和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「東山は水上を行く」

2021-02-27 | 正法眼蔵
本のネット検索は、『日本の古本屋』をよく使います。
昨日も、今西錦司で検索すると、著書以外にも、
対談本や、意外な本がでてきたりします。
たとえば、
「不滅の弔辞」(集英社・1998年)というのが出てきた。
うん。これならば、本棚にありました。
はい。未読本で、ねむっておりました。
ひらくと、今西錦司氏への3人の弔辞が載ってる。
ここには、谷泰氏の追悼の言葉のはじまりを引用。

「それは、まだわたしが20代後半のことでした。
京都の北山での山行に誘われ、野宿した晩、
焚火を前にして、先生はふと、

『大きな岩でもな、根気ようなん度でも
 押したり引いたりし続けたら、
 動きだして、転がせるもんや』

と言われました。それは、若いものへの
ひとつの人生知の教えという響きをもってはいました。
ただ、どこかで聞いたことのある格言や警句の引用ではなく、
その表現の生々しさは、山かどこかでのご自分の経験に照らしつつ、
自分の人生を語ったものという印象をあたえました。

・・・・行動的ナチュラリストとして、
先生の生物的自然についての言明は、直接的観察にもとづきつつ、
強靭な思索に裏打ちされており、それを理解するのに、だれか
他人の理論や主張を想定しても無駄でした。

そして、それに太刀打ちするには、わたしたち自身、
自分の眼をもって直接経験の世界に向かう以外にはない、
そんな力をはらんでいました。
もしかしたら、そのとき先生は・・・・」(p72)

はい。弔辞ですから、居並ぶ方々が、聞いていたことでしょうね。

「大きな岩でも…動きだし」といえば、
そういえば、『正法眼蔵』に山水経という巻があるのでした。
講談社学術文庫の増谷文雄訳『正法眼蔵(二)』に載っております。
うん。ひらいてみると、こんな箇所がある。
『東山水上行の句を論ずる』を、現代語訳で引用してみます。

「雲門匡真(うんもんきょうしん)大師は、
『東山は水上を行く』といった。・・・・・
 ・・・・・・
さて、この『東山は水上を行く』とは、
仏祖の心底であると知らねばならぬ。
もろもろの水は諸山の脚下に現われる。

だから、諸山は雲に乗って天をあゆむのである。
もろもろの水の頂きは諸山である。のぼるにも、くだるにも、
その行歩(ぎょうほ)はともに水上である。

諸山の爪先はよくもろもろの水を踏んであるき、
もろもろの水はその足下にほとばしり出(い)でる。
かくてその運歩(うんぽ)は縦横自在にして、
もろもろの事が自然にして成るのである。・・・・」(p29)

もう少し先をいそぐと、こんな箇所もあります。

「さて、世間にあって山を眺める時と、
 山中にあって山と相逢う時とでは、
 その顔つきも眼つきもはるかにちがっている。
  ・・・・・・
 『山は流れる』という仏祖のことばをまなぶがよいのである。
 ただ驚き疑うにまかせておいてはならぬ。」(p43)

ちなみに、この巻の巻頭に増谷氏の解説がつくのですが、
そのかなでは、こうありました。
 
「なるほど、道元の文章はむつかしい。
特にこの『正法眼蔵』は難解至極である。・・・・

だが、わたしどもは決して、ついに理解しがたいものを
読んでいるのでも、訳しているのでもない。
道元その人もまた、なにとぞして理解させようとして、
語をかさね句をつらねているのである。
繰り返し繰り返しして読んでいると、
その気持がよく判かるのである。・・・・

そのような仏教の見地から、凡情をとおく越えた山の見方、
水の考え方が、つぶさに解説される。・・・・

さらに、山水が大聖の居ますところであることが、
事例をもって語られたのち、『かくのごとくの山水、
おのづから賢をなし聖をなすなり』と結語せられる。
それがすなわち、山水こそ経であるとする
この一巻の趣としられるのである。」(~p16)

うん。引用を重ねるたび、伝えにくさが加わる感じですが、
谷泰氏の弔辞の言葉から、正法眼蔵の山水経が思い浮かびました。

もどって、『不滅の弔辞』には、各方々の弔辞の前に、
その「人と功績」が記載されております。
今西錦司のページは、「人と功績」の下に、
「山を愛し、自然から学問を学んだ独創性の学者」とありました。
最後に、そこからちょっと引用。

「今西は京都・西陣の織元『錦屋』の跡とり息子として生まれる。
幼いころから自然の魅力にとり憑かれ、旧制京都一中に入学するや、
同級生らと登山のグループ『青葉会』を結成、これがのちの
〈 アルピニスト・今西 〉の原点となった。

京都帝国大学に進むと、『趣味と学問を一致させられる』と
農学部で昆虫学を選ぶ。最初の研究テーマは水生昆虫の調査だった。
このとき、彼は研究室から飛び出し、谷歩きの中から調査と研究を
重ねている。後年、今西は『学問は人からではなく、自然から学んだ』
と語っているが、その最初が水生昆虫の調査だった。・・・・」(p67)


うん。『凡庸をとおく越えた山の見方』というのは、
そのままに、83歳で1500登山を実現したという今西錦司の
山の見方でもあったかのようです。


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