6月も末、年の前半がはや過ぎ去る。
昨年の前半は、わたしの肺がん摘出手術があり、なんとなくあわただしかった。
一年に一度、市の健康診査をまじめに受けていたので、「早期発見」が幸いし術後は2ヶ月ごとだった経過観察が、いまでは4ヶ月ごとになっている。
80才を越え、身体にメスが入る大病をはじめて患ったが、以前の生活を取りもどせたことがありがたい。
一歳年下の妻との二人暮らし、「老々介護」が世間で取り沙汰されるなか、一応は共に達者で過ごせているのも喜びである。
更には、テレビでさかんに宣伝されるサプリメントの類には無縁で、かかりつけ医で処方される薬だけで収まっている。
ただ友人・知人の訃報が年を経るごとに加速するのが寂しいかぎりだ。
報せを受け「住所録」から抹消する氏名が、60代では年に数件しかなかった。70代に入ってからは後半になるほど頻繁になってくる。
80代になってからは、数ヶ月をおかず報せがとどくようになったと感じる。
学校時代、勤め人時代、地域にと友人は多いが、群を抜くのは「わらび座」時代の面々である。
6月16日、午後9時すぎ家の固定電話が鳴った。
はてなんだろう、もしかして約束事をすっぽかしたかな…一抹の不安を感じながら受話器をとる。
「連絡入っているかもしれないけど」と、元わらび座員Dちゃんの懐かしい声。
「え、なんのこと」。
「きのう15日、アラさんが亡くなったそうだ」。
「えっ、知らなかった」……。
アラさんこと荒川洋一さんは、わらび座での大先達である。享年88才とのことだ。
つい先だって4月には、マルちゃんこと丸山邦子さんが87才で、オノちゃんこと小野光桜さんが70代半ばで亡くなったばかりだ。
共にわたしのわらび座時代の先輩である。
わたしは58年前、24才でわらび座に入った。45才で離れるまでの21年間、濃密な青春時代を過ごすことができた。
高校を卒業し東京で演劇生活をおくった後、秋田県に本拠を置くわらび座に入座、1963年のことだ。
座員は100名ほど、稽古場と食堂兼集会場を核に、粗末な住居棟が狭い敷地に点在、食事は朝・昼・晩、三食とも食堂で供され、食と住が完全に保障された「共同生活」であった。
月末には少額ながら「現金支給」が個々人に手渡される。
「こんな劇団があるんだ」と、わたしはびっくりした。
わたしの東京での演劇活動では、「劇団維持費」を月々収め、公演にあたっては「チケットの割り当て」が劇団員の肩に重くのしかかる。
そのうえ生活費も稼がなくてはならず、アルバイトに明け暮れ、身銭をきって劇団を成り立たせていたのだ。
わらび座では本業の公演だけで運営資金を生み出し、座員の生活を保障していることがわたしの驚きであった。
公演を成り立たせる基は「営業」であり、アラさんはその営業の礎を築いた先駆者なのである。
「日本の歌を求めて」(未来社刊)でアラさんがその苦労と喜びを綴っている。
それによると、アラさんはわたしより6年前、1957年に入座。当時の座員は10名ほどだったようだ。
「私はわらび座の中でそれまで育ちえなかった営業分野を、KさんTさんと協力しながら、私たちの代で定着させていこうと密かに決意した」とある。
後々わたしは営業部に所属した。営業部は60名をこえ(座員数は300名余)座の部署では最大の所帯になっていた。
マルちゃん(丸山邦子さん)が秋田の片田舎で、青年たちとわらび座公演を取り組む手記が、「日本の歌を求めて」(第二集)に収められ、脱稿した日付は1960年12月とある。
「日本の歌を求めて第二集」の年譜によると。1960年は「座の機関紙『わらび』は活版印刷による月刊誌となり、また座員は50名を越えた」と記されている。
アラさんが入座して3年後には、10名余だった座員が50名を越え座が急拡大、マルちゃんは入座早々に営業部に所属したのだろう。
わたしが記憶するマルちゃんは、「月刊わらび」の編集長としての姿である。
あらゆる専門分野の方々と渡り合う対談など、その豊富な知見には舌を巻く。
アラさん・マルちゃんともわらび座を定年まで勤め上げ、以後も座の近くに住まっていた。
「和力」は2011年6月、わらび座の地元、仙北市での公演が実現した。
「和力」を主宰する加藤木朗は、高校2年までわらび座に、小野越郎さんは高校卒業後わらび座の舞台で活躍し後に独立。
わらび座で二人の成長を見守ってくれた古参座員、現役の若い座員たちが数多くやってきてくれた。
その折のわたしのブログ「4人や5人で何ができるんだべ…」に、舞台を見終わったアラさんが「考えさせられる舞台だった」…とわたしに呟いたと記されている。
いまでも目に浮かぶのだが、「えがった、えがった」と賑やかな中で、風貌が達磨大師に似るアラさんが大きなまなざしで口にした感想だ。
マルちゃんは「せっかく来たのだから、家に泊まっていきなさい」とさかんにすすめてくれたっけ…。
繰り返しになるが1963年4月にわたしは入座、「第三期学習班」で3ヶ月の研修期間を経て、創設されたばかりの「第三班」に編入。
「第三班」は、オノちゃん(小野光桜さん)が舞台監督、演技者は男1,女3,それにアコーディオン奏者1名の少人数編成であった。
オノちゃんは、舞台設営から車の運転まで大車輪で「第三班」を切り盛りし、手が空くとアコーディオンを奏でたり、それのみか唯一の男性演技者だったわたしが舞台に立てない日々があった折、オノちゃんはわたしの代役を無難にこなしてくれたこともあった。
オノちゃんはその後、大道具・照明など「舞台部」を統括する任につき、さらには座の運営に欠かせない幹部として勤め上げる。
わたしが座を辞した後であるが、オノちゃんも座を離れたと聞いた。
わたしがオノちゃん夫妻と再会したのは、2005年に松戸へ「和力」を迎えた際であり、子息の越郎さんの舞台を堪能されていた。
ご三方にかぎらずわらび座で共に過ごした人が亡くなると、たとえ部署はちがっても、「共同生活」を通して「同じ釜の飯を食い」、座の発展の一角を担った者同士、自分の丸ごとを知る人とのお別れとなり、身が欠けていく思いがするのである。