和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

他はこれ吾れにあらず。

2021-02-12 | 本棚並べ
うん。増谷文雄氏の道元を、はじめから読もうと思うと、
まず、思い浮かぶのは道元の『典座教訓』から引用した
増谷氏の文でした。もう一度ここから読みはじめます。
増谷氏の訳から

「道元がはじめて天童山にのぼったのは、
嘉定16年(1223、わが国の貞応2年にあたる)の7月、
渡宋第1年の秋のことであった。・・・それから余り時を
へだてぬころのことであったと思われる。

道元が食事をおえて、東廊を通って居室の超然斎にいたる途すがら、
ふとみれば、典座が仏殿のまえで苔(のり)を晒(ほ)している。
手に竹の杖をもち、頭には笠もかぶっていない。
陽が照りつけ、地面にしいたしきがわらも熱くなっている。
汗をながして行きつもどりつしながら、力をはげまして苔を
晒しているさまは、いささか苦しそうである。

背骨は弓のようであるし、眉は鶴のように白い。
道元が近づいて齢をきくと68歳だという。
道元は問うていった。

『 どうして、あなたは、人手をかりないのですか 』
典座は答えた。
『 ひとは、わたしではないわい 』
道元がいった。
『 お年寄りのおっしゃることは道理だ。だが、
  陽のあついさなかに、いまなさらずとも・・・ 』
典座がいった。
『 さらになんの時をかまたん 』

・・典座(てんぞ)とは、申すまでもないが、禅院の台処かた、
つまり、『衆僧の弁食(べんじき)をつかさどる』職である。

この文章は、和訓をもって読んでも、なおよくわかるように、
あきらかに、これまでわたしどもが読みきたった日本人の漢文とは、
よほどその類を異にするものである。それは美事な中国文である。
スラングすなわち『方語』をもまじえた自由な中国語をもって
綴られた文章である。・・」(p98~99「臨済と道元」春秋社)

『それは、もと漢文であるが、
 いまは和訓をもってしるしてみよう』と増谷氏が
漢文を和訓にしている箇所が、その前にありますので、
そのあとの方の箇所を引用してみることに、

「・・・背骨弓の如く、竜眉鶴に似たり。
山僧近前して、便ち典座の法寿を問う。
座云く、六十八歳。
山僧云く、如何ぞ行者(あんじゃ)・人工(にんく)を使わざる。
座云く、他は是れ吾にあらず。
山僧云く、老人家如法なり。天日且つ恁(かく)のごとく熱す、
     如何ぞ恁麼(いんも)なる。
座云く、更に何の時を待たんと。
山僧便ち休す。廊を歩する脚下、
潜(ひそ)かに此の職の機要たることを覚ゆ」(p98)


以前に私は、ここから増谷文雄氏の「道元」を読もうとしたのでした。
いつものとおり、途中からすっかり忘れてしまって、他の本を読んで
おりました。また1からはじめるつもりで、この典座教訓からの引用
をして読み始めようと思います。どこまで読み続けられるかは問わず、
何度でも、はじまりを、はじめることに。


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