和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「羽衣」と「諸国の天女」。

2006-10-30 | Weblog
謡曲に「羽衣」がある。
内容のあらましは、駿河の三保の松原に天女が天降り、松に掛けて置いた羽衣を漁夫に取られてしまう。その漁夫に乞ひて、衣をかえさしめ、その所望で舞楽を奏でて、舞い戻ってゆく。


「風早(かざはや)の、三保の浦わをこぐ舟の、浦人騒ぐ浪路かな」
と謡曲は始まります。
漁夫とのやりとりはというと
「なうその衣は此方(こなた)のにて候。何しに召され候ぞ。」
「是は拾ひたる衣にて候程に取りて帰り候よ。」
「それは天人の羽衣とて、たやすく人間に与ふべき物にあらず。元の如く置き給へ。」
「そも此衣の御主とは、さては天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特に留めおき、国の宝となすべきなり、衣を返す事あるまじ。」
「かなしやな羽衣なくては飛行(ひぎょう)の道も絶え、天上に帰らんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。」

ちょいとここで、永瀬清子著「光っている窓」(編集工房ノア)のなかの「本当はどうなのだろう」をもってきてみます。

永瀬さんは「私が詩を書き出したのは19歳か20歳の頃であった。」と書き始めております。途中をとばして
「次に出した詩集は『諸国の天女』で、これも民間の伝説に基づいているのは、私の心の傾向を示しているのであろう。昭和15年に出版したが、その作品を書いたのはその二、三年前の『四季』であった。その頃、柳田国男先生の著書をせっせと読んで居り、又先生の講座を聞きに毎週お茶の水の佐藤生活会館へ通ったりもした。・・柳田先生の本の中では、日本の各地に天女伝説がある事を知った。一番よく知られているのは謡曲にもある駿河の国三保の松原に降りた天女の話である。・・・
本当はどうなのか。天へ帰った天女のほかに、人は気づかなくても夫や子供のため、働く女として地上に止まった天女がもっとありはしないだろうか。私にはそうした天女がありそうに思えてならなかった。それを書いた詩が『諸国の天女』なのであった。その最後の所は、

 きずなは地にあこがれは空に
 うつくしい樹木にみちた岸辺や谷間に
 いつか年月のまにまに
 冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる

と結んでいる。・・・」


もう一度謡曲「羽衣」にもどりましょう。
その最後はこんな言葉でした。

「さるほどに時移つて、天の羽衣浦風に、たなびきたなびく三保の松原、浮島が雲の、足高山や富士の高嶺、かすかになりて天つ御空の、霞にまぎれて失せにけり。」


ところで、元旦に漱石を訪れた高浜虚子は、二人して、この「羽衣」のどこまで謡ってから、漱石の下手さにこらえられずに笑い出したのでしょうね。 


(謡曲は、有朋堂書店「謡曲集 上下」(有朋堂文庫 大正3年)の古本から適宜引用しました)

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (曲月斎)
2007-02-07 02:10:44
「羽衣」は謡っていても楽しい曲です。
前半のクリ、サシ、クセの部分はじっくりと位を持って謡い、後段の衣を返して貰ってから大きく伸びやかに謡うのが謡う側のダイナミズム。緩急もついて「浦風に、靉き靉く三保の松原、浮島が雲の、愛鷹山や富士の高嶺、かすかになりて天つ御空の、霞に紛れて失せにけり」というところは天女さながらの気分ですよ。

ところで、小書(特別演出)の一つに、喜多流の「霞留」というのがあります。最後の一句「失せにけり」を地謡は謡わないのです。その間にシテは幕に入るのですが、文句を承知して見ている側には不思議な余韻が残る、いい演出だと思います。

これも機会があればどうぞご覧くだされ。
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う~ん。 (和田浦海岸)
2007-02-07 11:16:37
「謡っていても楽しい曲」というのが素敵ですね。いつか、機会に恵まれたら・・・。
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