和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『きりすて法』と『別世界』。

2023-02-09 | 短文紹介
梅棹忠夫の『知的生産の技術』に「きりすて法」とある。
うん。紹介してみることに。

「たとえば、日本の研究者・・」と指摘しております。

「アメリカなどでは、論文や著書は、印刷して公表するまえに、
 原稿の複写というかたちで、それぞれ数人の専門家たちに
 目をとおしてもらう、というのがふつうのやりかたである。

 その原稿が、海をこえてわたしどものところまでまわってくる。
 ところが、こちらはそんなことは、したことがない。

 印刷され、発表されたものをみているかぎり、形はおなじだが、
 内容の吟味という点では、あきらかに一段階ちがうのである。

 これを、技術の不足にもとづく研究能力の
 ひくさといわずして、なんであろうか。          」( p5 )


はい。このあとに『きりすて法』が出てくるので
もうしばらく、おつきあいください。

「 研究に資料はつきもので、研究者はさまざまな資料
  ――たいていは紙きれに類するものだが――
  をあつかわなければならない。

  ところが、そういうものの整理法の研究がすすんでいないために、
  おおくの研究者は、どうしていいかわからない。研究室は
  わけのわからぬ紙きれの山で大混乱ということになる。

  そこで、混乱をふせぐために、しばしばとられている方法は、
  いわば『きりすて法』とでもいうようなやりかたである。

  ・・・できるだけせまい分野にとじこめてしまって、
  それに直接の関係をもたない事項は、全部きりすててしまうのである。

  そういうふうに、みずから専門をせまく限定すると、   
  必要な資料はごくすくないものとなる。それ以外の資料は、
  すべてまるめて紙くずかごにほうりこめばいい。     」( p6 )


はい。この新書は1969年出版ですから、今から54年ほど前に書かれました。
パソコンが常識の現在でも、それにしても、いまだ『きりすて法』は健在。

何だか、情報をしゃだんして、切り捨てている姿が目に浮かぶ。
それが、わたしです。


こういう「きりすて法」を、返す刀でバッサリ切って捨てることは可能か?
可能とすれば、たとえば、どんなことが考えられるのか?


カタログ「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館・2011年)に
会田雄次・桑原武夫・貝塚茂樹・・梅棹忠夫の面々が写っている写真があり、
そのページはというと、加藤秀俊氏が書いた文が載っておりました。

こうはじまります。

「むかし『西洋部』『日本部』という編成がとられていた時代の
 〇大人文科学研究所の『分館』では、同一の専門分野の研究者を
 複数採用しない、という一種の内規のようなものがあった・・・  」(p103)

「1954年に・・新米助手に任命されたわたしの
 勤務先たる『人文』はまことにふしぎな職場であった。

 なにしろ、ここには『同業者』がだれもいないのである。
 フランス文学の桑原武夫、日本近世史の坂田吉雄、
 哲学の鶴見俊輔、西洋史の会田雄次、心理学の藤岡喜愛・・・

 それぞれたいへんな碩学なのだがぜんぶ『専門』がちがう。

 それでいて、一日じゅう議論ばかりしている。
 話題は古今東西、森羅万象にわたって、尽きることがない。
 大学にある学部学科といった知識の分業なんかどこにもないのである。」


このあとに、『別世界』が語られおりました。

「とにかく、研究所にゆけば、毎日、先輩の話をきいているだけで
 なにかの新知識が身についてくる。

 逆にわたしのような若僧にも老先生から、これはどんな意味なんだ?
 と・・・質問がごく自然にとんでくる。うっかりしてはいられない。

 ・・・もとより長幼の序というものがあるから
 若い助手は中高年の助教授、教授を『先生』という敬称でよんでいたが、
 議論をしていて疑問があると
 『 先生、それ、ちょっとオカシイんとちゃいますか? 』
 と反論が平気ででてくる。先生のほうも
 『 そやなあ、そうかもしれへん 』
 とニコニコしておられる。

 当時のふつうの大学・・・をおもうと、これは別世界であった。」(p104)


今まで、安易に「切り捨て御免」一辺倒で過ごしておりましたけど、
今後は、『別世界』のあることを想起して、バランスをとることに。


そうすると、どうなるか?

加藤秀俊さんは、つづけます。

「梅棹さんは・・・あたらしい『研究経営』の手法を編み出された。
 さらに、民博で梅棹さんを待ち構えていたのは、

 人文とは比較にならないほどの規模の事業によって
 構成された『組織』であった。

 研究者なのだから研究さえしていればよろしい、
 といったノンキなことはいっていられない。

 予算から事業計画、設備、人事、など処理すべき
 『 事務 』がすべて・・責任者の肩のうえにのしかかってくる。

 ふつうの学者だったら、こうした行政実務に
 お手あげになってしまうところだが、梅棹さんは
 ふしぎな直観力で重要なものだけを選別し・・・・

 あたらしい舞台のうえで大型の『 組織経営 』に
 進化していったのだ、といってもよい。

 そこでは研究者組織と行政事務組織とを融合させ、
 じょうずに舵取りをする・・・
 梅棹さんはそれを悠々とこなしておられたようである。
  ・・・・・                    」

そうして、加藤秀俊さんは、文章の最後をこう締めくくっておりました。

「 いまふりかえって半世紀以上のむかし、
  京大人文に生まれたあの自由な空気は

  梅棹忠夫という人物によって千里にはこばれ、
  そこでさらに増幅されて民博の基礎をつくったのである。

  それはおそらく『 研究経営 』といういとなみがたどった
  偉大な進化の道でもあったのであろう、とわたしはおもっている。 」
                          ( p105 )







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