宗教への言及は、宗派とかあり、講座での話は難しいかもしれないので、
このブログの余話でもって、言及しておくのがよいかもしれないですね。
「安房震災誌」の編纂は白鳥健氏。その白鳥氏の凡例をひらくと
「 本書は記述の興味よりは、事実の正確を期したので、
第一編に掲げたる諸材料の如きは文章も、
諸表の様式も敢て統一の形式をとらず、
当時各町村が災害の現状そのものに就て作成した儘を
なるべく保存することに注意した。 」
とあります。その第一編「地震と其の被害」をパラパラとめり
『 千歳村 』の箇所を引用してみます。
「 千歳村に於ける多くは倒壊した家の側に一族一団となって、
念佛を唱へて身の安全を神佛に祈って居た。
右往左往する老若男女の混乱は実に此の世ながらの
地獄の責苦と思はれた。・・・・ 」(p101)
他の町村の報告では、こうした「念佛を唱え」という報告自体がありませんでした。
ちなみに、千歳村の死亡者は39人。負傷者13人。
ちかくの、南三原村死亡者は22人。負傷者86人。 となっております。
安房郡の関東大震災で、死亡者が最も多かったのは、北條町でした。
北條町の死亡者は222人。負傷者は268人。
「 ・・・斯くまで死傷者の多かったのは、
一面には北條町が地震の強烈であったことを物語り、
他面には当時避暑旅客の入り込んでゐた為めであった・・ 」(p91)
「安房震災誌」の最後の方には、「震災死者の追悼会」が記されております。
「 ・・・北條町だけにしても200余人に達したが、
之れが弔祭の途は、急速に行はれなかった。
郡当局は、北條町日蓮宗法性寺住職西尾師と北條町と相謀り
(大正12年)9月12日法性寺に於て、日宗僧侶18名を招き、
死者の為に大法会を催ほした。・・・・・
10月1日、天津町の清澄寺住職、北條町全台寺住職が幹部となって、
安房郡各宗寺院聯合、北條小学校に於て、
安房郡震災死亡者千餘人の為めの追悼会を開催した。
郡内各町村長、遺族、北條町名誉職、同町小学校職員、生徒等
無慮千餘人の参列があった。
又10月22日、千葉郡真言宗豊山派千葉第一號宗務支所員数名、
郡内各町村に行脚弔問をされた。 」(p311~312)
と、ここまで引用してきたら、思い浮かんだ本がありました。
東日本大震災のあとに出た、石井光太著「遺体」(新潮社・2011年10月25日発行)。
この本の目次をみると、各小見出しの下には名前が書かれております。
目次には名前と役職とが並びます。ここには、その役職を引用しておきます。
民生委員・釜石医師会会長・岩手県歯科医師会常務理事
釜石市職員・消防団員・陸上自衛隊・海上保安部・歯科助手
歯科医・サンファミリー・仙寿院住職・・・
ちなみに、はじめに名前があがるのは、千葉淳(民生委員)。
どういう方かというと、
「 千葉は70年前に大船渡にある寺院で生まれ育ったが、
僧侶になることはなく、若かりし頃は日本各地を転々として
いくつもの職を渡り歩いてきた。そして、40年ほど前に
流れ着くように故郷の隣の釜石にもどり、地元の葬儀社に勤めだした。 」(p185)
仙寿院住職とある箇所も、すこし引用。
「 被災した大只越町の仙寿院で住職を務める芝﨑恵應だった。
仙寿院は明治40年から釜石にある日蓮宗の寺院であり、
千葉は葬儀社で働いていた頃からよく彼のことを知っており、
町で会えば立ち話するぐらいの仲だった。
千葉は彼が数珠を持って立っているのを見た瞬間、
お経をあげに来てくれたのだと察した。
気が抜けるように心が軽くなる。
市の職員が手作りの祭壇をつくったり、
みんなで持ち寄った線香を立てたりしたことはあったが、
僧侶が遺体に向かって正式にお経を読んでくれたことは一度もなかった。
思わず千葉は遺体の並んでいる方を向いて語りかけた。
よかったなあ、みんな。ようやく供養してもらえるぞ。・・ 」(p189)
「 遺体は人に声をかけられるだけで人間としての尊厳を取りもどす。
千葉はそれを重ねることで安置所の無機質で絶望的に満ちた空気を
少しでも和らげたかった。 ・・・ 」(p185)
はい。たまたまひらいた箇所を引用してみました。
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