和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

カレンダー読み。連続読み。

2022-07-04 | 古典
徒然草の第127段は、とくに短い。

 改めて益無き事は、改めぬを、良しとするなり。

はい。これだけ。ついでに、この段の『評』も短い。

「簡潔の極みとも言うべき、忘れがたい名言である。」

これが、島内裕子さんの『評』でした。

この段で私にすぐ思い浮かんできたのは
名言が書き込まれた日めくりカレンダー。

それはそうと、黒澤明の言葉が思い浮かんだ段もあります。
第150段には『譏(そし)り笑はるるにも恥じず』とある。

そういえば、黒澤明著「蝦蟇の油」の、まえがきにあった。

「 面白く読んでもらえる自信はないが、
  人間恥をかくのを恐れてはいけない、

  と常日頃後輩に云っている言葉を
  自分自身に云いきかせて、書き始める事にする。」


はい。これだけじゃ、チンプンカンプンで終わっちゃう。
ここは、徒然草第150段の、島内裕子訳を引用してみます。

「 何かの芸能を身に付けようとする人は、
 
 『上手にならないうちは、なまじっか他人に知られないようにしよう。
  こっそり、よく習っておいて、そのうえで、人前に出たならば、
  たいそう奥床しいだろう』

 と、世間ではよく言うようだが、
 このように言う人は、一芸も上達しない。

 まだ、まるっきり下手で未熟なうちから、上手な人たちに交じって、
 馬鹿にされ笑われても恥と思わず、平気で過ごしてさらに努力する人は、
 生まれつきの天才的な才能はなくとも、
 たゆまず、ないがしろにせず年月を送ってゆけば、

 生まれつき才能があっても一生懸命に練習しない人よりは、
 ついには上手になり、人徳も付き、世間からも許されて、
 並ぶ者なき名声を博することになるのだ。

 天下の名人と言われる人でも、
 最初は下手であるという評判があったり、
 ひどい欠点があったりしたのである。

 けれども、その人が、その道の教えを大切にし、よく守って、
 気まま勝手にしなければ、世間の人からお手本と仰がれ、
 万人の師匠となることは、どの道でも変わりはないはずである。」

        ( p300 ちくま学芸文庫「徒然草」 )

島内裕子さんは、この段を『評』して

「 これは、名人論である。
  徒然草で、ここまで正面切った名人論はこれまでなかった。
  名人になるための心理的な側面に注目して、
  練習をする際の『他者の眼』の重要性と、 
  地道な努力こそが大切であると、明確に述べている。・・・」

ここまできたら、兼好の肉声というか、原文を引用しておかなきゃ。
不親切になるかもしれない。『謦咳に接する』ということでもある。

「 能(のう)付かんとする人、

 『よくせざらん程は、憖(なま)じひに人に知られじ。
  内々良く習ひ得て、差し出でたらんこそ、いと心憎からめ』

 と、常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得る事無し。
 いまだ堅固、片帆(かたほ)なるより、上手の中に交じりて、
 譏(そし)り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、

 天性、その骨(こつ)無けれど、道に泥(なづ)まず、
 妄(みだ)りにせずして年を送れば、

 堪能の嗜(たしな)まざるよりは、終(つい)に上手の位に至り、
 徳長(た)け、人に許され、双無(ならびな)き名を得る事なり。

 天下の物の上手と雖(いへど)も、
 初めは不勘(ふかん)の聞こえも有り、
 無下の瑕瑾(かきん)も有りき。

 然(さ)れども、その人、道の掟正しく、これを重くして、
 放埓せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、
 諸道、変はるべからず。  」       ( p299 文庫 )


はい。調子にのって原文を引用しましたが、
徒然草の魅力はここで終わらないのでした。
お次の第151段は、論語が基にあるだろう言葉からはじまります。

「 或る人の云はく、
 『年、五十になるまで、上手に至らざらん芸をば、
  捨つべきなり。励み習ふべき行末も無し、
  老人の事をば、人も、え笑はず。
  衆に交はりたるも、あいなく、見苦し』。・・・」

ここを、島内裕子さんは『評』して

「前の段に引き続き、名人論であるが、
 ここでは、名人になれなかった場合の
 身の処し方を述べている点で、単なる
 名人論を超えて、人生の生き方を問う論になっている。
 人は、誰でもが名人になれるわけではない。しかし、
 人は誰しも、自分の人生を生きてゆくのであるから、
 この段は、普遍性を帯びた言説と言えよう。・・・・・」
            ( p302 文庫 )

こうして、「日めくりカレンダー」読みから、
徒然草連続読みへ、と踏み込んでゆくことに。
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彫金師にも、画師にも、大工にも。

2022-07-03 | 古典
島内裕子さんは指摘しております。

「 徒然草には無名の人間の言動をめぐる章段は多い。
  
  木登り名人の言葉(第109段)や、
  故実に通暁していた又五郎(第102段)や、
  宇治の里人たちの水車技術などの話(第51段)は、

  どれも短い話であるが、彼らが現実をよりよく生きるために
  自然と身についた能力や技術・知識が発揮され、
  人間の真実がよく描き留められている。

  そのような視点があるからこそ徒然草は、
  時代を越えた普遍性を持つのである。  」

         ( p28 「徒然草文化圏の生成と展開」 )


そういえば、杉本秀太郎の「神遊び  祇園祭について」でした。

祇園祭のはじまりの、風流を着想した人へと、杉本氏の考察が及びます。
そこいらを、引用しておくことに。

「 風流の着想をした人が、手ぶら徒手空拳で、
  そういう着想を得ただろか。

  ここには、だれかの手が介入している。その手がなければ、
  着想が目にみえる形を帯びることのないような手、
  それは職人の手でなければならない。町衆と職人とが協同するとき、
  物知りは物好きにと変態をとげる。・・・・・・・
  物好きが、いかに冒険好きで眩暈を楽しむものか・・」

この実例として杉本氏は『浄妙山という山』のことを語ります。
宇治川の合戦での宇治橋での一場面を人形にした山なのですが、
具体的な説明の箇所はカットゆきます。その次でした。

「浄妙山を例にした序でに、壮大な染織展覧会というべき
 祇園祭の一端を示す実例も、この山から引いておこう。

 山鉾には、見送(みおくり)と呼ばれている装飾がある。
 巡行のとき、目前をすぎる山鉾を名ごり惜しげに見送ると、
 かならず人目に入る後方の装飾布がある。

 これの反対がわ、前方の装飾布は前掛(まえがけ)とよばれるが、
 浄妙山の見送と前掛は、本山善右衛門という人の作品である。

 善右衛門は浄妙山の町内に住んでいた綴織の職人である。
 もとより・・無名の職人だ。そしてこの人は三年の歳月をついやして、
 自町の風流のために打ちこんだのである。・・・
 素山と号した善右衛門は、ほかの山にはない装飾をこさえる
 という念願にはげまされて、刻苦して仕上げたということだが、
 物好きな神遊びの骨頂がここにある・・・・

 そしてこういう物好きの実例は、
 すべての山鉾にかならず一つならず見出されるものなのだ。
 織布の職人のほかに、彫金師にも、画師にも、大工にも、
 祇園祭にかかわるこの種の逸事はずいぶん多い。・・・・」


 うん。杉本氏の文の、その最後からも引用しておきます。

「・・・・祇園祭の山鉾の構造は、一口でいえば
『木造組立式、枘差(ほぞさ)し、筋違入、縄がらみ』ともいうべきもので、
『全体的に変形の余裕を残した柔らかな構造』なのだ。

 神遊びに、裏おもてがあってはまずい。山鉾は、すべての
 装飾をほどこされた祭礼の日の晴れ姿だけが美しいわけではない。
 組立の大工が縄がらみにした木の骨組は、縄目の揃え方、からみの締め方
 まで、みごとにととのった一糸乱れぬ縄扱いがほどこされている・・

 スサノオノミコトは、祭にたずさわってきた物好きな人びとにとって、
 けっして無縁のカミだったわけではない。
 職人の技芸にとって、カミとは、きょうこれからの仕事そのものであり、
 あすの仕事の出来映えである。

 本山善右衛門が、かがり織の仕事にとりかかるとき、
 かならず柏手を打って、スサノオノミコトに偶然の幸を祈ったことを、
 ・・すこしのうたがいもないことだと思っている。  」


はい。杉本秀太郎の「神遊び 祇園祭について」は
短いのですが、読みごたえがありました。
ちょうど、7月にかけて読めよかったです。





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そうしておこう。

2022-07-02 | 古典
杉本秀太郎の「神遊び 祇園祭について」(昭和48年)の
祇園囃子のあとには、いよいよカミ談義となっております。

「 八坂神社の主神はスサノオノミコトである。
  そうしておこう・・・   
  山と鉾には、それぞれに御神体というものがある。」

はい。このような箇所から引用してみます。

「 もしも仮にスサノオノ鉾というのがあれば、
  その鉾は、他の鉾からも山からもきびしく区分され、
  ここに身分差というべきものが生じ、

  風流における競合ではぜったいに避けねばならない
  あの特例が、介入するにいたるだろう。
  特例は風流のおもしろさを、一挙に味気なさにと、
  おとしめるにいたるだろう。・・・    」


はい。私には手におえないので、カットしながら続けます。

「祇園祭の神遊びは、こうして祇園囃子の耳遊びから、
 さらにこんどは目の遊びのほうに、領界を移して成立する。

 カミは風流のたねになるものを手あたりしだいに
 拾い取って、それで身をやつすのだ。

 日本の神話、古今和歌集、源平の戦記、謡曲集、
 和朝二十四孝童蒙訓、さらには町誌からさえ、
 風流のたねは自由勝手に取りあげられ、
 手はさらに中国にも伸びて堯代の泰平逸事、
 函谷関の故事、魏晉南北朝の佳話、支那二十四孝が、
 カミのかくれ簑となる。

 祇園祭の解説パンフレットでも開いて鉾と山の名を一覧しさえすれば、
 風流とは、物知りの遊びであったことが、だれの目にも映るにちがいない」

はい。杉本秀太郎氏は、八坂神社の主神を仮に、
『そうしておこう』としてはじめておりました。

うん。ここから徒然草に現れる信仰心を思い浮かべます。
島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」(笠間書院)に徒然草の
第67段・第68段・第69段という連続する三章段への指摘があります。

「これらの連続する三段はすべて信仰心という点で繋がっている。・・
 これら三章段が連続して書かれていることの意味を問い直す必要が
 ないだろうか。もう一度振り返ってみれば、

 最初が和歌の神への信仰心であり、
 次が土大根への信仰心、
 最後が書写山円教寺を開山した高僧性空上人のこと、
 というようにこの連続する三章段には、
 神道、民間信仰、仏教への信仰心が書かれていることになる。

 つまり、ここでどれか特定の宗教に対する信仰心を書くのではなく、
 神道・民間信仰・仏教というようにそれぞれの分野の信仰心と、
 それから招来された利福を描いている点こそが重要だろう。

 兼好の執筆方法として連想による展開ということが言われるが、
 もし兼好にとって信仰というものに優劣があったならば、
 このような書き方にはならず、
 仏教なり神道なりの分野での例示が連続するのではないだろうか。」

うん。もうちょっと引用をさせてください。

「 徒然草には僧侶や法師たちが多数登場するが、
  彼らは有名無名を問わず、滑稽な失敗をしたり、
  かたくなな人物として批判的に描かれたりすることも多い。

  もちろん称賛の対象として取り上げられている法師たちもいるが、
  彼らとて型に嵌った偉人としてではなく、意外な側面や、
  世間の常識を超越した個性的な人物として描かれている。

  つまり徒然草においては、彼が体現している
  教義のすばらしさを述べるところに主眼はなく、
  人間的な息吹や柔軟な精神に着目して登場していると考えられる。」
                ( ~p49 )

2022年の祇園祭は3年ぶり本来の形で開催されるそうです。
だからって、怠け者の私は見にもゆかず7月は徒然草読み。




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コンコンチキチン、コンチキチン。

2022-07-01 | 古典
杉本秀太郎著「洛中生息」が手元にあるので、
そのなかの「神遊び 祇園祭について」を改めて読む。

はじまりは藤枝静男著「欣求浄土」を紹介し、
その宮司の声と所作を引用しているのでした。

「 突然、宮司が『オーッ、オーッ』というような
  叫び声をあげて神を呼びはじめた。・・・    」

この声に導かれるように杉本秀太郎は
ご自分の祇園祭を語り始めるのでした。


「・・祇園囃子を子守歌にして育ったようなものだ。
 もっとも、この子守歌は、二階囃子といって
 お囃子の練習がはじまる六月末から七月二十四日までの
 子守歌なのだが、幼少期を通じてほぼ一箇月のあいだ、
 毎日かならず聞いていた・・・・」

「 祭の近づいたことをカミに知らせるのは、
   ・・・・・祇園囃子の練習開始である。 」

こうして祇園祭は、囃子の話からはじまります。
それが導入部です、ここだけでも引用しなきゃ。

「梅雨明けまでに、まだ幾日もある六月のかわたれどきに、
 ・・家には二階囃子が聞こえてくる。

 能楽で用いるのとおなじ太笛が、幽婉とした曲想をかなでて、
 カミをさそう。・・鉦叩きで内がわの縁辺と底とを打叩く・・
 太鼓が、下方から笛と鉦とを支えながら・・
 前へ、前へと衝迫的にこころをそそのかすリズムを刻み、
 カミのこころに、ときめきを起こさせる。

 祇園囃子といえばコンコンチキチン、コンチキチンと、
 人びとは受取ってしまうが、二階囃子の練習期間に、
 祭の音楽の担い手たちがくりかえし練習するのは、
 そういうふうに聞こえるせわしない囃子ではなくて、
 ・・・きわめてゆるやかで荘重な曲である。しかも、
 単に一種類ではなく、そういう曲がいつくも・・・
 七基の鉾三基の曳き山それぞれにまたちがった曲が、
 それくらいずつ伝えられていて・・だから、半月近くも、
 毎晩そういうむつかしい曲を、ことさらに練習するのである。

 七月十七日の山鉾引きまわしの日・・・
 それらの曲は出鉾囃子と称して、鉾が四条通をまっすぐ
 東へすすむ数町のあいだだけ奏される。そして四条通の
 まっすぐ東の突き当りといえば、八坂神社である。

 出鉾囃子は、つまり神楽囃子のようにカミに奉納する音楽であり、
 また舞いをともなっている。舞い手は鉾のうえに乗っている稚児である。

 『コンコンチキチン、コンチキチン』というふうに聞こえる囃子は
 戻り囃子といって・・町かどを折れてしまってから奏される。
 すでに戻りにかかっているのだ。戻り囃子もまた二十曲、三十曲と
 曲目があり・・くりかえし練習される・・こころせわしい曲だ。
 ・・そして、カミとヒトとの別離がもう間近いことを予感している
 悲しみが、戻り囃子には表現されている。」

はい。このあとでした。杉本秀太郎氏は、カミとヒトとを語ります。

「 戻り囃子の時間は、
  ヒトは、カミからヒトへと戻ろうとし、
  カミは、ヒトのもとを去ろうとして後ろ姿を見せている。
  
  ヒトは突然、カミの姿を見失う。
  カミは、来年ふたたびあらわれるためには、
  ここで姿を消さなければならないのだ。・・・   」

はい。杉本秀太郎氏の「祇園祭」の文は、とりあえず半分
なんですが、私はこれで満腹。はい。ここで中〆とします。

どういうわけか思い浮ぶのは、徒然草の第137段でした
( ここは、島内裕子さんの徒然草訳でもって引用 )。

「それはさておき、賀茂祭では、牛車や簾など、どこにも
 葵の葉を懸けているのが何とも優美だ。
 夜がすっかり明けきらぬうちから、目立たぬように、
 行列がよく見える場所を取るために、牛車があちこちから寄せて来る。
 ・・・
 そうこうしているうちに祭が始まり、面白くもあり、
 また華やかなきらめきが素晴らしくもあり、
 さまざまな様子で行列が過ぎてゆく。それを見ていると、
 本当に飽きることなく、あっという間に、祭りの一日が終わってしまう。

 いつの間にか夕暮れになって、通りに面して
 あんなにも立ち込んで並んでいた牛車も、また、
 ほんの少しの隙間もなくぎっしりと並んでいた見物の人々も、
 いったい、いつの間にどこへ行ってしまったのだろうか、
  ・・・・
 この一日の明け方から夕暮れまで、都大路のありさまの
 すべてを見るのこそ、本当に賀茂祭を見たということになるのだ。
 華やかな行列を見るだけが、祭を体感することではない。
  ・・・・・・・・                   」

はい。吉田兼好が観た賀茂祭と、
杉本秀太郎のよく知る祇園祭と、
その両方が同時に肩を並べます。

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