和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

私の机の前。

2017-06-10 | 幸田文
新刊購入。
渡部昇一著「知の湧水(ゆうすい)」(WAC)。
この本は雑誌WILL2014年3月~2016年12月号まで
連載された『遅の井の湧水』を改題したものだそうです。

うん。渡部氏が亡くならなければ買わなかったと思う。
雑誌のバックナンバーをそろえていたし
(読んでいなかったのですが)いつでも読めると思っていました。

あらためて、読めてよかった。
その「座談の愉しみ」に露伴が語られています。

「その後は、新制高校でも露伴に触れることはなかった。
大学でも教養課程の頃は無関心だった。ところが、
大学三年生の時に神藤克彦教授の授業に出たことで
一変したのである。神藤先生はスムーズに大学を
出られた方でなかった。旧制中学を出られてから、
しばらく家業についておられたが、向学の志やみがたく、
学費の要らない広島高師、広島文理大学に進まれたのであった。
学校から離れざるを得ない事情がありながら、
学問を憧れる気持ちが強く、ついにまた高等教育の場に
戻られた方には一つの特徴があると思う。
それは修養、立志伝中に出てくるタイプの
修養の期間があったということである。・・
学校のコースから離れざるを得なかった人で
向学心のある人は、自分の内省、修養によって
その志を育てるより仕方がない。
それは露伴も同じことで、彼がしばしば
修養の本・努力の本を書いたのは、
そういう体験を経ていたからである。
ある大学教授で露伴の研究家と称する人が、
露伴が小説や詩などの文学に専心せず、
修養書の多いことを嘆く主旨の文章を書いた人がある。
私は『この人は露伴の本当のところが分かっていないナ』
と思わざるを得なかった。
このように私が考えるようになったのは、
神藤先生のご自宅にほとんど日参するように
なったからである。・・・・先生はこう言われた。
『露伴の偉さが分かるためには、彼がどういう修養を
した人間であるかを知らなければならない。
そのためには、まず『努力論』を読むことだ。
『修養論』(私注:これは「修省論」でしょう)もよい
・・・・』というわけで、まず『努力論』を
薦めてくださった。大学の授業で挙げられる参考文献と異なり、
ご自宅で茶卓を前にして薦められる本は
先生自身の人格、あるいは人生が籠められているように感ずるものだ。
そして『努力論』は私の最も重要な愛読書となり、
あれから六十年ほど経ついまでも、
私の机の前、三、四十センチ離れたところ、
つまり手の届くところにある。」(~p114)

関連でp160~161も読ませます。


うん。いつか『努力論』をパラパラとめくったことが
あったけれど、ちっとも、私には理解できませんでした。
今年の夏。あらためて開いてみます。

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