浅田次郎さんが占守島の戦争を題材に、3年間温めてきた小説を書き上げて7月に出版した。占守島については小学校の先生の教材がインターネットにありましたのでこれで勉強したいと思います。ここに転記します。
平成19年度自由主義史観研究会全国大会レポート/授業案
占守島の戦い
高橋智之(岩手県公立小学校教諭・自由主義史観研究会会員)
1.めあて
・占守島での戦いは、ソ連の北海道占領を阻止する重要な戦いであったことを理解する。
・占守島での戦いで命を失った人々へを敬う気持ちを持つことができる。
・ソ連は、国際法違反の戦争を仕掛けてきた事実を知る。
・明白な国際法違反の行為でありながら、戦勝国であるために非難されていないという国際社会におけるパワーゲーム的な側面について理解する。
2.授業展開案
(●は教師の発問 ○は予想される児童の反応 □囲みは説明 ※は留意事項)
(1)世界情勢について
●昭和16年(1941年)12月8日時点で(正式に)日本と戦争状態になった次のうちどこの国ですか。
・アメリカ ・イギリス ・中国 ・ドイツ ・イタリア ・ソ連(現在のロシア)
○アメリカ、イギリス、中国です。
中国とは昭和12年(1937年)から、戦争状態にありました。さらに、アメリカとイギリスに宣戦布告をして戦争状態になりました。ドイツとイタリアとは、日独伊三国同盟を結んで同盟関係にありましたので、戦争状態ではありません。
●ソ連とはどのような関係にあったのでしょうか。
※意見が出ない場合は、教師が説明。
ソ連とは、昭和16年(1941年)4月に日ソ中立条約を結んでいます。日ソ中立条約とはどのような条約なのかを説明します。(資料1)
ソ連とは戦争状態にはありませんでした。
資料1 日ソ中立条約のポイント
1.お互いの領土に侵攻しないこと。
2.一方が、日本とソ連以外国と戦争状態になっても
他方は中立を守ること。
3.条約有効期限は5年とし、延長しない場合は有効期限が
切れる1年前に通告すること。
●昭和20年(1945年)8月15日、つまり、ポツダム宣言を受諾する直前まで戦争状態にあった国はどこですか。
○アメリカ、イギリス、中国です。
●ソ連とは戦争状態になっていたと思いますか。
○日ソ中立条約の期限内なので戦争状態にはなっていないと思います。
※昭和20年8月8日に日ソ中利条約を破って、ソ連が攻めてきたことを知っている児童がいれば評価して進める。
ソ連は、昭和20年(1945年)4月に条約を延期しないことを通告してきましたが、1945年8月は、まだ期限内でした。なので、皆さんの意見とおりになりそうなんですが、実は違います。1945年8月8日に条約を破って、日本に宣戦を布告してきました。どのような場所から攻めてきたのでしょうか。資料2を見ましょう。
資料2 ソ連の日本への侵攻ルート
●ソ連との戦争はいつまで続いたのでしょうか。3つの中から選びなさい。
1.日本がポツダム宣言を受け入れて降伏した8月15日まで。
2.戦場が東京から遠くはなれた北方のため、現地軍隊は、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知らず、8月15日以降も戦争が続いた。
3.ソ連が火事場泥棒的に弱った日本から領土を奪うために、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知りながら、それを無視して戦いを続けた。
正解は3です。北方の日本軍は、8月15日の夕方には日本が降伏したことを知りました。それにもかかわらずソ連は攻めてきたのです。
(2)占守島での戦いの様子について
●その時の様子について、千島列島の最北端の島である占守(しゅむしゅ)島、つまりに日本領土の最前線を中心にもう少し詳しく見ていきましょう。資料3
資料3 占守島での出来事(1945年)パート1
日時 出来事
8月 8日 ソ連が日本に宣戦布告
8月15日 日本がポツダム宣言を受諾して降伏
8月15日
夕刻 占守(しゅむしゅ)島の日本軍が、日本国のポツダム宣言の受諾を知り武装解除を始める。
8月17日 第5方面軍から、「一切の戦闘行動の禁止。但し、やむを得ない自衛行動は妨げず、その完全徹底の時期を18日午後4時とする。」とう命令が下る。
8月18日
午前2時頃 ソ連軍による占守島の竹田浜への上陸作戦が始まる。それを受けて竹田浜を守る村上大隊と交戦状態となる。
●この時、占守島で指揮を執っていた堤中将は、戦闘命令を出すべきかどうかを迷います。みなさんはどうするべきだと思いますか。
1.戦闘命令を出すべきである。
日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終わっている。
これ以上戦って戦死者を出すべきでない。
部下かから戦死者を出すことなく復員させたい。
2.戦闘命令を出すべきではない。
すでに竹田浜では、戦いが始まっている。
不法に攻めてきた相手に負けるわけにはいかない。戦うべきだ。
※いろいろな意見を出させたい。
●堤中将は戦うことを決断し命令を下します。その後どうなったか資料4・5を見てください。
資料4 占守島での出来事(1945年)パート2
日時 出来事
8月 18日 ソ連軍は四嶺山まで進出したが、第十一戦車部隊の投入などによって、竹田浜方面に向かって敗退し、戦線は膠着状態となった。
8月18日
午後4時 日本のから戦闘行動停止の軍使を送るが、ソ連には停戦の意思は無く、軍使が攻撃される。
8月19日 一触即発の状態で対峙していたが、再び日本が軍使を送り、ソ連軍も受け入れ交渉に入る。
8月21日 第5方面軍からの「戦闘を停止すべし、武器引渡しも了解す。」という命令により、局地停戦協定が締結される。
8月23、24日 日本軍の武装解除が行われる。
第5方面軍・・・北海道・南樺太・千島列島を作戦地域として軍隊。
資料5 占守島での戦いについての比較
日本 ソ連
戦果 占守島の防衛に成功 占守島の占領に失敗
死傷者(日本側の発表) 約600名 約3000名
死傷者(ソ連側の発表) 約1000名 約1500名
停戦協定 武装解除
占守島での戦いでは優勢だったものの、日本国の敗戦により一方的に武装解除させられ負けた形となった。(武装解除…降伏者・捕虜に対してその兵器を強制的に取り上げること。手を上げて敵の前に出ることと同義である。)
●占守島での戦いでは優勢だったものの、日本国の敗戦により一方的に武装解除させられ負けた形になりました。このような結果になったわけですが、戦闘命令を出すべきだったと思いますか。
(3)占守島での戦いの意義
●停戦協定後、千島列島はどのようになったのでしょうか。資料6を見てください。
資料6 占守島での出来事(1945年)パート1
日時 出来事
8月 25日
~31日 25日に松輪島、31日にウルップ島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら、各島を順次占領していった。
8月29日 北千島占領部隊とは別の部隊が、択捉島を占領
9月2日 ミズーリ号上で、日本国が降伏文書に調印
9月1日
~5日 北千島占領部隊とは別の部隊が、国後島、色丹島、歯舞諸島を占領
※択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島について、ソ連軍はアメリカ軍が来ると考え上陸し なかった。しかし、来ないことを知ると占領を開始した。その後、北方4島は不法に占 拠されたまま今日に至る。
資料7 千島列島の地図
このように降伏をしているにもかかわらず、不法に占領され今日至っています。
●もう北海道まで目と鼻の先まで来たソ連軍です。実は、北海道も占領しようと考えていました。資料8を見ましょう。
資料8 ソ連の北海道占領の企て
8月16日にソ連の指導者スターリンは、米大統領トルーマンに対して北海道の北半分 の占領を認めるように要求を送りましたが、拒否されました。
ソ連は、北海道を占領するためにアメリカより先に占領しようと考えていましたが、 22日スターリンは、トルーマンあてに北海道占領を断念する旨の解答を送りました。
22日は、占守島で停戦協定が行われた翌日です。それ以南の諸島はほとんど手つかずの状態にありました。占守島を一日で占領し、一気に北海道に攻め込むつもりでいたソ連軍は、初めの一歩で大きくつまずいたのが原因です。また、樺太では、真岡近郊での戦闘の最中でした。
日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては、樺太千島列島の占領を優先するため、もはや、北海道を諦めざるを得ない状況に追い込まれました。
●最後にもう一度聞きます。戦闘命令を出すべきだったと思いますか。最後に、も う一度考えて見ましょう。
今の北方領土見れば分かりますが、一度占領されてしまうとその国土を取り戻すのは大変困難なことです。北海道の占領を免れたことを考えると、占守島の戦いは大きな意義がありました。
平成19年度自由主義史観研究会全国大会レポート/授業案
占守島の戦い
高橋智之(岩手県公立小学校教諭・自由主義史観研究会会員)
1.めあて
・占守島での戦いは、ソ連の北海道占領を阻止する重要な戦いであったことを理解する。
・占守島での戦いで命を失った人々へを敬う気持ちを持つことができる。
・ソ連は、国際法違反の戦争を仕掛けてきた事実を知る。
・明白な国際法違反の行為でありながら、戦勝国であるために非難されていないという国際社会におけるパワーゲーム的な側面について理解する。
2.授業展開案
(●は教師の発問 ○は予想される児童の反応 □囲みは説明 ※は留意事項)
(1)世界情勢について
●昭和16年(1941年)12月8日時点で(正式に)日本と戦争状態になった次のうちどこの国ですか。
・アメリカ ・イギリス ・中国 ・ドイツ ・イタリア ・ソ連(現在のロシア)
○アメリカ、イギリス、中国です。
中国とは昭和12年(1937年)から、戦争状態にありました。さらに、アメリカとイギリスに宣戦布告をして戦争状態になりました。ドイツとイタリアとは、日独伊三国同盟を結んで同盟関係にありましたので、戦争状態ではありません。
●ソ連とはどのような関係にあったのでしょうか。
※意見が出ない場合は、教師が説明。
ソ連とは、昭和16年(1941年)4月に日ソ中立条約を結んでいます。日ソ中立条約とはどのような条約なのかを説明します。(資料1)
ソ連とは戦争状態にはありませんでした。
資料1 日ソ中立条約のポイント
1.お互いの領土に侵攻しないこと。
2.一方が、日本とソ連以外国と戦争状態になっても
他方は中立を守ること。
3.条約有効期限は5年とし、延長しない場合は有効期限が
切れる1年前に通告すること。
●昭和20年(1945年)8月15日、つまり、ポツダム宣言を受諾する直前まで戦争状態にあった国はどこですか。
○アメリカ、イギリス、中国です。
●ソ連とは戦争状態になっていたと思いますか。
○日ソ中立条約の期限内なので戦争状態にはなっていないと思います。
※昭和20年8月8日に日ソ中利条約を破って、ソ連が攻めてきたことを知っている児童がいれば評価して進める。
ソ連は、昭和20年(1945年)4月に条約を延期しないことを通告してきましたが、1945年8月は、まだ期限内でした。なので、皆さんの意見とおりになりそうなんですが、実は違います。1945年8月8日に条約を破って、日本に宣戦を布告してきました。どのような場所から攻めてきたのでしょうか。資料2を見ましょう。
資料2 ソ連の日本への侵攻ルート
●ソ連との戦争はいつまで続いたのでしょうか。3つの中から選びなさい。
1.日本がポツダム宣言を受け入れて降伏した8月15日まで。
2.戦場が東京から遠くはなれた北方のため、現地軍隊は、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知らず、8月15日以降も戦争が続いた。
3.ソ連が火事場泥棒的に弱った日本から領土を奪うために、日本がポツダム宣言を受け入れたことを知りながら、それを無視して戦いを続けた。
正解は3です。北方の日本軍は、8月15日の夕方には日本が降伏したことを知りました。それにもかかわらずソ連は攻めてきたのです。
(2)占守島での戦いの様子について
●その時の様子について、千島列島の最北端の島である占守(しゅむしゅ)島、つまりに日本領土の最前線を中心にもう少し詳しく見ていきましょう。資料3
資料3 占守島での出来事(1945年)パート1
日時 出来事
8月 8日 ソ連が日本に宣戦布告
8月15日 日本がポツダム宣言を受諾して降伏
8月15日
夕刻 占守(しゅむしゅ)島の日本軍が、日本国のポツダム宣言の受諾を知り武装解除を始める。
8月17日 第5方面軍から、「一切の戦闘行動の禁止。但し、やむを得ない自衛行動は妨げず、その完全徹底の時期を18日午後4時とする。」とう命令が下る。
8月18日
午前2時頃 ソ連軍による占守島の竹田浜への上陸作戦が始まる。それを受けて竹田浜を守る村上大隊と交戦状態となる。
●この時、占守島で指揮を執っていた堤中将は、戦闘命令を出すべきかどうかを迷います。みなさんはどうするべきだと思いますか。
1.戦闘命令を出すべきである。
日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終わっている。
これ以上戦って戦死者を出すべきでない。
部下かから戦死者を出すことなく復員させたい。
2.戦闘命令を出すべきではない。
すでに竹田浜では、戦いが始まっている。
不法に攻めてきた相手に負けるわけにはいかない。戦うべきだ。
※いろいろな意見を出させたい。
●堤中将は戦うことを決断し命令を下します。その後どうなったか資料4・5を見てください。
資料4 占守島での出来事(1945年)パート2
日時 出来事
8月 18日 ソ連軍は四嶺山まで進出したが、第十一戦車部隊の投入などによって、竹田浜方面に向かって敗退し、戦線は膠着状態となった。
8月18日
午後4時 日本のから戦闘行動停止の軍使を送るが、ソ連には停戦の意思は無く、軍使が攻撃される。
8月19日 一触即発の状態で対峙していたが、再び日本が軍使を送り、ソ連軍も受け入れ交渉に入る。
8月21日 第5方面軍からの「戦闘を停止すべし、武器引渡しも了解す。」という命令により、局地停戦協定が締結される。
8月23、24日 日本軍の武装解除が行われる。
第5方面軍・・・北海道・南樺太・千島列島を作戦地域として軍隊。
資料5 占守島での戦いについての比較
日本 ソ連
戦果 占守島の防衛に成功 占守島の占領に失敗
死傷者(日本側の発表) 約600名 約3000名
死傷者(ソ連側の発表) 約1000名 約1500名
停戦協定 武装解除
占守島での戦いでは優勢だったものの、日本国の敗戦により一方的に武装解除させられ負けた形となった。(武装解除…降伏者・捕虜に対してその兵器を強制的に取り上げること。手を上げて敵の前に出ることと同義である。)
●占守島での戦いでは優勢だったものの、日本国の敗戦により一方的に武装解除させられ負けた形になりました。このような結果になったわけですが、戦闘命令を出すべきだったと思いますか。
(3)占守島での戦いの意義
●停戦協定後、千島列島はどのようになったのでしょうか。資料6を見てください。
資料6 占守島での出来事(1945年)パート1
日時 出来事
8月 25日
~31日 25日に松輪島、31日にウルップ島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら、各島を順次占領していった。
8月29日 北千島占領部隊とは別の部隊が、択捉島を占領
9月2日 ミズーリ号上で、日本国が降伏文書に調印
9月1日
~5日 北千島占領部隊とは別の部隊が、国後島、色丹島、歯舞諸島を占領
※択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島について、ソ連軍はアメリカ軍が来ると考え上陸し なかった。しかし、来ないことを知ると占領を開始した。その後、北方4島は不法に占 拠されたまま今日に至る。
資料7 千島列島の地図
このように降伏をしているにもかかわらず、不法に占領され今日至っています。
●もう北海道まで目と鼻の先まで来たソ連軍です。実は、北海道も占領しようと考えていました。資料8を見ましょう。
資料8 ソ連の北海道占領の企て
8月16日にソ連の指導者スターリンは、米大統領トルーマンに対して北海道の北半分 の占領を認めるように要求を送りましたが、拒否されました。
ソ連は、北海道を占領するためにアメリカより先に占領しようと考えていましたが、 22日スターリンは、トルーマンあてに北海道占領を断念する旨の解答を送りました。
22日は、占守島で停戦協定が行われた翌日です。それ以南の諸島はほとんど手つかずの状態にありました。占守島を一日で占領し、一気に北海道に攻め込むつもりでいたソ連軍は、初めの一歩で大きくつまずいたのが原因です。また、樺太では、真岡近郊での戦闘の最中でした。
日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては、樺太千島列島の占領を優先するため、もはや、北海道を諦めざるを得ない状況に追い込まれました。
●最後にもう一度聞きます。戦闘命令を出すべきだったと思いますか。最後に、も う一度考えて見ましょう。
今の北方領土見れば分かりますが、一度占領されてしまうとその国土を取り戻すのは大変困難なことです。北海道の占領を免れたことを考えると、占守島の戦いは大きな意義がありました。