柴田宵曲著「漱石覚え書」(中公文庫)に植物園と題する見開き2ページほどの文があります。こうはじまります。
「寺田寅彦の名は科学者としてよりも先ず文学上に現れた。『ホトトギス』の百号(明治38年4月)に出た『団栗』が最初の作品で、三重吉の『千鳥』ほど華々しくはなかったけれども、寅彦の特色は已にこの一篇に遺憾なく発揮された観があった。病余の細君と一緒に小石川の植物園に遊ぶところが全篇の山であり、細君の歿後六つになる遺児を連れて同じ場所に遊ぶ一条を以て之を結んでいる。母の面白がって拾った団栗を遺児も亦面白がって拾う、それがこの題名の生れる所以であるが、植物園を題材として作品で、これほど短い中に無限の情味を湛えたものは、前にも後にも無いかも知れぬ。この作者は当時小石川の原町に住んでいた。植物園とは地理的にも因縁がある。・・・・」
というのが、短文の前半であります。
小石川の植物園といえば、「幸田文対話」(岩波書店)に、
山中寅文氏との対談があるんです。
思い浮かぶので、ひっぱりだして引用しておきます。
【山中】はじめてお目にかかったのは、もう二十年前になりますか。お一人で植物園にいらしたでしたね。
【幸田】そう、私が六十になった頃でしたか・・・。娘が結婚し、子どももうまれ、順調に育ち、まずは一段落でホッとしたのですが、さてこれからさき何へ心をよせていこうかと思ったときに、住居のすぐ近くに小石川植物園があったことは幸いでした。・・・・・
ふと思いついて植物園に出かけたのです。ところが園の中は広いし、植物は何もしゃべらないし、まことにどうも、面白くない。ベンチに腰かけていたら、白衣を着た人が通りかかった。『植物園の方ですか』って声をかけると『そうだ』と言う。ベンチの後ろにスーッと何本かのもみじが並んで折柄実がなっていました。『あれ、幾つくらいなってるんでしょうね?』ってその人に聞いたら、言下に『まあ、五千だね』って。たまげましたね。おっかぶせて『どうしてわかるんです?』そう聞いちまうところは、我ながら憎たらしいけど、憎たらしいのも、物を聞く機縁の一つでしょうかねぇ。『そりゃ、数えたことがあるからさ』といわれて、こりゃいけないと思いました。あれから、もう二十年になるのですね。
・・・・・・・・・
【山中】たとえばランの種子は、一果に十万ぐらい入っていますが、まれにしか生えてきません。種子の多い植物は弱いのです。一番強い種子は何かというとドングリです。ドングリは、一つしか実がなりませんが、どこに落ちても必ず芽が出る。種子の多い、一本に何十万も種子のなる木はまことに弱いけれども、神様がもしたくさんの実をつけて下されば、千に一つは生えるので、それで充分ということになるんですね。
伝法な口をきく幸田文さんとのやりとりが何ともいえません。
「千に一つ」といえば、漱石が虚子に返事を書いた明治39年7月2日付の手紙が思い浮かびます。
「啓上其後御無沙汰小生漸く点数しらべ結了のうのう致し候。昨日ホトトギスを拝見したる処今度の号には猫のつづきを依頼したくと存候とかあり候。思はず微笑を催したる次第に候。実は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒くらいづつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちに物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千万粒のうち一つ位が生育するものに候。・・・・・
小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が楽しみに候。
又喧嘩が何年出来るか夫が楽に候。
人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分からぬものに候。
握力杯は一分でためす事が出来候へども
自分の忍耐力や文学上の力や強情の度合いやなんかは
やれる丈やつて見ないと自分で自分に見当のつかぬものに候。
古来の人間は大概自己を充分に発揮する機会がなくて
死んだろうと思われ候。惜しい事に候。
機会は何でも避けないで、
其儘に自分の力量を試験するのが一番かと存候。・・・・」
まだこれから興味深い言葉がつづくのですが、このくらいで切り上げます。
ちなみに、漱石はこの手紙を書いた明治39年の4月に『坊つちやん』をホトトギスに発表しておりました。9月には『草枕』を発表します。
え~と。寺田寅彦・幸田文・夏目漱石でした。
ところで、漱石と小石川植物園との関係は、
どなたか、ご存知の方いますでしょうか?
「寺田寅彦の名は科学者としてよりも先ず文学上に現れた。『ホトトギス』の百号(明治38年4月)に出た『団栗』が最初の作品で、三重吉の『千鳥』ほど華々しくはなかったけれども、寅彦の特色は已にこの一篇に遺憾なく発揮された観があった。病余の細君と一緒に小石川の植物園に遊ぶところが全篇の山であり、細君の歿後六つになる遺児を連れて同じ場所に遊ぶ一条を以て之を結んでいる。母の面白がって拾った団栗を遺児も亦面白がって拾う、それがこの題名の生れる所以であるが、植物園を題材として作品で、これほど短い中に無限の情味を湛えたものは、前にも後にも無いかも知れぬ。この作者は当時小石川の原町に住んでいた。植物園とは地理的にも因縁がある。・・・・」
というのが、短文の前半であります。
小石川の植物園といえば、「幸田文対話」(岩波書店)に、
山中寅文氏との対談があるんです。
思い浮かぶので、ひっぱりだして引用しておきます。
【山中】はじめてお目にかかったのは、もう二十年前になりますか。お一人で植物園にいらしたでしたね。
【幸田】そう、私が六十になった頃でしたか・・・。娘が結婚し、子どももうまれ、順調に育ち、まずは一段落でホッとしたのですが、さてこれからさき何へ心をよせていこうかと思ったときに、住居のすぐ近くに小石川植物園があったことは幸いでした。・・・・・
ふと思いついて植物園に出かけたのです。ところが園の中は広いし、植物は何もしゃべらないし、まことにどうも、面白くない。ベンチに腰かけていたら、白衣を着た人が通りかかった。『植物園の方ですか』って声をかけると『そうだ』と言う。ベンチの後ろにスーッと何本かのもみじが並んで折柄実がなっていました。『あれ、幾つくらいなってるんでしょうね?』ってその人に聞いたら、言下に『まあ、五千だね』って。たまげましたね。おっかぶせて『どうしてわかるんです?』そう聞いちまうところは、我ながら憎たらしいけど、憎たらしいのも、物を聞く機縁の一つでしょうかねぇ。『そりゃ、数えたことがあるからさ』といわれて、こりゃいけないと思いました。あれから、もう二十年になるのですね。
・・・・・・・・・
【山中】たとえばランの種子は、一果に十万ぐらい入っていますが、まれにしか生えてきません。種子の多い植物は弱いのです。一番強い種子は何かというとドングリです。ドングリは、一つしか実がなりませんが、どこに落ちても必ず芽が出る。種子の多い、一本に何十万も種子のなる木はまことに弱いけれども、神様がもしたくさんの実をつけて下されば、千に一つは生えるので、それで充分ということになるんですね。
伝法な口をきく幸田文さんとのやりとりが何ともいえません。
「千に一つ」といえば、漱石が虚子に返事を書いた明治39年7月2日付の手紙が思い浮かびます。
「啓上其後御無沙汰小生漸く点数しらべ結了のうのう致し候。昨日ホトトギスを拝見したる処今度の号には猫のつづきを依頼したくと存候とかあり候。思はず微笑を催したる次第に候。実は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒くらいづつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちに物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千万粒のうち一つ位が生育するものに候。・・・・・
小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が楽しみに候。
又喧嘩が何年出来るか夫が楽に候。
人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分からぬものに候。
握力杯は一分でためす事が出来候へども
自分の忍耐力や文学上の力や強情の度合いやなんかは
やれる丈やつて見ないと自分で自分に見当のつかぬものに候。
古来の人間は大概自己を充分に発揮する機会がなくて
死んだろうと思われ候。惜しい事に候。
機会は何でも避けないで、
其儘に自分の力量を試験するのが一番かと存候。・・・・」
まだこれから興味深い言葉がつづくのですが、このくらいで切り上げます。
ちなみに、漱石はこの手紙を書いた明治39年の4月に『坊つちやん』をホトトギスに発表しておりました。9月には『草枕』を発表します。
え~と。寺田寅彦・幸田文・夏目漱石でした。
ところで、漱石と小石川植物園との関係は、
どなたか、ご存知の方いますでしょうか?
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