曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)を
とりあえず、一回読みとおしました。
四十の手習いで、堀田神父から、聖書の勉強を始めた
という曽野さんの10年の記録でもあるこの文を
とりあえずは、一回読めたことを喜ぶことに。
題名にもある『パウロ』について、こうあります。
「 パウロほど、信仰を持つ、ということはどういうことかを、
適切かつ正確に、眼に見えるように表現した人は、
ほかにいないのではないかと思う。 」 (p46)
聖書についても、曽野さんはこう指摘しております。
「 ・・聖書を読めば、何もかも書いてあるのになあ、
と思ったことが何度もあったのである。・・ 」(p101)
「 貧困、病気、戦争、飢え、裏切り、死別、精神的迫害、
こららのものは、聖書にすべて登録済みであり、
その願わしくない面と共に、それらの願わしくない面が
試練として人間を強める場合も描いている。・・・ 」(p120)
「東日本大震災の個人的記録」と副題にある
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日刊)の
はじめの方にパウロが出て来ておりました。
「・・新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、ところどころに
実に特殊な、『 喜べ! 』という命令が繰り返されている。
私たちの日常では皮肉以外に『 喜べ! 』と命令されることはない。
感情は、具体的な行動と違って外から受ける命令の範疇外のことだからだ。
だから聖パウロの言葉は、人間が命令されれば心から喜ぶことを
期待しているのではないだろう。
喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ。
人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。
しかし今手にしているわずかな幸福を
発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。・・・・ 」(p29)
もどって、『心に迫るパウロの言葉』には、こんな箇所がありました。
「 ただ神に出会うことなど絶対にあるものかという人は少し寂しい。
人間が理解する範囲は実に小さく、私たちはいつどれほど変わるか
(死をも含めて)分からないのだから、
その恐れさえ承認しない人というのは、人間というものに対する
基本的な慎ましさと柔軟性に欠けるような気がする。・・・ 」(p82)
はい。こういう舌足らずな引用は、誤解を招きやすそうですが、
ここは、私自身の備忘録として引用しております。