった。

とくにきょうだいの母上が弟宅で暮らしていた頃には、ひんぱんだったように思う。

戦後の貧しい中、姉と妻は看護師、弟は一級建築士の国家資格を得ることができたのは、学問好きなこのおかぁさんの存在が大きいのだろう。

わたしもわらび座在住時、営業の帰り道に寄らせてもらい、義母の読みさしの本を貰って帰ったものだ。

 

 今回の妻の大阪行きは、1年ぶりでもあろうか、わたしは行くことに大賛成した。

1年半ほど前から、足腰の不調を訴えはじめた妻は、気の合った友人たちとの旅行にも気乗りしなくなった。

最近では杖が手放せなくなり、その杖をよく忘れる。その度にわたしは捜索隊を仰せつかって、車で方々を駆けめぐる。

見方によっては、妻の行動半径は広いということにもなるだろう。

足腰の不調を訴えてでも、女性たちの会議・絵手紙・ヨガ教室・演劇鑑賞・音楽会などいろんなとこへ出かけている。

出かけてはいるが、このところ遠出はしていない。

今春2月、「信州昼神温泉郷」で息子の朗が座長として1ヶ月間の長丁場、昼夜2回の公演を行っていた「和来座」へ、わたしと共に訪れたのは、久方ぶりの遠出であった。

 

 遠出がおっくうになったのは、乗り換えなどに自信がなくなったのではないだろうか。

「姉も行くし、ひさしぶりに大阪へ行こうかな」と云ったとき、ひとりで出かけることに、杞憂し戸惑いを持つ、そんな気分を一掃するにはいい機会ではないか…と大賛成したのだ。

足腰の不調を訴える以前の妻は、「元気者の和枝さん」として何事にも積極的で、挑戦力旺盛な女性であった。

わらび座を辞め看護職に復帰したが、自分の持っている看護技術ではとうてい追いつけないと、40代半ばで看護学校へ入り直した。

10倍もの競争率だったがみごとに合格、バイトで学費を稼ぎながら、3年間の学業を修めたのだ。

看護師だけでは収まりきれず、「ケアマネージャ」の制度が出来るや、その資格を取得すべく猛勉強を始め、難関だった第一回目の資格をとったのは50代になってからだと思う。

仕事関係のみか、昔からカメラを使いこなし、パソコンが大衆化してくると興味を持つ気持ちの先進性もあった。

1998年、秋葉原へでかけ大枚30万円をはたき最新鋭のノートパソコンを購入、説明書を片手に初期設定に挑む。なかなか繋がらない電話をかけて説明を受け、仕事の休みの日にパソコン教室に通う。

カメラもパソコンも携帯電話も妻がやり始めて、しばらく経ってからわたしが後追いするのがわが家のパターンだったのだ。

 

 妻といっしょに歩くと、どちらかというとわたしが遅れがちになり、歩幅はわたしの方が広いのに「くやしいなぁ」と思っていたのは、はや過去の事になってしまった。

加齢とともに腰椎ヘルニアが、立ち上がり・座る時、歩行に影響し「痛さ」を伴う。

それで好きだった旅行も見送るようになり、内向きに暮らすようになってしまったのだ。

自分のもどかしい部分にこだわり、自己に自信がもてなくなりつつあった。

その最たるものは、「名前がなかなか思い出せない」と云うことだ。

わたしは「それは個性だから気にすることない」と云う。なぜならわたしは、「顔音痴」である。その人がその場で収まっていれば、「なになにさん」と認識できるが、ちがう所で会うとさっぱり分からず失礼をする。

今年の正月、ホームセンターへ行き、出会った女性がなにやら親しげな様子であった。わたしは気になりながら行きすぎ、帰ってからもなんとなく胸にたまっていた。

ある日、町会役員の集まりでその人を目撃した。同じ三役でありしばしば顔を合わせていたのに、ホームセンターで会うと分からない。

だから妻が名前を思い出せないのは、癖であり心配ないのだが妻はこだわる。

一念発起、久しぶりに一人旅をすれば、気分も晴れ自信がよみがえるにちがいない。

 

姉さんと新大阪駅で落ち合う時間を決め、それを元に列車を特定した妻のスケジュールを作成。

松戸駅に向かうバス時間や、松戸駅から東京駅までの乗り替えや到着時間をきめ細かに定めた。

 

妻からメールが入った。

……ただいま静岡県を電車は走っています。いまトンネルからぬけました。ずいぶん久方ぶりの汽車の旅です。田んぼはところどころ水がはってあります。明るい日射しです…

 

 


自動二輪レブルとのお別れ

2019年04月30日 | Weblog

 
 ホンダ・レブル250CCの愛車とお別れした。
1993年、わたしが54才で出会い80才を迎えた今日まで26年間、ながいつき合いであったというより、一心同体の時間を過ごした。
わたしが普通免許を取得したのは、わらび座に在籍していた30代半ばのことだ。
普通免許では、50CCの原付バイクには乗れる。
わらび座の公演予定地に入ると、ねぐらとバイクを現地の人に世話してもらい、お借りしたバイクに乗り営業に励んだ。
場合によっては、自動車を借りることもあったが、小回りのきくバイクが便利であった。
原付バイクの制限速度は30キロである。でも風を切っての走行は爽やかで、自動車にはない魅力がある。
「原付ではなく、もっと大きな『自動二輪』に乗りたいなぁ…」、そして高速道を疾駆したいという夢が育まれていく。

 わらび座を出て会社勤めを始めてほぼ10年が経ち、会社での営業車で都内を走りまわっていた。
渋滞に巻きこまれることはしょっちゅうで、その脇をバイクがスイスイ通り抜けていく。そのスイスイを眺めやりながら、「自動二輪に乗りたいなぁ」との夢止み難し、経済的な余裕もいくぶんできたので、54才の春先から教習所に通いはじめた。
「自動二輪・中型」(400CCまで)講習を受けるのは、ほとんど全てが20代前半の若ものたちである。
おっさんはわたしだけなのだ。指導教官は「あなたは、小型(250CCまで)にしなさい」と、執拗にすすめる。
わたしは「いや、中型でいきます」と、頑張りとおす。
教官は「では最初の課題に挑戦して…」と、400CCのバイクを横たえて「これを起こせますか」と見守る。
わたしは一発で引き起こしたものだから「小型にしなさい」とは云わなくなった。

 無事に自動二輪中型免許を取得し、ホンダ・レブルを手に入れた。
レブルを出迎えた頃、バイク販売店で企画するツーリングがときたまあり、高速道を若い人たちに混じってかなり遠くまで出かけたものだ。
妻を後ろに乗せ泊まりがけの旅行にも行った。何回でも行きたかったが、妻は一回こっきりで「もう止めた」…と音をあげてしまった。
なぜかと云うと、食材などを詰め込んだ重いリュックは、後部座席の妻が背負うしかない。それが重くて仰け反るし、おまけにわたしが往々にして道を間違える。そんなこんなで「バイクに同乗するのはいや」とのたまうのだ。
「後部座席に女の子を乗せて風を切って疾走する」、というわたしの夢は、はかなくも一回こっきりで終わりをつげた。

 当時わが家には自動車はなかった。
レブルが来る前は、もっぱら自転車が活躍した。
レブルが来てからは、和太鼓の練習には太鼓を背に負い、週に3回引き受けている新聞配達も、専らレブルが頼りになったのだ。
そんなこんなで、お別れする前日まで生涯現役を貫き、7万キロをこえても軽快なエンジン音は変わらなかった。
バイク販売店でも、その後世話になった修理屋でも、「いいエンジンにあたったね」とお褒めの言葉をもらう。


 週に3回の新聞配達はいまでもやっており、雨の日には軽自動車で出かけるが、ほとんどはレブルの出番になる。
これからもいつまでもレブルと共にと思っていたのだが、別れる決心をせざるを得なくなった。
レブルはわが家の庭の駐車スペースに収め、軽自動車は「月極駐車場」を借りていた。
80才をむかえわたしは、介護職員として都内のディサービスに勤めている。
朝と夕に利用者さんを車で送迎し、昼間はゲームやお話し相手としてお年寄りの面倒をみているのだ。
施設には「80才になっての車での送迎は、もしなんらかの事故があれば施設に迷惑をかけるので、わたしの誕生月まえには身を退きたい」と申し入れてある。
少ない年金なので、週に2回のバイト料は生活に余裕を与えてくれたが、それがなくなるとかなり金銭事情は切迫するのだ。
扶養家族としての猫4匹の食糧費は今の水準を維持したいし、「どこかに倹約するところはないか」と、妻と共にいろいろ探った。
軽自動車は車検など維持費がかかり切り捨てたいのだが、足腰の痛みがこのところ強くなってきた妻の通院には必要である。
車を家の駐車スペースに納めれば月々の「駐車料」が浮く。するとレブルの置き場所がない。


 朗が来た折、そんな話をしたら「それならレブルを貰おうか」となった。
このレブルは、サドルや後部座席、その他こまごました所を朗が修理・補強をしてくれていた縁もある。
わたしも分身みたいに大事なレブルが、自動2輪に詳しい朗のもとに引き取られ、余生を長野で過ごせることに大きな安心を得、安堵している次第なのだ。

「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」さんからのお便り…

2019年03月30日 | Weblog


 妻の病院勤務時代の友人を訪ねた帰り、「そうだ、結花(ゆい)さんはこの近くだ。寄って行こうか」と、久しぶりに寄らせてもらったのは昨年の秋になる。
松戸市下矢切の「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」は、大通りをはいって閑静な住宅地の角地に建つ。

「きょう来てもらってよかった。きょうは月一回の『うたごえ喫茶』の日でお店を開けたけど、それ以外は閉めている」と、オーナーのYさんが迎えてくれた。
昨年の初春(2018年)、「恒例・蔵のギャラリー・結花(ゆい)和力公演」が終了した際、Yさんは「お父さん(ご自分の伴侶)の具合が定かでなくなり、世話に手を取られるようになってきた。ギャラリーの維持ができなくなるかも知れない」、と云っていたので2019年の和力公演は出来なくなるかなぁ…との予感はあった。

 Yさんのご伴侶は、日本の構造建築家では名だたる存在で、全国の心ある大工・棟梁から慕われているMさんである。
講演依頼も途切れなく、全国をとびまわっていた。
ある頃、講演会で話す中身がとりとめない…と同行したYさんは感じたそうだ。しかし次の講演地では全うな話をする。なんだろう、どうしたのだろうと、Yさんはとまどったそうだ。
Mさんは都心にある事務所へ、朝はやくに行くのが楽しい日課で、Yさんはなんの心配もなく送り・迎えしていた。
しかし、あるときいくら待っても帰って来ない。携帯に電話を入れ「どうしたの」と聞くと、「電車に乗ってどこで降りるのか分からない」との答えだ。
Yさんは、「そこでじっとしていてね」と念を押し、娘さんの助けをかりて迎えに行ってもらったが、「待っていて」と云った場所にはいない。かなりの時間をかけてようやく見つけることができた。
主治医の判断で「なるべく今までどおりの生活を」するため、講演活動は止めたが事務所通いはつづけることにした。
しかし事務所ちかくで転んで救急搬送、その後も駅の階段から落ちての救急搬送などがあり、Yさんは「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」を閉めて介護に専念されるよう決断されたようだ。

 
 思い起こせば「蔵のギャラリー・結花(ゆい)・文化サロン」の企画として、和力がお世話になったのは、2006年から2018年までの12年間にわたる。めでたい年明けの企画として、初春公演を毎年開催していただいた。
きっかけになったのは、2005年の和力松戸公演である。チラシをごらんになったYさんの娘さんが「保育園に通う息子が地元のお囃子をやっている。ぜひ息子に見せたいのでチケットを」と電話があった。
わたしはバイクに跨りチケットを届けに参上。信号機下に「下矢切」と表示があり、「矢切りの渡し→」との案内板がついている。そこを左折し住宅地にはいると白壁の蔵が目に飛びこんできた。
格子戸を開けると板張りの床、上をみると厚みのある大梁。
「この梁は樹齢800年のケヤキで長さは7メートルをこします。この1階部分を喫茶店として、松材の2階はギャラリーとして、地域の文化発信の場としてつかっています」とのことだ。
所沢にある「蔵通り」が、市の再開発事業で40棟ほどあった蔵が潰されることになり、構造建築家のMさんは「歴史的建造物を取り壊すのは忍びない」と、その一棟を全財産を投げ打って購入、多くの職人・棟梁・学者の協力を得て、この地に移築したのだそうだ。
2階のギャラリーは、天井が太い松材で縦横に張り巡らされている。床材はもちろん分厚い板敷きである。
わたしは「日本の伝統家屋のこの空間で『和力』をやったら…」とふと思いご相談した。
そして翌2006年から「蔵のギャラリー・結花(ゆい)・文化サロン」の例会として主催していただくようになったのだ。
「森のホール」や「市民会館」で和力公演が実施されると、その前日か翌日にかならず「蔵のギャラリー・結花(ゆい)公演」が行われた。
同じ市内での公演であるが、「結花・文化サロン」の会員に働きかけての公演であるので、安定して運営されたのである。

 Yさんからお便りがあった。
……今は安定して静かな日々を過ごしています。和力には、結花として長年華やいだ時代を築いていただきました。ありがとうございました……。









「和来座」(わらいざ)公演へ

2019年02月24日 | Weblog


 信州阿智村の昼神温泉郷で2月1日から28日まで「和来座」公演が行われている。
「和力」を主宰する加藤木 朗が、企画・構成・演出を実行委員会から委嘱され、自らも毎日出演し、座長として午前・午後の舞台を務めるという。
それを聞いてわたしたち夫婦は、「ぜひ、行きたいね……」と淡く思った。

 なにゆえその思いは淡いのか。
わが家には家猫二匹、縁側で暮らす外猫が二匹いる。その猫たちが留守番を快く引き受けてくれるだろうか……との心配があるのだ。
家猫は、朝早くに布団のまわりを歩きまわり、「はやく起きて…」とサインをおくる。
どんなに夜更けに寝ても、「休日だからゆっくり寝ていたい」と思っても、だいたい朝の5時半にはやって来る。
朝ごはんのさいそくなのだ。
階下に降り縁側の障子戸を開けると、外猫が皿の前に鎮座し食事を待っている。
わたしたちの一日は、猫たちの食事の世話から始まる。
猫たちは、食べおわるとしばし舌舐めずりをし、おもむろに毛づくろい、その後は日光浴、うたた寝など一日をゆったりと過ごす。
わたしたちが留守にしても、それぞれのペースで生活するだろうから、その点に心配はないが問題は食事である。
この心配があるから、猫たちと暮らし始めて5年ほど、二人揃っての泊まりがけ旅行には行けてない。
妻は友人も多く旅行好きなので、一年に数回はどこかに出かけ、わたしも町会の「役員旅行」などで、家を一晩空けることはある。
しかしどちらかが家に残るから、猫たちへの世話の心配はなかった。

「和来座」公演にはどうしても行ってみたい、「どうしよう、どうにかならないか」と二人して頭をしぼる。
ものの本を読むと、「犬は出した食事をすべて食べてしまうが、猫はすべてを食べることはなく、腹八分目でやめる。留守にする時は分けて数ヶ所に置いておけば大丈夫」との記述がある。
それで家猫の食事は、3ヶ所にたっぷり置けば足りるだろうと見当をつけた。
外猫への対応は猫を飼っている知人に、朝と夕方に食料を補給してくれるようお願いしたら、快く引き受けてくれ出かける算段が整えられた。

「善は急げ」と、2月6日新宿9時5分発の高速バスに乗り信州へ向かう。
飯田市のバス停には午後1時ちょい過ぎに着き、陽子さん(朗伴侶)が迎えてくれ午後2時半開演の「和来座」公演に間に合った。


 
公演プログラム。
第一部 ○獅子舞・独楽など ○落語 ○ゲスト演奏(津軽三味線・和太鼓・篠笛を週替わりで) ○お囃子・神楽 
第二部 ○幕開けの芸 ○落語 ○音舞語り ○アンコール
大道芸・伝統芸能・落語・和楽器演奏・それらを統合した「音舞語り」と、多彩な内容であるうえ、午前の部と午後の部は演目の差し替えがある。
噺家さんと和楽器演奏者は、週替わりなのでこれまた楽しみな企画なのだ。

 わたしたちが参加した6日午後の部は、温泉宿に泊まるお客さんが参加されている雰囲気だ。幕開けの「こまの芸」では白髪のおじさんたち二人が名乗りをあげ軽いジョークをとばし客席をわかせる。
獅子舞では「わおー」との嘆声。落語・和太鼓演奏・だんじり囃子で第一部がおわり、鶏舞で第二部の幕開けとなる。ひきつづいて落語、そして「音舞語り」に移る。「昼神温泉だけの創作音楽劇」とプログラムに銘打っているので、「なにかな」と楽しみにしていた演目である。
「阿智村といえば、『星空日本一』の地としていまでは知られるようになりましたが、この星空は、阿智村をつらぬいて流れる清流、阿智川に住んでいた龍神『阿智姫』の鱗が飛び散り輝く星になったのです」と、村人に扮する朗の語りから始まる。
龍神阿智姫と暗闇大王が、しのぎを削っての争闘の末、3,333枚の自らの鱗を空に散りばめ阿智姫が勝利を得る。
物語がおわると、少しの沈黙のあと大きな拍手がおこった。

 宿泊先の「鶴巻荘」で、出演者のみなさんと夕食を共にし、ゆったりと温泉に浸かり翌7日の朝を迎える。
10時開演に合わせて早めに会場へ行く。会場前にはバスが停まりおおぜいの方が降りてくる。開場を待つ列がながく伸びる。女性が多い。
開演したら爆笑に次ぐ爆笑、大賑わいであった。



 終演そこそこわたしたちは、帰りの高速バスに乗るため、宿がだしてくれた車で飯田へいそぐ。
午後1時16分発の新宿行きに乗り、冬枯れの山々をみながら帰路についた。
この車中、わたしが思ったことはふたつある。
ひとつは、地元の方々のご推挙で、朗が「昼神温泉・冬の陣」を任されたこと。
自分が生き抜いている地で、4週間の大きな企画を一任されたことは大きな財産なのであろう。
ふたつには、よき共演者に恵まれていること。
芸の上で切磋琢磨する共演者が、快く参集してくれる土壌を築いているのもこれまた得難い財産であろう。

 充実した気分で家に帰ると、猫たちは跳びあがり跳ねまわって迎えてくれた。









晟弥の舞台を観る

2019年01月31日 | Weblog


 1月26日(土)、千葉県野田市の「欅のホール(小ホール)」で「和力」公演が催された。
野田市公民館などが主催してくださり、4年連続の新春公演となる。
野田市は、わたしたちが住む松戸市から車でほぼ1時間の距離であるから、野田市公演の前日には息子の朗がわが家に泊まる。
「今年は晟弥も泊めて欲しい」との予告が朗からあり、わたしたちは「晟弥の舞台が観られるかも……」と期待した。
 わたしたちの一人息子朗は4人のこどもに恵まれ、したがってわたしたちの孫は4人となる。
晟弥は三番目の孫で昨春、高校を卒業。ほどなく父親に弟子入りして芸の修行を始めたと聞いた。
いつかは晟弥の舞台姿を観られるだろうと期待していたが、案外早くその機会がやってきたのは嬉しいかぎりだ。

思い起こせば晟弥の「初舞台」は、いまから12年ほど前に観ている。
遠い記憶をたどってこのブログを探してみたら、「晟弥の初舞台」(2007年4月29日)と題する記述があった。
その要旨を書きぬく。
「晟弥は昨年の秋から『茂山千三郎長野社中』に入れていただいて、狂言の指導を受けはじめた。
小学2年生になったこの4月、阿智村園原の能楽堂で初舞台を踏み、晟弥の兄・磊也(中3)、と姉・慧(中1)も同時に「園原能楽堂」で狂言を演じるというので、わたしと妻は楽しみに訪れ、朗と晟弥が演じる狂言「しびり」が行われている場に間に合った。
晟弥は地面に座ってなにやら物申している。まだ発声訓練も十分でないせいか聞こえづらい。どうやら主人に用事を言いつけられた太郎冠者で「足がしびれて動くのは難儀である」と云っているようだ。
 普段の生活では、晟弥は次男坊だから「物申す」どころか、いつも「物申されて」いる。
「晟弥、うるさいから少し静かにしろ」と、磊也にしょっちゅう云われ、「本を読みながらものを食べるな」と、慧もことある毎に注意している。「ウン」と云ってその場は収まるが、すぐまた騒ぎはじめる。
いつも「物申される」立場だから、「物申す」役はさぞかし気持ちよかったろうと、わたしはついつい思った。
だが晟弥の健気な様子が客席をほんのり包んでいた。
狂言「蟹山伏」は、磊也・慧が山伏で、朗が蟹であった。力自慢の磊也の役、知恵のまわる慧の役、その掛け合いが愉快であった。
晟弥の初舞台は、歴史ある園原の地で、義経ゆかりの桜の下でおこなわれ、名古屋からお出でくださった方々も、舞台をニコニコとご覧下さっていた。
だから、晟弥の「初舞台」を瞼に刻んだ生き証人は、地元とわたしたちだけではないのだ。
晟弥はどれほど分かっているか知れないが、「源氏物語」や「枕草子」、さらには「今昔物語」などに「園原」の里は詠われ語られている。千年以上も前の歴史に名が残る「園原」で、初舞台が踏めたのはたいしたことなのである」……。

 わたしは、この文章の題名を当初「晟弥の初舞台」としていた。しかしすでに初舞台は12年前にさかのぼるのだ。
野田市公演では、第一部の締め「鶏舞」で晟弥が舞った。
舞台上手から鳥舞の衣装に身をかためた晟弥が登場し、朗の舞いに合流する。
その立ち現れ方は、上下左右にぶれることなく滑らかに舞台上をすすんでいく。まるで清流の上をわたるような清らかさがあり、小気味がよかった。
わたしはこの「出」を観て、幼少から修行した狂言の所作が、身についているのではないかと愚考した次第だ。扇子の使い方も危なげなく安心して観ることができた。
次の出番は、「だんじり」の小太鼓であった。
これまた、幼い頃からの父の手ほどきが無理なく身についている余裕があるように思えた。

 乗り越えなければならない峠はたくさんあるにしても、わかい力がこれから多くのものを吸収し、葉を茂らせ幹太く成長するだろうことが期待できるうれしい舞台姿を観ることができた年明けだった。


2018・年の瀬

2018年12月26日 | Weblog


 師走をむかえると、年賀状にどんな挨拶を記そうか……思いまどう。
250通ちかくにのぼる年賀状には、新年の挨拶だけでなくわたしたちの消息を記すことにしている。

2年前の年賀状は
 旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
わたしたちは、「ディサービス」で週に一・二回働き、明るさをいただくと共に、現役で働けることの喜びを感じています。
 目を転じますと、「年金」・「カジノ」など弱者を食い物にする悪法がまかり通り、憲法を大事にする国づくりがいまこそ大事だと念じます。

 息子の加藤木朗が主宰する「和力」は、みなさまに支えられ芸能活動の場をひろげております。
新春の「和力公演」は、○1月9日(月・祝)午後2時開演 野田市野田公民館 ○1月22日(日)刈谷市文化センター ○2月18日(土)横浜市ひまわりの郷ホール  ○2月19日(日)松戸市蔵のギャラリー・結花(ゆい)などで開催します。

本年もよろしくお願いいたします。
                                2017年 元旦

昨年の年賀状は
 旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
わたしたちは「寄る年波に勝てず」の譬え通り、朝の起きぬけや座って立つ時「よっこらしょ」の掛け声と、なにかにすがって立ちあがるのが日常になりました。
同居する猫二匹はしなやかで敏捷、「あんな時代もあったなぁ…」と往時を懐かしんでいます。
こんな中でも照公は週に二回介護職員として、和枝は週に一回看護師として、東京・谷中にある「ディサービス」に勤務し、なんとか身過ぎ世過ぎをしているところです。
 息子の加藤木朗が主宰する「和力」は、近年「立川志の輔独演会」へのゲストに招かれたり、みなさまのご支援で芸能活動の場をひろげております。
みなさまのお近くにお伺いする折、ご覧いただければ幸いです。

本年もよろしくお願いいたします。
                                2018年元旦


そして来春の年賀状の「案」を書きはじめた。
 照公は今春4月、和枝は翌年5月に80才となります。
和枝は昨年春、足腰の故障で職をはなれており、照公は80才を機に今春3月末で退職することにしました。
年金額が少ないのでパート収入がなくなれば、生活を切り詰めなくではなりません。
とくにそのしわ寄せは、同居する娘猫2匹と、縁側で暮らす訪問猫2匹を直撃するでしょう。
この猫たちの食事は、長い飼育歴のなかでレベルアップしてきました。
食料の買い出しに行き、「たまにはご馳走してあげよう」と、気まぐれにグレードアップしたものを与えることがあります。
すると連中は、グレードアップした少し高いものを要求して、今まで喜んで食べていたものを見向きもしなくなるのです。
「収入が減ったから前通りにするよ」と諭しても、聞く耳もたないだろうと思案しているところです。

 以上の「案」を提出したが、妻が「猫たちの比重が高すぎる」と却下。
推敲に推敲を重ねて次のようになった。

 
2019年の年賀状は
 旧年中はお世話になり、ありがとうございました。
照公は送迎や介護職員として週二回ディサービスに通っていましたが、4月で80才となり3月末をもって現役を退きます。
思えば小学6年生で新聞配達デビュー、これまで元気に働けたこと幸いでした。
和枝は中学卒業と同時に看護学校で学び病院勤務、昨年春まで現役でした。足腰の不調で勤務を辞めましたが、やはり長く働くことができました。
二人とも年金だけの生活となり、身過ぎ世過ぎがきつくなります。
今春にはどんな夢が叶うでしょうか。
「住みにくい世を住みやすく」、少しでもお役にたてる力を注げる年にしたいと願っています。
本年もよろしくお願いいたします。
                                  2019年  元旦


 来春の年賀状にはどんなことを記載できるだろうか。


ジパング倶楽部を退会した

2018年11月10日 | Weblog


 ジパング倶楽部に入会してどのくらいになるだろう。
男性は65才から入会でき、JRを利用すると乗車券が30%オフ、特急料金も新幹線(のぞみは適用されない)も30%割り引かれる。
わたしは会員になり、加藤木朗が主宰する「和力」の舞台を観に、東北・北陸・東海・関西・九州に出向きかなり重宝して使った。
年会費3,500円徴集されるが、一回の遠出で元を取り返せる。

 しかし昨年は一回も使うことなく過ぎた。
遠出する機会がなくなったのだ。
「和力」のHPでスケジュールを確認、妻とともに楽しみに出かけていたが、妻が足腰の不調に見舞われるようになり、一人で出かけるのは味気ない……とわたしも出不精になり、毎年通っていた名古屋での公演もご無沙汰してしまう。
また、数年前まで「元わらび座員の集い」が一年に一回、処々方々で開催されていたから、列車に乗って参加する機会があったが、それも高齢化で開催されなくなった。

 遠出ができなくなった理由のもう一つは、猫の存在もある。
「動物愛護センター」でもらい受けた娘猫2匹、娘猫がすこし大きくなったら、縁側に居着いてしまったおじさん猫とその愛人猫がいる。
春まで妻もバイトで家を空ける日があり、わたしのバイト日と重なると夕方まで家には誰もいなくなる。
夕方、家への路地に入ると、訪問猫が駆けより家まで先導し、玄関を開けると家猫が「どこに行っていたんだニャ」とばかりに出迎える。
さっそく食事をあてがうと「カリカリ・ボリボリ」美味しそうに平らげるのだ。
安心しきったそんな姿を見ていると、とても長くは留守にできないなぁ…と思ってしまう。
それでもあるとき、食事の世話を知人に頼んで一泊旅行をしたこともある。なんの問題もなかったが、旅先で「どうしているだろう」と二人して落ち着かない。

 信州の朗宅へ行って孫たちや、5匹の猫、新たに家族入りした「秋田犬」にも会いたいとの思いは募り、地元での公演があるからその機に乗じて「行こうか」と話にはなるのだがなかなか踏み出せず、しばらくお邪魔できないている。

 そんなこんなで、昨年は会費だけ払って会員券を使わなかった。
今年もぜんぜん使っていない。
11月末が更新日なので、はやく退会を決めないと今年の会費が引き落とされる。
少ない年金をバイトで補っている生活では、3,500円の会費は大きな出費なのだ。
あわてて11月の初めに退会手続きを終えた。




(株)中條 創業60周年記念の宴

2018年10月29日 | Weblog


 10月8日、(株)中條が、創業の地である荒川区日暮里で60周年祝賀会を催された。
わたしたち夫婦もお招きの栄を賜り、日暮里駅直近のホテルへ向かう。
バス・電車と立ちづめだったものだから、ホテルロビーで一息入れていると、(株)中條の社員とおぼしき人たちが集まってくる。
なぜ「おぼしき」なのか……「やぁ、ご無沙汰しています」、「元気そうですね」と声をかけてくれる旧知の社員の他に、多くの男女が宴会場まえで開場準備を始めて、見知らぬ顔もたくさんいるのだ。
わたしが社員としてお世話になり退職したのが65才であったから、すでに15年にちかい歳月が過ぎている。
見知らぬわかい男女がたくさんいるのは、社業が発展しているなによりの証拠なのであろう。

 中條勉社長夫妻が到着されたので「おめでとうございます」とご挨拶をした。
中條社長は「記念式典のなかで『功労者表彰』があり、その折に一言お願いします」と云われる。
「えっ、わたしが会社の功労者…」と内心びっくりし、「はい」と応えたものの自分が功労者に値するのか考えてしまう。
時間になり案内された席には、わたしたちのきょうだいとその縁者が占めている。
わたしは5人きょうだいの長男である。
一才年下の妹・中條祥乃は、創業者中條孝さんの連れ合いだ。車いすで到着、しばらく会っていなかったがすこぶる元気そうだ。
次妹の恵子は、残念ながらこの春急逝し、娘のHさんが遺影を掲げて参加。三番目の妹いみ子と、末弟の雅義にも久方ぶりに会えた。

「創業者中條孝会長がこの夏、亡くなりました。創業60年を本人も楽しみにしていましたが『俺に万一の事があっても式典はやるように』とつよく云われており、開催の運びにしました」と、中條勉社長の挨拶。
演壇右手には、祭りの法被を着た遺影が微笑んでいる。
来賓2社のご挨拶は、「地域に根ざし、顧客の求めに添い、二代目・三代目と確実に引きつがれ、力づよく発展している会社」と共通していた。
会社の歴史がスライドで辿られ、「あー、あんなこともこんな事もあったなぁ…」と懐かしく思い起こす。
中に創業当日、チンドン屋が練り歩く写真があった。
これはわたしも鮮明に覚えている。
わたしは操業日から9ヶ月、開店したての「中條商店」をお手伝いしたのだ。

 開店メンバーは、店主の中條孝さん、連れ合い祥乃さん、小売担当のkさん、そしてわたしの4人であった。
「中條商店開店」を賑やかにチンドン屋が町内を練り歩く。
店主はそれを横目にバイクに跨り、得意先への配達に出かける。開店初日といえどもレストラン・中華店への商品の配達は欠かせないのだ。
仕入先の食肉卸問屋から男女2人が応援にきてくれ、注文に応じてコロッケやメンチ、ポテトフライ・アジフライ・カキフライ・イカフライ・などを手際よく揚げていく。わたしはそれを包み客に渡す役割である。
kさんと祥乃さんは肉の販売で大忙しだった。

 日曜日だけ休みの「中條商店」には、お昼時になると総菜をもとめるお客、夕暮れには「豚コマ100g」、「牛小間300g」、など多数のお客さんで賑わう。
わたしはコロッケやメンチ・豚カツなどを揚げる係だ。
朝の仕込み時には、蒸かしたジャガイモの皮をむき、それを挽肉機へかけほぐし、挽肉を炒めジャガイモに混ぜ、塩コショウして一つひとつ型抜きをする。
Kさんはスライサーで肉の加工をし、祥乃さんはポテトサラダ・マカロニサラダなどの総菜品をつくるのに手間をかける。
店主の孝さんは豚の骨を抜いて、肩・腿・ロース・バラ・ヒレに区分けする作業に汗をながし、バイクの後ろに括りつけた竹籠にいれ早々と出発だ。
早朝から店が閉まる8時ごろまでいそがしい商いの日々がつづく。



 わたしはそんなお手伝いをして9ヶ月後に、予定していたわらび座に入座するのに秋田に向かった。
わたしの後釜には次妹の恵子が入り、いみ子、雅義ときょうだい全部が、学校を卒業すると「中條商店」でお世話になった。
それで今回の「創業60周年」に、5人きょうだい全員が「功労者表彰」の栄に与ったのだろう。



 わたしは二代目社長からねぎらいを受ける中條祥乃さんを見ながら、さまざまなことを思い起こす。
現社長の勉さんは開店時には、まだヨチヨチ歩きの幼子であった。
わたしの父が勉さんの子守をしながら、コロッケの型抜きをしていた姿を思い出す。
なにせ勉さんは活発な子であったから、父は勉さんの腰に紐をくくり、その端を握っての子守である。
年老いた身では幼子の動きに付いていけないので、編み出した父の戦法であった。
わたしの母は賄い方として、掃除・洗濯・食事の世話で大忙しだ。
開店時の様子をまざまざと思い出す。

 わたしはわらび座で23年間過ごし、45才になって母の許に帰り、株式会社中條で再び働かせてもらうようになった。
この23年間に「中條商店」は大きく発展し、社員は20人ほどになり会社組織になっていた。
いま「功労者表彰」を受けている祥乃さんの存在があったればこそ、中條商店は会社へと発展できたのだ…と車いすの祥乃さんをみながら思う。
5人のこどもの育児を全うしながら、祥乃さんの仕事は多面にわたっていた。
創業者の孝さんが担う「卸」部門は、小売りの店が閉じた後に忙しくなる。
祥乃さんは、孝さんが「御用聞き」に出かけて受けた注文、電話での依頼をパーツごとに仕分け整理する。
明日は豚ロースが、豚モモが、豚骨あるいは、牛・鶏がどれほど出荷するか、それを得意先ごと仕訳する。
孝さんがそれをもとに品ぞろえをし、早朝に得意先ごとに計量・納品伝票を作成、バイクに商品を積み中條さんが走りだす。
「卸」の孝さんを送り出すと、小売りの準備にはいる。お客さんが立て込んで来ると対面販売で大忙しだ。
夕刻お客さんが途絶え閉店してからも仕事がある。
ホテル・レストラン・料理店からの発注が入るのは、多くは相手方の仕事が済んでからであり、午後10時過ぎになる。
電話をかけて注文を取るが、追加注文はそれ以後もはいってくる。
未だ「留守番電話」機能がなかったから、祥乃さんは枕元に電話機をおいて眠気覚ましの缶コーヒーを飲みながら、電話の対応をしていた。
その上、経理事務の仕事もある。珠算2級の腕前を活かして、日々の納品伝票だけではなく帳簿付けから請求書発行まで一手にこなしていたのだ。
自分のもてる力をすべて出し切って、大黒柱の孝さんを支えてきた。

 創業60年を経て(株)中條は、社員70名余に発展している。


勝負ごと・賭けごと

2018年09月28日 | Weblog


 以前のブログで、小学6年になって新聞配達を始めて、中学3年間を「新聞少年」で過ごし、高校そして劇団時代のバイトの変遷についてふれた。
数多くの仕事をかけめぐったから思い出せないものがあったが、ふたつのバイト先をふと思い出した。
ひとつは診療所で働いたことである。夜間診療の受け付け業務だった。診療所であったから、医師と看護婦、そして窓口業務の3人の体制であり、わたしは窓口業務の任についた。
患者さんが来たらカルテを探しだし、診察が終わったら会計をする。薬は「点数表」をひっくり返し金額を確認しながら請求金額を算出する。かなりたいへんな作業だった思い出がある。

 いま一つは、新橋駅前のパチンコ店へ行ったことである。
そのころのパチンコは、左手で玉を一つづつ穴に入れ、右手の親指でハンドルを弾く方式であった。
台の裏には通路があり、従業員が玉の補給をやっていた。
バイトのわれわれは、開店1時間前から店頭にならび、ドアが開くと同時に「指定された番号」のパチンコ台に取りつく。
バイトがはりつく台は、仕掛けは分からないが、「釘」などがあまく設定されているのだろう「大当たり台」なのである。
朝から夕方までひたすらパチンコ玉をはじく。
「大当たり台」なのだから、パチンコ玉がチューリップにスイスイ入って、玉が山のように溜まり客の目を引き、ますますのめり込ませようとの店側の作戦があるのだろう。
わたしは生来の不器用者だから、「大当たり台」で玉を弾いてもチューリップにはなかなか入らない。
持ち球が残り少なくなると、玉の補給をしているパチンコ台裏側の従業員が、玉をいっぱい出してくれる。
それがまた無くなりそうになるとまたまた補給してくれ、あてがわれた時間「大当たり台」を守りきる。
なんかバカらしくなって2日ほど行って辞めた。
 
 わたしは勝負ごとにはめっきり弱い。
幼いころの「メンコ」や「ビー玉」などの賭けごとも負けつづけていたし、長じての「宝くじ」もついていなかった。
勤め始めてからは、給料をもらうと一攫千金を夢見て20枚ほどの宝くじを買っていた。
一等賞金が5千万円のジャンボ宝くじだったから、30年前ほどのことである。新聞に載った宝くじ番号を確かめていたら、なんと番号がすべて合う。
「一等に当たった」と頭の中は真っ白け。「家のローンを支払って、鰻重を食って…それでもお釣りがくるぞ」……。
そしてよくよく見たら、番号は完全に一致していたが「組」ちがいであり、賞金金額は5万円に目減りしていた。

 将棋は見様見真似で覚えた。
これが少しばかり役立っている。
いま勤務している「ディサービス」で、利用者さんの求めに応じて将棋の相手をすることができる。
わたしの駒のすすめかたに狂いはない。しかし先の読めないわたしだから、相手が打ってきた駒の筋が読めず、無闇やたら相手の陣に切りこもうとして大切な駒が豚死してしまう。
どんな相手であってもコテンパンに負けるのだが、なんとかお付き合いはできている。

 勝負ごとには弱いとの自覚があるが、一時のめり込んだのはパチンコである。
バイトでやった頃は、全くの素人であり以後出入りしたことはなかった。
わらび座を辞め勤めはじめた40代半ば、勤め帰りがけになんとはなしに入ったら、「大当たり」になって玉がどんどん溜まる。
それに味を占め、仕事のかえりがけ駅前のパチンコ屋に足が向く。休みの日にも打ちに行く始末だ。
「大当たり」で稼いだ分がまたたく間に無くなる。そして手元のお金をつぎ込む。それも無くなると「元を取り戻さねば」……とますます深みにはまる。
そんな熱気が1年以上つづいただろうか。
「まだ、住宅ローンがたくさん残っているのに……」と、負けがつづいたある日正気にかえり、以後は行くことはなくなった。

 家の近くには「松戸競輪場」があるが入ったことがない。
職場では競馬熱が盛んで、だれかが場外馬券場へ出向いて馬券を買って来て、一喜一憂している風景は毎週のことであった。
だが、元手を失う怖さをパチンコで知り、あんがい「のめり込む」弱さが自分にあることが分かったものだから、競輪・競馬に手を染めることなく過ごせた。

 いま心ときめくのは、狭い菜園での豊凶である。
種まきの時期を外すと白菜は巻かないし、玉ネギ・エンドウ豆類は育たない。
昨年は玉ネギで失敗し、今年は白菜と大根が台風の強い風に運ばれた海水の塩分で、葉がとろけてしまった。
葉がとろけてしまった原因が分からず「なんでだろう」と不思議がっていたら、隣の畑のおじさんが「塩害でうちの玉ネギの苗が枯れてしまった」と嘆いていたのを聞いて、「ああ、うちのもそうだな」と納得がいったのだ。
種蒔きには遅いから白菜の苗を求めてあちこちを訪ね歩いた。ようやく見つけた苗は、素人目でも売れ残りの育ち過ぎだったが、漬ける楽しみを待つ妻を思って畑に植え付けた。
これがうまく根付き、おおきな白菜が採れるかどうか、胸を高鳴らせている。