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身の周りから欠けていく…アラさん、マルちゃん、オノちゃんとのお別れ

2021年06月30日 | Weblog

 

 6月も末、年の前半がはや過ぎ去る。

昨年の前半は、わたしの肺がん摘出手術があり、なんとなくあわただしかった。

一年に一度、市の健康診査をまじめに受けていたので、「早期発見」が幸いし術後は2ヶ月ごとだった経過観察が、いまでは4ヶ月ごとになっている。

80才を越え、身体にメスが入る大病をはじめて患ったが、以前の生活を取りもどせたことがありがたい。

一歳年下の妻との二人暮らし、「老々介護」が世間で取り沙汰されるなか、一応は共に達者で過ごせているのも喜びである。

更には、テレビでさかんに宣伝されるサプリメントの類には無縁で、かかりつけ医で処方される薬だけで収まっている。

 

 ただ友人・知人の訃報が年を経るごとに加速するのが寂しいかぎりだ。

報せを受け「住所録」から抹消する氏名が、60代では年に数件しかなかった。70代に入ってからは後半になるほど頻繁になってくる。

80代になってからは、数ヶ月をおかず報せがとどくようになったと感じる。

学校時代、勤め人時代、地域にと友人は多いが、群を抜くのは「わらび座」時代の面々である。

 

 616日、午後9時すぎ家の固定電話が鳴った。

はてなんだろう、もしかして約束事をすっぽかしたかな…一抹の不安を感じながら受話器をとる。

「連絡入っているかもしれないけど」と、元わらび座員Dちゃんの懐かしい声。

「え、なんのこと」。

「きのう15日、アラさんが亡くなったそうだ」。

「えっ、知らなかった」……。

アラさんこと荒川洋一さんは、わらび座での大先達である。享年88才とのことだ。

つい先だって4月には、マルちゃんこと丸山邦子さんが87才で、オノちゃんこと小野光桜さんが70代半ばで亡くなったばかりだ。

共にわたしのわらび座時代の先輩である。

 

 わたしは58年前、24才でわらび座に入った。45才で離れるまでの21年間、濃密な青春時代を過ごすことができた。

高校を卒業し東京で演劇生活をおくった後、秋田県に本拠を置くわらび座に入座、1963年のことだ。

座員は100名ほど、稽古場と食堂兼集会場を核に、粗末な住居棟が狭い敷地に点在、食事は朝・昼・晩、三食とも食堂で供され、食と住が完全に保障された「共同生活」であった。

月末には少額ながら「現金支給」が個々人に手渡される。

 

「こんな劇団があるんだ」と、わたしはびっくりした。

わたしの東京での演劇活動では、「劇団維持費」を月々収め、公演にあたっては「チケットの割り当て」が劇団員の肩に重くのしかかる。

そのうえ生活費も稼がなくてはならず、アルバイトに明け暮れ、身銭をきって劇団を成り立たせていたのだ。

 

 わらび座では本業の公演だけで運営資金を生み出し、座員の生活を保障していることがわたしの驚きであった。

公演を成り立たせる基は「営業」であり、アラさんはその営業の礎を築いた先駆者なのである。

「日本の歌を求めて」(未来社刊)でアラさんがその苦労と喜びを綴っている。

それによると、アラさんはわたしより6年前、1957年に入座。当時の座員は10名ほどだったようだ。

「私はわらび座の中でそれまで育ちえなかった営業分野を、KさんTさんと協力しながら、私たちの代で定着させていこうと密かに決意した」とある。

後々わたしは営業部に所属した。営業部は60名をこえ(座員数は300名余)座の部署では最大の所帯になっていた。

 

 マルちゃん(丸山邦子さん)が秋田の片田舎で、青年たちとわらび座公演を取り組む手記が、「日本の歌を求めて」(第二集)に収められ、脱稿した日付は196012月とある。

「日本の歌を求めて第二集」の年譜によると。1960年は「座の機関紙『わらび』は活版印刷による月刊誌となり、また座員は50名を越えた」と記されている。

アラさんが入座して3年後には、10名余だった座員が50名を越え座が急拡大、マルちゃんは入座早々に営業部に所属したのだろう。

わたしが記憶するマルちゃんは、「月刊わらび」の編集長としての姿である。

あらゆる専門分野の方々と渡り合う対談など、その豊富な知見には舌を巻く。

アラさん・マルちゃんともわらび座を定年まで勤め上げ、以後も座の近くに住まっていた。

 

「和力」は20116月、わらび座の地元、仙北市での公演が実現した。

「和力」を主宰する加藤木朗は、高校2年までわらび座に、小野越郎さんは高校卒業後わらび座の舞台で活躍し後に独立。

わらび座で二人の成長を見守ってくれた古参座員、現役の若い座員たちが数多くやってきてくれた。

その折のわたしのブログ「4人や5人で何ができるんだべ…」に、舞台を見終わったアラさんが「考えさせられる舞台だった」…とわたしに呟いたと記されている。

いまでも目に浮かぶのだが、「えがった、えがった」と賑やかな中で、風貌が達磨大師に似るアラさんが大きなまなざしで口にした感想だ。

マルちゃんは「せっかく来たのだから、家に泊まっていきなさい」とさかんにすすめてくれたっけ…。

 

 繰り返しになるが19634月にわたしは入座、「第三期学習班」で3ヶ月の研修期間を経て、創設されたばかりの「第三班」に編入。

「第三班」は、オノちゃん(小野光桜さん)が舞台監督、演技者は男1,女3,それにアコーディオン奏者1名の少人数編成であった。

オノちゃんは、舞台設営から車の運転まで大車輪で「第三班」を切り盛りし、手が空くとアコーディオンを奏でたり、それのみか唯一の男性演技者だったわたしが舞台に立てない日々があった折、オノちゃんはわたしの代役を無難にこなしてくれたこともあった。

オノちゃんはその後、大道具・照明など「舞台部」を統括する任につき、さらには座の運営に欠かせない幹部として勤め上げる。

わたしが座を辞した後であるが、オノちゃんも座を離れたと聞いた。

わたしがオノちゃん夫妻と再会したのは、2005年に松戸へ「和力」を迎えた際であり、子息の越郎さんの舞台を堪能されていた。

 

 ご三方にかぎらずわらび座で共に過ごした人が亡くなると、たとえ部署はちがっても、「共同生活」を通して「同じ釜の飯を食い」、座の発展の一角を担った者同士、自分の丸ごとを知る人とのお別れとなり、身が欠けていく思いがするのである。

 

 

 


立川志の輔 薫風独演会、「和力」オープニングを飾る

2021年05月30日 | Weblog

 

 黄色い山吹きの花はとうに散ったけれど、柿の新芽が大きくふくらみ、5月の陽射しできらめきゆれる。

心地よい季節の到来になった。早めの昼飯をすませ、久方ぶりの遠出に心がはずむ。

有楽町「国際フォーラム・ホールC」で、「立川志の輔 薫風独演会」が開催、息子の朗が主宰する「和力」がゲスト出演する。

511日から14日までの4日間が予定され、最終日14日のチケットを早々とゲット、この日を待ちかねていたのだ。

電車に乗り都内へと向かうのは、何ヶ月ぶりになるだろうか。

 

 今年は花見にも行けなかった。

かっては季節になれば、「上野のお山」、「隅田公園」、「千鳥ヶ淵」そして「飛鳥山」などに出向き、おにぎりをぱくついたものだ。

花見だけやめにしたのではない。

わたしの住む町から、電車に乗れば20分ほどで上野駅に着く。

上野公園には、桜並木はもちろんのこと、「西洋美術館」、「国立博物館」、「科学博物館」・「動物園」などがあり、目新しい企画が次々と繰りだされ、それを目当てに出かけることが多々あった。

上野以外にも、「岩波ホール」での映画鑑賞にもよく出かけたものだ。映画を見た後は神田の古書店街をぶらつく。

いつしか出不精になって、電車に乗っての遠出が縁遠くなってしまっている。

 

 新型コロナウィルスと共生して1年半が過ぎた。

「不要不急の外出をするな」とのお上のお達しに、恐れ入って外出をひかえているのではない。

なにしろわたしどもは、80才をこえた。つつがなく年令を重ねてきたが、五体満足とはいかず、わたしは内臓関係の薬を朝4錠・夕に3錠を服用、おまけに目薬もさしている。

妻はたった一錠の内服ですんでいるが、寝起きから「アッタタタ」というのが口癖になった。3年ほど前から足腰の不調がつよくなり、出歩くには杖が友になってしまっているのだ。

妻は元来元気者で、映画・演劇・音楽などジャンルを問わず見聞きすることが好きで、旅行も大好きであった。

職場や地域の仲間と語らいよく出歩いていたが、それが絶えて久しい。

 

 妻は「薫風独演会」を楽しみに体調管理にはげむ。しかし二日前、「腰の調子が悪く自信がない。行けるかなぁ…」と言い出した。

前夜になって、「どうしようか…」と考えあぐねる。

インターネットで検索すると、「国際フォーラム」は有楽町駅から徒歩2分ほどとある。

「あまり歩かなくてもいいらしいよ」、「それじゃぁ…」と、念願だった「薫風独演会」へ出かけることになった。

道中無事に「国際フォーラム」前の広場に着いたのは2時前、弟の雅義との待ち合わせに30分ほどの余裕がある。

広場には椅子が所どころ置かれ、高い建物と樹木で陽射しが遮られているから、みなさんゆったりと軽食を摂り飲みものを口にしている。

やがて前のめりの歩き方で雅義がやってきて合流。

511日の初日は開催中止になったが、12日からの3日間が開催できてよかったね」と雅義。

はて何のことだとたずねると、「コロナの第三次緊急事態宣言は511日までで、この期間は劇場に『休業』要請が出されていた。12日からの緊急事態宣言の延長では、劇場の『休業』は解かれて、『時短と収容率50パーセント』に緩和されたので、なんとか開催されたようだ」とのこと。

なんときわどいことがあったのだと思い知る。

 

 午後3時開演。

場内の明かりが落とされる。客席が静寂な闇につつまれると、太鼓と鉦の音が荘厳にひびき、緞帳が巻きあがる。

「和力」の「権現舞」が照明に浮きたち、『疫病退散』を願って舞い囃す。

つづいて津軽三味線独奏・合奏、だんじり囃子、さいごに獅子の歯噛みで「厄払い」…。

みなさんの今の願いと、心が一つになったのだろう、大きな拍手で客席が沸いた。

 

 なんと「和力」はオープニングを務めさせていただいたのである。

 

 志の輔師匠第一席・新作落語「ハナコ」、第二席・古典落語「千両みかん」は、900人の心を鷲づかみにした。

第一席と第二席の間の『中入り』は、ジャズピアニスト桑原あいさんの演奏であった。

わたしは桑原あいさんが演奏の合間に語られたことがつよく心に残った。

「この会場は、本来であれば私が志の輔師匠のお噺をうかがっているところです。ところが過日この会場でわたしたちがコンサートを催しました。志の輔師匠がお出でになっておられ、『今度独演会をやる、ゲストとして迎えたい』とのありがたいお申し出。そんなわけでこの舞台に立たせていただいています。次に演奏する曲は志の輔師匠が『是非に』とリクエストされたものです』。

曲名はしっかり聞いたのだが、浅学非才のわたしは忘失。曲は力強く、また身にしみいる演奏であった。

 

 桑原あいさんのスピーチで心に残った中身とは……。

志の輔師匠がジャズコンサートに一観客として参加されていたことにある。

インターネット「ウィキペディア」(フリー百科辞典)によれば、志の輔師匠は「国内での各種演劇公演やミュージカル公演を頻繁に鑑賞しており、毎年1回は、休みが取れればアメリカニューヨークへ行き(アメリカでの落語会の出演時も含む)、ブロードウェイで話題となっている演劇やミュージカル公演を鑑賞することを楽しみにしている。」と記されている。

能・狂言にも造詣が深いともあり、広い分野の文化のシャワーを浴びておられるようだ。

お忙しいお身でありながら、「頻繁に鑑賞することを楽しみに…」という暮らしぶりが、市井の機微をつかみ、思考に表現に深さを与えつづけているにちがいない。

話芸とは異分野のジャスにも造詣がお深いのが 驚きであった。

 

「和力」がゲストとしてお招きいただく折は、「中入り」での出番が主であったように思う。

今回はオープニングに「和力」を起用していただいた。

「『和力』さんの『疫病退散』で幕を上げ…」と、志の輔師匠が「枕」で語られたことで、わたしは「中入り」ではなく、なぜオープニングだったかを推量できたのだ。

コロナ禍で世は重苦しい。以前の日常を取り戻したいがその目途がなかなか見えない。

芸能は「豊年・豊作を祈念」あわせて、「悪霊退散を願い」……生活に溶け込み皆の気持ちを未来に向けるものとして伝承されてきた。

そんな意味合いがあって「和力」のオープニングが企図されたのではないかと、わたしはふと思ったのである。

 

 至芸の話芸と東西の伝統芸能が溶けあい、三位一体となった3時間は、またたく間に過ぎ去った。

思いなしか帰る妻の足どりはいくぶん軽くなっているようである。


生き物を慈しむ余裕をもちたい

2021年04月29日 | Weblog

 わたしがこの地に住みついて30年になる。

当時は田んぼがかなり残っていて、田植えをひかえ代掻きが始まると、カエルの声が響き渡ってきたものだ。

年を経るごとに田んぼが少なくなり、あれだけ賑やかだったカエルの声が、わが家に届くことはもはやない。

 

 立て込んだ住宅地の一角にわが家はあるが、畑地や田んぼが混在していた頃には、いきのいい青大将が、庭に設えた車置き場のコンクリートの上でからだをくねらせ日光浴をしているのを見かけたこともある。

ツバメももっとたくさん飛び交っていたように思う。

だんだんと農地が狭まり住宅が林立し、カエルも蛇も見なくなり、ツバメも前ほどではない。

 

 ただ、カラスとスズメとハトは以前と変わらず、路上や畑に降り立ちなにやら探しものをしている。

町中を流れる川では、川鵜が小魚を追いカモがのんびり川面に漂う。

季節になると夕刻、川の上空をコウモリが「キッキ」と鳴き交わし虫を捕っている。

畑ではチョウが舞い、地べたにはアリが立ち働き、クモやダンゴ虫がうごめく。土をほじくるとミミズがはねる。

春先にはメジロが作業をする手元を覗き込み、素早く動くクモを啄ばむ。ヒヨドリやセキレイも畑地のあちこちを探検する。

まれにはアオサギが水田に下りたち、季節によってはカモメまでやってくる。

 

 江戸川の鉄橋をこえると東京だ。

50万人ちかく暮らすわが町、モザイク模様に田や畑が残っているおかげで、動植物はまだまだ豊かだと言えるだろう。

ただ残念に思うのは、身近な生き物にたいする共感や慈しむ心が、薄れているのではないだろうか。

かっては 〽ポッポッポ ハトポッポ 豆がほしいか そらやるぞ と歌っていた。

いまでは行政が先頭に立って「鳥に餌を与えないでください」と、不粋な横断幕や看板を公園や橋などに張り巡らす。

だから公園に降り立ち一休みするハトたちを、子どもらが追立てはしゃいでいる。「クック」と寄ってくるハトを愛でる余裕がなくなっているのだ。

 

 落語「付け馬」では、上野公園の交番脇広場でハトの「餌売り」をするおばさんの様子が語られる。

わたしの孫も幼いころ、この広場で餌を買ったところたちまちハトが群がり、孫はびっくりして泣き出してしまった。

だからつい近年まで営々として、上野の森のハトたちはアイドルとして可愛がられていたのだ。

今では多分、ハトへの餌やりはご法度になっているのではなかろうか。

世知辛い世になったものだ。

 

 そんな中で心温まる風景に出会った。

わたしがウォーキング途中、休憩する公園がある。

ベンチで一息入れていると、公園の入り口から手押し車に身をあずけゆっくり歩くおじいさん、脇には背を曲げたおばあさんがやってきた。

なんとその足元には、5羽のハトが後になり先になり、まとわりつくように嬉々として付き従っていっしょにくるではないか。

おじいさんとおばあさんはベンチに座る。ハトたちはその前で待ち構える。おばあさんは紙袋からパンくずとおぼしきものを取り出しばらまく。5羽のハトたちは「クック」鳴きながら啄ばむ。

たぶんハトたちは、おじいさんとおばあさんが来る時間を知っていて、迎えに出るのだろう。

 

 そういえば、わたしがパート勤めをしてしていた頃、昼休みに公園へ出かけると、すこし年老いたご夫婦によく出会った。

車いすの奥さんが膝に袋をおき、中からパンくずをハラハラをと撒く。ハトはそれをめがけて一目散に集まる。そばにたたずむおとうさんは、ハトの輪の外でうろつくスズメたちに撒いてあげる。

ご夫婦にとっては、気の休まるひと時を過ごしていたにちがいない。

そのあと久しぶりに公園を訪れると、「鳥に餌を与えないでください」とのお上のお触れ。なんとまぁ不粋なことよ。

それ以後、車いすのご夫妻を見かけなくなった。

 

 わが家では2匹の家猫と、訪問猫1匹の面倒を見ている。

猫はネズミを咥えてくることがあり、近辺の環境整備に一役買っているのだが、面倒を見ている方が肩身狭い思いをすることがある。

ここでも行政なのか、よけいなお節介焼きだか知らないが、「猫の餌やり禁止」とか「猫が歩けば花枯れる」みたいなプレートをつくって所どころに張り巡らす。

なんということだ。猫はパトロールをしてネズミの侵入をふせいでいるではないか。

みなさん険しい顔をして、「シッシッ」と追い払うものだから、おかげでほとんどの猫が警戒心をあらわにし、すばやく姿を隠すようになっている。

むかしはそうでなかっただろう。

「吾輩は猫である」(夏目漱石)に登場する名無しの「吾輩」、地域ボスの「黒」そして謡の師匠に飼われているお嬢さん猫の「白」は、塀の上で昼寝をしたり、路地裏を闊歩しのんびり暮らしている。

地域のおじさん、おばさんもそれなりに存在を認めているから、「人間は警戒するものだ」ととらえていなかったとおもわれる。

 

 またテレビで、海外の街歩きの番組などをみると、広場にはハトが群れ、猫が歩き回っている。だれも邪魔にしないから、のんびりゆったりしている。

宗教的な差異で生き物に対する態度がちがうのであろうか。

そうではなかろう。

わが祖先は「花鳥風月」をこよなく愛し、山川草木すべてに「神が宿る」と敬っていた。

新年には神社仏閣に詣で、お盆には故郷での墓参りなど、年末になるとクリスマス、「神も仏」もそのうえ西洋の「キリスト」までをも、生活の中に取り入れているのだ。

だから「生きとし生ける」ものは「わが同胞」として受け入れる素地は十二分にあるのではなかろうか。

 

 


無職になって2年になる

2021年03月29日 | Weblog

 一昨年、80才になったのをきっかけにバイトを辞めた。

以前からバイトを辞めたら、市の「シルバー人材センター」に登録し、わずかであっても収入が見込める仕事をしたいと思ってはいた。

しかしわたしは無芸で高年齢、資格は運転免許しかない。

この年になってどんな仕事があるのか…思いまどううちに入院・手術をする憂き目に会う。

手術は無事にすみ、体力を取り戻せたと感ずるが、新たな仕事を探す気は失せた。

少ない年金、しかし妻の分と合わせれば、二人の生活はギリギリまわせそうだ。

妻と相談がまとまり、家にいる時間が多くなった。

自分が思いのままにできる時間を、いまは目いっぱい楽しんでいる。

 

 わたしの一日のスケジュールの柱は三つある。

 

 ひとつはウォーキングだ。一日一万歩やりきることにこだわっている。

パートをしていた頃は、駅への往復、仕事中の移動でなんとはなしに一万歩は突破していた。

パートから離れてからは、朝のゴミ出しのついでに30分ほど散歩をし、畑へ寄って家に戻ると4千歩になる。

家で手紙書きやパソコン操作などをし、11時を過ぎたら郵便局などへ行く用事で3千歩かせぎ、午前中で7千歩達成するようにしている。

残り3千歩は、夕食前の買い物などでやりきる。

一万歩の所要時間は一時間二十分ほど、ほぼ7㌔弱の距離だ。

入院中は手術当日と翌日は歩行をパスしたが、休まずつづけている。

 

 もうひとつは、貸農園での野菜づくりである。

一区画8畳間ほどの地べたを二面借りて耕作している。

冬の期間は、秋口に種まきした玉ネギ・ニンニクなどの成長を見守り、絹サヤ・スナップエンドウの霜除けに気を配るが、さして用事はない。

家で出る残飯と米糠を混ぜ合わせ堆肥づくりに精出し春を待つぐらいのものだ。

打って変わり、春・夏・秋はいそがしい……狭い畑の「輪作」を避け、堆肥や腐葉土を入れて畝起こし、それぞれの季節で収穫する種や苗を、遅れないように蒔き・植え付け、水管理を日々やる。

大ごとなのは、雑草の成長の早さである。手を抜くとまたたく間に畑一面に雑草がはびこってしまう。

 

 そして三つ目の柱は毎食の食事つくりだ。

わが家は昔々から掃除・洗濯は妻がやり、わたしは食事担当である。

調理が好きだから、舌が肥えているなどの信頼で任命されたわけではない。

妻は看護師として働いていた。勤務時間が不規則で三食整えることなど望めないので、わたしが引き受けたのである。

何年やってもレシピ本を頼りに、おぼつかない手つきで包丁を握っている。。

たまに料理番組をみることがある。その手際のよさにはびっくりする。

コトコトコト野菜を刻む…これができない。ズバ、ズバと滅多切ることから抜け出せない。

フライパンを揺すり、空中に材料を放り投げまたフライパンに戻する技なんか手品のようだ。わたしはしゃもじで一心に混ぜ合わせる能しかなく、女性の細腕でよくもフライパンをああも操れるものだと、舌を巻いて料理番組をみている。

 

 この三つの柱は「家庭菜園」を中心にし有機的に結びついている。

ウォーキングもただ歩くだけでは退屈だ。目的があればそれに向かって励めるというものだ。

ゴミ出し後の朝一のウォーキング30分の最終目標は畑に寄ることにある。

植えつけた苗、種まきした畝に目を凝らし、植物の顔色をうかがいながら、必要な畝に水遣り。そのうえどんな手当てが必要かを判断する。

午前中2回目の外出の折には、用事を済ませ家に戻る途中に畑に寄り、追肥・土寄せ・雑草を抜く。

午後の買い物ウォーキングでは、畑で稔っているのを確認して、晩飯の献立に使えるものを摘む、余分なものは買わずに済む。

 

 畑仕事を中心に、ウォーキング・調理が三位一体として機能しているといえる。

 

 畑は世相を知る場所でもある。

 作業をしていると、「うちの父さんは家でゴロゴロ、テレビばかり見ていないで外に出てみれば…と云っても生返事」、「そうそう、うちのは…」とさらに追い打ち、亭主の不甲斐なさを競い奥方たちが盛り上がる声が野面にひびく。

 会社づとめを終えた男性は、地域になじみがなく、ついつい家にこもってしまう人も多いのだろうか。

 

 そんな話を聞いて振り返ると、わたしはテレビを楽しんではいるが、なにを見るかの拘りが強く時間は限られている。

朝・昼・夕の食事時、ニュースと気象情報は見逃さないようにしている。

雨風がどうなるかでウォーキングをどの時間帯に集中するか、畑の水やりが必要か、スケジュールを微調整するのだ。

じっくりテレビを見るのは、夕飯のニュースの後だ。

自然界を活写した番組が好きだ。草原・密林・大海原で躍動する生命の輝きに魅せられる。

あわせて世界の都市を旅する番組、猫を訪ね歩く映像も楽しみにしている。

活劇洋画・西部劇などに心踊らされ、「となりのトトロ」、「魔女の宅急便」などにも目がない。

そして、あんがい忙しい一日が終わるのである。

 

 


病からの生還

2021年02月27日 | Weblog

 

 昨年2月に肺がんの切除手術を受け1年が経過した。

一年に一回受けている市の健康診査で引っかかっての「早期発見」だったから、術後は薬物投与も必要なく過ごせた。

1年が経過したので、念のためMRIで精密検査をする」との医師の指示で、2月初旬に受診、「異常なし」と診断が下され一安心している。

 

 手術後の経過観察は2ヶ月に一回から、3ヶ月に一回になっており、順調に回復しているのだと思いながら、ふと不安にかられてもいた。

病変部は取り除かれたにしても、それは一部分に過ぎないだろう。吸いつづけたタバコの害は、病変した部分だけにとどまるのだろうか。もっと広い範囲がタバコに衝撃をうけているのではないか……咳きこんだりした際に頭をよぎる。

なんとなれば、わたしは吸いはじめが27歳であったが、40年近くもの長い間吸いつづけてきたからだ。

 

 わたしは中学生のとき、タバコにむせたことがある。

小学6年から朝刊・夕刊の新聞配達をし、給食費など学費と小遣いをかせいでいた。当時新聞配達の担い手は「新聞少年」と称され中学生が中心であった。

新聞配達は大部分が少年たちであったが、新聞販売店には大学生が「奨学生」として住み込みで働いていた。

わたしたち中学生は、兄貴分の大学生とくつろいだ時間を持つこともあり、そんな折に「どうだ、吸ってみるか」とタバコを渡されたことがある。

数人いた中学生は、「ゴホン:ゴホン」しながら一本のタバコを回しのみした。わたしもひと口吸ったがたちまちむせてしまい、以後口にしたことはない。

一生涯タバコと縁をもつことはなかろう…高校を卒業、社会人になって周りにタバコをふかす人がいても、タバコには興味なく過ごし、20代後半になった。

 

 やがて転機がおとずれる。

26才になったとき、わらび座に在籍していたわたしは、営業部へ部署替えになり、全国を駆け巡って公演班を受け入れる土台作りに関わるようになった。

知らない土地に赴き、団体・個人に会い「実行委員会」を立ち上げる仕事である。

何回か会ううちに気やすくなった実行委員の方が、「どうです一服」とタバコをすすめてくれる。

ついつい「それでは…」と手を出すうちに、自分から求めて買うようになってしまったのだ。

座生活は経済的に厳しく、タバコを贖う金銭的余裕などありはしない。

でも出張中の食費は定額保証されていたから、それを削って購入するようになった。だから一本のタバコをギリギリまで吸い、タバコを切らしたら買い置きなどはない、吸い殻入れから少し長いものを探しだし、指に挟む余地がないので爪楊枝に刺して吸うようなことも多々あった。

あるタバコ吞みの先輩などは、吸いさしを消してそれをポケットに入れ、再び火をつけて吸うのが習慣だったが、ポッケの中でそれが燻ぶりだして大騒ぎになったこともある。

別の先輩はタバコを一箱買うお金がなく、小銭を握りしめてタバコ屋に赴き「一本売ってください」と頼み込んだが断られたとも云う。

そんなありさまだから意地汚く、吸い口ギリギリまで吸うのが常であったのだ。

 

 金はない、健康に悪いと知っていたから、年がら年中「禁煙」に取り組む。

「今度こそ禁煙だ」……決意し、我慢に我慢を重ねる。会議などで仲間が吸っているとついつい決心が揺らぎ、「悪いけど一本ちょうだい」と貰いタバコをする。

それがたび重なると、相手に迷惑をかけているとの自責の念にかられ、「一本10円で分けてくれないか」と懇願、決意した禁煙生活はつづかなかった。

 

 そんな繰り返しの果て、定年になり仕事から離れ、頼るべき仲間がいなくなった、65才の折に禁煙をようやく成就したのだ。

毒物が多くなる吸い口ギリギリまでの喫煙、口腔や食道そして肺に多大なダメージを与えたにちがいない。

「他の人は病気を背負うかもしれないが、俺は大丈夫」…手前勝手な安心感はみじんに砕かれ病を呼び込んだ。

医学の進歩によって、一命はとりとめてもらったが、自ら招いた「自業自得」の責めの罪科は消えることはない。

 

 これからもある不安をもちながら、生きながらえていくしかないのだろう。

 

 


コロナ禍と創造者

2021年01月25日 | Weblog

 1年の頭がめぐってきた。

ことしの幕開けは例年と趣が相当にちがう。

コロナウィルスが猛威をふるい、外出をひかえるよう強く呼びかけられ、神社仏閣の初詣で、盛り場の賑わいがないようだ。

交通機関も終電を繰り上げ、道行く人は全員といっていいほど、マスクで顔の半分を覆っている。

高齢者・基礎疾患のある者が感染すると重症化すると云われているから、わたしたち夫婦も用心しなければならない。

幸い二人とも数年前にパート勤めを辞めたので、電車に乗ってぎゅんぎゅん押される心配がなくなっているのは幸いだ。

それぞれが所属するサークルなどの集まりも中止・延期となり家で過ごす時間が多くなっている。

 

 わたしは昨年の1月をどう過ごしただろう…手帳を開いてみた。

まだコロナ以前であったのでけっこう忙しく動いている。

元旦は町内の稲荷神社に詣で、江戸川土手で遠く富士山を望んだ。

2日・3日と来客がありすき焼きを具す。

5日を過ぎると日常の生活が戻り、週に3回早起きしての新聞配達、「知的障碍者の余暇支援」のボランティア活動・沖縄映画「洗骨」鑑賞などで月の半ばが過ぎる。

月の後半、20日M病院診察、22日M病院MRI、23日幕張A病院でVIP検査とつづく。

市の健康診査で前年10月「肺に影がある」との見立てで、精密検査が年明けに集中した。

この間、朗と二人のキャストが埼玉公演のためわが家に2泊。

24日は自動車教習所で免許更新のため「高齢者講習」を受講し合格、あと3年間は運転可能となる。

27日、妻同伴でM病院で肺がん手術の打ち合わせ、30日に入院した。(26日手術、13日退院)。

コロナ以前であったから、公私にわたりかなり慌ただしく過ごしていたことになる。

 

 それに比して今年の1月は、定例の会議は復活したものの、「歌声喫茶」や「フリーマーケット」など、人を集める催しはなくなっている。

内科・眼科・歯科医への予約で出かけるのが、スケジュールの主な流れになってしまった。

1月中頃には朗たちのライブが東京で予定されていた。

わが家に泊まってくれるかな…との期待がよぎる。

昨年もわが家に泊まり、新年のお祝い芸を諸所で披露した。

だが今年1月のライブは、「緊急事態」発出により4月に延期となった。

首都圏での公演のみか、地元での活動も制約を受け出番が激減している様子がHPの「スケジュール欄」でみてとれる。

大道具・小道具の制作・獅子頭などの面打ち、などに精を出しているようだが公演がない。

このような状態で生活が成り立つのであろうか…心配は募る。

朗からは「畑・田んぼ・狩猟など自給自足の足場があり、なんとかこの難局を乗り切っている。舞台から離れず、嚙り付いて頑張ります」とのメッセージを受けとった。

 

 わたしは高校卒業と同時に東京で演劇活動に入り、ひきつづき秋田に本拠を置く「わらび座」で45才まで在籍していた。

長らく創造団体に身を置いてきたが今回のような難局は初めて目にすることだ。

やむなく予定されていた公演が中止になった経験はただの1回しかない。

わらび座の公演班が「食中毒」にかかっての中止である。

よくは覚えていないが、1週間か2週間の療養で公演活動は再開された。

今回のコロナウィルスは、昨年の2月から表面化しほぼ1年にわたる流行だ。

この間、わたしの所属する「松戸演劇鑑賞会」では、例会が延期、延期はしたものの「緊急事態宣言」が発せられ、中止になることが重なる。

期待していた「前進座」・「こまつ座」などの鑑賞ができなくなったのだ。

わたしは一会員として「観れなくなって残念」との気持ちと同時に、稽古を積み上げてきた劇団の窮状を思いやる。

それと同時に創造者一人ひとりがどう生活を成り立たせていっているのだろうかを心配するのだ。

 

 劇団員・演奏家・芸人・声楽家・伝統芸能表現者などなど、出番が失われている。

長年かけて真摯に獲得した芸の行き場がない。

公的援助が薄い中で、これら努力の人たちが耐えていけるのだろうか。

耐えていってほしい。

日本の文化をなんとか継承していってもらいたい…と切に願う。

創造団体・創造者としてのOBである、わたし個人としての応援は限れれている。

せめて退会者が続出している「演劇鑑賞会」に踏みとどまり、すこしづつだが再開されている「映画会」や「ライブ」に参加しよう。

 

 こんなことで来月は「演劇鑑賞会例会」・「松元ヒロソロライブ」・「映画会」などに参加する計画を立てている。

 

  

 

 

 

 


座友・平野樹一朗さん、松本美智枝さん逝く

2020年12月30日 | Weblog

 年の瀬を控えつぎつぎに「欠礼」の便りが届く。それも年毎にふえている気がする。

さもありなん、わたしは81才、わたしの身の回りの方々も着実に年令を重ねているのだ。

身内では、妻の甥が3月に51才で病没した。

わたしの妹・中條祥乃が4月に79才で旅立った。わたしと2才ちがいの妹とは、幼いころからの思い出がずっしり詰まっている。

自分のことはさておき人の面倒をみる、そして気っぷの良さ…東京下町っ子の気質に溢れた妹だった。

わたしが23年間、「わらび座」で過ごすことができたのは、この妹あってのことである。

 

 わたしがわらび座に入ったのが19634月、研修期間を経て公演班に所属した夏頃、父の病気が発覚。11月にその死がやってきた。

わたしは5人きょうだいの長男であり、妹・祥乃は結婚していたが、ほかの妹・弟3人はまだ学校に通う身であった。

わたしは長男としての責があり、家に帰るかどうかおおいに悩んだ。

その折「こっちは何とかするから、あんちゃんは目指すことをやったらいいよ」と、言ってくれたのが祥乃である。

その励ましでわたしはわらび座にひきつづき在籍できた。

わらび座で所帯を持ち「ともに白髪の生えるまで」の配偶者に恵まれ、子の朗も誕生した。

そして数多くの同輩・先輩・後輩の座友とも出会えたのだ。

妹の一言がなければ、わたしの人生は異なる展開をしたことだろう。

われわれきょうだいの大黒柱だった、妹・祥乃のことは稿を改めて触れることにしよう。

 

 23年間のわらび座生活で、「同じ釜の飯を食った」その仲間たちは、この10年ほどの間、少なからずの後輩・同輩、数多くの先輩が鬼籍に入ってしまった。

今年は平野樹一朗さんと松本美智枝さんの訃報を得た。

 

 平野樹一朗さん(通称ラノさん)は、わらび座営業部の重鎮であった。

わたしが初めて営業をしたのは、急性腎炎で舞台を降り入院生活を終わった病休明けである。

地元の「生保内公演」を、わたしが担当することになり、その折にラノさんが付きっ切りで面倒をみてくれた。

ラノさんは囲碁の名手である。そのせいか公演する日までの長いスパンの中で、「この時期にはこれをやり、当面はこれだ」と、全体の流れと局面の押さえを教えてくれる。

無理くり自分の経験と方法を押し付けるのではなく、こちらの考えを聞き出しながらの助言だから、安堵してわたしにとって初めての公演を無事やりとげることができた。

 

 わたしは舞台に復帰し、しばらくして営業部にうつり、直接ラノさんの薫陶を受けることになる。

わたしが営業部入りした時期、東日本を統括する「東京支局」と西日本を管轄する「大阪支局」が確立していた。

わたしは、大阪支局管内の奈良・和歌山・滋賀・岡山・鹿児島・宮崎などで、実行委員会を組織し公演班を迎えるため駆けまわった。

数年して「東北支局」が開設されラノさんが着任。わたしが大阪支局を引き継ぐことになる。

新米支局長のわたしを、東京・谷純一、東北・平野樹一朗の両先輩が大いに支えてくれ、ベテラン営業部員を配置、公演スケジュールの割り振りなども優先して、やりやすい環境をいつも心がけてくれたものだ。

以後ラノさんは総務部長として円滑な座運営の中心として活躍。

わらび座定年退職後、わたしの息子・朗が主宰する「和力」の秋田公演に力をそそいてくれもした。

「東京に用事がある。久しぶりに会おう」と、わが家に泊まって語り合ったのは、7年ほど前になるだろうか。それ以後は年賀状のやり取りだけであったので、近況はつかめず年を経た。

「欠礼」の便りで、享年85才、4月に永眠されたとの報に触れた。

 

 

 

 松本美智枝さん(通称コンちゃん)は、わらび座保育部の創設者である。

1960年代はわらび座の公演活動が全国展開、座員が急増した時期であった。

わたしは90何番目かの入座であったが、200人一時は300人を超える座員を擁するようになる。

公演で、営業で、長期に本部を留守にする座員のために、乳児・幼児・学童の子どもたちを24時間見守り、長期間預かる施設がつくられた。

「コンおばちゃん」と慕われ、定年までその責を全うしたのである。

定年後は巣立った「わらびっ子」の成長を楽しみに全国を駆け巡ったようだ。

わたしの息子・朗が主宰する「和力」公演にもしばしば訪れてくれた。

わたしと妻が久しぶりにコンちゃんと再会したのは15年ほど前、名古屋でのことである。和力公演が開催される会場に着くと、陽だまりに開場を待つ長い列ができていた。

わたしたちも列に並んでヒョイと前方をみると、コンちゃんがいるではないか。年末の寒い時期、不自由な片足をかばいながら遠く秋田からやって来てくれたのだ。

名古屋のみならず、松戸市公演や長野へも足を運び、わらびっ子だった朗と小野越郎の成長を楽しんでくれたようだ。

 それのみかわたしが、和力の田沢湖公演やわらび劇場公演などの際には、コンちゃん宅に泊めてもらうことが3度、4度とあった。

その折に、絶えて久しく会っていなかった、わらびっ子第二号だったSちゃんと同宿した。

「コンおぼちゃんの家の雪下ろしにきた」…盛岡から冬場には何度もやってくるそうだ。

 

 わらびっ子に慕われたコンちゃん、12月にその生涯を閉じたとの報に接する。

 


早くなる日暮れ

2020年11月30日 | Weblog

 

 年の瀬を目前にして「今年も無事に乘りきれた」と、つくづく思う。

今年前半でわたしが81才、妻が80才になった。

妻は2年ほど前から「足腰の痛み」をかかえ、わたしはこの春、肺の手術をした。

そんなことはありながら、二人ともまずは健在で日常生活を送れている。

「ともに白髪の生えるまで」…寝たきりにもならず、生活できていることがありがたい。

 

 わたしは一昨年8月に、介護職のパートを辞めた。

年金が少ないので、パートを辞めたら市の「シルバー人材センター」に登録しよう…少しでも稼ぎたい。

資料を取り寄せ、実際に働いている友人・知人に聞いて回ったりもした。

「いま少しは充電期間」と、登録を先延ばしにしていたら、思いもかけず市の「健診」に引っかかり、手術の憂き目にあうことになってしまったのだ。

10年以上前ようやく「禁煙」を成し遂げたが、「遅かりし由良之助」で肺が喫煙でダメージを受け摘出手術をうけたのである。

幸いなことに他に転移がなく、抗がん剤服用も無用とのこと、年に一回の健診をまじめに受けていたればこそ「早期発見」ができたのだ。

経過観察も2ヶ月に一回が、3ヶ月に一回となったが、まだ「根治」ではないらしく来年春には、「悪さがないように、CT検査をします」といわれている。

 

 なかなか無罪放免とはならない。

「シルバー人材センター」は棚上げ、もっぱら「晴耕雨読」の生活を送っている。

わたしの一日の主な重点は、「ウォーキング」一万歩をやりきることだ。

午前中に5千歩以上、午後は残りをこなし、雨風・雪でも滞りなくやり遂げている。

以前はジョッキング10㌔を日課にしていたが、65才あたりからウォーキングに切り替えた。

勉強は好きではないが、身体を動かすことは大好きなのだ。

だからウォーキングは苦にならない。

いつも立ち寄る公園がある。

そこで一息入れ、公園で遊ぶ子どもたちをしばし眺めて過ごす。

「よい子のみなさん、おうちに帰る時間ですよ」。防災無線が呼びかける。

呼びかける時間は、夏の間は5時半だった。

秋口には5時になり、11月に入ってからは4時半だ。

遊んでいる子らは「よい子が住んでるよい町は……」のチャイムをきっかけに、自転車に打ち跨り、小さい子はおかぁさんに手を引かれ帰っていく。

「秋の日暮れはつるべおとし」とはよくいったものだ。だんだんと空の光が薄れて、外灯が灯りはじめる。

「あと2千歩歩かなくては…」と、わたしもやおら立ち上がり歩きはじめる。

 

 思えば 夏の間は、夕方7時ごろまで明るかった。

わたしがバイトに出かけていた頃、仕事が終わり家への最寄り駅で下車すると6時を過ぎる。

家まで2㌔ほどの道のりを日陰を探し辿りながら歩いた。

太陽が真上にあるから日陰はそんなにない。電信柱の細い影に身を隠し家路をいそいだことを思い出す。

日が長く暑さ激しい折には、わたしのもう一方の日課、畑しごとが大変だった。

100区画以上に区切られた畑地を2区画借りての作業だから、「畑しごと」と云うのもおこがましいが、それでも手がかかるのだ。

連作を避け、種まき・植えつけ時期も逃さないように気を張る、水やり・雑草抜きもこまめにやらなくてはならない。

ところが夏場は、日がな一日カンカン太陽が照りつける。

日陰のない広い畑地にはとても出ていられなかった。

 

 それが日暮れがはやくなった今の時期は、昼のうちも畑地に手がかけられる。

11月に入ってからは、白菜・小松菜・春菊・高菜・京菜・ルッコラなどの収穫期だから、夏場ほど鍬をふるうなどの仕事はない。

夕食の用意をして、思い立って5分ほどの畑地にいそぐ。

畑地の道路寄りは外灯に照らされているが、自分の畑に屈んで小松菜を抜こうとしても、手元は暗い。手探りで抜くのだ。

まだ5時ちょいと過ぎだというのにこのありさまである。

 

 車もライトを照らして走っている。

12月の「冬至」まで、まだ一日一日と暗さが早まり深まっていく。

道行く人たちはマスクで口元を覆い、表情が定かでない。突然あいさつされて戸惑うことがしばしばある。

わたしが散策する地域は、人と行き交うこと稀であるから、わたしはマスクをはずしている。

だから相手はすばやく認識できるのだろうが、マスクをしている人は見慣れた近所の人であっても見わけがつかない。

それであいさつが遅れるのだ。

 

 早いとこマスクなしの日常を取り戻したいと願う日々である。

 

 

 

 

 

 


家庭菜園に精出す

2020年10月30日 | Weblog

(9月7日に種まきした白菜・山東菜が成長した。巻くかどうか心配だったが、これから巻き始めるだろう) 

 

 新型コロナの終息がなかなか見通せない。

わたしが関わる複数のグループの会議や行事が繰り延べになり、出歩くことや人に会うことが皆無になった期間は長かった。

10月になって「松戸演劇鑑賞会」が6ヶ月ぶりに例会を再開し、久方ぶりに劇場を訪れた。

「知的障碍者の余暇支援」サークルにボランティアスタッフとして参加している。

「スタッフ会議」は10月から定期開催になったが、月に一回やっていた「フリーマーケット」・「うたごえ喫茶」はまだ再開できずにいる。

会議・行事が減って余裕の時間が大巾にふえた。

家に閉じこもることのない日常をつづけるのに、20095月から始めた「家庭菜園」がおおいに役立つ。

 

 100区画ほどに区切って農家が貸し出している農園が近くにある。

一区画8畳間ほどの二区画を、わたしは開所したときから借り、春野菜・夏野菜・秋野菜の出来を楽しんでいるのだ。

園芸本に頼りきっての耕作だが、妻との二人暮らしなので、食い切れないほどの稔りに恵まれることがある。

なにしろいちどきにいっぺんに稔るるものだから、わが家だけでは手に余るのだ。

ゴーヤ・キュウリ・冬瓜・大根・白菜・玉ネギ・大葉など、ご近所にお裾分け・知人へ配り歩いて喜んでもらっている。

 

 わたしが菜園で心がけているのは、農薬を使わないこと、化成肥料もなるべく避けることである。

化成肥料は、ミミズを即死させる作用があるという。だから台所で出る残飯、米糠、畑で抜いた雑草・柿の木など庭の落ち葉などを混ぜ合わせ発酵させたものを堆肥として、鶏糞・牛糞など有機肥料を補助的に用いている。

畠の耕作者のなかには、網を振りかざして蝶々を追い回すおじさんがいる。

たしかに蝶々は青菜に卵を産みつけるだろう。しかしその被害はそんなにひどいものではない。葉っぱに所どころ穴が開く程度だ。

少しぐらい虫たちに食わせてもよいではないか、野菜作りで生業を立てているわけではないでしょう…というのがわたしの立場だ。

畠で土を掘り返していると、まん丸でコロコロした幼虫が出てくる。わたしも昔は鍬でひねりつぶしていた。

根切り虫かもしれないが、野菜を全滅させはしないだろう。うちの野菜で命を長らえるのなら、少しばかりの野菜が被害にあってもよいと思う。

 

  因みにこの秋の種まき・植え付けは次のものである。

91日、白菜をポットに種まき(発芽せず97日に畑地に直播き)。

914日、玉ネギをポットに種まき(発芽がまだらなので、ホームセンターで苗100本    注文。1025日植え付け)。

     この日ジャンボニンニクも植え付けた。

915日、大根の種まき。

919日、春菊・高菜の種まき(1029日、収穫を始める)。

105日、ほうれん草・水菜・小松菜・ルッコラの種まき。

1026日、絹さや・スナップエンドウの種まき。

 

 秋の日差しを受けて、手塩にかけた野菜が背を伸ばしていく。少しづつ摘み取り食卓にのせる楽しみで日に何回か畑に通う生活がつづいているのだ。

 

 

 


ゲスト猫「リリー」がいなくなった

2020年09月15日 | Weblog

 

 819日を境にキジトラ雌猫の「リリー」を見かけない。

5時半が、わが家の起床時間だ。今日は来ているかと期待し縁側の障子を開ける。常であれば縁側に臥せていたり、ガラス戸を見上げて待っている。

それが突然いなくなったのだ。「どうしたのだろう」と立ち回りそうな所を探し回り、近隣の人にたずねても消息不明。

 

 リリーがわが家で食事するようになって7年余りになる。

一歳に満たない小柄なキジトラ猫が来たのには次のような事情がある。

「動物愛護センター」で雌の子猫二匹をもらい受けた。手のひらに乗る500gはどの娘猫だった。

少しづつ成長し数ヶ月したら、縁側のガラス戸ごしに家の中を伺う、ふくふくした雄の茶虎猫が来るようになった。家の娘猫たちに興味をもったのだろう。

鳴く声がかすれているので、かすれ声の歌手「森進一」の一字をもらい「シン」と名付けた。

しばらくすると「シン」が子猫を連れてきた。

縁側に子猫を上げ、自分はその下で「この家は安心だよ」とばかり見守る。子猫が食事を終えるとやおら縁側に上がり残りを食べはじめ、以後連れ立ってやって来るようになった。

子猫は目元がパッチリした美形で、「寅さん映画」に登場する「浅丘ルリ子」に因んで「リリー」と名付けたのが妻である。

 

「シン」も「リリー」もここまで大きくなぅたのには、どこかで食事を頂いていたにちがいない。

しかしもっぱらわが家に来るようになり、朝・昼下がり・夕に食事、縁側に置いた二組の「爪とぎ器」の上で終日過ごすこともあった。

 

 わたしと妻が週に数回バイトに出ていた時期があり、朝から夕方まで家を留守にする。暮れ方、家への路地を曲がると、「リリー」が一目散に駆け寄り出迎え、先導して家に向かう。

そして縁側に座りガラス戸が開くのを見上げて食事を待つ。

この出迎えが健気であり心が和む。

リリーの思い出は尽きないが、次の一件が記憶に残る。

 

 

 リリーが来はじめて半年ほど、3日程来ない日があった。「どうしたんだろうね」と妻と心配していたら、なんと子猫を4匹産んでいたのだ。

わが家の縁側の隅に寒さ除けの小屋が置いてある。そこに4匹の子猫を連れて来た。ここで安心して育てるといい…見守るからねと思っていたら、次の日にはどこかに連れて行ってしまった。

授乳期には母猫に育ててもらい、そのあと子猫を保護して里親を探そう。

3週間目に首を咥えて移動中のリリーを発見。足元にいた二匹を保護、ホームセンターでゲージを購入し養いはじめた。

あわせて「里親」探しをはじめたがこれが難航する。引き取り手がなかなか見つからない。

わが家で面倒を見るわけにはいかないのだ。なぜならわが家の二匹の娘猫は子猫が来てから二階へ上がって降りてこなくなった。

ときたま階段の下まで来て、部屋の様子をみ、子猫の気配を感じるとまた2階に避難する。

動物病院で手当てをしてもらい子猫は二匹とも男の子と分かる。ほどなく里親が見つかり2匹の兄弟猫を引き取ってもらった。

残る子猫は一匹だ(なぜか一匹は行方不明)。4週間目、移動中を発見。リリーの足元にいるので前と同じように簡単に捕まえられると思ったら、リリーと同じ速さで走り去る。

1週間前に2匹を保護した際には、2匹ともウロウロするだけだったのに、素早さをこの1週間で身につけたのだ。

 

 この子猫も食事に来るようになり、縁側に集うのは「シン」・「リリー」・「子猫」そしていつの間にか奥の家の飼い猫まで混ざり4匹となり、飼い猫2匹とあわせて6匹の食事の世話となった。

これ以上増えたら養いきれない。リリーがまた子を産むと困る。「里親」探しは難航するに決まっている。リリーを早く捕まえて避妊手術をしなくては……。

動物病院の「手術日」にあわせて予約し、リリーを捕まえる算段、なにしろリリーは警戒心が強く、身体を触らせない猫だ。

ホームセンターで捕虫網を購入し食事中のリリーにかぶせたが破られて失敗。次の手術日の予約をとり釣具屋でタモを購入したがそれも失敗した。

動物病院の手術日は月に一回だから、月日がどんどん過ぎる。「はやく避妊手術を」と焦りに焦る。

動物病院で「捕獲機」を借りて仕掛けたが成功しない。

 

 見かねた息子の朗が罠を手作りしてやって来てくれた。

第一回目は罠の隙間から逃げられた。朗はしばらく長野へ帰り、改良した罠を仕掛けたがリリーはかからず子猫を捕捉。病院へ連れて行ったら雄だったので去勢手術をしてわが家のゲージで養う。

すると親猫のリリーが窓越しにさかんに呼びかけ、子猫も鳴き交わす。

あまりに切実に鳴き交わすので情にほだされゲージを開ける。リリーと子猫は連れ立って跳んで行く様は嬉しさに溢れていた。子猫は雄だったので貰われていった兄弟猫2匹の後輩として三男坊「サン」と名付けた。

朗の罠の改良でようやくリリーを捉え手術ができたのは半年以上も経ってからだった。

 

 そのうち奥の家の猫が老衰死、「サン」も若くして死亡。

残ったのはシンとリリーだけになった。

相変わらず朝・昼・晩には必ず訪れ、シンは愛おし気にリリーの毛づくろいをして過ごすことも多かった。

こうした日がずぅーとつづくと思っていたのに、突然に行方知れずになってしまったのだ。

わたしたちの寂しい思いは強いけれど、シンの寂しさはいかばかりだろう。

ゲストが一人きりになった縁側には、寒さ除けの小屋と、爪とぎ器が2台日を浴びている。