日本史研究者として知られる桑田忠親は、
明治35年11月に東京麹町に生まれ、
大正12年(1923)の関東大震災の時は、21歳でした。
年譜(桑田忠親著作集第10巻)によると、
父親は、陸軍歩兵中佐だったとあります。
桑田忠親著作集第1巻は、日本史講義集「歴史の学び方」から
はじまっておりました。そのはじめの方に、関東大震災が語られております。
今回は、そこを引用しておくことに。
「・・こういう大地震になると、
その被害の規模が大きかったというだけではなしに、そのために、
いろいろな人々の社会生活に、甚大な影響をあたえているのです。
とくに、関東大震災のときには、それに付随した、さまざまな事件が
起っています。たとえば、朝鮮人さわぎが、これであります。
朝鮮人さわぎ、というのは、ちょうど、関東大震災が起ったとき、
東京の郊外の多摩川で砂利を運んでいた2000人ばかりの朝鮮人労働者が、
大震災で、滅茶苦茶になった東京の市街を襲撃する、といった
デマが飛んだのです。その巷に流れていたデマを、まことしやかに
報告したのが、三宿(みしゅく)にあった砲兵連隊の斥候兵(せっこうへい)
だったから、たまりません。
それを聞きつたえた渋谷、目黒、青山へんの、老人、女、子供たちは、
なだれをうって、続々と、砲兵連隊の兵舎に避難します。そこで、
連隊でも、仕方がないので、これを保護し、練兵場に野砲まで引きだし、
空砲を多摩川方面に向け、威嚇射撃をする、といったさわぎになりました。
・・・その夜、たいへんに昂奮し、あわて、ふためいた
在郷軍人会では、家々に踏みとどまった男子にたいして、
朝鮮人労働者撃退の命令をくだしたのであります。
その命令をうけた青年たちは、竹槍を持って、
渋谷の西郷邸の森あたりに、待機させられたのです。
しかし、朝鮮人たちは、ついに、襲撃してきません。
これは、来ないはずです。かれらは、大震災で東京も滅茶苦茶に
なったので、どうやって暮らしてゆくか、さきの見こみも立たない。
いっそのこと、朝鮮に帰国したほうがいいか、どうしたものかと、
多摩川の河原に集まって、相談していたわけです。
それを何か不穏なことをたくらんでいやしないかと、
疑われたのであります。いのちの危険をかんじたのは、
じつは、かれら朝鮮人だったのです。
翌日になって、それが、デマだったとわかり、
こんな馬鹿馬鹿しい話ったらないと、心あるものは、
大いに憤慨したことでした。
すべて、大事件が起こったときには、そんなデマが飛び、
不安感におそわれることが多いものです。
その翌日は、また、朝鮮人が井戸に毒薬を投げこむから、
用心しろ、などというデマがひろがり、そのために、
朝鮮人とまちがえられて、あやうく、日本刀で
斬られそうになった男もいたくらいです。
じつに、物騒でした。・・・ 」(p13~14)
これは、講義の活字化ですので、関東大震災でも
ポイントをしぼって語られているわけなのですが、
それを語る人が、日本史研究者であること。
その人の父親が、陸軍の軍人であったこと。
それを加味するならば、信頼するに値するデマ分析だと思います。
ということで、ここに引用してみました。
まさか、ここで関東大震災の記述を読めるとは思いませんでした。
うん。最後は「著作集の刊行を終えて」から桑田氏のこの箇所を
引用しておわります。
「 ・・・陸軍の軍人であった父は、体も弱くて軍人嫌いな
少年時代の私をもて余し、なるべく勉強の楽な学校にはいり、
思想の穏健な教員か学者になってほしいらしかった。
勇敢で潔白で単純素朴な性格の父を、
いかにも古武士らしいと思って、尊敬してきた私は、
父の期待に背くまいと努力してきたが、皮肉な軍隊歴、
空襲、疎開、思想的混迷などのために、人知れぬ苦悩をした。
若いときと敗戦直後は、貧乏や病気とも戦った。
初志を貫徹させるためには、危い時機が幾度かあった。しかし、私は、
幸運にも、どうやらその危機を乗り越えて、今日に至った。
生母には13歳のときに死なれたから仕方がないが、
せめて父には、学位を頂くまでは生きてほしかった。・・ 」(p315)